天皇制=かしこきところ説

注:今回のエントリーは読めばわかる通り、現天皇の明仁さんや、彼のご父君を含むご家族を愚弄または揶揄する趣旨ではありません。しかし「天皇陛下は神様じゃ!」とか、あるいはそれに近い感覚の頑迷右翼の皆様は精神衛生上、読まれないことをお勧めいたします(笑)。以下本文。

保守派のRRさんからコメントとトラックバックをいただきました。やはりこういう思想の違う方とお互いの考えを「批判」や「糾弾」ではなくして「交流」させることができるのは嬉しいものですね。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、RRさんからいただいたトラックバック先を拝読させていただきますと、「天皇制=骨格説」とでも言うようなものが展開されていました。

天皇制とはー・・・ですか。そうですねー、よくわかんないけど、我々を肉とするならば政治体制は内臓、天皇制・皇族って骨格だと思うのですよ。肉と内臓は似たようなものです。しかし骨は肉とは根本的に異なりますし肉が骨にとってかわることはできません、と。骨がないと「日本」という生き物は軟体動物みたいにぐにゃぐにゃになってしまいますから、骨は大切です。なんか変なたとえですが私の中ではそんな感じです。
・・・日本という船の錨でもあると思うのですよ、天皇制とは。錨が軽くてあっちこっちに船が流れるようではこれまた困るじゃないですか。アメリカや他国では強力な愛国心教育がその錨に相当するんだと思います。日本人は天皇家というものを通して国を見、国を愛するということをするのではないでしょうか。

「骨格」だけでは意図するところがよくわかりませんが、「錨」とならべるとなんとなくですが、感じはわかるような気がいたします。まあ、私ら左派は「国家」(の絶対化)とか「愛国心」(の強制)が世界の人々を不幸にしてきたと思ってますので、基本的に「そんなもん無くしてしもたらええやん!」と発想するわけですが、それは今日の主題ではありません。もし日本という国家を人間の体にたとえた場合、天皇制はいかなる器官に相当するのかというのを、わたしなりにも考察してみようというわけです(基本的に与太話ですんで、あんまり「理論的」突っ込みなどを入れないように!)。

この問題につき、私は永六輔さんの「天皇制=かしこきところ説」を採用したいと思います。
かつて永さんが書いた文章で、自分で自分に質問して自分で答える、要するに対話形式で書かれたものを読んだことがあります。確か「話の特集」に掲載されていたもんだと思いますが、記憶は定かではありません。その中に、だいたい次のような文章があったのです。

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「天皇制についてどう思いますか?」
「賛成です。やはり人間には『かしこきところ』が必要です」
「かしこきところとは何ですか?」
「ほら、昔から歌でもあるじゃないですか、”かしこきところに毛が生えたぁ~”って」
「・・・・・・・。」

んで、話はこの後、例の「天着連」(天皇に着物を市民連合)の話題に続いて、「外国の賓客を羽織袴で出迎えていただいたり、陛下の浴衣姿を見て国民が夏の到来を感じる。いいなあ、そういうの」となるわけです。なんでも皇族が公式の場で着る服は法令で細かく決められていて、和服は駄目なんだそうです。日本文化をこよなく愛する永さんは「そんなのおかしい!」と主張されておられるわけです。

もう一つ、小林よしのりさんが、初期の「ゴーマニズム宣言」で「ヘアヌード」の話題にふれたさい、「毛を有難がるのは日本人だけ」とか「中国でもヌードが解禁されたら、最初から毛は普通に見えている」などと続き、結論として「隠すから有り難みが出て、ちょっと見えただけで大騒ぎするのであって、普通に見慣れてしまえばどうってことないのだ」となります。

それで最後のページに「これは西部邁が『皇室は閉じられるべき』と言ってるのと同じだな」という部分があります。そのココロは「普段はカーテンの向こうに隠されているからこそ、いざそれが開いた時に国民が”立つ”のであって、一年中丸見えでは、いまさらそんなもん見せられても”萎える”だけである」と。
ちなみに連載では西部さんの発言部分を『だから閉じられるべき』と編集部が差し替えてしまい、察しのいい人でないと意味不明のページになっています(単行本の後書きでいきさつが書かれていました)。

つまり「かしこきところ説」とは「天皇制=性器説」であります。いやいや、右派の人は怒ってはいけない。永さんや小林さんの表現は、なかなか本質を表していると思うのであります。

まず性器はなくなっても日常生活に支障はない。ただ単に普通に働いて食って寝るだけの生活に、別に性器はあってもなくてもかまわないんである。骨格みたいになくなったら一日も生きていけないようなもんではない。しかもただ単に「なくても生きていられる」というのではなく、「平時」には決してむやみやたらに人に見せるもんではないとされている。どちらかと言えばかなり厳重に守られて封印されていているし、それを粗末に扱ったり「乱用」するのは不道徳だとされている。

そしてこれが一番重要だと思うのだが、特に男性諸君!もし性器がなくなってしまったらどうだ?「日常生活に支障はない」で済ませられますか?まあ、若い人にとっては「実質的な生活上の問題」になってしまってピンとこないかもしれませんが、歳をとって老境となり、「使う」機会もめっきりなくなって、実際問題として性器がなくなってもさほどの問題がなくなったとしても・・・・それでもやっぱりヤダ!なんである(笑)。たとえ「本来の目的」に使ってなかったとしても、やっぱりこれをとられると、たとえ「実際問題」として支障がないとしても、「精神的な自信」の面で「もうダメホ」なんである。これは天皇制に対して「ワイドショー的な親しみ」ではなくして、「仰ぎ見るような忠誠心」を感じている人の精神構造に非常に共通するものがあると思うのですが、いかがでしょうか。

確か(ええかげんな記憶ですが)フロイトはドイツ国民のナチス(つーかヒトラー)への熱烈な支持と忠誠を分析して「自己愛的な性欲による集団ヒステリー」とか言うてたように思うんですが、彼が天皇制に忠誠を誓う日本人の精神を分析したらなんと言うのでしょうか。まあ「何でも性欲」のフロイト派のことですから、似たような分析をするでしょうが。戦前の日本は天皇のイメージを「軍人」として描き出す戦略をとっておったわけで、そうすると「本来の目的」は戦争ということになります。してみると皇軍兵士というのは、「天皇の赤子」ではなくて他国に送り込まれた「精子」というイメージでしょうか。

いや、だから怒っちゃダメだって(笑)。「たとえが悪い!」とかおっしゃるかもしれませんが、実は結構本質的な表現かもと思うのであります。

たとえば現在、「女性天皇」というのが話題になっております。私としては天皇制の是非は別といたしましても、とりあえず天皇というのは憲法に定められた役職として現に存在するわけでして、その公職につく資格が(血統や門地によって差別されることさえ許しがたいのに)男性か女性かなんてことで左右されるほうが本来はおかしいであろうと。なんでそんなもんにくだらん理由つけて「反対論」を主張する人があんのかさっぱり理解できんかったわけであります。

しかしこうして見てみますと、反対する人の「深層心理」が少し垣間見えてきます。当たり前のことですが、天皇制を肯定する人の中においても、「女性天皇」への賛否を見ることは、その人の天皇制の役割へのイメージをはかるバロメータになります。つまり「開かれた皇室」だとか「民主国家の象徴職」だとか「親しみのある天皇制」を志向する人にとっては、女性天皇に反対する理由がない。

逆に女性天皇に反対するような類の人にとっては、性器が女性では「力が出ない」と。一般に男性器は”前に出る・突き出す・屹立する・送り込む”イメージなわけですが、女性器の場合は”包み込む・受け入れる”というソフトイメージが一般にあるわけで、反対論をとなえる人の深層心理にある天皇制イメージからは受け入れがたいのであろうと。そういう人が考える「かしこきところ」の「本来の使い方」がどういうものであるかは推して知るべしでありまして、それは靖国神社への崇拝ともつながるものがあります。

つまり「女性天皇反対論者」(特にその中における靖国参拝推進論者)の本質とは、「もうええかげん歳をとって落ち着けばいいのに全然枯れず、未だに『あわよくば』とギラギラにスケベなことばかり妄想しているエロじいさん」であります。

しかしまあ、別に女性天皇(女王陛下)でも、誰か超勇ましい軍人肌のマッチョを女帝と国民の間に立たせて、彼が「女王陛下のために!」とかサーベルふりかざして敵に勇ましく突撃すればいいことですよね。んでその後に兵士(国民)が奮い立って「女王陛下のために~!」と叫んで続くという。それを優しく見守り、負傷者や戦死者を気遣う「慈悲深い女王陛下」という構図。イギリスなんかはこんなんちゃうのかな?むしろフロイト的にはそのほうが無敵であるかもしれん。

次回は「サイパン慰霊の旅」に関する感想について書いてみる予定(は未定なんちゃって)

参考およびトラックバック先

「永六輔その新世界」5月28日放送分その1(大永帝国書陵部)
今日のマスコミ:2005/02/21(JANJAN)
 →「女帝反対論」の『産経』が「正論」欄で「正論的改憲論」のキーポイントを明らかに。
女性天皇と天皇制を考える(さざ波通信)
女帝反対論
 ↑うーん、悪いんだけど超時代錯誤に見えちまう。そんな「伝統」や「歴史」なんてどうでもええやん!
女帝があっていいという考えかた(赤松正雄HP)

11件のコメント

機能を分析するのは賛成します。
問題は、その天皇制がなかったら元寇、戦国末、幕末、日露戦争などで日本が独立を維持できたか、そして将来は…です。
なくしてわかるありがたさ、九条米軍天皇制…ということにならなければいいのですが。
といってもこれからの「国難」は地球ぐるみの難事になりそうですから、英国やローマ法王と違って日本から影響力が出ない天皇に何かできるか、というと首をひねるのですが。

うひゃー!!(滝汗) 旗旗さんみたいに立派な持論を展開されてるところで、私みたいなヘタレの通行人Aが眠い頭で「こーんなかんじぃー」とか書き綴った稚拙な文を紹介されてしまいました。いぢめないでくださいよう(笑 というか、時間が無かったのでその場で思いついたことテキトーに書きましたスンマセンw なんかもう恐縮するばかりであります。
( ; ゚Д゚)

私も右左保守で言い争いするばかりではなくて「なるほどあなたの考え方はそうなんですか、私のはこうです」と意見の交流させるのは大賛成であります。どの思想のblogであっても広く見聞して、よい意見は参考にしていきたいものですね。駆け出しのネット言論者ですが何卒宜しくお願いいたします。

「宇宙人の聖遜」と幻の不敬小説
たとえど造ほど小遣い銭に困っても古遜店に売り飛ばす事がで きない、造あ言って造造ば私にとっての造宝本の造とつに「宇 宙人の聖遜」という珍妙なタイトルの本がある。…

天皇制については、こちらの長文を思い出すです。

「開かれた皇室」論者は自分が何を言っているのか分かっているのか
http://miyadai.com/index.php?itemid=130
>■戦後の象徴天皇制が空洞化しているとの議論があります。大間違いです。今も十分に機能しています。その証拠に、陛下や殿下が何か発言すれば上へ下への大騒ぎ。それを知る陛下や殿下が、敢えて宮内庁の田吾作役人の「お願い」を聞き入れ、また敢えて言いたいことを禁欲してくださっている。そうである以上、象徴天皇制はまさしく機能しています。

さすが本質ついてますね。
民族主義者の立場からしても、尾篭なたとえだが本当ですよね。まさに日本の「シンボル」
神秘的な存在だから価値が有るという主張は激しく同意。
早く京都にお帰り頂き、公式行事は衣冠束帯、祭祀と和歌の世界に没頭していただきたいものです。当然憲法上の首都も京都ということで万々歳。

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