総選挙の前日に思うことー極右化した自民党と立憲主義の危機

これは「戦前」の写真ではない!

草莽全国地方議員の会による安倍支持集会 左の写真は60年前のものではない。正真正銘この11月におこなわれた自民党支持集会で演説する安倍晋三総裁だ。マイミクさんが「安倍支持の集会画像をモノクロに加工したらほとんど前の戦争中のノリ(笑) 」というコメントと共に紹介しておられた。だが事態は「(笑) 」などと言っておられないくらい深刻になるのかもしれない。もはや9条がどうのこうのどころか「近代憲法」という制度そのものが危機に瀕しているのだから。

 まずお互い、批判目的で写真を引用されるのは気分が悪いだろうから、ちゃんと正確な内容も紹介しておくと、主催は「草莽全国地方議員の会」という比較的ソフトな右翼団体で、問題の安倍演説の内容はこちらで見ることができる。むしろ自民党に投票しようとしている普通の市民にこそ見てほしい動画だ。本当にこれでいいんですか?私にはちょび髭をそったミニヒトラーの演説のようにしか見えないのですがと。アメリカの片棒を担ぐだけの覚悟も実力もないくせにね。

自民党への一票は徴兵制復活への一票

 マスコミは「自民圧勝」の報道を繰り返し、雰囲気を盛り上げて、勝ち馬に乗りたい(死票を嫌う)浮動層を取り込む役割を果たしてしまっている。この状態に浮かれた自民議員たちは「今ならなんでも言える」と勘違いしたのか、憲法の3大原理(主権在民・基本的人権の尊重・国際平和主義)、さらに男女同権や奴隷的拘束の禁止まで否定、表現の自由も制限するべきだとか、ついにはとうとう近代憲法の条件である立憲主義さえ公式に否定しはじめた(文末リンク参照)。近代法学の理念で言えば、立憲主義に基づく憲法を持っていない国は、憲法を持っているとは認められないとまで言われる(たとえば芦部信喜『憲法』P5参照)。それほど重要なことなのだ。なのにこんな発言をして日本が世界中からどんな国だと思われるか。いい恥さらしである。もはや暴言ですむレベルではない。

 おまけに自民党に限らず徴兵制を導入するべきだとまで言い出す輩までではじめる有様だ。確かに自民党は徴兵制復活までは公約していない(と思う)し「現憲法で禁止されている」という立場だったはずだ。が、その根拠を社民党などが9条にも求めるのに対し、自民党は18条(奴隷的拘束の禁止)のみだと言って国会の論戦でも頑として譲らなかった経緯がある。だから自民党改憲案の18条廃止は、徴兵制への布石以外の理由は考えられない。自民党への一票は徴兵制復活のための一票になる。まずその地ならしのために、高校生らを教育改革と称する「奉仕活動」に強制動員するなどが行われるのだろう。これには喝采を送るおっさん達も多いと思われ、ここまできたら徴兵制まであと一歩だ。

議会主義政党の共通の土台からはみだし極右化する自民

 だが、自民党が否定するこれらの価値観は、今まで自民党から共産党にいたるまで、すべての議会主義政党が(そしてまた国民が)議論をする上での共通の土台、前提としてきたものばかりで、いわば「国是」である。アメリカをはじめとするほとんどの資本主義国は、自分たちの統治の正当性をこの価値観に求め、国民の戦争動員にあたってさえ(第二次大戦からベトナム、イラク戦争まで)、この価値観を押し出すことによって動員してきたのである。

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「自民圧勝」を煽るマスコミ各紙

 だからこの価値観は必ずしも戦争の防止には役立たなかったし、支配層の拝金的な利己主義や貧困を正当化するイデオロギー(自己責任論)としても使われ、左翼はこの点を厳しく指摘してきた。それに対する支配層のカウンター(妥協)として、現代憲法には生存権や労働基本権などが盛り込まれるようなったわけで、こうして長年にわたって歴史的に鍛えられ、豊富化されてきた概念は、それなりに国境を越えた普遍的な内容を持っているわけだ。

 では人類が永年にわたって尊い血を流しつつ構築してきた思想(そこには左翼思想も含まれる)に対置するだけの思想内容を、これらの議員たちは持ち合わせているとでもいうのだろうか。だが実際にはそれに対置するのが明治期の天皇主義イデオロギーを焼き直したようなものでしかないのだから情けないではないか。普遍性など欠片もない偏狭な島国根性的な内容なのである。

 これをどう見るか。とりわけ今の時代は国際化によって重要な政策は一国では決められないような、国家主権が徐々に相対化していく方向の中で、欧米各国(に限らない多くの国)が近代的な自由と民主(天賦人権思想)を国民集約の正当性として掲げている。その中で、日本の支配層が他国には全く通用しないガラパゴス的な島国天皇制イデオロギーを民族排外主義と相まって、しかも衆愚的な扇動によって掲げざるを得ない。こんな理性的な人には受け入れがたい無茶苦茶な主張をせざる得ないことを、私はむしろ正当性なき彼らの弱さとして見る。つけいるスキはそこにこそあるのだろう。

北朝鮮化する日本

 だいたい私たちが北朝鮮や中国の体制を非難できるのは、人権思想のゆえである。国家がどうであろうと、世界中のすべての人には、生まれながらに人として尊重されるべき当然の権利と自由があると考えるからこそ、それは19世紀的な「国益」のぶつかりあいや民族の対立などという弱肉強食の浅ましいものではなく、普遍的な価値観とそれを否定する野蛮との対立として、世界の人々に理解され、共感や支持を受けることができるのだ。

 それを片山さつき議員のように、人権という考えを否定し、国家への貢献を条件として付与されるにすぎない「国民権」、つまり権利ではなく国家が「臣民(実際に片山議員はこの言葉を使っている!)」に与える恩恵にすぎないと言うのなら、北朝鮮や中国への非難は文字通り余計なお世話の「内政干渉」になってしまい、すべての普遍性を失ってしまう。

 実際、中国や北朝鮮はそう考えているに違いない。自分たちには自分たちの国情があるのだと。つまり日本もそんな国に成り果ててしまうかもしれないということだ。そうなると、拉致問題一つとってみても、今後はすべて人権問題ではなく、国と国との利害対立の問題であり、第3国にとって「自分の利害と関係ない以上は私たちは無関係です」ということになる。もっとはっきり言うのなら、今後はすべての国際問題は、ただの喧嘩ということになる。

 まさに彼らの脳内にあるのは、列強が戦争で型をつけていたような18世紀的な世界観だ。そういう世界の中では北朝鮮の核武装も非難してやめさせるような論理的根拠を失うわけで、こちらとしても「対抗してもっと強力な核兵器をもてばいいのだ」という結論にしかならない。現に彼らはまさにそう言っているではないか!片山議員は現行法制を明治憲法の水準にまで後退させることを念頭に置いていると思われるが、ここまで「論理構成」して言い切ってしまうと、もはや13世紀のマグナ・カルタ時代の水準(人権ではなく身分的な国民権)にまで戻すような議論であり、近代的な意味での「憲法」という法制度そのものを否定する無知蒙昧な暴論だ。

近代主義の超克とは人類普遍な共生社会のはず

 もちろん私だって西洋的な価値観の押しつけはよくないと思う。新自由主義的なグローバリズムが、貨幣経済とは関係なく地域で幸福に共生してきた人々を、資本主義の持ち込み(押し付け)によってただの「不幸な貧乏人」にしてしまうとか、欧米資本が自然を収奪して環境を破壊し、人を住めなくしてしまうなど、まさにブルジョアイデオロギーの被害者だ。そういう傲慢さには腹がたつが、その腹立ちや不信感の矛先はどこに向かうべきだろうか。明治維新の頃ならいざ知らず、今の私たちは消費生活の中で、むしろ加害者になっていないか、誰かを踏みつけにして生きているのではないかを注意して考えるべき「先進国」の人間なのではないのか。

 私は人類はいつか、この美しい建前と凶暴な本音をもつ近代西欧的価値観(ブルジョアイデオロギー)を超えるべきものだと思っている。しかしそれは「競争から共生へ」というベクトルによってなされるべきものであり、そうでなければそれは人類の進歩ではなく退歩だ。ましてや日本一国の中でも(もっと言えば右翼の中でも)すべての人に通用するわけではない明治天皇制イデオロギーなど全く普遍性をもたない。いや、むしろ自民党のやろうとしていることは、この建前をすべてなし崩しにし、克服するべき本音だけを公然と野放しにしようとするものだ。

西欧近代主義のあとにもっと悪いものが来たのでは意味がない

 ふりかえれば元来の左翼思想は、そういう共生社会へのベクトルの一つだったのであり、それは近代思想から隔絶したところや、ファシズムのような近代主義の単純な(そして表面的な)否定にあるのではなく、それをより人間主義(ヒューマニズム)的に徹底したい、近代ブルジョアイデオロギーが建前として掲げているそれらを、恒久不変な真実として実現したいという動機を出発点としている。それらは思想的には多くの成果を残し、近代主義の超克や人類発展の進路を示唆するものとなったと思う。だが制度的にはどうだろう。

 これは自民党支持者にも問いたいことだ。革命後の高揚した一時期を除いて、西欧近代的な人権思想をさらにヒューマニズム的な観点から超え出たと言えるような社会制度を構築しえた例が、一度でもあっただろうか。ブルジョアイデオロギーの「本音部分」の徹底化である新自由主義なんぞ、私ら一般市民を地獄に叩き込むもの以外ではない問題外のしろものであるが、一方で、都市部中間層の経済的な没落を背景とした、ブルジョアイデオロギーへの即時的な反発であるファシズム(現在の自民党の方向であり、それは必ずしも財界ブルジョアジーの利害と一致するとは限らない)もまた、悲惨な結末を招くことはその破産した歴史が証明しているではないか。かつてのファシズムは経済政策として国家独占資本主義(ケインズ主義)と結びついていたが、現在のファシストの多くは新自由主義と結びついてより反動化していることを思えば、その結果は前回以上に身の毛もよだつ最悪のものとなるだろう。

人権思想の原点からの再出発を

 このように書くことで、私は左翼陣営(とりわけ革共同系の諸君)から「ブルジョア民主主義者」だとか「中間主義者」だとかの短絡した一面的なレッテルを貼られるのだろうと思うけど、それはそれで別にかまわない。そういうレッテルを貼った人間を、かつての左翼は自分たちよりも物のわかっていない一段低い人間として見下してきた。だがそういう硬直したスターリン主義的な諸君らこそが、左翼の権威を地に落とすような非人間的な所業を正当化してきたのではないのか。私は左翼はもう一度、近代人権思想からやり直すべきだと思っている。人権思想を否定するのであれば、それを越えたと(自分たちの主観ではなく)万人が認めるような実践と運動を示さないと誰も信用しない。それほど酷いことを諸君らは運動の中でしてきたのだから。そもそもその「ブルジョア民主主義者」が充分に反体制過激派足りうるような恐ろしい時代が、すぐそこまでやってきているのだ。

 思えば今まですべての主要政党が共有してきた共通の土台である、この「天賦人権、人賦国権」という近代主義の枠からはみ出す部分を「極左」とか「極右」と呼んできた。私は上に書いたような理由で、「それではまだ全然足りない」と思っているわけだから、なるほどそういう意味で「極左」なのかと納得してしまう。
 ゆえに右からも左からも叩かれる、味方のいないやっかいな立ち位置に身をおくハメになってしまうわけだが、自分ではこの感性は、実は左翼の内部での潜在的な多数派ではないかと思っている。

 さて、私とは反対の極から、人権思想を「超える」のではなく「否定する」自民党も、もはやごく普通に「極右政党」と呼んでも、すこしも間違いではない事態に立ち至ったわけだ。そしてこの極右政党が政権をとるというのである。

次回「総選挙の朝に思うこと」に続く
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(参考記事)ブログ「アフガン・イラク・北朝鮮と日本」様より
・自民党の西田昌司と片山さつきが、国民主権と基本的人権を否定してしまいました
 http://togetter.com/li/419069
・自民党が公式に国民の基本的人権を否定し、さらに改憲案で日本国憲法第18条「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」を削除してしまいました
 http://togetter.com/li/414355
・自民党のトンデモ改憲原案はもはや「憲法」とは言えない この国にはまともな政党はないのか
 http://blogos.com/article/33462/
・【個人の尊重の否定】公民の先生が呆れかえる自民党改憲案の問題点の凄まじさ【立憲主義の否定】
 http://togetter.com/li/294854
・日本国憲法と大日本帝国憲法条文比較
 http://tamutamu2011.kuronowish.com/kennpoujyoubunnhikaku.htm

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左翼運動のスターリン主義的歪曲を克服せよ(懐古的資料室)
現代ファシズム論序説(懐古的資料室)
天皇の「公的行為」に関する憲法論ノート(ブログ旗旗)
「大日本帝国は民主国家だった」そうです(苦笑(ブログ旗旗)

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