共生社会

外国人参政権問題を考えるにあたって

◆スローガンは美しいが

共に生きる 定住外国籍市民の地方選挙への投票権については、近い将来に実現する可能性が出てきた(⇒現在の状況)ということですが、このいわゆる「外国人参政権」に対して、穏健保守やリベラル派とは違い、左翼業界では慎重・反対の人も多いようです。確かに「多文化共生」もその言葉だけは美しいし、これに文句をつける人は少ないでしょう。また、産経新聞の世論調査では、外国人参政権付与に賛成53・9%、反対34・4% わからない11・7%となっており、世論の支持もあります。
 ですが、これを単なる「スローガン」として内容をよく吟味せずに要求していると、それを逆手にとられ、言葉の美しさとは全く似ても似つかない、醜い社会や制度が導入されてしまうかもしれません。

◆過去の教訓ー「男女平等」「労働の自由」「行政改革」

 たとえば「女は黙って家庭にいるのが美徳」とされてきた時代(高度成長時代頃まで)から主張されてきた「男女平等」とか「女性の社会進出」というスローガンですが、これも結局は女性を「企業に献身する一人前の労働力商品」として、労働市場に組み込むだけの結果しか、とりあえずはもたらすことができませんでした(もちろん今も暫進的な歩みが続いています)。
 本来の男女平等は職場だけでなく家庭でも実現されないと意味がありませんし、そのためには女性を「男並みに働かせる」のではなく、男性に「女並みに家庭や個人生活に時間がさける」社会にしなくては何にもなりません。そのための労働者保護法制の整備はもちろん、介護や育児などを社会全体の責任として負担していくことが求められていました。ところが実際には企業社会は充分な責任を分担せず、ただ雇用にあたってゆえなく男女別の募集などをしてはいけないとか、同一労働で男女に賃金差があってはいかんとか、最初っから「当たり前だろ!」という程度のものしか当初的に勝ち取れませんでした。
 こういう状態のままでは、夫婦ともに(仕事に限らず)社会活動をしていれば、家庭・個人生活がままならない事態にもなります。結局はそのしわ寄せの多くは女性(場合によっては子供にも)にきて、社会に出るにしても、パートなど非正規労働として組み込まれていくわけです。「自己責任論」の蔓延や不況の民衆へのしわ寄せなどの閉塞状況の中で、介護疲れによる無理心中などの悲惨な話題もいまだに事欠きません。

 また、派遣労働者の問題がクローズアップされた時、派遣法そのものに反対だった共産党の志位委員長の質問に、時の福田首相が「そういう働き方に対する需要もあるんですよ」と答弁していたことも思い出されます(⇒動画)。確かに、好況期を背景として、「そういう働き方」への模索もありました。それは家庭や個人生活を犠牲にしてでも、企業への献身が求められることに対する自然発生的なアンチとしてあった。家庭や個人を優先したいという価値観の人も増えていた。それを推し進めていけば、本来なら資本からの自由という「労働の解放」に進むべきものでした。
 ですが、労働者派遣法は「そういう働き方」に対する労働者側の需要に応えたものではありません。いわばそういう風潮をも逆手にとる形で、「そういう雇い方」に対する企業側の需要に応えたものだったのです。企業にとって、派遣労働者は本当に都合がいい存在です。特に製造業への派遣が合法化されたのが致命的でした。制度が作られて合法化されれば、必ずそこに組み込まれてしまう層が生まれてくる。しかも派遣法は労働者ではなく、極めて露骨に企業のための法制度です。「そういう働き方への需要」に応えたものではありませんから、派遣労働者はちっとも「資本から自由」になったのではなく、その反対にますます「資本の奴隷」になっていきました。

 もっと古くは「行政改革」があります。これはもともと民衆の側のスローガンでした。単純に「税金の無駄使いをやめろ」というところからはじまって、許認可権などを盾にとった、官僚や役所の権威的、支配的、かつ非効率な行政の無駄をはぶき、民衆の側に主導権を持たせよう、利権政治を打破しようという、左派の側からの要求であり、突きつけだったわけで、もともとそういう思想が根底にあった。
 ところが中曽根内閣や小泉内閣などが進めてきた「改革」は、結局は民生部門・行政サービスの削減であり、本来まじめにやればやるほど「儲からない」はずの行政活動を、民営化という名で企業利潤の原理にゆだねてしまうことでした。スローガンだけは「官から民へ」という、革新野党などが要求してきたことに沿ったものでしたが、実際には「民(たみ)」を切り捨てる「公から私へ」にすぎませんでした。国家全体が私企業と同じ発想で動けば、企業は別として民衆レベルでは繁栄どころかペンペン草も生えなくなります。その極端な事例が中国における超格差社会でしょう。

◆自民党路線の破綻 保守政治に出口はあるか

 こうして見てきますと、「男女平等」、「働き方の自由」、「行政改革」、いずれも元は民衆の側や弱者の側から出てきた自然発生的な要求であり、左派もその自然発生性にのっかる形で「要求貫徹」のために運動してきたことばかりです。ですが、その結果として生まれてきたのは、当初的にこのスローガンをとなえてきた人々が考えていたような美しい制度や社会の発展ではなく、それと全く逆の社会や結果でした。とりあえず思いつくままこの3つを並べてみましたが、見事に一直線に結ばれていることがわかるのではないでしょうか。
 そしてこの一直線に結ばれ、「ブルジョア階級の政治委員会」たる自民党政権が、何十年もかけて積み重ねてきた路線がいきつくところまでいってしまい、とうとう昨年の総選挙で(やっと)民衆から拒否された路線の本質なんだと思います。そのことを民衆は理屈ではなく肌で感じているからこそ、いくら民主党が醜態をさらそうとも、自民党の支持率が、当人たちが思うほどには遅々としてあがらないのです。

 ついでに言っておけば、その拒否感の受け皿となった民主党は、こういった不満に「理解を示した」だけなわけです。その端的なスローガンが「コンクリートから人へ」であり、「国民の生活が第一」でした。しかし単に理解するようなそぶりを示して、旧来の自民党政治を否定してみせただけであって、何かしらそれと根本的に変わるような内実や、(好不況をくりかえしながらも長期的に)低迷し、衰亡している資本主義を蘇らせるような青写真をもっているわけではありません。企業(資本家階級)やアメリカの側に民主党を取り込んでしまおうという圧力も強いし、それに対抗して最後まで「国民の生活が第一だ」と対決する気概も感じられない。結局最後は政策的に破産するか、あるいは企業側に立って民衆に犠牲を強いる自民党的な政治に舞い戻るかしかない。一方の自民党も、民衆のこういう拒否感の方向性が見えていない。まさに保守二大政党制に出口なしです。

◆支配者の都合による「受け入れ」と「共生」

 それにしても私たち民衆は、今までこれだけ煮え湯を飲まされてきたのです。そろそろ学習してもいい頃ではないでしょうか。たとえば「外国人移民の受け入れ」を一番熱心に主張している日本国内の勢力は、他ならぬ経団連などの企業・財界連中です。もちろん彼らの思惑は、低賃金な下層労働力の確保でしょう。このままほうっておいたら、またぞろ「共生社会」は、あちら側のスローガンになってしまい、その言葉の美しさとは似てもにつかぬ醜いものが生み出されてしまうかもしれません。つまり今までと同じ、一直線に結ばれた同じ路線です。

 以前にテレビで、雪深い過疎地にある小さな縫製工場の様子を放映しているのを見ました。もはやこういう場所に働きにくる若者は多くありませんが、そこで働いているのは全員が若い中国人女性でした。全員が木造の民家のような寮で生活しており、おじいさんの社長とは家族みたいな生活をしています。過酷な労働ということではないように見えましたが、彼女らの賃金を聞いて私は震え上がりました。時給300円なんだそうです。300円ですよ!「GS三神」の横島君じゃあるまいし。堂々とテレビで言っちゃってるけど、最低賃金違反してんじゃねえのか?まあ、その賃金だからこそ、こういう会社がまだ成り立っているんでしょうが。

 それはともかく、なんつーか、私のような下層労働者としては、まず第一に、この「時給300円の労働者」が、都会に数十万人とか百万人の単位で登場してきたら・・・そう考えると背筋が凍りついたわけです。もう派遣労働者なんていらないじゃないですか。つか、都会で堂々と時給300円なんて違法な賃金はないとしても、最低賃金に近い額で働かないと、もう職がなくなる時代がくるんだろうかとか。まあ、本来なら、そうじゃなくて「外国人労働者への搾取は許せん!」という方向に(左翼なら)ならなきゃいけないんですが、テレビに映された彼女らの過疎地での生活が、あんまり牧歌的な絵だったせいもあるかもしれません。どちらにせよ、腰をすえて考えないと、またぞろ資本家にまかしておいたら、下層労働者と移民労働者が分断支配され、いがみ合わされている欧州のような状況になりかねませんよね。

 しかしだいたいがもう、今の世の中では、「国民国家」という概念はゆっくりと相対化しています。皮肉にも、「資本主義の勝利」であったはずの冷戦終結以降、特にそうなんではないでしょうか。「勝利した資本主義」にとって、今度はだんだんと国境線が邪魔になってきている(特に先進資本主義国の企業にとって)。そんなもの飛び越え、一定のリスクをとった上で、ヒト・モノ・カネを自由かつ迅速に投資し、調達し、移動できないと競争に負けてしまう。いわば竹中平蔵の世界なわけで、ネトウヨ的なファシズムや国粋主義が部分的にアナクロな意味での「反資本主義」になるのはこのへんですね。まあ、いわゆるグローバリズムってやつになると思うのですが、この波をかぶると、それまで資本主義経済やお金とはあんまり縁もなく牧歌的に暮らしていた人々まで、強制的に「貧乏人」にされてしまう。人々が笑顔でいられることが発展なのだとしたら、やはり「発展」と「資本主義化」は違うのではと思わざるを得ない。この支配者の側からの搾取のためのグローバリズムに、民衆の側からの国際連帯を対置すると口でいうのは簡単ですが、それだけの力量が左派にあるだろうかと不安です。

◆「外国人参政権」をどう位置づけるか

 さて、最初に戻って「外国人参政権」ですけど、これってリベラル派の間では賛成意見が強いみたいですが、少なくとも私が現役活動家だった時代には、左翼や、当の在日市民の間でも根強い懐疑論や反対論がありましたよね。まあ、右派の人が反対すんのはいいんだけど、ネトウヨ系のひとが(たとえばこんなふうな)妄想としか言えない痛い理由でキイキイ言うもんだから、その声が大きすぎて、左派としては慎重な意見が言いにくくなっちゃった(笑)。ですが今までのこんなふうな流れを考えていきますと、保守・財界の側から出てくる流れには、ちょっと眉につばをつけながら慎重に考えていかないと、後々とんでもない方向にいくかもしれないという予感がして仕方がありません。

 別の言い方をすれば、同じ社会を構成している外国籍市民の権利の擁護や、お互いを(違ったままで)認め合える共生社会、あるいは多文化共生という言葉で、いったいどのような社会や未来を構想しているのか、その内実を語れるだけのものを持っているのか、何かしらをそれを「あるべき社会」として単なるイメージや言葉で語れたとしても、本当にそれを支配者・資本家側の都合ではなく、(外国籍や移民の市民を含む)私たち民衆の側の主導権で「共生」を実現していけるだけの内容や何実を有したものなのかということです。「外国人参政権」も、賛成するにしろ反対するにしろ、その脈絡の中で位置づけたほうがいいと思います。

 この問題は書くことや切り口がいっぱいあるので、今回はちょっと漠然とした問題意識の吐露だけで終わります。つか、次回(?)も引き続き問題意識の羅列になると思いますが(汗)。これは結論めいたことを言うには、本当のとこかなり勉強しないといけん問題です。「ネットで調べて」あれこれ言える問題じゃないよね。本も一山くらい読まないと。。。
 よろしければご意見(特に左派で外国人参政権に反対または懐疑的な方の)いただけると嬉しいです。

草加 耕助

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当サイト『旗旗』の管理人。建設現場などで働いています。10代からの数年間左翼活動してましたが、現在は特に何ということもない普通のおっさん。今は休みの日に集会などにぶらり参加。そこで知り合った人たちと個人参加者の互助会的にジグザグ会、三里塚勝手連などを名乗りゆるく楽しく連帯中。よろしければご一緒にいかが?。個人としての目線を大切にしていきます。

コメント

    • RR
    • 2010年 1月 19日

    大変ご無沙汰をしております。
    自称・保守右派、RRでございます。
    RRという名前ももうここでしか使っておりませぬが(苦笑
    左の方は外国人参政権に賛成一色だと思っておりましたので
    草加さんの文章を読んで最初意外な思いで、読み進めてああなるほどと感じた次第。

    たしかに、新しい、何かしらの期待を抱かせる言葉・制度の裏にはいろいろな面があるものですね。
    軽く眼からうろこの思いです。

    普段白か黒かの議論をしておることが多いので、ある事柄について右の意見はこうで左はこう、
    …と、決め付けてしまいがちですが、ああなるほど、別の視点から見ると逆になる事も多いのですね。
    いや、大変勉強になりました。

    勉強勉強、さらに勉強する必要があるなあ…。

    寒い日が続きますが風邪などひかれぬようにして頑張ってください。
    それでは失礼いたします。

  1. おお、RRさん、おひさしぶりです。
    ちょうど昨日、ふとRRさんはどうしているかなあと思ったところだったのでびっくりです(虫の知らせ?)。

    まあ、別に「反対」しているわけではありませんよ(笑
    たとえば外国人労働者の受け入れは、たとえ自民党単独政権であったとしても、いつかはやるであろうこと。それはたとえ旧社会党単独政権であっても、米の輸入を拒否し続けるのが難しかったであろうことと同じです。
    その脈絡で考えますと、ただ「受け入れ」「共生」をスローガンとして叫んだとしても、それこそ保守・財界は「はいはい、受け入れますとも!」とばかりに、本文で書いたようなろくでもない結果になりかねないと。そのことについては左翼の間でもわりと共通認識がある(と思う)。

    その一方で、外国人参政権問題は、新しく外国人を受け入れる「移民政策」ではなくて、すでに何世代にもわたって日本に居住し、その実存(中身)は私たちと大差ないような隣人への扱い(権利擁護)として考えられています。そのため、一般的に外国人の大量受け入れには抵抗感を示す傾向がある世論調査でも、これに限っては賛成のほうが多いのでしょう。
    あ、この問題に限っては「ネット上の調査」は全く信用できませんよ。理由は言うまでもないでしょうが(笑)。「世論調査へのクリック」がすでに運動の一環になっちゃってますからねー。

    だから単なる外国籍市民の人権問題として「のみ」みた場合には、私も賛成に大きく傾くわけですが、だいたい左派は「共生社会への一ステップ」という人が多いわけで、そういうふうに考えるんだったら、「敵」の側も何かしらの「一ステップ」と考えているかもしれない。ならば、これはかなり慎重に眉につばつけて考察しないと、おいしいことばかり言って、その実どこに連れていかれるかわかったもんじゃないぞと。

    > ある事柄について右の意見はこうで左はこう、
    > …と、決め付けてしまいがちですが

    今は左翼が少ないですから、その意見も目立ちませんもんねー。女性天皇問題の時も、左翼の多くは「無関心に近い反対」だったのに。まあ、それと左翼自身も平均的な世論に受けいれれるようなところにまで、その主張を後退させているということがあって、結果としてそれは政権交代前の民主党とあんまり変わらない内容になる。

    よく民主党のことを「左翼」とか書いている人がいて、それは「本物」に言わせてもらえれば「ププッ」てなもんですが、考えてみれば、それは世の中の左右をわける線が、ずずっと右側にずれてしまった結果として、左翼としては笑っていられないのかもしれませんね。民主党の主張なんて、一昔前なら自民党内リベラル派の主張くらいのもんだったのに、それが今では左翼あつかいかあという点で。そのうち日本共産党が「極左」に分類されたりして。

    • 三浦小太郎
    • 2010年 1月 20日

    この問題について、私よりもむしろ左派の方の意見がここでは求められていると想うので、簡単な紹介とコメントのみ。

    保守的な立場からの移民受け入れ論については、このサイトがまとまった意見展開をしているかと。
    移民政策研究所
    http://www.jipi.gr.jp/

    在日外国人の参政権について積極的に発言していたのが、ご存知在日党の李英和氏。賛否はともかく論理は一貫している。このインタビューが分かりやすいかな
    http://www.jca.apc.org/act/135.htm

    参政権や移民論を直接論じているわけではないが、国家論の組み立てとして興味深い論考。こういうのをリベラル派というのではないかな。
    http://homepage3.nifty.com/katote/state06.html

    自分の意見はとりあえず控えます。
    ただ、1、移民労働者をどう受け入れるか 2、外国人参政権問題 3、多文化共生社会のあり方 4、難民受け入れ これは実は全部、勿論重なりはするけど違うカテゴリーだと想うので、別々に論じないと混乱するのではないかと。

  2. 三浦さん>

    興味深い論考をご紹介いただき、ありがとうございます。
    確かに三浦さんに指摘されるまでもなく、私は混乱していると思います。それは結局は土台になる思想(国家論とか)が定まっていないからだと思います。単に気分的なものしかない。だからそれぞれの問題について「区別と連関」を明確にしながら統一的に考えることができないのですね。
    理論や理屈ではなく、人としての良心に基づいて考えるをスタンスにしてきましたが、こういう時にはその弱点が露呈してしまうといったところでしょうか。その混乱をまんまにして、愚民左派がいろいろつぶやいておると。

    そんな私にとっては、三浦さんに限らず、他の方の筋の通った(かつ人としての良心に基づいた)論考はむしろ積極的にお伺いしたいところです。三浦さんのご意見は、以前に四トロ掲示板に投稿なされていた論考ということになるでしょうか。途中をはしょれば、外国人参政権への対案として、在日市民の希望者に、簡易的な手続きで国籍を取得してもらう制度を新設するということだったかな。

    今となってはそれも一つの方法だというか、(ブルジョア)法学の視点からいろいろ考えていくと、最終的にはそれしかないわけです。
    ただ、日本や韓国の国民性から考えて、いきなり「国籍をとれ」というのが受け入れられるだろうかと思う。単なる国籍にすぎないのに、国籍を変えたら母国を捨てた気がするとか、国籍が日本なら中身まで「日本人」になるべきだとか、そういう感覚が日韓朝の人には共通してあるんではないか。
    つまり、「国籍は日本だが民族は朝鮮人として生きる」ことを当たり前、さらに一歩進めてそれが「権利」であると認められるような前提が、日本社会に(そして韓国社会にも)あるだろうかということです。

    その答えは在日市民への扱いが一つのバロメーターになると思いますが、かつては参政権要求に否定的な考えの人も多かった在日社会において、この要求を公然と掲げる人が増えてきたということは、大きく考えるならば、それだけ在日市民への社会的な差別や排外が緩和されてきた、以前よりも日本と日本人が他民族からも信用してもらえるようになったことの現われだと思います。総連系から表立ってこの要求が出てこないのはそういう脈絡だと思う。これは大局的に考えればいい流れだろうと思います。

    さらにこれから(たとえ規制を続けたとしても)増えてくる移民労働者のことを考えれば、まず、「日本人」と「完全な外国人」のあいだに、その中間的な権利を認めてもいいんじゃないか、それも一つの方法なんではないだろうかと最近は思っています。まあ、以前は国家という概念を相対化したいという左翼的な発想が根底にあったわけですが、今はそういう左右の思想的なことではなくてそう思うようになりました。

    • 三浦小太郎
    • 2010年 1月 21日

    在日コリアンの参政権問題に対しては、私のいいたい事を政治的にはほぼ代弁してくださっている声明がありますので、一応紹介しておきます。細かいことは別として、私はこれが最も現実的な解決策だと今も考えます。

    国籍取得特例法の今国会での成立を求めます(2008・3・9)

    (前略)この60余年の間に在日コリアンは世代を重ね、今は三世、四世が主流となっています。しかし、これらのひとびとは法的には「外国人」であるため、生涯を通じて参政権を行使できず、国家公務員、裁判官をはじめ各種公務員になる道も一部をのぞいて閉ざされたままです。旧植民地出身者とその子孫が何代にもわたって参政権がないなどという例は世界のどこを見渡してもありません。日本の民主主義は重大な欠陥をかかえているのです。

     2001年に自民党・公明党など与党3党が作成した「特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律(案)」は、こうした異常な事態を打開するために画期的な意義をもっていると考えられます。

     第一番目は在日コリアンに「届け出」による国籍取得権を認めていることです。1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約の発効にともない日本政府は在日朝鮮人から一斉に日本国籍を剥奪してしまいました。当時、民族団体が自分たちは独立国家の国民であるとしてこれに反対しなかったことは事実ですが、一人ひとりの国籍選択権を認めず、一片の政府通達で実施したことは法治主義にももとる乱暴なやり方でした。

     このため在日朝鮮人は参政権を失い、主権者としての地位を奪われたのをはじめ、社会保障をうける権利さえ保障されず社会的差別のただ中に放置されたのです。本特例法案が法務大臣の「許可」ではなく「届け出」による国籍取得を認めていることは、この歴史的過誤の反省の上に立つものと考えられ、実質的に在日コリアン一人ひとりの国籍取得(選択)権を認めたことになります。煩雑で人間としての尊厳を傷つけられかねない「帰化」制度によることなく、在日コリアンは、望めばいつでも日本国籍を取得できる権利をもつことになるのです。

     二番目は「従前の氏または名を称する場合にはその漢字を用いることができる」とし、民族名を名のることを保障していることです。従来の帰化手続きでは、ややもすれば朝鮮人のルーツを消し去って民族的にも日本人になることを求めてきました。また尹、姜、趙、崔など、日本の人名漢字に含まれていない姓や名をもつ人は新たに氏をつくったり名を改めたりしなくてはなりません。これは民族的尊厳を傷つけ、同化を強いるものといわざるをえません。この法案はこうした流れとは明らかに違い、少なくとも戸籍上は、民族名をなのり、コリア系日本人(国民)になることを保障しています。

     これだけでだれもが民族名を名のって生きられるようになるほど現実は甘くはありませんが、差別を許さないとする市民の運動とあいまって、在日コリアン自身の自覚が高まっていけば、朴さん、李さん、金さん、とルーツを明らかにしてコリア系の日本人として活躍する人が、国会や地方議会をはじめとして社会のあちこちで増えていくことが期待されます。
    http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/122c1e71586f57cfa091da7cd313a247

    そして、以下の文章は大変深いテーマを指摘していると思う。

    「民族や出自(ルーツ)と国籍はもともと別の概念であり、コリアンの末裔であっても日本で生まれた子孫は日本人(日本国民)というのが今の世界の常識なのである。旧植民地出身者が3世4世になっても先祖の国籍を受け継ぐなどという不自然なことは僕が知る限り世界のどこにもない。

     このような実態にある在日コリアンに韓国の国政選挙権と日本の地方参政権を付与するということがどういうことを意味するかを小沢さんや鳩山さんは考えたことがあるだろうか。

     「国民の生活が第一」といって政権をとったのに在日コリアンの生活から考える視点を失い、「日韓友好」という上から目線の対応に終始しているからではないのか。

     鄭さん(都立大学教授鄭大均さん:三浦注)は「そんな人々に参政権が与えられたら、宙ぶらりんな状況が永続化してしまうだけのことだろう」「外国人参政権法案とは、そんな在日を永遠の外国人として保存しようとするものだ」。
     
    と結論付けている。

     これは僕が1998年に民闘連の集会で指摘したのと同じ趣旨だ。(中略)「地獄への道は善意で敷き詰められている」という。外国人地方参政権の実現が在日コリアンの政治的権利の実現につながると信じている人々がいるが本当にそうなのか、と僕は考える。これもまた「善意で敷き詰められた地獄への道」ではないのか、と。」

    http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/ce3f5007c3c8f0bfc8fedba96ede0069

    自分の意見を言わずに他者に代弁させるのは失礼なことはわかっていますが、私よりも遥かに在日コリアンの人権問題に長く深く取り組み続けてきた市民運動家、鈴木啓介さんの言葉として、私は大変重要なものと考えています。

    • 一山いくら
    • 2010年 1月 25日

    草加耕助さんあなたの心の戦友たちががやっちゃったねこれどうするの
    時事通信社より引用
    デモ参加者に催涙スプレーを噴き付けて負傷させたとして、警視庁新宿署は24日、傷害容疑で神奈川県の高校3年の男子生徒(17)を逮捕した。同署によると、デモは「在日特権を許さない市民の会」が主催し、高校生は「参加者に声を掛けられてカッとなった」と容疑を認めているという。
    逮捕容疑は24日午後1時ごろ、新宿区西新宿の新宿中央公園多目的運動広場で、デモを終えて帰る途中だった33~41歳の男性3人の顔に持っていたスプレーを噴き付けるなどし、目を負傷させた疑い。
    同署によると、高校生は催涙スプレーについて「護身用に持っていた」と説明しているという。 
    きっとほかのブログやホームペ-ジなんかだときっとやったことは許せないことだけどもともと原因は差別主義者たちの今まで行動のせいであって
    義憤に駆られただけのこの少年に罪は無いとか不当逮捕だとか書くでしょうけど
    この襲撃を計画した人たちは在特会側が反撃することを期待した襲撃だったんだろうもし怪我をしたら「高校生が外国人参政権に反対する右翼に暴行される」という名目で
    友好的なマスコミに宣伝してもらう予定だったに違いない少年法で襲撃者の名前や情報が守られることも計算してそしてその記事を海外に嬉々としてこんな酷い事が差別主義者たちのせいでおきたと流すところまで準備して
    これで在特会の主張していたことが裏付けられた形になってたと考える人も増えるだろうし続報の内容しだいではえらいことになるわけだけど
    次回の在特会のデモのときみなさんがいったい主張をするのか非常に楽しみにして待っています

    • 中野由紀子(旗旗舎)
    • 2010年 1月 25日

    >一山いくらさん
    いつもなにかと投稿ありがとうございます。
    そんな鬼の首でもとったみたいな物言い・・・。
    それ以前に、【句読点】や【段落】をちゃんと入れてくれませんか。
    読みにくくて仕方ない。
    どこからどこまでが時事通信社の引用なのか、どこからがご自身の意見なのかを明確にしてくださるとありがたいです。
    もちろん考えればわかりますが、めんどくさいです。
    あ、ご自分のブログをお持ちになったらいかがでしょうか。
    今日び、小学生でも作れますから。

  3. 一山いくらさん>

     また関係ないエントリーに関係ない話題を(苦笑)。どうしても「自分の投稿を常にトップに出しておきたい病(戦術)」ですかね。もちろん一山いくらさんがそんな人だとは思いたくありませんが、中には議論を少しも前に進めず、全く同じ趣旨のことを(論破されても論破されても)繰り返し投稿し続けて常にトップに出しておくことで、通りすがりなどの人に、あたかも自分が「勝っている」かのように見せかけるゾンビ戦術の人がネトウヨさんにはあまりにも多すぎるものですから、ちょっと必要以上(?)に警戒してしまいますわ。

     とにかく議論をしたいのなら、相手の言うことをよく読んで、相手以上に理解する「努力」をして話を前にすすめてくださいね。それと、ちゃんと関係する話題のエントリーのコメント欄へ、またはブログ記事とは関係ない一般的な話題を投稿したい方のためには掲示板(交流用・議論用・罵倒専用)もちゃんと設置しておりますので、そちらのほうに投稿するようにしてください。この意見とは議論する価値がないとか、そうではなくても、この人とは議論を前に進められないだろうなとか思う場合は黙殺(私はだいたいそうしてますが)するか、罵倒専用掲示板に捨てゼリフを投稿しておくことです。ゾンビさんはお断りしますので、そういう卑怯なことをする人には、、それ相応に対処させていただくことを、この機会に述べておきます。

     さて、他のエントリーでも書いたことですが、
    『自身が「私はこう思う」ということを簡単に書いていただいて、それに対する私の感想という形にさせていただいたほうが、より的確なお返事になると思います……このことは、よくメールなどで「質問」いただく方にもお願いしたいと思います。興味をもっていただくのは大変に嬉しいのですが、藪から棒に「どう思うか」なんて質問されても、私は学者でも何かの先生でも評論家でもない、そのへんにゴロゴロいるごく普通のおっさんなので、人を感心させるようなことは言えませんし、いったいどんな回答を差し上げればご満足いただけるのかさっぱりわかりません』(「ネット上の右翼バブルについての考察」より)
    http://bund.jp/md/wordpress/?p=2309

     ちゃんと以前に書いたことであって、確かに通りすがりの人にまでいちいち「全部読んでから書け」とは言えないとしても、一山いくらさんのような継続的な読者まで、ろくに読まずにまた同じようなことをされるのはがっかりです。少し一山いくらさんを過大評価していたかもしれません。一山いくらさんの意図がわからないので、どういう趣旨(切り口)で返答したらご満足いただけるものか、さっぱりわかりません。運動論?それとも暴力論?

     ごく普通に考えれば、「在特会」の襲撃事件についてちゃんと批判した上で、それにどう対応するかという観点から議論を積み重ねていけばいいと思います。議論をふるのであれば、まずそれについて、一山いくらさんの案や考えを提案するべきでしょう。あるいは「在特会」への評価がわかれて、それでは議論にならないというなら、一般論として、道義的に許されない暴力的な存在一般(警察さえもそれに協力している場合)に対し、民衆はどういう対策をとるべきかというところから論じるべきだと思います。

     友好的なやりとりや、何気ない雑談まで杓子定規にそうしろとは言いませんが、少なくとも敵対的な議論において、自分の考えを隠し、相手にだけ「回答」の義務を負わせるのは卑怯者(荒し)のすることです。それとも真面目な議論ではなく、単に一山いくらさんは揶揄や荒し行為をされていると判断し、私がそのように対応(無視・削除等)してあげることで、どこかの香ばしい人々が集まる掲示板で「勝利宣言」ができるようにしてあげたらご満足ですか?もしそうなら、そういうふうにしてあげますので、メールなどでこっそりお知らせください。口外はしませんし、実際、痛くも痒くもないので、それくらいの汚名は着てあげます。

     いずれにせよ、できるだけ一山いくらさんのご満足いただけるようにしたいと思いますが、そこんとこ明快にしておいてもらわないと、全部の論点にふれた上で、様々な対応をとらないとないといけなくなりますので、ひとつひとつの文章も長文になり、こちらばかりが疲れてしまいます。そういう投げ方は卑怯だと思います。これはネトウヨが荒しの手口としてよくやるやり方で、自分の考えを隠し、人がちゃんと主張していることの揚げ足を延々と取り続けるだけのラクチンな手法ですね。同じ問題意識の者同士が友好的に行うなら別ですが、そうでない場合、そういうのは議論でも論争でもなく、単なる荒し行為といっていいと思います。

     対立する傾向の者同士の場合、そこでの議論とは二つの異なる考え方の間で行われる交流ですから、まず自分の考えを示し、その上で、相手の考えより自分の考えのほうが「モア・ベター」であることを論証する、そして、くだらない「勝ち負けゲーム」ではなく。可能な限り、もっと高次の議論へ自分の意見を高めていく努力をお互いにするべきだと思います。自分はお気楽な上から目線で、他人にだけ「努力」を求めるような種類の人間を私は軽蔑します。

     もちろん、一山いくらさんがそういった種類の下劣な卑怯者の「心の戦友」だとか、そういう印象操作だけですませようと私は思いませんし、今回は単に無自覚で、たまたま考え方が浅かった(もしくは私の過去の文章の趣旨をろくに忖度していない)だけだと思いますので、次回からご注意ください。まずは、一山いくらさん自身が、「道義的に許されない存在(警察さえもそれに協力している場合)にどういう対策をとるべきか」という点についての考えを示していただきたいと思います。

     なお、まるでネトウヨみたいな謀略論を書いておられますが、そんな謀略論(空想)を展開すれば、どんなことでも好き勝手に言えるので意味がありません。論理を展開できない人が謀略論に逃げるのは議論としては最低の低に属します。芸のないお笑い芸人が舞台で裸になるのと大差ないレベルです。

    (下に続く、もしくはこちら↓にまとめてスピンオフしてあります)
    http://bund.jp/md/wordpress/?p=4339

  4. (上からの続き)

     さて、仕方がないので、勝手に一山いくらさんの意図を想像(邪推?)して、話を進めます。次回からこういう長文を書かなくてもすむようにお願いします。

     まず、運動論から。くわしい事情はさっぱりわかりませんが、なんか高校生が「在特会」の右翼に詰め寄られたか罵倒されたかなんか、とにかく衝突した際に、持っていた護身用スプレーを使用して警察に検挙されたってことですね?「在特会」はもちろんですが、それに抗議する側にも「暴力事例」があったじゃないか!やっぱりどっちもどっちだ!(やーいやーい、ざまあみろ)ってとこが言いたい趣旨(?)ですよね。

     これを運動論的な観点からどう思うかと言われたら、その高校生の「単ゲバ」は思慮が足りなかったと思いますよ。だって、だいたい今までの経過を冷静に見ておけば、たとえば反靖国デモを「在特会」が既成街宣右翼と連合して襲撃した際、デモ隊への殴る蹴るの暴力を、すべて警察は黙認しています。喉を殴られて数ヶ月声が出なくなったとか、デモの解散時に少人数にばらけたところを襲撃されて病院送りにまでされているのに、それでも警察はそんな「在特会」の行為に、検挙どころか最小限度の制止すらしません。まさにやりたい放題です。三鷹のパネル展で母子連れに怪我をさせた時も、京都の朝鮮学校の小学生のお楽しみ会を襲撃した時も、秋葉原でプラカードを持っていただけのたった一人の人間を、指揮者の支持の元に袋叩きにした時も、すべて警察は黙認しています。

     こういう右翼と警察の「連携プレー」は今にはじまったことではありません。私のような経験者にしてみたら、お馴染みのものです。どんなに悔しくても、腹が立っても、そこで反撃や抵抗をしたら、「待ってました!」とばかりに、右翼に抵抗した市民の側*だけ*が逮捕されて悪宣伝に使われるのです。そんな実情は私らにしてみたら常識です。仕方がないことで責められないけれど、この点について高校生は無知・無自覚だった。

     右翼側がやりたい放題に暴力をふるっている現状で、護身用のスプレー(それも弾圧の口実を与えないようにエアーサロンパスなどに限るが)を持っているのは、自分の身を最低限守るためには許されるし、必要なことではあります。しかしそれを実際に使用するのであれば、よくよく考えねばなりません。ましてこの場合、主催者は「言論による抗議」という趣旨を参加者に意思統一していたという事情を考慮すれば、一般的には先の反靖国デモのように「在特会」に病院送りにされてしまうくらいまでは我慢するべきだし、私だったら命の危険を感じるまでは使用しなかったと思います。それを一時の感情にかられて弾圧の口実を与えてしまったのは、やはり運動論的に言えば、あまり感心したことではありません。これは一介の高校生に対してはかなり酷なことを言うようで心は痛みます。というか、当たり前に考えればほとんど無理な要求かもしれませんが、活動家の感性で言えばそういうことです。

     たとえば外国人排斥京都デモでの抗議においても、誰かが背後でバクチクを鳴らしたという悪ノリの事例がありました。個人的にもちょっと趣味が悪いとは思いますが、「在特会」はこのささいな事実をとりあげ、自分たちの暴力行為を棚にあげた上で、京都デモへの抗議声明に賛同した文化人らに、「お前が賛同した奴らは、子供に『爆弾』を投げつける『テロ事件』をおこしたんだ」などというデマで脅迫電話までかけているのです。
     これは25年ほど前の中核派が、自派に反対する左翼活動家に暴力をふるって重傷をおわせるという(在特会が言うようなデマではなく本当の)テロ事件で、これへの抗議声明に賛同した人に行ったことと全く同じ手口です。中核派は自分たちが襲撃した人々の主催する集会を妨害して強制的につまみ出されたという、ささいな事件をもって、上記の「在特会」と同じような主張を展開し、声明の賛同者に「抗議」という名の脅迫をおこなっています。

     結論を申し上げれば、確かに活動家でもなかったであろうこの高校生を責めるのは酷だとは思いますが、こういう過去の事例をつらつら考えれば、たとえどんなに「在特会」が酷い差別言論で挑発してこようが、あるいは暴力をふるわれた場合でさえも、警察は一方的にこちらだけを弾圧するための口実に使い、「在特会」はまるで自分たちだけが一方的な被害者であるようなデマ宣伝に利用するであろうことは最初から見えているのですから、慎重の上にも慎重に対応するべきことは当然だったと思います。

     確かに「在特会」に限らず、警察(とりわけ機動隊)でさえ、聞くに堪えない差別的な挑発を行ってきます。「チョーセン帰れ」にはじまって、「お前はなんだぁ、本名はキンかぁ?それともボクかぁ?(ゲラゲラ)」などということを、警察官が言うのです。本当に酷い。これは実際に言われてみないとわからない。一瞬で頭に血がのぼって沸騰するくらいに怒りがこみあげてきます。だから気持ちはわかる。本当にわかる。充分にわかった上で、それでも(我慢すべき時には)我慢しないといけないんだと私は言います。一方的に「在特会」にやられまくっている現状で、なぜ自分たちだけが我慢しなくてはならないのか、そう思う悔しさもよくわかります。本当に悔しいです。でも、今は我慢しなくてはならない。ましてや個人的な単ハネでは問題は解決しません。こんな救いがたい、腐れた現状そのものを解決しないといけないのですから。どんなに悔しくて理不尽でも、「在特会」ごときに一対一で「刺し違える」ような値打ちなどカケラもないことを知るべきです。まして実際にも単に弾圧と悪宣伝の材料に使われるだけで終わってしまった。

     次に暴力論で言うなら、
    『もちろん私は多くの人がそうであるように「民衆の受苦に対する抗拒」としての暴力(革命行為)を全否定するものではないし、その「暴力」の多くはヒューマニズムの荒廃ではなく、全く逆に自己犠牲的なヒューマニズムの高揚として歴史に刻印されており、今なお私たちの心を打つのは誰もが認めるところでしょう。それは文学、芸術、あるいはアニメやマンガのテーマとしても、繰り返し取り上げられてきました』(⇒「『英霊』こそが死者を冒涜する言葉だ」)
    http://bund.jp/md/wordpress/?p=3444

     その脈絡で言うならば、秋葉原集会で「在特会」らは今まで以上に明確に「民主的な方法を放棄して戦う」ことを打ち出し、弱者への差別襲撃を繰り返し、京都の朝鮮学校で小学生を襲撃した「在特会」は、「俺たちは他の団体とは違う」「本当にやってやる」などと豪語しています。ドイツでは「在特会」と同趣旨の差別団体(ネオナチ)の放火によって、実際に移民の子供が殺された事件も発生している。「在特会」の上部団体である「新風」の、私とは比べものにならないほど高名な役員さんのブログでは、こういう欧州の差別団体のことを「新しい右翼運動」などと賞賛しています。こういうことを考えあわせますと、いずれは必ず一線を越えることが明らかな彼らの暴力(武装したファシズム)に対し、それを押しとどめるために街頭で衝突する時代がくることも覚悟しておかなくてはなりません。そこまで否定するほど、私は宗教じみた非現実的なことを言うつもりはありません。

     これに対して、「在特会」らがはっきりと暴力肯定路線を打ち出しているにもかかわらず、それに抗議する人々は、敵のむき出しの暴力に対してあまりに無防備、かつ無自覚で、今回の事態に見られるような「脇の甘さ」を含め、将来の最悪の事態に対しても覚悟や準備がないように思えます。もちろん、単なる一般市民である彼らに、そんな「覚悟」を求めることは、「絶対に抵抗せずに殴られ放題で我慢しろ」と言うのと同じくらいに無理があることを承知ではあるんですが。

     どちらにしても、言論であれ街頭での抵抗であれ、広くは体制側からの差別分断・排外主義・戦争政策に対する抵抗が主になります。「在特会」の暴力への抗議が、そこを間違えて、一対一の対決になってしまっては、民衆の多くは抗議する側も含めてチンピラ同士の争いとしか見ないでしょう。中核派の主張した「対カクマル戦争」はそういう経過をたどってしまった。せいぜいがよくて「左右対立」くらいにしか思ってもらえず、民衆はどちらの味方もしない。そうして左派の評判が充分に下がったところで、「在特会」なんぞ所詮は使い捨てにされて、調子にのって「やりすぎた」段階で警察に回収されるだけの存在。そんなもんに命かけてもしょうがないですよ。

     くりかえしますが、「在特会」などの日本版ネオナチ運動に対する抗議行動は、体制全体に対する差別分断・排外主義・戦争政策の中で考えなくてはいけないと思います。一対一的な発想になってはいけません。そういう悪しき方向に対する民衆のオルタナティブを作り上げていく中の部分として存在するべきだし、そういう民衆共生の新しい内容を作りあげ、守っていく一環としてこそ、「在特会」の暴力への抗議行動も、その本当の意味を理解してもらえると思います。そういう観点からも、やはり酷なようですが、高校生の単ハネは評価できないのです。

     ま、以上が私の民衆の抵抗運動に対する私の見解です。
    一山いくらさんは、暴力的な運動に抗議する場合(しかも警察すらあてにならない場合)具体的にどうすればいいと思いますか。

     追記としてちょっとヒントを出せば、一山いくらさんは私とは逆の立場から、「一対一」的な発想に落ち込んでいるように思えます。また、差別排外主義に抗議する者に対してだけ「暴力」を非難する人を私はいっさい信用しないことを付け加えておきます。60年代の昔から、右翼が左派を襲撃したり集会を暴力的に妨害する事例は星の数ほどありました。しかしその逆は(ほとんど)なかった。その現状は今も同じ。「在特会」がやっていることと、私が相手してきたその手の人間がやっていることの、いったいどこが違うというんですか。否、むしろ勝って当たり前の相手しか襲わない、弱いものイジメを専門に楽しむ腰抜け「在特会」より、昔の私たちみたいな「プロ」と対峙する覚悟があった彼らのほうが、その「根性」においてまだはるかにマシとしか思えませんね。

     かつて私もビラをまいているだけで殴りかかられ、路上を引きずり回されたけど我慢しました。本部ビルには大型トラックで突っ込まれたし、火炎瓶も投げつけられたし、仲間の一人をヤッパで刺されもした。それでも現場での攻防以上にはこちらから相手のところに出向いて手を出すことはしなかった。
     まあ、たかがその程度のことで、今さら鬼の首をとったみたいキイキイと恨み言をいうほどケツの穴は小さくありませんが、そういう人たちと「在特会」を、私は本質的に全く同じものとして認識しているんですよ。「新風」みたいな右翼がバックについているんですから、もし一線を越えたとしても少しも不思議でもなんでもないでしょ。ともかく、身をさらしてそういう経験をしてきた人間に対して、このような歴史性を無視して、安全圏からまるで鬼の首でもとったみたいに自分にだけ都合のいい、勝手なことばかり言っても、私には嘲笑の対象としか見えないということをご理解ください。本当にこの国の大衆運動には、左右を問わずに「歴史性」というもんがないんですかねえ。

    ALL>
    追記。以下のエントリに資料付でスピンオフしましたので、コメントある場合はそちらに。これ以上は関係ない話題でここを汚さないようにお願いします。
    http://bund.jp/md/wordpress/?p=4339

    • 管理人より連絡
    • 2010年 9月 29日

    hfdhさん>

    何やら思わせぶりな”書き出し部分のみ”の投稿をいただきましたが、クリックしてみると要するに御商売のページ(それも英文)へのリンクであり、それへの誘導でした。アフェリエイト関連のスパムと判断して消させていただきます。

    御商売への誘導ではない意見をちゃんと全文書いていただき、その上で「ご自分で作ったコンテンツ」がたまたま偶然にも商用コンテンツを含んでいる程度なら、まあギリギリ仕方がない場合もあり得るかとも思いますが、アフェリエイトへの誘導リンクやその煽り文句はスパムと同じなのでお断りします。

    御商売とまったく関係ないところで純粋にご意見がある場合は、商用リンク抜きで再度投稿し直していただくよう、お願いします。

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