佐藤紅緑『ああ玉杯に花うけて』前編

 阪井が柳を打擲(ちょうちゃく)して負傷させたということはすぐ全校にひびきわたった。上級の同情は一に柳に集まった。
「阪井をなぐれなぐれ」
 声はすみからすみへと流れた。
「この機会に阪井を退校さすべし」
 この説は一番多かった。ある者は校長に談判しようといい、ある者は阪井の家へ襲撃しようといい、ある者は阪井をとらえて鉄棒(かなぼう)にさかさまにつるそうといった。憤激!興奮!平素阪井の傲慢や乱暴をにがにがしく思っていたかれらはこの際徹底的に懲罰しようと思った。二時の放課になっても生徒はひとりも去らなかった。ものものしい気分が全校にみなぎった。

 なにごとか始まるだろうという期待の下に人々は校庭に集まった。
「諸君!」
 大きな声でもってどなったのはかつて阪井と喧嘩をした木俣ライオンであった。
「わが校のために不良少年を駆逐しなければならん、かれは温厚なる柳を傷つけた、そうして」
「わかってる、わかってる」と叫ぶものがある。
「おまえも不良じゃないか」と叫ぶものがある。
 木俣はなにかいいつづけようとしたが頭を掻いて引込んだ。人々はどっとわらった。これを口切りとして二、三人の三年や四年の生徒があらわれた。
「校長に談判しよう」
「やれやれ」
「徹底的にやれ」
 少年の血潮は時々刻々に熱した。

「待てッ、諸君、待ちたまえ」
 五年生の小原(こはら)という青年は木馬の上に立って叫んだ。小原は平素沈黙寡言、学力はさほどでないが、野球部の捕手として全校に信頼されている。肩幅が広く顔は四角でどろのごとく黒いが、大きな目はセンターからでもマスクをとおしてみえるので有名である、だれかがかれを評して馬のような目だといったとき、かれはそうじゃない、おれの目は古今東西の書を読みつくしたからこんなに大きくなったのだといった。
 身体が大きくて腕力もあるが人と争うたことはないので何人もかれと親しんだ、木馬の上に立ったかれを見たとき、人々は鳴りをしずめた。小原の黒い顔は朱のごとく赤かった、かれは両手を高くあげてふたたび叫んだ。
「諸君は校長を信ずるか」
「信ずる」と一同が叫んだ。
「生徒の賞罰は校長の権利である、われわれは校長に一任して可なりだ、静粛に静粛にわれわれは決してさわいではいかん」
「賛成賛成」の声が四方から起こった。狂瀾のごとき公憤の波はおさまって一同はぞろぞろ家へ帰った。

 そのとき職員室では秘密な取り調べが行なわれた。職員達はどれもどれもにがい顔をしていた。当時その場にいあわせた重(おも)なる生徒が五、六人ひとりずつ職員室へよばれることになった。一番最初に呼ばれたのは手塚であった、手塚はいつも阪井の保護を受けている、いつか三年と犬の喧嘩のときに阪井のおかげで勝利を占めた、かれはなんとかして阪井を助けてやりたい、そうして一層阪井に親しくしてもらおうと思った。
「柳の方から喧嘩をしかけたといえばそれでいい」
 かれはこう心に決めた、が職員室へはいるとかれは第一に厳粛な室内の空気におどろいた。中央に校長のまばらに白い頭と謹直な顔が見えた、その左に背の高いつるのごとくやせた漢文の先生、それととなりあって例の英語の朝井先生、磊落な数学の先生、右側には身体のわりに大きな声をだす歴史の先生、人のよい図画の先生、一番おわりには扉口に近く体操の先生の少尉がひかえている。

「あとをしめて」と少尉がどなった。手塚はあわてて扉をしめた。
「阪井はどうして柳をうったのか」と少尉がいった。
「ぼくにはわかりません」
「わからんということがあるかッ」
 少尉はかみつくようにどなった。
「知ってるだけをいいたまえ」と朝井先生がおだやかにいった。
「幾何の答案をだして体操場へゆきますと柳がいました。そこへ阪井がきました、それから……」
 手塚はさっと顔を赤めてだまった。
「それからどうした」と少尉がうながした。
「喧嘩をしました」
「ごまかしちゃいかん」と少尉はどなった。「どういう動機で喧嘩をしたか、男らしくいってしまわんときみのためにならんぞ」
「カンニングのその……」
「どうした」
「柳が阪井に教えてやらないので」
「それで阪井がうったのか」
「はい」
「一番先に答案ができたのは柳だ、それに柳が阪井を救わずに教室を出たのは卑怯だ、利己主義だといったのはだれか」
「ぼくじゃありません」と手塚はしどろになっていった。
「きみでなければだれか」
「知りません」
「知らんというか」
「多分桑田でしょう」
「桑田か」
「はい」
「きみもカンニングをやるか」
「やりません」
「きみは一番うまいという話だぞ」
「それは間違いです」
「よしッ帰ってもよい」

 手塚はねずみの逃ぐるがごとく室をでてほっと息をついた。雑嚢(ざつのう)を肩にかけて歩きながら考えてみると阪井を弁護しようと思ったはじめの志と全然反対にかえって阪井の不利益をのべたてたことになっている。
「これが阪井に知れたら、どんなめにあうかも知れない」
 怜悧なる手塚はすぐ一策を案じて阪井をたずねた、阪井は竹刀をさげて友達のもとへいくところであった。
「やあきみ、大変だぞ」と手塚は忠義顔にいった。
「なにが大変だ」と阪井はおちついていった。
「先生も校長も非常におこってきみを退校させるといってる」
「退校させるならさせるがいいさ、片っ端からたたききってやるから」
「短気を起こすなよ、ぼくがうまくごまかしてきたから多分だいじょうぶだ」
「なんといった」
「柳の方から喧嘩を売ったのです。柳は生蕃に向かっておまえはふだんにいばってもなんにもできやしないじゃないかといっても生蕃はだまっていると……」
「おい生蕃とはだれのことだ」
「やあ失敬」
「それから?」
「柳が生……生……じゃない阪井につばをはきかけたから阪井がおこってたちあがると柳は阪井の顔を打ったので阪井は弁当をほうりつけたのです」
「うまいことをいうな、きみはなかなか口がうまいよ」
「そういわなければ弁護のしようがないじゃないか」
「だがおれはいやだ、おれはきみと絶交だ」と阪井は急にあらたまっていった。
「なぜだ」
「ばかやろう! おれは人につばを吐きかけられたらそやつを殺してしまわなきゃ承知しないんだ、つばを吐きかけられたとあっては阪井は世間へ顔出しができない、うそもいい加減に言えよばかッ」
 阪井はずんずん急ぎ足で去った、手塚はうらめしそうにその方を見やった。
「どっちがばかか、おれがしょうじきに白状したのも知らないで……いまに見ろ退校させれるから」
 かれはこうひとりでいって角を曲がった。
「だが先生達の顔色で見ると、柳の方へつく方が利益だ、そうだ、柳の見舞いにいってやろう」

 学校では職員会議がたけなわであった。阪井の乱暴については何人も平素憤慨していることである。人々は口をそろえて阪井を退校に処すべき旨を主張した。
「試験の答案に、援軍きたらず零敗すと書くなんて、こんな乱暴な話はありません」と幾何学の先生がいった。
「しかし」と漢学の先生がいった、「阪井は乱暴だがきわめて純な点があります、うそをつかない、手塚のように小細工をしない、おだてられて喧嘩をするが、ものの理屈がわからないほうでもない、無論今度のことは等閑に付すべからざることですが、退校は少しく酷にすぎはしますまいか」
「いや、あいつは破廉恥罪をおかして平気でいます、人の畑のいもを掘る、駄菓子屋の菓子をかっぱらう、ついこのごろ豆腐屋の折詰を強奪してそのために豆腐屋の親父が復讐をして牢獄に投ぜられた始末、私がいくども訓戒したがききません、かれのために全校の気風が悪化してきました、雑草を刈り取らなければ他の優秀な草が生長をさまたげられます、これはなんとかして断固たる処分にでなければなりますまい、いかがですか校長」
 朝井先生がこういったとき、一同の目が校長に注がれた。校長は先刻から黙然として一言もいわずにまなこを閉じていたがこのときようやくまなこをみひらいた。涙が睫毛(まつげ)を伝うてテーブルにぽたりぽたりこぼれた。
「わかりました、諸君のいうところがよくわかりました、実は私はこのことあるを憂いて、前後五回ほど阪井の父をたずねて忠告したのです、それにかかわらずかれの父はかれを厳重にいましめないのです、これだけに手を尽くしても改悛せず、その悪風を全校におよぼすのを見ると、いまは断固たる処置をとらなきゃならない場合だと思います。しかしながら諸君、しかしながら……」
 校長の語気は次第に熱してきた。
「キリストの言葉に九十九のひつじをさしおいても一頭の迷える羊を救えというのがあります、あれだけ悪い家庭に育ってあれだけ悪いことをする阪井は憎いにちがいないが、それだけになおかわいそうじゃありませんか、あんな悪いことを働いてそれが悪いことだと知らずにいる阪井巌をだれが救うてくれるでしょうか、善良なひつじは手をかけずとも善良に育つが、悪いひつじを善良にするのはひつじかいの義務ではありますまいか、いまここで退校にされればかれは不良少年としてふたたび正しき学校へ行くことができなくなり、ますます自暴自棄になります、そうすると、ひとりの男をみすみす堕落させるようなものです、救い得る道があるなら救うてやりたいですな」
「いかにもなア」
 感嘆の声が起こった、人々は校長が生徒を愛する念の深きにいまさらながらおどろいた。
「ごもっともです」と朝井先生はいった。「校長の情け深いお説に対してはもうしあげようもありません、しかし教育者は一頭のひつじのために九十九の羊を捨てることはできません、ひとりのコレラ患者のために全校の生徒を殺すことはできません、阪井については師範校からも苦情がきております、かれの父はかれよりも凶悪です、しかも政党の有力者であり助役であるところからしてその子がどんな悪いことをしても罰することができないのだと世間で学校を嘲笑しています、学校の威厳が一たびくずれると生徒が決してわれわれの訓戒をきかなくなります。かたがたこの場合断固たる処置をとられることを希望致します」
「よろしい、きめましょう、一週間の停学にしましょう、それでもだめだったら退校にしましょう、どんな罪があろうと、その罪の一半は私の徳の足らないためだと私は思います、私も深く反省しましょう、諸君もより以上に注意してください、悪い親を持った一少年を学校が見捨てたら、もうそれっきりですからなあ」
 寛大すぎるとは思ったが朝井先生は校長の美しい心に打たれて反対することができなくなった、人々は沈黙した。そうしてしずかに会議をおわった。
「こんなにありがたい校長および職員一同の心持ちが阪井にわからんのかなア」と少尉は涙ぐんでいった。

 停学を命ずという掲示が翌日掲げられたとき、生徒一同は万歳を叫んだ。だがそれと同時に阪井は退校届けをだした。校長はいくども阪井の家を訪(と)うて退校届けの撤回をすすめたがきかなかった。
 校長はまたまた柳の見舞いにいった。光一の負傷は浅かったが、なにかの黴菌にふれて顔が一面にはれあがった。かれの母は毎日見舞いの人々にこういって涙をこぼした。
「阪井のせがれにこんなにひどいめにあわされましたよ」
 それを見て父の利三郎は母をしかりつけた。
「愚痴をいうなよ、男の子は外へ出ると喧嘩をするのは仕方がない、先方の子をけがさせるよりも家の子がけがするほうがいい」

 そのころ町々は町会議員の選挙で鼎(かなえ)のわくがごとく混乱した、あらゆる商店の主人はほとんど店を空にして奔走した。演説会のビラが電信柱や辻々にはりだされ、家々は運動員の応接にせわしく、料理屋には同志会専属のものと立憲党専属のものとができた。
 阪井猛太は巌の父である、昔から同志会に属しその幹部として知られている、その反対に柳利三郎は立憲党であった、そういう事情から両家はなんとなく不和である、のみならずこのせわしい選挙さわぎの最中に阪井の息子が柳の息子の額をわったというので、それを政党争いの意味にいいふらすものもあった。
 次第次第に快復に向かった光一は聞くともなしに選挙の話を聞いた。
「私は商人だからな、政党にはあまり深入りせんようにしている」
 こういつもいっていた父が、急に選挙に熱してきたことをふしぎに思った、選挙は補欠選挙であるから、たったひとりの争奪である、だがひとりであるだけに競争がはげしい。政党のことなんかどうでもかまわないと思った光一も、父が熱し親戚が熱し出入りの者どもが熱するにつれて、自然なんとかして立憲党が勝てばよいと思うようになった。

 選挙の期日が近づくにしたがって町々の狂熱がますます加わった。ちょうどそのときだれが言うとなく、豆腐屋の覚平が出獄するといううわさが拡まった。
「おもしろい、覚平がきっと復讐するにちがいない」と人々はいった。
 ある日光一は覚平を見た、かれはよごれたあわせに古いはかまをはいて首にてぬぐいをまいていた、一月の獄中生活でかれはすっかりやせて野良犬のようにきたなくなり目ばかりが奇妙に光っていた、かれは非常に鄭重な態度で畳に頭をすりつけてないていた。
「ご恩は決してわすれません、きっときっとお返し申します」
 かれはきっときっとというたびに涙をぼろぼろこぼした。
「もういいもういいわかりました、だれにもいわないようにしてな、いいかね、いわないようにな」
 と父はしきりにいった。
「きっと、きっと!」
 覚平はこういって家をでていった、光一ははじめて例のさしいれものは父であることをさとった。その翌日から町々を顛倒(てんとう)させるような滑稽なものがあらわれた。懲役人の着る衣服と同じものを着た覚平は大きな旗をまっすぐにたてて町々を歩きまわるのである。旗には墨痕淋漓(ぼっこんりんり)とこう書いてある。
「同志会の幹事は強盗の親分である」
 かれは辻々に立ち、それから町役場の前に立ち、つぎに阪井の家の前に立ってどなった。
「折詰をぬすんだやつ、豆腐をぬすんだやつ、学校を追いだされたやつ、そのやつの親父は阪井猛太だ」
 巡査が退去を命ずればさからわずにおとなしく退去するが、巡査が去るとすぐまたあらわれる、町の人々はすこぶる興味を感じた、立憲党の人々はさかんに喝采した、ときには金や品物をおくるのであったが、覚平は一切拒絶した。
 これがどれだけの効果があったかは知らぬが選挙はついに立憲党の勝利に帰した。覚平は町々をおどり歩いた。
「ざまあ見ろ阪井のどろぼう!」

 もう光一は学校へ通うようになった、とこのとき校内で悲しいうわさがどこからとなく起こった。
「校長が転任する」
 このうわさは日一日と濃厚になった、生徒の二、三が他の先生達にきいた。
「そんなことはありますまい」
 こう答えるのだが、そういう先生の顔にも悲しそうな色がかくしきれなかった。生徒の主なる者がよりよりひたいをあつめて協議した。
「本当だろうか」
 このうたがいのとけぬ矢先に手塚はこういう報告をもたらした。
「校長が立憲党のために運動したので諭旨免官となるんだそうだ」
 これは生徒にとってあまりにふしぎなことであった。
「どういうわけだ」
「校長はね、柳の家へしばしば出入りしたのを見た者があるんだよ」
 と手塚がいった。「それで阪井の親父が校長排斥をやったんだ」
「それは大変な間違いだ」と光一は叫んだ。「先生がぼくの家へきたのは二度だ、それは学校で負傷させたのは校長の責任だというので校長自身でぼくの父にあやまりにきたのと、いま一つはぼくの見舞いのためだ、先生はぼくの枕元にすわってぼくの顔を見つめたままほかのことはなんにもいわない、ぼくの父とふたりで話したこともないのだ」
「そりゃ、そうだろうとも」と人々はいった。
「もしそれでも校長が悪いというなら、われわれはかくごを決めなきゃならん」と捕手の小原がいった。
「無論だ、学校を焼いてしまえ」とライオンがいった。
「へんなことをいうな」と捕手はライオンをしかりつけて、「こんどこそはだぞ、諸君! 関東男児の意気を示すのはこのときだ、いいか諸君! 天下広しといえども久保井先生のごとき人格が高く識見があり、われわれ生徒を自分の子のごとく愛してくれる校長が他にあると思うか、この校長ありてこの職員ありだ、どの先生だってことごとくりっぱな人格者ばかりだ、久保井先生がいなくなったら第一カトレット先生がでてゆく、三角先生もでてゆく、山のいも先生も、ナポレオン先生……」
「最敬礼も」とだれかがいった。
「まじめな話だよ」と捕手は怫然(ふつぜん)としてとがめた、そうしてつづけた。
「いいか諸君、久保井先生がなければ学校がほろびるんだぞ、ぼくらはなんのために漢文や修身や歴史で古今の偉人の事歴を学んでるのだ、『士はおのれを知るもののために死す』だ、いいかぼくらは久保井先生のため浦和中学のため、死をもってあたらなきゃならん」
「それでなければ男じゃないぞ」と叫んだものがある。
 その日学校の広庭に全校の生徒が集まった、そうして一級から三人ずつの委員を選定して事実をたしかめることにした、もしそれが事実であるとすれば、全校連署のうえ県庁へ留任を哀願しようというのである。光一は二年の委員にあげられた。
 光一は悲しかった、かれの心は政党に対する憤怒に燃えていた。どういう理由か知らぬが、校長がぼくの家へ見舞いにきただけで政党が校長を排斥するのはあまりに陋劣(ろうれつ)だ。
 小原のいうごとく久保井先生のようなりっぱな校長はふたたび得られない。いまの先生方のようなりっぱな先生もふたたび得られない。それにかかわらず学校がめちゃめちゃになる、それではぼくらをどうしようというんだろう、政党の都合がよければ学校がどうなってもかまわないのだろうか。
 そんなばかな話はない、これは正義をもって戦えばかならず勝てる、父に仔細を話してなんとかしてもらおう。

 いろいろな感慨が胸にあふれて歩くともなく歩いてくると、かれは町の辻々に数名の巡査が立ってるのを見た、町はなにやら騒々しく、いろいろな人が往来し、店々の人は不安そうに外をのぞいている。
「なにがはじまったんだろう」
 こう考えながら光一は家の近くへくると、向こうから伯父さんの総兵衛が急ぎ足でやってきた、かれはしまの羽織を着てふところ一ぱいなにか入れこんで、きわめて旧式な山高帽をかぶっていた。伯父さんはいつも鳥打帽であるが、葬式や婚礼のときだけ山高帽をかぶるのであった、ほていさんのようにふとってほおがたれてあごが二重にも三重にもなっている、その胸のところにはくまのような毛が生えている、光一は子どものときにいつも伯父さんにだかれて胸の毛をひっぱったものだ。
「伯父さんどこへいってきたの」と光一はきいた。
「ああ光一か、おれは今町会傍聴にいってきた、おもしろいぞ、うむ畜生! おもしろいぞ、畜生め、うむ畜生」
 おもしろいのに畜生よばわりは光一に合点がゆかなかった。
「なにがおもしろいの?」
「なにがっておまえ、くそッ」伯父さんはひどく興奮していた。
「どろぼうめが、畜生」
「どろぼうがいたの?」
「どろぼうじゃねえか、一部の議員と阪井とがぐるになって、道路の修繕費をごまかして選挙費用に使用しやがった、それをおまえ大庭(おおば)さんがギュウギュウ質問したもんだから、困りやがって休憩にしやがった、さあおもしろい、お父さんがいるか」
「ぼくはいま学校の帰りですから知らない」
「知らない? ばかッ、そんならそうとなぜ早くいわないのだ、そんな風じゃ出世しないぞ」
 伯父さんはぶりぶりして足を急がせたが、なにしろふとってるので頭と背中がゆれる割合に一向足がはかどらなかった。
 そういう政党の争いは光一にとってなんの興味もなかった、かれが家へはいると、もう伯父さんの大きな声が聞こえていた。
「どろぼうのやつめ、畜生ッ、さあおもしろいぞ」
 父はげらげらわらっていた、母もわらっていた、伯父さんが憤慨すればするほど女中達や店の者共に滑稽に聞こえた。伯父さんはそそっかしいのが有名で、光一の家へくるたびに帽子を忘れるとか、げたをはきちがえるとか、ただしはなにかだまって持ってゆくとかするのである。
 光一は父と語るひまがなかった、父は伯父さんと共に外出して夜晩く帰った、光一は床にはいってから校長のことばかりを考えた。
「停学された復讐として阪井の父は校長を追いだすのだ」
 こう思うとはてしなく涙がこぼれた。

 翌日学校へいくとなにごともなかった、正午の食事がすむと委員が校長に面会をこう手筈になっている。
「堂々とやるんだぞ、われわれの血と涙をもってやるんだ、至誠もって鬼神を動かすに足るだ」
 と小原が委員を激励した。
 委員はそこそこに食事をすまして校長室へいこうとしたとき、突然最敬礼のらっぱがひびいた。
「講堂へ集まれい」と少尉が叫びまわった。
「なんだろう」
 人々はたがいにあやしみながら講堂へ集まった、講堂にはすでに各先生が講壇の左右にひかえていた、どれもどれも悲痛な顔をしてこぶしをにぎりしめていた。もっとも目にたつのは漢文の先生であった、ひょろひょろとやせて高いその目に涙が一ぱいたまっていた。
「あの一件だぞ」と委員達は早くもさとった、そうして委員は期せずして一番前に腰をかけた。ざわざわと動く人波がしずまるのを待って少尉はおそろしい厳格な顔をして講壇に立った。
「諸君もあるいは知っているかもしらんが、こんど久保井校長が東京へ栄転さるることになりました、ついては告別のため校長から諸君にお話があるそうですから謹聴なさるがいい、決して軽卒なことがないように注意をしておく」
 この声がおわるかおわらないうちに講堂は潮のごとくわきたった。
「なぜ校長先生がこの学校をでるのですか」
「栄転ですか、免官ですか」
「先生がぼくらをすてるんですか」
「先生を追いだすやつがあるんですか」
 小さな声大きな声、バスとバリトンの差はあれども声々は熱狂にふるえていた、実際それは若き純粋な血と涙が一度に潰裂した至情の洪水であった。
「諸君?」
 小原捕手(こはらキャッチャ)は講壇の下におどり出して一同の方へ両手をひろげて立った。
「校長先生が諸君に告別の辞をたまわるそうだが、諸君は先生とわかれる意志があるか、意志があるなら告別の辞を聴くべしだ、意志のない者は……どうしても先生とわかれたくないものはお話を聴く必要がないと思うがどうだ」
「そうだ、無論だ」
 講堂の壁がわれるばかりの喝采と拍手が起こった。
「小原、おねがいしてくれ、先生におねがいしてくれ」
 だれかがすきとおる声でこういった。校長はまっさおになってこの体(てい)を見ていた。自分が手塩にかけて教育した生徒がかほどまで自分を信じてくれるかと思うと心の中でなかずにはいられなかった。
「先生!」
 小原は校長の方へ向きなおっていった、そのまっ黒な顔に燃ゆるごとき炎がひらめいた、広い肩と太い首が波の如くふるえている。
「先生!」
 かれはふたたびいったが涙が喉につまってなにもいえなくなった。
「校長先生!」
 こういうやいなやかれは急に声をたててすすりあげ、その太い腕を目にあててしまった。講堂は水を打ったようにしずまった、しぐれに打たるる冬草のごとくそこここからなき声が起こった、とそれがやがてこらえきれなくなって一度になきだした。漢文の先生は両手で顔をかくした、朝井先生は扉(ドア)をあけて外へでた、他の先生達は右に傾き左に傾いて涙をかくした。

 校長はしずかに講壇に立った。低いしかも底力のある声は、くちびるからもれた。
「諸君! 不肖久保井克巳が当校に奉職してよりここに六年、いまだ日浅きにかかわらず、前校長ののこされた美風と当地方の健全なる空気と、職員諸氏の篤実とによって幸いに大瑕なく校長の任務を尽くし得たることを満足に思っています、今回当局の命により本校を去り諸君とわかれることになったことは実に遺憾とするところでありますが事情まことにやむを得ません。おもうに離合集散は人生のつね、あえて悲しむに足らざることであります、ただ、諸君にして私を思う心あるなら、その美しき友情をつぎにきたるべき校長にささげてくれたまえ、諸君の一言一行にしてもし道をあやまるようなことがあれば、前校長の久保井は無能者であるとわらわれるだろう、諸君の健全なる、剛毅果敢なる、正義にあつく友情に富める、この気風を失わざればそれはやがて久保井克巳の名誉である、私は諸君が、いかに私を愛してくれるかを知っている、諸君もまた私の心を知っているだろう、雲山煙水、相隔つれども一片の至情ここに相許せば、わかれることはなんでもない、私を思うなら、しずかにしずかに私をこの地から去らしめてくれたまえ、私も諸君を思えばこそこの地を去るのだ……」
 声はしずかなしずかな夕波が岸を打つかのごとくであったが、次第に興奮して飛沫がさっと岩頭にはねかかるかと思うと、それをおさえるごとく元のしずかさに返るのであった、一同は大鳥の翼にだきこまれた雛鳥のごとく鳴りをしずめた。
「もし諸君にして私を思うあまりに軽卒な行動をとると、私が六年間この浦和町につくした志は全然葬られてしまうことになる、諸君は学生の分を知らなければならん、学生は決して俗世界のことに指を染めてはならん、ただ、私は諸君にいう、ジョン・ブライトは『正しきを踏んでおそるるなかれ』といった、私はこの格言を諸君に教えた、私が去るのもそれである、諸君もまたこの格言をわすれてはならぬ、五年生は来年だ、一年生も五年の後には卒業するだろう、そのときにはまた会える、はるかに浦和の天をながめて諸君の健全を祈ろう、諸君もまたいままでどおりにりっぱに勉強したまえ」
 小原はぐったりと頭をたれてだまった、もう何人もいうものがない、校長がいかにも悲しげに一同を見おろして一礼した、生徒はことごとく起立しておじぎをした。そうしてそのままふたたびなきだした。
 後列の方から扉口へくずれだした、いとしめやかな足取り、葬式のごとく悲しげに一同は講堂をでた。

「だめかなア」
 光一は人々とはなれてひとりなきたいと思った、かれは夢のごとく町を歩いた、かれは自分の背後からいそがしそうにあるいてくる足音を聞いた、足音は次第に近づいた、そうして光一を通りすごした。
「青木君」かれは呼びとめた。
「ああ柳さん」
「どこへゆく?」
 光一はチビ公が豆腐おけもかつがないのをふしぎに思った。
「ぼくのおじさんを見ませんか」と千三はうろうろしていった。
「いや、見ない」
「ああそうですか、今朝から家をでたきりですからな、また阪井の家へどなりこみにいったのではないかと思ってね」
 千三はなきだしそうな顔をしていた。
「心配だろうね、ぼくも一緒にさがしてあげよう」

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