元活動家のつぶやき

戦旗・共産同「規約」の思い出(三里塚3・8分裂のことなど)

demo.JPG 戦旗・共産同の規約について、こちらに掲載してみました。読み返してみて思うこととか、思い出話などいろいろあるのですが、まあこの規約についてはねえ、「素人系趣味者(=純粋趣味者?)」の方の中には「なかなか立派な規約」と「萌えて」くれた人もいたようですが、玄人筋の「主義者系趣味者」の方からは「典型的なスターリン主義規約」などと評判が悪かった。どうも自由な分派や派閥活動を事実上禁止しているのがいかにも共産党的で、こういう趣味者系の方々には到底容認できないものだったようです。

 当時の私らとしては、これは「ごく普通の典型的なレーニン主義党規約」だと思っていた。「分派の禁止」については、レーニンの見解では一時的なものだったとか、スターリンが固定化したとかいろいろな解釈や見解があって議論されているようですが、私としては当時の左翼運動の分裂につぐ分裂、抗争につぐ抗争、内ゲバの激化、運動や組織の縮小再生産という現状に辟易しておりまして、もうそういう「自由人的発想」が決して「豊かな関係」を生み出さないことに疲れきっておりました。また、こういう「分派」や「自由」を「組織の団結」に対置するような体質の人が、えてして意見の違う他人に対して穏健でも何でもなく、むしろセクトの人間よりもはるかに高圧的で、自分の意見に頑ななように私には思えたのです。

 だから私はむしろ「分派の禁止」や「下部組織の横の連携(=派閥)の禁止」などには賛成の立場でした。だいたいが「暴力主義的」革命党なんだから、一定の規律は当然必要と思ってました。今読み返して思うのは、この規約は「党中央性善説」だということですね。つまり運用しだいでどうとでもころぶ代物だということです。

 当時の戦旗は指導部への信頼がすごく厚かった。左翼凋落の時代に独り戦旗だけが毎年倍々ゲーム的に動員を拡大し、かかわっていたあらゆる戦線で影響力を拡大していたのですから、当然と言えば当然です。その指導部への批判さえも含めて自由に組織内では討論できたし、活動家はみんな言いたいことを言って生き生きしていた。だからこの規約で誰も問題は感じなかったのです。

 今も思い出すのは、荒岱介氏(=同盟議長つまり「党首」です)が地区の指導部を集めた会合で「党内民主主義を口先にしたくないから、意見があればどんどん意見書を出してほしい」と言っていたことです。私は「意見書の提出」が、他派のように内紛や分派を意味しない、「同志だからこそ批判するのだ」という戦旗のあり方をすごく誇りに感じたものでしたが。

 そういう意味で、私は一度だけ「意見書」を出そうかと思って密かに(?)この規約を読み返したことがあります。それは三里塚のいわゆる「3・8分裂」の時でした。最初のうちは「中核派の理不尽さ」に純粋素朴に怒って、インターやプロ青と一緒に真正面からどんどん批判しておったわけです。そのことによって対立はどんどん深まり、やがては農民団体であり、闘争の主体たる「空港反対同盟」そのものの分裂が決定的になります。

 私はその時ものすごいショックと動揺を感じました。三里塚が分裂すれば、現地だけでなく、全国のあらゆる左翼運動の戦線がすべて分裂することを意味していたからです。このショックはちょっと筆舌に尽くしがたい。それは左翼の自殺行為以外の何者でもありませんでしから。

 この時点で初めて私は中核派は最初から三里塚闘争を分裂させてもかまわない、いえ、分裂させるためにこそ理不尽な介入を行ってきたのだと確信しました(←ってとうとう書いちまった^^;)。中核派と路線や体質を異にする部分を(農民と言えども)切り捨てて、世界的に有名な「成田闘争」を、完全に自分のヘゲモニーだけで動かせる運動にしてしまう。そしてこれまで「内ゲバの中核派とは違うもう一方の左翼運動」として勢力的にも拮抗していた私たち「赤ヘル3派連合」を、「反革命」のレッテルを貼って叩き潰す気ではないかと。

 それまで私たち「赤ヘル3派連合」は、開港阻止決戦でもジェット燃料貨車輸送阻止決戦でも、最大部隊の中核派が何もせずにカンパニア闘争に終始する中、文字通り血を流し、多大の犠牲を払って闘ってきました。その強い(強すぎる)自負があったし、「中核派は何もしなかったしできなかった。闘ってきたのは俺たちだ」という慢心と、中核派を見下すような態度があったことは事実です。その「自負」が事態がここにいたるまで、いったい何がおこっているのかを見えなくさせていたのだと思います。

 結論を言えば、私たちは最初から中核派指導部の手のひらの上で踊っていたのだと思います。それはちょうど70年安保と全共闘の波が退き始める兆しが見えたところで、中核派指導部が「三派全学連」を自らぶっ潰していったようなものです。「学生運動全体」「三里塚闘争全体」「左翼運動総体」の発展を考えていないとか、自派の拡大しか眼中にないとかいう批判は簡単です。実際に中核派のやり方では、「左翼が生きていくための生態系」自体を破壊してしまいます。それは「左翼や反戦というものに対する一般的な支持」という「資源」が無尽蔵に発掘される、または運動の退潮というものが「景気循環」で一時的なものだという前提に立たない限り、結局は自分たちもいつかは先細りしていくしかないものです(実際そうなったし、今中核派は「共闘関係重視」だそうです)。

 しかし私がこういう考えにいたったとき、むしろ中核派に対するそれまでの直線的な怒りは消えうせ、彼らが打ってくる政治というものに、底知れぬ畏怖のようなものを感じました。私たちが青臭い青年だとすれば、中核派は老練な策士のようです。だとすれば私たちは、ただ「青臭くまっすぐに」中核の手のひらで踊らされるのではなく、まさしくその中核派の上をいく政治を打たなくてはなりません

 この時の中核派の「要求」は、インターやプロ青と反対同盟の一部が熱心に推進していた「一坪共有化運動」の中止でした。中核の言い分は明らかに「共有」と「譲渡」を意図的に混同させた言いがかりに思えましたし、実際、機関紙上の公式表明では「譲渡」であると批判していましたが、中核派が内部向けの意思統一で使っていた「石井新二のペテンを粉砕せよ」という文書(もちろん外部には非公開)では、「譲渡ではない」ことを認めている箇所があったはずです。

 しかし一方で、この「一坪共有化運動」には、空港用地内の農民からも不満の声がありました。さらにこれは「戦術問題」に過ぎません。もちろんそれは表面的なことであって実際は根本的な運動の路線対立であり、中核派がこれを契機にして長年の対抗関係に極めてセクト的な「決着」をつけようとしているのであるならば、私たちはそれを許さずに中核派の「口実」をすべて奪ってしまうべきだと思いました。

 「三里塚を絶対に分裂させるな。中核の要求を『丸飲み』してしまえ」これが私が「意見書」で書こうと思ったことのすべてでした。

 しかし実際には私は何も書けませんでした。事態の推移がとても早すぎた。私がこういう意見書をかいて意味があったとすれば、おそらくそれは意見書を書こうと思い立ってから2日以内に提出していた場合だったでしょう。しかし実際にはまだここに書いたほどはっきりと自分の意見がまとまっていたわけでもなく、特に「戦術問題に見せかけた路線対立だ」ということについては、漠然と感じていたにすぎませんでした。更にはなんと申しましょうか、やっぱり「意見書」と題するものを中央の「偉いさん」に読んでもらうからには、それなりに「立派なもの」を書かないといけないみたいな先入観がありました。今おもえば「一地方活動家の所感」程度の、感想文に毛が生えたもんでも出せばよかったと思います。

 なんかこう書くと、私が「ものがわかっていた」みたいですが、実際には戦旗の活動家はみんな多かれ少なかれ私と同じことを考えていました。それでもやっぱり「中核派のやり方を見ていると腹が立つ」ということだったと思います。しかしそんな強硬路線で中核派の「赤ヘル潰し」に対抗しながら、同時に三里塚闘争を発展させるような方法はただ一つ。それは中核派に対抗できるだけの勢力と軍事力を持つことです。しかもそれを運動が分裂して衰退し、一方で中核派から「反革命」として「内ゲバ襲撃」を予告される中で短期間に実現しなければなりません。それは極めて困難です。同時にインターやプロ青にそんな「血みどろの世界」に入る覚悟と決意があって対立をエスカレートさせているようには、本当に申し訳ないけど当時の私らには思えなかったんです。

 結局は戦旗が「中核派の主張を丸飲みしてでも分裂を回避するべきだ」という主張をしたのは、三里塚が完全に分裂してしまった後でした。確かに遅すぎた。しかもインターやプロ青からは「裏切り者」あつかいでした。後に掲示板なんかでは「土下座外交」とまで言われた。しかし私達は中核派の言い分を認めるかのごとき申し入れまで行っているのだから、分裂後に中核派にボコボコにテロられて多数の重軽傷者を出したインターの立場から見たら、そう言われるのも仕方ないのかなと思う。だから今更どんなに罵られても腹は立たないし反論をする気もない。

 でも当時の私らはそんな戦旗の方針についていった。それは「中央の方針に従順なロボット」だったからではありません。内心は実は嬉しかった。やっと「戦旗らしい」方針が出たと思って。実際私は「嬉しかった」程度ですが、「全身が震えるような感動をおぼえた」とか「鳥肌がたった」という人を何人も知っています。みんな同じ思いだったのです。

 まあ、「中核に譲歩してでも分裂の克服」というのは私の感じたとおりでもあったのですが、一方で「中核に(防御的にせよ)対抗できる軍事力を持つ」「それを内ゲバではなく対権力闘争に向ける」「もって中核がテロれない関係性を作り上げる」という方針も、「分裂の克服」と共に2本柱として提起されました。やがて分裂が修復しようのないものであることが確定していく中で、こちらの方針のほうがメインとなっていきます。この過程で右翼がダンプで突っ込んできたり、ヤッパで刺されたりという予想外の「抗争事件」が発生しています。私も本当にいろんなことを経験させていただきました。今、どんなにネットで脅迫じみた書き込みやメールをもらっても、実生活でヤクザを相手にしても、すべて鼻で笑ってすましていられるのは、この頃の経験のおかげです。

 ただ、こんな私たちは、政府との「話し合い」にむけて動き出していた「中核派と袂をわかった側の空港反対同盟(=熱田派)」との間のずれがどんどん大きくなります。「反対同盟の再統合」なんて言ってた私らですが、それがほとんど不可能だと明らかになるにつれ、いつしか「党の武装化」のほうがメインの意識となっていました。そうして今度は私たちが反対同盟(熱田派)との対立をエスカレートさせる立場に立ってしまい、ほとんど「敵同士」みたいに不信感を抱きあって最後には運動から放逐されてしまいます。

 その後のことはもう書きませんが、私らの予想通り、世界にその名を轟かせた三里塚闘争は凋落の一途をたどります。私の活動歴を三里塚とは関わってない運動圏の人に話すと「ああ、もう三里塚も終わりの頃だね」なんて言われます。中核派の人はむきになって反論するかもしれないけど、運動に関心のある人の間でも、「終わった闘争」と思われています。そのことについて中核派もインターも、そして戦旗も、私自身を含めた運動に関わった人間すべてが痛切に責任を負わなくてはなりません。

 もちろん、熱田派の「話し合い路線(=円卓会議)」が、政府-運輸省を言葉で追い詰め、ついに機動隊の暴力で強権的に空港を建設した非を認めさせて謝罪させたことは成果の一つでしょう。ネットウヨが三里塚闘争の当初に遡って反対運動を否定しても、当の運輸省自身が自分の過ちと反対運動の正当性を認めたているのですから、それはそれで痛快なことには違いありません。さらにその論理的帰結として、今後は機動隊を前面に立てた強制執行はしないと約束させたことは、話し合い路線には与せず、今なお絶対反対を貫いている農民にも一定の援護射撃となった側面も認めるべきでしょう。

 一方で、闘争全体がすっかり凋落し、かつての力量を失ってしまった今、熱田派との約束など反故にして強制執行をすれば、一日で反対派など陥落しそうにも思えます。しかし政府のその誘惑をかろうじて押しとどめているのは中核派の存在であるように思えます。もはや「絶対反対派」と言えば「中核派とその仲間たち」状態ですが、もし中核派が決死の抵抗を試みれば、今なおそれなりにうるさいことになる。そう簡単にはいかない。つまり中核派の存在は、熱田派に対する「強制執行はしない」という約束を守らせる「抑止力」ともなっています。そのことは正当に評価すべきです。

 そんなこんなで今なお現地では微妙なバランスの上に緊張状態が続いているのでしょう。決して「終わった」わけではありません。

 私は三里塚には集会に参加したり、援農に入ったり、ちょっとばかり機動隊にボコボコにされたり逮捕されたりしただけで、さほどの犠牲を払ったわけではありません。いつ強制執行されるかわからない中で生活してきた現地の農民や、管制塔占拠闘争の中で命を落としたインターの故新山さん、無抵抗で怪我人を手当てしていただけなのに機動隊に射殺された故東山さんらにくらべれば、まさしくとるに足らないことです。

 そんなちっぽけな私ですから、もういまさら当時のことで誰かを非難したくありません。教訓は求めないといけないかもしれませんが、「間違っていなかった」者など誰もいないと思うのです。本当の意味で「脱落」した人も含めて、みんなぎりぎりの決断だったんだろうなあというのは甘すぎるでしょうか?

 その高揚の過程で人間の無私と自己犠牲と美しさを見せてくれた三里塚闘争。その衰退の過程で人間の相互不信といがみ合いと醜さを教えてくれた三里塚闘争。今はただ他人に対して「あーしただろ、こーしただろ」と責めたり「俺は辛かったんだ」なんて言いたくない。他人のしたことはただ与えられた条件であり、その中で自分のしたことだけを見つめ返していたいと思うこの頃です。

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コメント

  1.  三里塚に初めて煎ったのが84年の用水決戦なので分裂に至る過程については知らない事ばかりです。今は唯、そんなことも有ったんだと、唯うなずくばかりです。

  2. こんにちは 私は典型的な「主義者系趣味者」かもしれません(笑)
    今回のエントリーの後半を読んで、はじめて3・8分裂前後の「戦旗」の立ち位置がみえたような気がします。なにせ「亡命者」元メンバーの回想のみで、このへんの基本認識をしておりましたから(苦笑)

    三里塚の闘争圏外にいた者が意見するなど、おこがましいとは重々承知のつもりですが、

    >中核の手のひらで踊らされるのではなく、まさしくその中核派の上をいく政治を打たなくてはなりません

    というある意味、玄人的組織戦術の発想が、当時の私にはひっかかるところでした。革共同世界でのトロツキズムの「批判的摂取」が黒田寛一によってなされたことは周知のことですが、その核心はソ連の体制論と独自の組織闘争論である、というのが私の理解でした。特に後者についてはボリシェヴィキ党内における左翼反対派の敗北という反省をふまえてのものだったと思います。その歴史的教訓の総括が、荒っぽい言い方をすればマキャベリズム的な組織戦術の導入だったと。スターリン派に負けぬようにするためにはスターリン派の戦術に学ばなければ、というわけです。
    これは革共同の第三次分裂を経ても、中核・革マル両派に引き継がれた遺伝子だったのではないでしょうか。もっとも苛烈な内ゲバが両派間のものであったこと、革マル派がしばしば「謀略論」の陥穽に陥ることも、このことと関わりがあるように思えてなりません。

    それは「戦争」をする際には有効な論理でしょう。そのために最適な組織形態は、当然ながら「軍隊」です。「老練な策士に対する畏怖」の感覚は私もわかります。ただそれは語弊のある例え方をすると、ヒトラーがスターリンの手腕を畏怖するようなものに近い(ああっ、ついに草加さんをヒトラー呼ばわりっ・・・m(_ _)m

    私はやっぱり「武力革命」というものを中心命題にしていなかったので、その大前提が違っていたのかもしれません。ノンセクトあるいはアナキストのような「自由人」であっても、基本が戦争的状勢認識であったなら、やはり他者に対しては高圧的な姿勢になろうと思います。
    で、組織論をめぐる私の批判意識の焦点は「民主主義的中央集権制」なのですが、この組織原理は各級指導部の選挙制と「自由な討論」をのぞけば軍隊の構成原理に近い。意思力と行動力の集中、スピーディーな行動の展開という面では非常に効率的なわけです。これはおっしゃるとおり、指導部に対する組織成員の信頼性が強い場合には絶大な威力を発揮します。

    じっさいの話、運動が前進している局面では誰も規約など意識しません。しかし逆に言えば、指導部の的確な状勢認識なり行動方針に翳りが見え、組織内に不信が胚胎するような状況になると、一転して異論派排除の装置として作用する危険があります。いみじくも「党中央性善説」という表現をされてますが、よほど党指導部の側にフトコロ深い姿勢がなければそうなります。文言上の規定も重要ですが、組織の「作風」との両輪で党内民主主義は大きく左右されてくるのではないでしょうか。分派容認や行動の留保の規定について、私はむしろ党勢の後退局面に際してこそ党の統一を守る方向に作用するのでは、と思っています。

    ・・・すみません。どんどん三里塚の現場から離れて理論面に走りました。すこし話を戻しますと、分裂を回避するための中核派への妥協といえども限界は最初から見えていたでしょう。「青臭くまっすぐに」中核派に対峙していたインターやプロ青との架橋は、もはや不可能でしたでしょうから(重ねて申し訳ありません。三里塚の詳細な状況に不案内な者の意見です。間違っていたらご指摘を)。私は「青臭くまっすぐに」貫く以外に、最終的な勝利の道はないのではないかと思います。インターが中核派にテロられて、それに対してインターが軍事的な反撃に出なかったことを私は高く評価しています。戦術的なゲヴァルトではなく、道義的な高位に立って対する青臭さのほうが、無尽蔵な大衆の同意という「外部」へつながっていると思うからです。

    また「分派」について補足的に積極面を捉えていくと、まさに草加さんの悩んだ「意見書」提出のような場面において有効だろうと思うのです。党中央も迷うような難しい判断で、その対案が同盟員のなかに広範に潜在していたということは、日常的に横の連携のなかで明確な「言葉」のかたちで接する機会をもっていたならば、もっと速やかに方向転換ができたのではないでしょうか。自分自身の漠然とした違和感が他者の言葉のうちにはっきりした輪郭を発見して、次のステップに進めるということは経験的にあることでしょう。もっとも先の事例については、一日二日を争う急迫な事態には間に合わなかったろうし、その結論の方向に必ずしも同意しないのですが。

    ・・・ここまで書いたらアッテンボローさんのコメントが。三里塚闘争にじっさいに関わられた方をさしおいて、こんなにお喋りするとは(大汗)
    現場の空気を知り得なかった者の無責任な思弁です。ご容赦を。

    ただ、新左翼の仲間うちの世界だけで終わらせる話ではないと思います。
    終わってはいません。

  1. 2005年 7月 07日
  2. 2005年 7月 11日
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