転載】金明秀氏による「反差別運動のあるべき姿」についての簡潔な解説

fight_racism

 以下は金明秀(キムミョンス)さんのツィートをまとめたもので、こちらから転載です。勉強させていただきました。今、とてもタイムリーで重要なことだと思うので、一日も早くと思い、転載させていただきます。
 なお金明秀さんには事後報告で大変に申し訳ないですが、不都合がありましたらすぐに消させていただきます。なお太字化は草加によるものです(もちろんイラストの選択もそうですよ(笑)。

【転載ここから】

.@kane031さん そういうことはありますね。家族間での意見の衝突は根深く刺さりますし。でもやはり、主張を精緻に切り分けて整理したほうが、色んな意味ですっきりするのではないでしょうか。
 ゆっくり、お考えを言葉にしてみてください。その間に、ぼくがどうしてこういう話をしているのか、背景を説明するツイートをポストしてみます。

 どっから説明したもんかなぁ。たぶん、歴史から説明するのがいいんだろうな。
 例えば @kane031 さんは、「共生」という言葉がどういう形で用いられてきたか、ご存知でしょうか。「多文化共生」でもかまいません。「共生」はマイノリティへの差別をやめて、社会に包摂しようという意思を表す言葉として80年代に登場した言葉です。後者はそれから派生した行政用語です。
 理念としては、文化的に異質な集団を異質性を残したまま日本社会に受け入れて仲良くしようという発想をもつ言葉ですし、実際にも、各自治体の多文化共生課では、外国出身の市民がそのエスニシティを否定されることなく地域に定着することを目標にいろいろな支援がなされます。

 ただ、「多文化共生」という名のもとで語られたり行われたりすることには弊害が多いということもよく知られています。例えば、文化的マイノリティを包摂する努力をすることなく、ただマイノリティに同化の努力を強いるような場面で「共生」という言葉が用いられたり、逆に、出身文化に強いアイデンティティを(まだ)感じていない子どもたちを民族交流イベントに無理やり出席させて、○○人役割を強引に演じさせたり。

 生物学の世界では、共生関係というのは、異なる種が絶滅寸前まで抗争しあった末に偶発的に到達する安定状態だとされているらしいですね。いっけん仲がよさそうに見えますが、むしろ相互に痛みを経験したからこそたどり着ける境地といったほうがいい。

 しかし、異文化接触に伴う痛みを知らずにただ仲良くやろうというような安直な文脈で用いられたとき、「共生」という言葉は、痛みの発生源であるマイノリティに対してある種の暴力として機能する場合があるわけです。
 じゃあ、「共生」という言葉や、その言葉を用いた包摂の取り組みはやらない方がいいのか。というと、そうではありませんよね。むしろ、「共生」という理念の安易な適用が発揮しうる暴力性を忘れないようにしながら、さらに包摂の取り組みを実践していくべきでしょう。

 いま、「共生」という言葉を例に出しましたが、他にも類例はたくさんあります。ある運動の理念や目標や手段が批判されたからといって、やらない方がいいということにはなりません。むしろ、批判を受け止めたうえで成長しなければ、独りよがりの暴力に堕してしまう危険性があります
 そうはいっても、いっけん矛盾する命題を統合する形で成長しないと(暴力と化してしまうかも)というのは、ずいぶん難しい要求であるように感じられるかもしれません。

 そこで具体例を考えてみましょう。大野さんのツイートをとらえて、ぼくは「目の前の差別に感じた憤りを声にする」ことと、「差別者としての当事者意識をもつ」ことは両立する、と書きました。これ、どうやって両立したらいいかわかりますか?

 この二つを両立するロジックはいくつかあると思いますが、もっとも簡単なのは、目の前の差別に反対を述べる短期的な運動に加えて、その差別を発生させている社会に責任を持つマジョリティとして自らの特権性を問い直す長期的な運動も同時に担う、ということでしょう。

 大野さんは、この二つを両立させるロジックとして、どういうものを想定しましたか? これよりももっと有効で重要だと思われるものを思いつきましたか? ぼくの想像では、これ以上に有効で重要なロジックは、おそらく考え付かなかったのではないでしょうか?

 どうしてそういう想像が成り立つかというと、この問いは、在日の運動界隈ではもう半世紀近くも問い直されてきた伝統的な問答で、今のところ、このロジックより有力なものをみたことがないからです。歴史に学ぶというのは、やはり重要なのだと思います。

 「共生」の例題。ある文化によって差別されている集団があるとしましょう。その文化を残したまま差別をなくして共に生きていこうという理念はいいのですが、そのためには、すでにその文化を失った人たちにも差別される文化を強要してしまう側面もある。どう両立したらいいでしょう?

 文化によって差別されている社会構造の解体を究極の目標としながら、それを実現するためにはその文化を前面に押し出さざるをえない。それは時として暴力になりうる。なら、個々のメンバーの状況を丁寧に見ながら個々に判断するしかない、が一つの有力な回答です。

 これは他にもいくつか有力な回答がありますし、さらに有力な回答を求めてたくさんの人たちが議論しています。が、重要なのは一つの「正解」ではありません。たくさん批判を受けて、たくさん留保をつけながらでないと、社会運動は暴力になりかねないという理解こそが重要なのですね。

 「目の前で起こっている差別に憤って当然だし、加害をやめさせたり被害を回復させたりしようとするのも当然だ」には誰も文句はないと思います。緊急性に鑑みて「まずはやらせてくれ」というのも説得力があるとぼくは思う。でも、批判を嫌がるようなら、その運動の先行きは危ない

 どんな手法を選択しようと、おそらく永遠に批判はなくなりません。完璧な社会運動というのは原理的に存在しないからです。ある要望や批判は聞き入れ、別の要望や批判は受け入れられないということが必ず起こる。そこで選択するものによって運動の真価が問われるとぼくは思います。

 ということで、批判されることそのものを嫌がって議論しているうちは、運動の入り口にも立っていないとぼくは思っています。むしろ、自分が変わることを嫌がる人たちが「共生」を口にすることのおぞましさを、多くの民族的マイノリティが知っている以上、批判は増すばかり
一つの運動のやり方を選択したら、それに敵対するものを攻撃するのは政治手法としてあっていいと思います。ただ、どうも今は、むしろ運動を支持しているけれども懸念はあると言ってくれている人たちを敵対勢力だとカテゴライズしているだけなのではないかと思えて仕方がありません。

 ぼくはかつて、レイシストしばき隊(への批判)を念頭に、こう書きました。

自分が今ぼこぼこに殴られているとき、ソレを止めに入った人のエルボーをくらったとしても、まだマシならそれでいいや、ぼくは。

金明秀 KIM, Myungsoo (@han_org) February 16, 2013

けど、エルボーが入ったらふつーに痛いですよ。「痛い」と声をあげても「こっちが先や!」とかいって気にもしない人がいたら、そりゃ、懸念はよせられますよね。

 以上の話を整理すると、大野さんが差別に感じた憤りはとても大切だと思いますし、そのために運動に参加するという気持ちと行動をぼくは支持します。ただ、

(1)批判を敵対的なものだと考えず、丁寧に相手と主張を見極める姿勢、
(2)聞くべきところがあれば自分が変わることをいとわない姿勢があれば、もっといいのにと思います。自戒も込めて。以上です。

 ある運動を批判する人たちにもぼくはいいたいことがある。それこそ「セクシュアルマイノリティを正しく理解する週間」のときからずっと言いつづけていること。っていうかすでに書いたな。

一方で、批判する側にもマナーみたいなものがある、とぼくは思う。一つの運動を担うというのは大変な作業だ。その前線に立つ者が払っているコストは思いやる必要があろう。たとえ、それが自分(や自分にとって大切な人たち)にとって迷惑になる側面がある場合でも、だ。最初から完璧なものなんてない。

金明秀 KIM, Myungsoo (@han_org) March 3, 2013

 このツイートに対しては、野間氏が「マナーの問題に矮小化している」みたいなことを書いていたけど、それはナンセンスな話だ。なぜなら、マナーというのは個々人の心配りのことではなく、社会を運営していくうえで必然性があって存在している社会規範なのだから。

@han_org ツィートを拝読しましたが、どんな運動も組織も、批判を封じ込めたら窒息するように思います。非常識な在特会に抗議する反レイシズム運動は賛成。だけどその運動こそ、批判を受け入れる余地を忘れてはいけない気がします。趣旨が違っていたらすみません。

Kazu Tsuruda (@KazuTsuruda) March 9, 2013

@kazutsuruda いえ、まさにそういうことです。ありがとうございます。

【転載ここまで】

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 私が何年にもわたって何回も何回もグダグダと書いてきたことを、こうまで簡単にわかりやすく説明されてしまいますと、もうその圧倒的な文章能力の差に愕然としてしまいます。しかもこれ、ブログの文章とかじゃなくて、全部ツィッターでさらっとつぶやいたものなんですよね。

 金さんがおっしゃるように、世界中すべての人が納得する運動というものは存在しません。批判の存在自体は絶対的に許容しなくてはならないんですよ。なぜなら運動というのはすべからく、その外部の人間に対しては抑圧的な存在になりうるからですね。そういう運動の抑圧性という自覚は必要なんです。それこそ人間解放や社会正義を掲げて誕生した運動が、他者を抑圧する存在に堕していった歴史に学ぶべきです。そこで重要なのは、彼らはそういった堕落を「正義」または「理不尽な攻撃からの正当防衛」だと固く信じておこなってきた(いる)ということです(「奴は敵だ!敵は殺せ!」の思想)。その歴史的な教訓が一番重要な点です。自分が正しくて相手が間違っていると信じている人ほどやっかいな存在はありません。それならまだ損得利権で動いている人のほうがよっぽど扱いやすいとすら言えます。

 よく「セクト主義」とか言いますが、その本質はなんでしょう。それは運動の内部では仲良しクラブだったり、ちゃんとした民主的な運営がされているのに、運動の外の人間(個人や他の運動)に対しては同じような対応がとれない、自分達の仲間内と外での差別・分断が止揚されていないという問題のことです。もし、内部でも異端意見の排除が行われているのなら、それはもうセクト主義以前の問題で、そんなの山賊の集団みたいなもんです。
 そしてこのセクト主義ってのは、別にセクト(政治党派)に特有の問題ではなくて、ノンセクト学生(政治的に活発な一般学生)や市民運動でも顕著にみられます。むしろ市民運動などのほうが、いったんセクト主義化すると、党派などよりよっぽどエゲツナイ排他性を見せることが多いのです。「このセクト主義者め!」と言いながら、他人を運動から排除すると言うマンガが行われているわけですが、そのおかしさに気がつかないのは本人だけというわけです。

 とは言え、およそすべての批判意見を受け入れるわけにはいきません。そこにはおのずから取捨選択があり「そこで選択するものによって運動の真価が問われる」ことになるわけで、批判を容認し、その声に耳を傾けるというこを大前提にしつつ、そこで一番大切なのは、敵対矛盾と内部矛盾の区分けです。たとえば反原発運動なら、原発推進派からの批判には非妥協に反論して突っぱねると共に、内部の意見対立では相手の立場や考えを尊重して、共に闘える道を模索するなどです。これは警察の運動への懐柔や弾圧、右翼や政治家などとの対応において特に問われていく点で、ようするに節操の問題でもあるわけで、まさに運動の質が問われていく場面です。ここで運動内部の異論には厳しくあたり、警察の弾圧にはへいこらして(たとえ意見が違えども)内部の仲間を守らないようでは、何をかいわんやということになります。

 あと、運動を批判する側にもマナーが問われるというのは、いつも書いている通り、私の場合は自分に対して気をつけていることですね。私は他人にそれを強要しようとは思いません。ただ、マナーとは気持ちの持ちようとかそういうことではなくて、社会規範の問題なのだという洞察には、そうそう、そうなんだよ!と膝を打つ思いがしました。「何もしてない奴が口をだすな」とかそういう意味ではなく、外部から意見を言うものには、「無責任な立場から発言する者の責任」みたいのがあると思う。運動の側の都合も考えずに、一方的に「正しいこと」を言って潰しにかかるようなことを言ってくる人は、さすがの私も筋が悪いと思う。

 マナーについてはですね、その「マナー」を誰が守るべきかと言えば、それは自分が守るべきに決まってますね。相手にそういうことを要求も期待もしないほうがいいです。しても欲求不満が高まるだけですから。自分が守っていればそれでいいんです。
 それでまあ、どちらにせよ、せっかくネットがあるのだから、運動に関わっている人の内部だけでなく、いろんな人がいろんな立場から意見を出すことで、みんなが運動の未来に「参加」することというか、参加していただくという姿勢がこれからの新しい運動には必須だと思う。耳に心地よい意見ばかりでなく罵詈雑言も含めてね。それも仲間なんだから。逆にどんな甘言を弄してきても、警察は「味方」ではないよ。そこは節操の問題です。裏切り者は誰からも信用されません

 あと、一番大切な点。ここで論じていることは、運動側の主張や、それへの批判が、「正しい」かどうかは全く関係のない別問題だということです。相田みつをさんも言ってます。「まちがったっていいじゃないか、にんげんだもの」。そう、人間のすることです。運動も必ず間違えるのです。無謬の人間や運動なんていません。だから別に間違ったっていいんです。問題は間違いに気がついていつでも修正できるような、そういう自己批判の回路を24時間常にもっているかどうかなのです。それが成長ということでしょう。だからそれができない運動は成長がなく、「まだ運動の入り口にすら立っていない」と思うのです。特にそんな抑圧的な運動や人間が、「反差別」を語るなんて、「おぞましい」の一語に尽きます。

 たとえばシングルイシューなんて横文字が流行していますが、そう言ってもなにがしかの「社会問題」に取り組むということは、すなわち「社会を変える」ということと同義です。そしてその「社会」の中には自分も含まれているのです自分は変わらずに相手だけ変えようなんておごりでしかありません。むしろまず自分が変わることで対象も変革されていくのです。そして対象が変革されていく過程で自分も変わらざるを得ません。批判や議論でも同じことです。相手だけ変われというのはファシストの思想です。

 煎じ詰めて言えば、これからの運動は「複数主義」ということがポイントになると思います。運動の内部的にも外に対しても。はっきり言いますが、「俺は正しい(新しい)。奴らは(古くて)間違っている」という観念に凝り固まり、そんな「正しい自分(たち)」が拡大していくみたいなイメージを語られる運動は、まさに60年代への先祖返りもはななだしいものです。恐竜なみに古いと申し上げるしかありません。

 しかしねえ、今、一部のネットで繰り広げられているこの手の話題というか罵り合い(と書いたら両陣営から叩かれるんだろうけど)って、見ていて本当に嫌だし消耗します。おそらくね、どちら側にしても、これを見た一般の人は近づきたくない、この中に入りたくないと思うでしょうね。これは左翼が衰退していった歴史をそのまんま繰り返しているにすぎないんですよね(内ゲバ主義)。今はまだ拡大期なのかしれないし、レイシズムに腹をたてている人が次々来るから目立ちませんが、数年以内にボディブローのように効いてくると思いますよ。お互いに「自分が正しい」「こっちが被害者」だけじゃなく、もっと大局的なところから、そのことに早く気がついてほしいと願っています。

「おいコラ!在日!」と言われた時
6・16新大久保カウンター行動の逮捕者を救援しようーまずは「逮捕おかしいぞ」の声を
桜井会長釈放記念(笑)ー「韓国の桜井誠」
何度でも言う。差別は「言論」ではない
議論するのはいいことだ(上 (下-「テント村を守ろう討論会」に参加

いわゆる「外国人犯罪」に関して
「基地外」と書く差別者達
「浮浪者は死んでもいい」 ホームレス殺人未遂 少年らの「論理」
いまさら在特会の蕨デモを擁護する人
糞をよけるのは怖いからでなく汚いからだ-「在特会」の小学生襲撃事件について考える

三里塚と昭和天皇と金日成(前編 (中編 (後編
人を殺して埋めてしまうことはそうそうないとしても
初詣の思い出
「障害者」は同じとか違うとかの話-私がであった人たち
「在特会」についての当面のまとめ

「お前ら古い」と言う人のほうが実は「古い」のではないか
「普通の人」というレトリックの本質について
右も左もない」ではなくて、「右も左も全部ある」のほうが楽しい
左翼コンニャク問答
「ネトウヨ叩き」現象は他人事ではない

「反中・外国人排斥行動の実態」というメールをいただいて
「ネトウヨ叩き」現象は他人事ではない
人種差別撤廃条約の講座に参加してきました
イルムから―当たり前に本名が名乗れる社会を求めて
高校無償化からの朝鮮学校排除の問題について
民主党の「エエカッコしい」に使われているだけの朝鮮学校排除

「君が代」の替え歌で懲役2年もー自民党が法案提出を検討
野宿労働者への襲撃事件に思う
祇園暴走事件と てんかん患者への差別(上 (下-もういい加減にしてほしい!
中核派本多暴力論批判-昨6.11新宿の騒ぎによせて
自然な正義感が出発点にならなければいけないと思う

(よけいな追記)

 しかしまあ、私は、たとえば会場の中で口論になって、そのままヒートアップして殴り合いになっても(もちろん周囲の人は止めますが)次の集会ではちゃんと同席して共闘し、前のことは「お互いさま」でそんなに問題にならない(?)ような世界にいたからなあ。別に罵詈雑言とばしあうくらいかわいいもので、たかがそんな程度の対立を、運動内の対立にまで持ち込むな!くらいの感覚ですから、ちょっと一般的ではないかもね(笑)。多少罵倒されたり、素手で少し殴られたくらいはご愛嬌くらいにしか思いません(計画的でなければね)。ただし私以外の他の人が殴られたら別ですよ。

 そんな世界で、殴られたくらいは「お互いさま」ですましても、たとえば「女だてらに……」とか、そういう差別的な言辞、弱者をいたぶるような言葉を吐いたものに対しては、絶対に許さなかった。それは「お互いさま」ではない。相手が全面的に本気で反省して自己批判するまでは、意地でも許さないみたいな。そういうある種任侠みたいな世界にいた者の感覚ではあるわけです。
 まあ、昔のことで、今となっては懐かしいばかりですので、ちょい美化して書いているとお思いください。

ここまで読んでいただいてありがとうございます!

25件のコメント

私のコメントに、大きな反感と憎悪を買ってしまったと思い、しばらく遠ざかっていました、
もし、許容できないと思われるようでしたら、削除してください。

多文化共生を、国内に当てはめて考えた素朴な感想ですが、
日本の各地方・郷土の文化は、その地方にあるから意味があると思うのです、
極端な仮定ですが、
大阪や兵庫の「価値観・文化」を、山形や秋田でそのままの形で維持し共生し続けることは、
良いことで、推進すべき素晴らしい事なのだろうか、と考えた時に、否定的な感情しか浮かばなかったことです、
うまく、理屈で表現することができませんが、
今地球という惑星規模で、実現している多文化共生を、むりにスケールダウンして、モザイクにすることが、
はたして「良い」ことで、積極的に進めるべき事なのだろうか?と思ってしまうのです。

ただ、差別や暴力による排除などは論外で、それを認めるわけでありません。
とりとめのない話で、申し訳ありません、衆愚のたわごとと思って流してください。

私も羽賀さんと同じくうまく言えませんが、ただ、大阪や兵庫の人が山形や秋田に住むことは実際にあるわけですよね。中国・四国地方にルーツのある方は関西にも多くおられますし、東北地方にルーツのある方も東京に多くいるという感じでしょ。そういうのはもう社会が発達していく過程では仕方ないんですよ。今はそれが地球レベルでおこっているんです。

いいことばかりじゃないのは私でもわかりますよ。でもこれは長期的には止めようがない。だから知恵を出していくしかない。安倍政権は耳障りのよい「女性の社会進出」という言葉で、女性を「私的」な家事や介護の場から、労働市場に引っぱり出すことによって、少子高齢化による労働力不足を解消して経済成長も続けられると言いますが、実際には根拠のないことでしょう。

確かに「多文化共生」という言葉は、かつて私も好きでしたが、最近では懐疑的になっていることは事実です。ただしこれを超える理念は私ごときでは思いつきませんので今でも使っています。が、やはりエントリ本文にありますように、「重要なのは一つの『正解』ではなく、たくさんの、本当にたくさんの留保をつけながらでないと、社会運動は暴力になりかねないという理解」なんだろうなということです。

モザイク的な文化についての印象ですが、単に印象の問題で言えば、私のもつ原体験が大きいのかもしれません。そのことについては過去のエントリで書いたことがあります。
http://bund.jp/modules/wordpress/?p=3976
http://bund.jp/modules/wordpress/?p=3993
私にとってそれはとても居心地のよい、素晴らしいものでした。それも左翼がどうのといった政治的な世界ではなく、もっと日常の仕事や市民生活の中で経験したのがよかった。左翼時代も確かに「多文化共生」ではありましたが、誤解を恐れずに言えばそれは「正解」が限られた平板な世界で、あまりモザイクといえるほどのものではなかったように、今となっては思えます。

羽賀さんのあげられた地域文化についても、特にここ20年ほどは加速度的に、東京的な単一文化に染められ、地域の顕著な特色や言葉が失われているようで不満なのです。「県民ショー」とかで面白おかしく紹介される「地域の常識」なんかでも、関西が紹介された放送回を見た印象では、40代とか50代以上の人でないと通用しない「常識」もかなり含まれているように思います。逆に10代や20代でないとわかんないものもあろうし、そういうのを全部ひっくるめて安易に「何々県民の常識」としているだけで、実際には地域の特色が絶滅していく過程にある。そういう単一化は私は好きでないんです。

逆説的に言えば、日本文化を大切に思うのなら、むしろモザイク化は必要で、そうでないとアメリカ的な「常識」に日本なんぞは簡単に飲み込まれてしまう。多文化共生を社会で普通に語れるような国のほうが、むしろアメリカ的なるものに対抗意識や独自性を主張する傾向があるんではないかと。まあ、その内容が何かしらよいものであるのかどうかはわかりませんがね。

最大限綱領的に(「それができれば苦労はないよ」的なレベルで)言うならば、結局は「すべての人が自分らしく生きられる社会を」「『生き方』を強制するな」「どんな『生き方』を選択しても制度的・法的に不利になってはいけない」ということになろうかと思います。エントリ本文にある「個々のメンバーの状況を丁寧に見ながら個々に判断するしかない」という言葉は、つまりそういうことを言っているんだと思います。私は自分の原体験から、なんでそれが普通にできないのか、なんで他人に自分の生き方を強要するのかと思います。それはイデオロギーの社会的な再生産、つまりそうすることによって得する人がいるからで、社会変革の闘いなしに差別はなくならないということになるのですが、一方で「みんながそう思えば簡単なこと(ジョン・レノン)」でもある、つまり充分に実現可能なことでもあると思うのです。

RT @aosakana: 是非ご一読を。ご謙遜なさってるけど草加さんの文章力も視点もすばらしいと思う。 - 転載】金明秀氏による「反差別運動のあるべき姿」についての簡潔な解説 http://t.co/dhqEKSyZBI

RT @aosakana: 是非ご一読を。ご謙遜なさってるけど草加さんの文章力も視点もすばらしいと思う。 - 転載】金明秀氏による「反差別運動のあるべき姿」についての簡潔な解説 http://t.co/dhqEKSyZBI

RT @aosakana: 是非ご一読を。ご謙遜なさってるけど草加さんの文章力も視点もすばらしいと思う。 - 転載】金明秀氏による「反差別運動のあるべき姿」についての簡潔な解説 http://t.co/dhqEKSyZBI

RT @aosakana: 是非ご一読を。ご謙遜なさってるけど草加さんの文章力も視点もすばらしいと思う。 - 転載】金明秀氏による「反差別運動のあるべき姿」についての簡潔な解説 http://t.co/dhqEKSyZBI

草加様へ
表現が稚拙で、伝えたいことをうまくかけません、ごめんなさい、

たとえ話で言いたかったことは、大阪兵庫の家族の人が、山形秋田の地で4世代5世代にわたって、
関西人として関西文化を主として持ち続けて生きるべきかと、考えた時の違和感でした。

出身は関西だけど、わたしらこっちの人間だよっていうのが、そこに定住する人の素直な感情だと思うのです、
それをしない人できない人 というのは、帰ることが前提か、その地に嫌悪感があって一緒になりたくない人でしょう。
 
わたし自身考察すると、帰る地があって、そのつもりでいる人には、ああ、外の人なんだなあって感じますし、
地元がきらいって人とは(何で嫌うのって聞きますが)、距離をおいてしまいますので、
どちらにしても、地域住民の一員というより、お客様としての認識に近いかもしれません。
 
 ですが、上記のように帰る予定・地元を嫌いな人が、
 ここに住んでるんだから集落の補助をもらいたい、
 それは権利ですよって物言いをしたら、それが正当なことでも、
 なにがしかの嫌悪感情が芽生えてしまうのを、否定できません、
 冷静さと品位を保つのは、高度に知的な振る舞いなのだなあ、
 と反省をしてしまいます。

※先住民としての少数者と、ごちゃまぜにしてはいけませんので、
頭の中を整理するためにたとえ話にしました。

こんにちは。
横からごめんなさい。羽賀さんの例え話を読んで、どうしてもコメントしたくなりました。
4代5代と生活し続けているのに、「その土地の文化に馴染まない人たち」に対する違和感、ということでいうと、今現在の日本でも、受け入れ側の土地によって随分違うんじゃないかと思います。
そして私の経験から言わせていただくと、「よそもの」に冷たい土地というのは、その土地で生まれ育った「地元民のマイノリティ」にも冷たいです。結局、そうゆう土地は、「ありとあらゆる少数者属性」に対して冷たいんですね。
怪我や病気などで、人はいつ「地元民のマイノリティ」になるかもしれません。
そうゆう観点からも、私は「そうゆう土地柄」は、見直した方がいいように思います。
ズレていたらごめんなさい。

羽賀さん> なおじさん>
おそらく「日本に文句があるなら出て行け」みたいな差別言説をめぐる論議に相当するお話なわけですよね。これはおそらく在日市民や朝鮮系日本人、その他のマイノリティや反差別運動の界隈ではさんざんに語りつくされてきた話題であると思います。国連などを舞台に国際的にも議論されてきて、羽賀さんには不満でしょうが、少数派が言語や文字を含む自民族の文化を保持することは「人権」として認められてきました。それを前提にして中国への批判がなされていますので、その権利を認めない前提では、中国への批判の正当性の半分以上は失われて「内政干渉」と紙一重になりかねません。エントリ本文の「実際にも、各自治体の多文化共生課では云々」というのは、こういう国際的な議論を前提にした流れなわけで、唐突にポンと出てきたわけではありません。ですがここでは、そういう歴史的な議論はそれとして念頭に置きつつも、羽賀さんの問題意識と、なおじさんの提起にのって、日本人の一人としてもう少し素朴に考えてみたいと思います。

「その土地に馴染まない人」と「よそものに冷たい風潮」というのはわりと鏡のような関係にあるような気がします。よそものに冷たいから、いつまでたってもよそからきた人が馴染めない。で、否応なく人が交流して移動するようになると、「昔はよかった」「出て行ってほしい」みたいなことを言う。それが差別だという自覚もなく人を差別してしまう。それは悪循環で、この場合はやはり多数派の「よそものに冷たい風潮」のほうを先に見直すほうが住み心地というか風通しはよくなると思います。ただ、なんとなく異質なものを不安に感じること自体は人の自然な本能で、そこまでは悪くないと私は思います。ですが、だから「近寄りたくない」「近寄るな」「一緒になれ」とまで言ったらそれはダメなんじゃないかと。相手は動物ではなくて人間なんだから。で、実際に近寄って接してみたら、文化が違おうがなんだろうが、人間としては別にたいした違いは実は無いんです。

「馴染まない」というのをどの程度のことを言うのかわかりませんが、いちいち「ここが違うあそこが違う、やっぱりよそ者だ」とか細かくチェックしなくてもいいんじゃないかと。溶け込んでしまう人もいるだろうし、独自の文化みたいのを受け継いでいる人もいるでしょうが、別にどちらも悪いことをしているわけじゃなし、そんなの人それぞれでいいと思いますけどね。欧米では「文化」と「宗教」はセットになっているから、その変更を迫ったり、少数派を迫害して自分らのものを押し付けることが人権侵害だとすぐにわかるのですが、「文化」という言葉だけだと、きっとそのへんの感覚が鈍くなるんでしょうね。

だいたい在日の人も世代を重ねると、普通に自分の「生まれ故郷」に対して日本人と同等か、むしろそれ以上の愛着をもっていますよ。そちらのほうが、単なるイデオロギーにすぎない「愛国心」なんかより、よほど健全で自然な感情だと私は思いますけどね。もちろん「よそものに冷たい風潮」には不満もあるし抗議もします。でもそれとこれとは別問題だと思うのですよね。そこはむしろどんどん抗議してほしいというか、抗議を受けないと、それが差別だと気がつかないことってたくさんありますし。それでいいじゃないか、なんの不都合も無いじゃないかと思います。

以下、地域の話が出たのでちょっと思いついた余談です。

関西で言うと、大阪という土地はわりとよそ者に寛大な面もあるんですね。その雑多性が大阪の魅力でもあるんです。京都は排他的と言われますが、その逆の面もあって、京都を代表する経営者や地元政治家は、意外と「よそ者」出身者が多い。そういう人をとりこんで「京都化」してしまう。そうやって外のパワーをとりこむことで「過去の街」になることから逃れてきた。純血種だけではやがて衰退していくことをよく知っている。神戸はよく知りませんが、関西が昔から人口比に対して在日が多いのは、単に地理的なこと以外に理由があると思います。もちろんだから差別が少ないというわけではありません。むしろ日常的に接するがゆえに、差別の現場にも多く接するわけですが。

そして京都の在日の方はやっぱり「京都人」なんですよ(笑)。んで、在日の方から聞いた話なんですが、在日同士の集まりの中では、その中で、京都人と大阪人の(他府県人からはどうでもいいような)お決まりの対決というのが日本人同士と同じようにちゃんと繰り広げられたりするんだとか。京都の中だけでは在日の人はやはり「ちょっと違う」と思ってしまうわけですが、よそから見たら「やっぱり京都やのう」ということになる。それで、最近はニューカマーの中国人が増えてきましたが、彼らと比べると、もう日本生まれの在日朝鮮・韓国人なんて、日本人と全然いっしょやんと思ってしまいます。

政治的には極右支持の漫画家の高信太郎さんが本で書いてましたが、日本人から見れば韓国人は違って見えるかしれないが、実は日本人と韓国人は国民性がそっくりで、欧米人からみたら日韓の文化対立なんて、大阪人と京都人の争いみたいなもんで、ほとんど同じ文化なんだそうです。対して中国は欧米人から見ても日韓とは明らかに異質。だからネトウヨさんは「中韓‐日」とわけたがるが、本当は「日韓‐中」が正解。ゆえに日本人と韓国人の文化衝突の正体は、「違う」ことではなく「ほとんど同じなのにちょっと違う」ことで発生する「あれ?」という部分なんだそうです。なまじ似ているから普通に会話が成立するのに、要所要所でお互いの常識が通じないから、むしろ「なんだあいつら」と強い反感をもつ人や、逆に「韓国人っておもろい」とすごく好きになる人もいるのだと。

あと、芸能人とスポーツ選手と裏社会に在日(と被差別部落)の人が多い(多かった)のは、つまり日本社会に差別がある証拠でもあります。ネトウヨ言説にある「街宣右翼に在日が多い」というのも一緒で、これは単に暴力団に在日が多かったということの結果であり、それも差別の現われなんですよ。イスラエルでもアジア・アフリカ系など有色人種のユダヤ人兵士は、差別されて危険な地域にばかり投入されるんですが、それでイスラエルのアパルトヘイト政策などの人種差別に疑問を持つかといえばその全く逆で、むしろイスラエル社会で認められたくて、有色系の兵士は普通以上にパレスチナ人を見下して酷い扱いを積極的にする傾向があるんだそうです。在日が右翼になるというのもそれとちょっと似た悲しい話だと思います。

ていねいな回答、ありがとうございます。
私自身、部落の人間で同盟員でもあります、
自分では分からない、排他性があるのだと思います。

返答の返し方として妥当か、ちょっとわかりませんが、
いわゆる在日の方(朝鮮半島の出身という意味です)は、
本当に大部分の方は、日本人と変わらない感性で、何が違うのか?
と、疑問に思うのが普通だと思います、

あえて、問題提起するとすれば、意地なのか利権なのか理由は良くわかりませんが、
同じ在日の方の帰化に対して、強く反対し邪魔までしてくる空気があるそうです、
私の周囲だけの問題なのか、全国に共通した問題なのか、どうなんでしょう?
お互いに一緒にやっていこうとういう気運を、わざとつぶしているようにも感じます。

草加さん。いろいろ教えていただき、ありがとうございます。
羽賀さんに倣うようになりますが、私自身についてお話しさせていただくと、
私は日本国籍の両親の元に生まれ、本籍も所謂、被差別部落と云われる地域ではありません。
ですから、日本国籍じゃないとか、被差別部落出身だとか、という差別を受けたことがありません。
ただ小さい頃から、身体能力が他の子たちよりかなり低いこともあって、その点においては、まあまあ差別されてきたように思います。そして最近になって、それらの分野の専門医でもある主治医から、「あなたは、普通の人より少しだけ、他人の心を察する能力や身体を使う能力が、生まれるつき低いのかもしれないね」とアドバイスされました。
そんな私がまた横入りするのがいいのかどうかわかりません。わかりませんが、羽賀さんの新しいコメントを拝見して、羽賀さんにというより、草加さんにお伺いしたくて、またコメントさせていただきます。

羽賀さんの新しいコメントを読んで、「同胞」が日本に帰化(嫌な言葉ですね)するのに反対する在日の方の気持ちって、反対する方によって違うのでしょうけれど、「そんなことをすれば、あなたはあなたでなくなる」「あなたに不幸せにはなって欲しくない」という、思いやりの気持ちから反対される方というのも結構いらっしゃるんじゃないかと思うんですね。で、草加さんにお尋ねしたいのは、反対される方のそういった気持ちや行動というのは、思いやりに起因する「お節介」だと言ってしまっていいものかどうかということです。この辺が私にはよくわからないのです。長々とごめんなさい。

「帰化」については在日の方にとっては微妙な問題らしいので、私がどうこう言うことではないのかなという気もします。国籍や民族とかほとんど意識しなくても生きられるという特権を有した私たちにとって、そのあたりにからむアイデンティティが人生さえも左右してしまう、そしてどんな選択をしても大きな困難があるというのは想像しがたい人生です。その意味で、本人も周囲の人も気軽に語ったりはできないし、まして家族でもない他人が押し付けたりしてはいけない問題なのかなと思います。

だから私もさすがにこの話題につきましては、在日の方から聞いたことも質問したこともありません。彼ら同士で話題にしている現場も見たことがない。ただ、「だったらおまえなんか、さっさと日本人になってしもうたらええねん」と罵倒されて泣いたというエピソードを伝聞で聞いた程度です。

ゆえに私もお二人と同じで、この問題について客観的に語れる当事者の方に教えてほしいと思います。つまり私に聞かれまして「教える」どころか学ぶべき立場の人間なのです。たとえば韓国では、日本で生まれ育って感覚が日本人とほとんど変わらない在日に対する「半チョッパリ」という差別用語もあるようで、感覚的にはそんなのナンセンスだとは思うのですが、そのことについて語るのは、アメリカで能天気に「アメリカって黒人差別が酷いんでしょ?」とか何も知らずにあっけらかんと語るようなもので、かなり地雷の可能性があるかと。

そんな韓国では在日の人が「韓国人同胞」として生きることを立派とする風潮があるようですが、これって考えてみたら、かなりネトウヨ的な発想ですよね。「日本人とは何か」と言えば、それは「日本国籍を有する人」という以上の意味はないのに、そこに過大なイデオロギーを押し付けて、「帰化したからには『日本人』として生きるのが当然」というのも、まあネトウヨ的なんですが、それはちょっと前までの日本人の「常識」だったわけで、実は日本と国民性が似ている韓国でも同じ意識なのかなと。つまり「帰化」した人というのは、「祖国と同胞を捨てて日本人になった人」という意識だったんではないでしょうか。ある意味で裏切り者みたいな。パレスチナでも自分の土地にとどまった人のうち、イスラエル国籍を取得したパレスチナ人を「裏切り者」扱いする風潮があるそうです。実際にはイスラエル国内ですごく差別されていて、支援が必要なのにもかかわらずそうなんですね。

ただ、在日の方々のこういう意識も、昔にくらべたらかなりゆるくなっているそうです。冒頭に書いた「日本人になってしまえ云々」とか発言した人は、「あんなんだからいつまでたっても結婚できないんだよな」とか他の在日の方から言われてました。これは左翼的には言いにくいことなんですが、被差別部落とか他の大衆的な反差別戦線でもそうなんでしょうが、あんまりゴリゴリの人は仲間内でも「ちょっとは空気よめよ」とか思われてしまう。結婚相手にしても、特に男は韓国から「嫁」をとるのが同胞として立派(実際そうして韓国から嫁いてきたという方がいました)、日本人と結婚するなんて言語道断というのがほんの数十年前までの意識だったみたいですが、今では結婚相手の過半が日本人との自由恋愛(死語)です。すると生まれてきた子供は日本国籍にすることが多いではないかと想像します。特に総連系の方は子供を「北朝鮮籍(日本では無国籍扱い)」にしたいと日本人の配偶者に主張するのは、かなりの勇気がいるというか、ほとんど無理でしょうから。

私も聞いて驚いたんですが、今や朝鮮学校の生徒でも、場所によっては日本人(朝鮮系日本人)の生徒が過半数なのだそうです。これって、私が子供の時代には考えられないことです。李恢成の小説でも、親が「帰化」したために日本国籍になった在日の話が出てきますが、彼は朝鮮人としてのアイデンティティを持ちながら、あらゆる在日のコミュニティから「『元』はダメなんだよ」とか言われて排除されてしまいます。つまりそれは、あくまでも国籍を含めて朝鮮(韓国人)としての自分を、日本社会の中でも突っ張りぬいて生きるか、祖国も民族も同胞も捨て、日本人以上にとことん日本人になりきるかの二者択一の世界なわけで、今でもそうなのだと思っていました。それが日本人や韓国籍の親が、自分達の民族の言葉や文化を学ばせたいという理由で(特に小学校)子供を朝鮮学校に通わせ、それを学校側も受け入れているわけです。また、私たちは何かと総連と民潭をきっちりわけたがりますが、実際にきっちりわけているのはゴリゴリの人だけで、一般の在日の方のとってそれは町内会の感覚で、両方の行事に参加するのは当たり前、はなはだしきは両方の役員(下のほうですが)を兼ねたりとかもあるらしい。

つまり総じて、実際の「生活者」としての意識や都合が世代を重ねるごとにまさっていくのかなと。さきにあげた高信太郎さんが言うには、こういう溶け込むスピードが早いところも日本人と韓国人が似ている点で、他国に暮らしながら何世代でも比較的に独自性を残せる民族は、せいぜい華僑とユダヤ民族くらいのものではないかと高さんは言っておられます。

90年代頃には私の周りでも、「朝鮮系日本人」を名乗るか、そういう生活をする日本人がぼちぼち出てきた感覚です。かつては「日本国籍をとったら最後だ。朝鮮人として生きる日本人を容認するほど、日本社会は寛大ではない」という認識が在日の人の間でも強かったです。そして上に書いたような理由で在日の人口がどうしても徐々に減っていくことに対する危機感もありました。けれども、国籍に関係なく、自分のルーツを大切にしたければしたいで、朝鮮系日本人という選択があってもいいと思います。在日の上の世代の「日本人がそんなに寛大なわけがない」という予測をくつがえせればいいのになと思います。そのためには日本人もそして韓国人も、もっともっと変わってほしいと思いますが。

草加さん。今回も丁寧なレスありがとうございます。
また疲れていらっしゃるのに、こんな長いコメントを結果的とはいえ書かせてしまい申し訳ありません。
私はまだこのサイトの全文を読んだわけではありませんが、てんかん患者さんに対する差別への抗議のエントリーとかを読んで感じたのは、もっともっと知らなければいけないことがたくさんあるんだということです。もちろん知ると云っても、血の通っていない、いうなれば「記号でしかない知識」を得るのではなく、人間として生きている・生活者である差別されている人たちの実情に触れるということが大切なんだと感じました。そして、人間に相対する時は、もっともっと慎重にならなければと。

ところで最近、そんな私の心にドキューン(?)と刺さった言葉があります。

「わかりあうことは難しいけど 分かち合うことは僕にもできる」

有名なグループの新曲の一節です。具体的に説明するのは難しいのですけど、このフレーズを知ったとき、なんかグッときました。ただこのフレーズはかなり抽象的ですね。この文を書いてて、「いやむしろモノによったら、分かち合うことのほうが難しいってこともあるんじゃあ?」とか思ってしまいました。でも、できることはどんどんやっていきたいです。
なんかとりとめがないコメントでごめんなさい。
最後にもう一度、今回も本当にありがとうございました。

こころのこもった返答ですね、ありがとうございます。

私も、上っ面の議論をするつもりは、ありません、
人の限界というものも理解しているつもりです、

動物としての人間は、嫌なことをされたら、相手を嫌いになります、
 「本人、または自分の仲間と認識している人が、うけた行為を基準にする人」
世代をこえて敵対関係が継承される教育を受けていると、相手を嫌いになります、
 「特定の相手を嫌う教育を、親の世代から受け継いだ人」

これはもう、すぐにどうこうできるものでは、無いと思っています、
客観的な「事実」と、各人の心の「余裕」が 絶対的に必要なことだと思います。

人は偏見を持つものなのです、残念ですが、それが現実です、
これは、情報の上書きをして、観念ではない本当の事実を「共有」することでしか、
解決できないもんだいなのだろうな、と感じています。

連続投稿すみません。
羽賀さんのおっしゃる通りだと思います。ですが反面こうも思います。
「コスモス」や「コンタクト」などの著作や「核の冬」の提唱を遺したカール・セーガン博士は、

世界中から武力紛争を無くすなんて不可能だと多くの人が思っています。だけどそうでしょうか?例えば少し前まで多くの人が無くすなんて不可能だと思っていた奴隷制度は、今や世界中からほとんどなくなりました、、、、。

と語っていました。
残念ながら、この続きを私はよく覚えておりません。ただ、ライト兄弟を例にあげるまでもなく、人間は、「できるという可能性が証明されれば、やがてそれを達成するいきもの」だと私は考えています。
ただ、上の例に則していえば、南北戦争では両軍62万人もの死者を出し、リンカーンはかなり強引な手段で多数派工作をしていたなどを思うと、やはり「キレイゴト」だけでは決着しないのかもしれませんね。
たびたびの横入り、ごめんなさい。

お二人の問題提起については、私も思うところはあります。それは断片的にですが、今までもいろいろ書いて考えてこんできたところではあるつもりです。直近では、非常に散漫で自分でも何を言いたいのかわけわからん文章ではありますが、以下のエントリがあります。
http://bund.jp/modules/wordpress/?p=11750

人間は善でも悪でもなく、どちらも人間の真実の姿だと思います。そして何より人は弱い存在で、その弱さゆえに輝くこともできる。
そんな人間が一番残酷で分からず屋の手に負えない存在になるのは、自分が善を行っていると信じて他人を攻撃する時だと思います。神だの正義だのの名において行動するとき、人は真実の悪魔になりうるのだろうと。それはこれからの人類にとって(そして個々人の人生の一コマにとっても)、一番大切な歴史の教訓の一つだと思う。

人は悪というよりは弱いのだけれど、それでも私は正義は必ず勝つと信じて疑いません。ただしそれは1000年単位で見た場合のこと。一人の人生にはいくらでも理不尽なことがあり、時には悪が栄える時代が数百年単位で続くことだってあります。けれども、なおじさんがあげておられるように、かつては奴隷制が悪だという認識すらなかった時代もあるわけです。

なおじさんのおっしゃる「キレイゴトだけでは決着しない」というのは、左翼用語でいえば「下部構造」というのですが、要するにいかに理不尽な社会でも、その社会の構造で生き延びている(得をしている)人がいて、ちゃんとその社会なりに存続を可能とする構造ができあがっているということですね。さらにそれを正当化するためのイデオロギー(その時代の常識や道徳)があって、ゆえにその構造を変えるということは、その社会でうまく成功している、得をしている人たちと闘い、それまでの旧道徳を踏みにじって、これを打ち倒していくという過程がどうしてもでてくる。それが「政治」ということなのだと思います。

これは損得と生き死にの問題、つまり利害対立ですから、やはり自由や平等と愛を説くだけでは何も変わらないというのも真実だと思います。偏見は単に無知からだけでなく、その偏見が存在することを必要とする人々がいるからなくらないということもあるんでしょう。ゆえに「闘いだ!」となるわけですが、そこで最初に戻って、「正しい自分」が「間違った他者」を打ち負かして拡大していくみたいなイメージで本当にいいのか、それは自分が他者への抑圧者になっているだけではないのかという問題に戻るわけです。ほんの10人くらいのグループでも、運動の現場でばらばらに存在する個人にとっては、充分に脅威を感じる存在なのです。そのことをわかっていない人が多すぎる。

まさに私の考えは円環し、グルグル回るわけですが、私はこの円環が大切で、神ならぬ身の人間が、これでいい!というような絶対の真理とか正しさなぞ持ちようがないと思っています。いまどきそんなことは、少なくとも自分の身内に対しては誰でもわかることなのですが、いざ、外の人間、つまり自分とは価値観や意見を異にする人に対してそのことがわかっているかといえば、かなり心もとないのではないでしょうか。本当は自分が「外部」と認定した人間に対して、どんな態度がとれるかによって、その運動や個人の度量が試され、値打ちが決まるわけで、それこそが「セクト主義」の問題であると思います。

たとえば私は上のコメントで、普段は口にしないような「物分りのいい」ことも言いました(在日で意識の高い人から見たら地雷の2,3個踏んでるような気がするのですが、自分ではわかりません)が、だったらゴリゴリですべての差別にすごくとんがって(時には仲間内からも煙たがられても)反対してきた人はどうなるのだ、切り捨ててもいいのかということになりますね。韓国・(北)朝鮮の多数意識である、「どこにいても同胞として生きる人は立派」という民族意識も、本当のことを言えばナンセンスではないかという思いもありますが、それを日本人がどうこう言っていいのかという悩みも持っているし、持つべきだと思います。すると今度は完全に「日本人」になりきろうと「帰化」した人は「裏切り者」でいいのか、あるいは差別される側に帰って来いと要求するべきなのか、それもちょっと違うのではとか、さらに言えば韓国にも左派(左翼)はいるわけで、無政府主義者だっている。そういう人は国籍とか民族とかを相対的なものとして考えているだろうし、それは韓国内の多数意思(総意)とは違うだろうけど、そういう人との連帯はどうあるべきなのかとか。

羽賀さんの問題意識に対する答えになったかはわからないのですが、ようするに答えはないということではないでしょうか。あまり突き詰めると、最後は哲学的な問答になってしまうか、ある種の公式的な(イデオロギー的な)きわめて「わかりやすい」回答にまとめてしまうしかありません。でも、生身の人間はそんな簡単なものでもないと思うのですね。まあ、解放同盟の内部を見てこられたようですから、釈迦に説法だとは思いますが。結局は自分の信じた道を行くしかない・・・としか言えないのが歯がゆくもあります。

私はと言えば、奴隷制から現在まで続く、人が人を支配してその上前をはねる(搾取する)という制度を必要ないものとし、そこにおける利害調整として存在する「政治」そのものを止揚する、つまりかつて奴隷制をなくしたように、いつか「政治」そのものをなくしてしまうことが、奴隷制以来続く人類の現ステージを、次のステージに押し上げることであり、ここまで進化してしまった人類が存続を続けるにはそれが必須条件だと思っています。そしてエコロジストに言われるまでもなく、そのための時間は人類にあまり残されていないと思う。このまま滅びるなら滅びるで、人間はそこまでの存在だったのだから仕方ないとも思いますが、少なくとも私はその方向で人生を生きたいです。
私はここで、あるいは種々の現場で、自分なりに信じた道を模索し続けます。羽賀さんもお元気でとしか今は言いようがありません。

だいぶ長くなってきたことでもありますし、お二人のご指摘や問題意識については、ちゃんと読んでほしいものもあると感じましたので、隣のエントリにスピンオフいたしました。
http://bund.jp/modules/wordpress/?p=12332
もし、議論を続けられるようでしたら、できればですが、上記エントリのコメント欄にてお願いします。

@MINOR_U_THREAT
https://t.co/B1kw7kKnZ5
批判されることそのものを嫌がって議論しているうちは、運動の入り口にも立っていないとぼくは思っています。批判を嫌がるようなら、その運動の先行きは危ない。

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