蟹工船/小林多喜二

 十

蟹工船 空気が硝子(ガラス)のように冷たくて、塵(ちり)一本なく澄んでいた。――二時で、もう夜が明けていた。カムサツカの連峰が金紫色に輝いて、海から二、三寸位の高さで、地平線を南に長く走っていた。小波(さざなみ)が立って、その一つ一つの面が、朝日を一つ一つうけて、夜明けらしく、寒々と光っていた。――それが入り乱れて砕け、入り交れて砕ける。その度にキラキラ、と光った。鴎の啼声が(何処(どこ)にいるのか分らずに)声だけしていた。――さわやかに、寒かった。荷物にかけてある、油のにじんだズックのカヴァが時々ハタハタとなった。分らないうちに、風が出てきていた。
 袢天(はんてん)の袖に、カガシのように手を通しながら、漁夫が段々を上ってきて、ハッチから首を出した。首を出したまま、はじかれたように叫んだ。
 「あ、兎が飛んでる。――これア大暴風(しけ)になるな」
 三角波が立ってきていた。カムサツカの海に慣れている漁夫には、それが直(す)ぐ分る。
 「危ねえ、今日休みだべ」

 一時間程してからだった。
 川崎船を降ろすウインチの下で、其処(そこ)、此処(ここ)七、八人ずつ漁夫が固まっていた。川崎船はどれも半降ろしになったまま、途中で揺れていた。肩をゆすりながら海を見て、お互云い合っている。
 一寸した。
 「やめたやめた!」
 「糞でも喰らえ、だ!」
 誰かキッカケにそういうのを、皆は待っていたようだった。
 肩を押し合って、「おい、引き上げるべ!」と云った。
 「ん」
 「ん、ん!」
 一人がしかめた眼差(まなざし)で、ウインチを見上げて、「然(しか)しな……」と躊躇(ため)らっている。
 行きかけたのが、自分の片肩をグイとしゃくって、「死にたかったら、独(ひと)りで行(え)げよ!」と、ハキ出した。
 皆は固って歩き出した。誰か「本当にいいかな」と、小声で云っていた。二人程、あやふやに、遅れた。
 次のウインチの下にも、漁夫達は立ちどまったままでいた。彼等は第二号川崎の連中が、こっちに歩いてくるのを見ると、その意味が分った。四、五人が声をあげて、手を振った。 
 「やめだ、やめだ!」
 「ん、やめだ!」
 その二つが合わさると、元気が出てきた。どうしようか分らないでいる遅れた二、三人は、まぶしそうに、こっちを見て、立ち止っていた。皆が第五川崎のところで、又一緒になった。それ等を見ると、遅れたものはブツブツ云いながら後から、歩き出した。
 吃りの漁夫が振りかえって、大声で呼んだ。「しっかりせッ!」
 雪だるまのように、漁夫達のかたまりがコブをつけて、大きくなって行った。皆の前や後を、学生や吃りが行ったり、来たり、しきりなしに走っていた。「いいか、はぐれないことだど! 何よりそれだ。もう、大丈夫だ。もう――!」
 煙筒の側に、車座に坐って、ロープの繕いをやっていた水夫が、のび上って、
 「どうした。オ――イ?」と怒鳴った。
 皆はその方へ手を振りあげて、ワアーッと叫んだ。上から見下している水夫達には、それが林のように揺れて見えた。
 「よオし、さ、仕事なんてやめるんだ!」
 ロープをさっさと片付け始めた。「待ってたんだ!」
 そのことが漁夫達の方にも分った。二度、ワアーッと叫んだ。
 「まず糞壺さ引きあげるべ。そうするべ。――非道(ひで)え奴だ。ちゃんと大暴風(しけ)になること分っていて、それで船を出させるんだからな。――人殺しだべ!」
 「あったら奴に殺されて、たまるけア!」
 「今度こそ、覚えてれ!」
 殆(ほと)んど一人も残さないで、糞壺へ引きあげてきた。中には「仕方なしに」随(つ)いて来たものもいるにはいた。
 ――皆のドカドカッと入り込んできたのに、薄暗いところに寝ていた病人が、吃驚(びっくり)して板のような上半身を起した。ワケを話してやると、見る見る眼に涙をにじませて何度も、何度も頭を振ってうなずいた。

 吃りの漁夫と学生が、機関室の縄梯子(なわばしご)のようなタラップを下りて行った。急いでいたし、慣れていないので、何度も足をすべらして、危く、手で吊下(つりさが)った。中はボイラーの熱でムンとして、それに暗かった。彼等はすぐ身体中汗まみれになった。汽罐(かま)の上のストーヴのロストルのような上を渡って、またタラップを下った。下で何か声高(こわだか)にしゃべっているのが、ガン、ガ――ンと反響していた。――地下何百尺という地獄のような竪坑(たてこう)を初めて下りて行くような無気味さを感じた。
 「これもつれえ仕事だな」
 「んよ、それに又、か、甲板さ引っぱり出されて、か、蟹たたきでも、さ、されたら、たまったもんでねえさ」
 「大丈夫、火夫も俺達の方だ!」
 「ん、大丈――夫!」
 ボイラーの腹を、タラップでおりていた。
 「熱い、熱い、たまんねえな。人間の燻製(くんせい)が出来そうだ」
 「冗談じゃねえど。今火たいていねえ時で、こんだんだど。燃(た)いてる時なんて!」
 「んか、な。んだべな」
 「印度(インド)の海渡る時ア、三十分交代で、それでヘナヘナになるてんだとよ。ウッカリ文句をぬかした一機が、シャベルで滅多やたらにたたきのめされて、あげくの果て、ボイラーに燃かれてしまうことがあるんだとよ。――そうでもしたくなるべよ!」
 「んな……」

 汽罐(かま)の前では、石炭カスが引き出されて、それに水でもかけたらしく、濛々(もうもう)と灰が立ちのぼっていた。その側で、半分裸の火夫達が、煙草をくわえながら、膝を抱えて話していた。薄暗い中で、それはゴリラがうずくまっているのと、そっくりに見えた。石炭庫の口が半開きになって、ひんやりした真暗な内を、無気味に覗かせていた。
 「おい」吃りが声をかけた。
 「誰だ?」上を見上げた。――それが「誰だ――誰だ、――誰だ」と三つ位に響きかえって行く。
 そこへ二人が降りて行った。二人だということが分ると、
 「間違ったんでねえか、道を」と、一人が大声をたてた。
 「ストライキやったんだ」
 「ストキがどうしたって?」
 「ストキでねえ、ストライキだ」
 「やったか!」
 「そうか。このまま、どんどん火でもブッ燃(た)いて、函館さ帰ったらどうだ。面白いど」
 吃りは「しめた!」と思った。
 「んで、皆勢揃(せいぞろ)えしたところで、畜生等にねじ込もうッて云うんだ」
 「やれ、やれ!」
 「やれやれじゃねえ。やろう、やろうだ」
 学生が口を入れた。
 「んか、んか、これア悪かった。――やろうやろう!」火夫が石炭の灰で白くなっている頭をかいた。
 皆笑った。
 「お前達の方、お前達ですっかり一纏(まと)めにして貰いたいんだ」
 「ん、分った。大丈夫だ。何時でも一つ位え、ブンなぐってやりてえと思ってる連中ばかりだから」
 ――火夫の方はそれでよかった。
 雑夫達は全部漁夫のところに連れ込まれた。一時間程するうちに、火夫と水夫も加わってきた。皆甲板に集った。「要求事項」は、吃り、学生、芝浦、威張んなが集ってきめた。それを皆の面前で、彼等につきつけることにした。

 監督達は、漁夫等が騒ぎ出したのを知ると――それからちっとも姿を見せなかった。
 「おかしいな」
 「これア、おかしい」
 「ピストル持ってたって、こうなったら駄目だべよ」
 吃りの漁夫が、一寸(ちょっと)高い処に上った。皆は手を拍(たた)いた。
 「諸君、とうとう来た! 長い間、長い間俺達は待っていた。俺達は半殺しにされながらも、待っていた。今に見ろ、と。しかし、とうとう来た。
 「諸君、まず第一に、俺達は力を合わせることだ。俺達は何があろうと、仲間を裏切らないことだ。これだけさえ、しっかりつかんでいれば、彼奴等如きをモミつぶすは、虫ケラより容易(たやす)いことだ。――そんならば、第二には何か。諸君、第二にも力を合わせることだ。落伍者を一人も出さないということだ。一人の裏切者、一人の寝がえり者を出さないということだ。たった一人の寝がえりものは、三百人の命を殺すということを知らなければならない。一人の寝がえり……(「分った、分った」「大丈夫だ」「心配しないで、やってくれ」)……
 「俺達の交渉が彼奴等をタタキのめせるか、その職分を完全につくせるかどうかは、一に諸君の団結の力に依るのだ」
 続いて、火夫の代表が立ち、水夫の代表が立った。火夫の代表は、普段一度も云ったこともない言葉をしゃべり出して、自分でどまついてしまった。つまる度(たび)に赤くなり、ナッパ服の裾を引張ってみたり、すり切れた穴のところに手を入れてみたり、ソワソワした。皆はそれに気付くとデッキを足踏みして笑った。
 「……俺アもうやめる。然し、諸君、彼奴等はブンなぐってしまうべよ!」と云って、壇を下りた。
 ワザと、皆が大げさに拍手した。
 「其処(そこ)だけでよかったんだ」後で誰かひやかした。それで皆は一度にワッと笑い出してしまった。
 火夫は、夏の真最中に、ボイラーの柄の長いシャベルを使うときよりも、汗をびっしょりかいて、足元さえ頼りなくなっていた。降りて来たとき、「俺何しゃべったかな?」と仲間にきいた。
 学生が肩をたたいて、「いい、いい」と云って笑った。
 「お前えだ、悪いのア。別にいたのによ、俺でなくたって……」
 「皆さん、私達は今日の来るのを待っていたんです」――壇には一五、六歳の雑夫が立っていた。
 「皆さんも知っている、私達の友達がこの工船の中で、どんなに苦しめられ、半殺しにされたか。夜になって薄ッぺらい布団に包まってから、家のことを思い出して、よく私達は泣きました。此処に集っているどの雑夫にも聞いてみて下さい。一晩だって泣かない人はいないのです。そして又一人だって、身体に生キズのないものはいないのです。もう、こんな事が三日も続けば、キット死んでしまう人もいます。――ちょっとでも金のある家(うち)ならば、まだ学校に行けて、無邪気に遊んでいれる年頃の私達は、こんなに遠く……(声がかすれる。吃り出す。抑(おさ)えられたように静かになった)然し、もういいんです。大丈夫です。大人の人に助けて貰って、私達は憎い憎い、彼奴等に仕返ししてやることが出来るのです……」
 それは嵐のような拍手を惹(ひ)き起した。手を夢中にたたきながら、眼尻を太い指先きで、ソッと拭(ぬぐ)っている中年過ぎた漁夫がいた。
 学生や、吃りは、皆の名前をかいた誓約書を廻して、捺印(なついん)を貰って歩いた。
 学生二人、吃り、威張んな、芝浦、火夫三名、水夫三名が、「要求条項」と「誓約書」を持って、船長室に出掛けること、その時には表で示威運動をすることが決った。――陸の場合のように、住所がチリチリバラバラになっていないこと、それに下地が充分にあったことが、スラスラと運ばせた。ウソのように、スラスラ纏った。

 「おかしいな、何んだって、あの鬼顔出さないんだべ」
 「やっきになって、得意のピストルでも打つかと思ってたどもな」
 三百人は吃りの音頭で、一斉に「ストライキ万歳」を三度叫んだ。学生が「監督の野郎、この声聞いて震えてるだろう!」と笑った。――船長室へ押しかけた。
 監督は片手にピストルを持ったまま、代表を迎えた。
 船長、雑夫長、工場代表……などが、今までたしかに何か相談をしていたらしいことがハッキリ分るそのままの恰好で、迎えた。監督は落付いていた。
 入ってゆくと、
 「やったな」とニヤニヤ笑った。
 外では、三百人が重なり合って、大声をあげ、ドタ、ドタ足踏みをしていた。監督は「うるさい奴だ!」とひくい声で云った。が、それ等には気もかけない様子だった代表が興奮して云うのを一通りきいてから、「要求条項」と、三百人の「誓約書」を形式的にチラチラ見ると、「後悔しないか」と、拍子抜けするほど、ゆっくり云った。
 「馬鹿野郎ッ!」吃りがいきなり監督の鼻ッ面を殴(なぐ)りつけるように怒鳴った。
 「そうか、いい。――後悔しないんだな」
蟹工船 そう云って、それから一寸(ちょっと)調子をかえた。「じゃ、聞け。いいか。明日の朝にならないうちに、色よい返事をしてやるから」――だが、云うより早かった、芝浦が監督のピストルをタタキ落すと、拳骨で頬(ほお)をなぐりつけた。監督がハッと思って、顔を押えた瞬間、吃りがキノコのような円椅子で横なぐりに足をさらった。監督の身体はテーブルに引っかかって、他愛なく横倒れになった。その上に四本の足を空にして、テーブルがひっくりかえって行った。
 「色よい返事だ? この野郎、フザけるな! 生命にかけての問題だんだ!」
 芝浦は巾の広い肩をけわしく動かした。水夫、火夫、学生が二人をとめた。船長室の窓が凄い音を立てて壊れた。その瞬間、「殺しちまい!」「打ッ殺せ!」「のせ! のしちまえ!」外からの叫び声が急に大きくなって、ハッキリ聞えてきた。――何時の間にか、船長や雑夫長や工場代表が室の片隅の方へ、固まり合って棒杭のようにつッ立っていた。顔の色がなかった。
 ドアーを壊して、漁夫や、水、火夫が雪崩(なだ)れ込んできた。

 昼過ぎから、海は大嵐になった。そして夕方近くになって、だんだん静かになった。
 「監督をたたきのめす!」そんなことがどうして出来るもんか、そう思っていた。ところが! 自分達の「手」でそれをやってのけたのだ。普段おどかし看板にしていたピストルさえ打てなかったではないか。皆はウキウキと噪(はしゃ)いでいた。――代表達は頭を集めて、これからの色々な対策を相談した。「色よい返事」が来なかったら、「覚えてろ!」と思った。
 薄暗くなった頃だった。ハッチの入口で、見張りをしていた漁夫が、駆逐艦がやってきたのを見た。――周章(あわ)てて「糞壺」に馳(か)け込んだ。
 「しまったッ!!」学生の一人がバネのようにはね上った。見る見る顔の色が変った。
 「感違いするなよ」吃りが笑い出した。「この、俺達の状態や立場、それに要求などを、士官達に詳しく説明して援助をうけたら、かえってこのストライキは有利に解決がつく。分りきったことだ」
 外のものも、「それアそうだ」と同意した。
 「我帝国の軍艦だ。俺達国民の味方だろう」
 「いや、いや……」学生は手を振った。余程のショックを受けたらしく、唇を震わせている。言葉が吃(ども)った。
蟹工船 「国民の味方だって? ……いやいや……」
 「馬鹿な! ――国民の味方でない帝国の軍艦、そんな理窟なんてある筈(はず)があるか?!」
 「駆逐艦が来た!」「駆逐艦が来た!」という興奮が学生の言葉を無理矢理にもみ潰(つぶ)してしまった。

 皆はドヤドヤと「糞壺」から甲板にかけ上った。そして声を揃えていきなり、「帝国軍艦万歳」を叫んだ。
 タラップの昇降口には、顔と手にホータイをした監督や船長と向い合って、吃り、芝浦、威張んな、学生、水、火夫等が立った。薄暗いので、ハッキリ分らなかったが、駆逐艦からは三艘汽艇が出た。それが横付けになった。一五、六人の水兵が一杯つまっていた。それが一度にタラップを上ってきた。
 呀(あ)ッ! 着剣(つけけん)をしているではないか! そして帽子の顎紐(あごひも)をかけている!
 「しまった!」そう心の中で叫んだのは、吃りだった。
蟹工船 次の汽艇からも十五、六人。その次の汽艇からも、やっぱり銃の先きに、着剣した、顎紐をかけた水兵! それ等は海賊船にでも躍(おど)り込むように、ドカドカッと上ってくると、漁夫や水、火夫を取り囲んでしまった。
 「しまった! 畜生やりゃがったな!」
 芝浦も、水、火夫の代表も初めて叫んだ。
 「ざま、見やがれ!」――監督だった。ストライキになってからの、監督の不思議な態度が初めて分った。だが、遅かった。
 「有無」を云わせない。「不届者」「不忠者」「露助の真似する売国奴」そう罵倒されて、代表の九人が銃剣を擬されたまま、駆逐艦に護送されてしまった。それは皆がワケが分らず、ぼんやり見とれている、その短い間だった。全く、有無を云わせなかった。――一枚の新聞紙が燃えてしまうのを見ているより、他愛なかった。
 ――簡単に「片付いてしまった」

 「俺達には、俺達しか、味方が無(ね)えんだな。始めて分った」
 「帝国軍艦だなんて、大きな事を云ったって大金持の手先でねえか、国民の味方? おかしいや、糞喰らえだ!」
 水兵達は万一を考えて、三日船にいた。その間中、上官連は、毎晩サロンで、監督達と一緒に酔払っていた。――「そんなものさ」
 いくら漁夫達でも、今度という今度こそ、「誰が敵」であるか、そしてそれ等が(全く意外にも!)どういう風に、お互が繋がり合っているか、ということが身をもって知らされた。
 毎年の例で、漁期が終りそうになると、蟹罐詰の「献上品」を作ることになっていた。然し「乱暴にも」何時でも、別に斎戒沐浴(もくよく)して作るわけでもなかった。その度に、漁夫達は監督をひどい事をするものだ、と思って来た。――だが、今度は異(ちが)ってしまっていた。
 「俺達の本当の血と肉を搾(しぼ)り上げて作るものだ。フン、さぞうめえこったろ。食ってしまってから、腹痛でも起さねばいいさ」
 皆そんな気持で作った。
 「石ころでも入れておけ! かまうもんか!」

 「俺達には、俺達しか味方が無えんだ」
 それは今では、皆の心の底の方へ、底の方へ、と深く入り込んで行った。――「今に見ろ!」
 然し「今に見ろ」を百遍繰りかえして、それが何になるか。――ストライキが惨(みじ)めに敗れてから、仕事は「畜生、思い知ったか」とばかりに、過酷になった。それは今までの過酷にもう一つ更に加えられた監督の復仇的(ふっきゅうてき)な過酷さだった。限度というものの一番極端を越えていた。――今ではもう仕事は堪え難いところまで行っていた。
 「――間違っていた。ああやって、九人なら九人という人間を、表に出すんでなかった。まるで、俺達の急所はここだ、と知らせてやっているようなものではないか。俺達全部は、全部が一緒になったという風にやらなければならなかったのだ。そしたら監督だって、駆逐艦に無電は打てなかったろう。まさか、俺達全部を引き渡してしまうなんて事、出来ないからな。仕事が、出来なくなるもの」
 「そうだな」
 「そうだよ。今度こそ、このまま仕事していたんじゃ、俺達本当に殺されるよ。犠牲者を出さないように全部で、一緒にサボルことだ。この前と同じ手で。吃りが云ったでないか、何より力を合わせることだって。それに力を合わせたらどんなことが出来たか、ということも分っている筈だ」
 「それでも若し駆逐艦を呼んだら、皆で――この時こそ力を合わせて、一人も残らず引渡されよう! その方がかえって助かるんだ」
 「んかも知らない。然し考えてみれば、そんなことになったら、監督が第一周章(あわ)てるよ、会社の手前。代りを函館から取り寄せるのには遅すぎるし、出来高だって問題にならない程少ないし。……うまくやったら、これア案外大丈夫だど」
 「大丈夫だよ。それに不思議に誰だって、ビクビクしていないしな。皆、畜生! ッて気でいる」
 「本当のことを云えば、そんな先きの成算なんて、どうでもいいんだ。――死ぬか、生きるか、だからな」
 「ん、もう一回だ!」

 そして、彼等は、立ち上った。――もう一度!

 附記

 この後のことについて、二、三附け加えて置こう。

イ、二度目の、完全な「サボ」は、マンマと成功したということ。「まさか」と思っていた、面喰(くら)った監督は、夢中になって無電室にかけ込んだが、ドアーの前で立ち往生してしまったこと、どうしていいか分らなくなって。
ロ、漁期が終って、函館へ帰港したとき、「サボ」をやったりストライキをやった船は、博光丸だけではなかったこと。二、三の船から「赤化宣伝」のパンフレットが出たこと。
ハ、それから監督や雑夫長等が、漁期中にストライキの如き不祥事を惹起(ひきおこ)させ、製品高に多大の影響を与えたという理由のもとに、会社があの忠実な犬を「無慈悲」に涙銭一文くれず、(漁夫達よりも惨めに!)首を切ってしまったということ。面白いことは、「あ――あ、口惜(くや)しかった! 俺ア今まで、畜生、だまされていた!」と、あの監督が叫んだということ。
ニ、そして、「組織」「闘争」――この初めて知った偉大な経験を担(にな)って、漁夫、年若い雑夫等が、警察の門から色々な労働の層へ、それぞれ入り込んで行ったということ。

――この一篇は、「殖民地に於ける資本主義侵入史」の一頁である。

(一九二九・三・三〇)

多喜二よ、もう一度立て!みんなのために!

<そして80年後……>
「1929年に『蟹工船』が発売されたときも刷ったのは半年で3万5千部程度でした。しかし、今回の『蟹工船』ブームは半年で10万部以上。これは小林多喜二虐殺に匹敵する文学的事件です。多喜二が天皇制を批判したときも、今回のように新聞各紙が注目することもありませんでした。これはもはやリバイバルではありません。『蟹工船』は今生まれた、新しい小説として読まれているのです」
白樺文学館多喜二ライブラリー:佐藤三郎さん)


青空文庫作成ファイル:
底本:「蟹工船・党生活者」新潮文庫、新潮社
   1953(昭和28)年6月28日発行
   1968(昭和43)年5月30日32刷改版
   1998(平成10)年1月10日89版
初出:「戦旗」
   1929(昭和4)年5月、6月号
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。
入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
入力:細見祐司 校正:富田倫生
※「樺太(からふと)」と「樺太(かばふと)」の混在は、底本通りにしました。
※複数行にかかる波括弧には、罫線素片をあてました。
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ここまで読んでいただいてありがとうございます!