2ちゃんねるまとめ

2ちゃんねるブント (戦旗)スレまとめ part1 (5/5)

前エントリーからの続き)

803 :名無しさん@3周年:04/05/10 16:52
コレ↓ってマジ? インター・日向=大セクト、中核=弱小セクトだったの??

85年3・21チームスピリット粉砕闘争_戦旗・共産同

お名前 : 協賛しゅみ゛者
登録日 : 2004年5月10日1時44分
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中核からではないのですが、当時の三里塚無党派活動家(労農合宿所系)の立場から一言

> 大党派として自分たちのような小党派の批判を受け止める
> 度量があると思っていたらしい。

三里塚においては中核派は第2または第3勢力でしかありませんでした。
当時は、三里塚といえば管制塔占拠のイメージが強く、3・8分裂当時は、動員力ははるかに「熱田派」が優勢でした。少なからずいたノンセクトもほとんどが熱田派・インター・日向派にシンパシティーを感じていたのは事実です。(実際、私のように公然と「北原支持」を表明したのは、びっくりするほど少数派でした。)

したがって、北原派支持第一党派である中核派は、三里塚闘争的にはきわめて追い詰められていました。(この当時、中核派は一切の大衆運動を三里塚闘争に集約するという「三里塚基軸論」を打ち出していましたから、一歩も二歩も先を行く日向・インターに対してコンプレックスを抱いていました。(そのように解釈すれば、あの度外れた「脱落派」呼ばわりもインター・日向の「大セクト」にする「弱小党派」の精一杯の強がり、と理解できます。)

#もっともだからといってインターへの襲撃が免罪できるものではありません。(念のため)

インター・日向の現在の姿からすると80年代初頭の隆盛は想像することができませんが、中核派を凌駕する潮流であったことを踏まえておかないと、当時のことはよく理解できないかもしれません。

805 :名無しさん@3周年:04/05/10 18:06
>>803
こりゃまた随分な解説だなw

3・8分裂から一年後の集会では県警調べでそれぞれ熱田派が2000名、北原派が3400名なんだけど。
(ちなみに主催者発表は熱田派が3,950名北原派が12,150名w)
ノンセクトが熱田派に流れたってのはあるかもしれないし、管制塔闘争から力を持ち始めた赤ヘル三派に中核が一定の危機感を持っていたのもある程度事実だろうけど、熱田派の方が遥かに優勢だと思っていた人なんて当時の戦旗やインターの活動家の中でも少数だったんじゃないか?

806 :名無しさん@3周年:04/05/10 18:23
>>803 確かに「諸雑派」の数ではかなわなかったかもね。
北原派は解放派(狭間)、蜂起、西田戦旗だっけ。3400の大半は中核系だったんではないの?
熱田派2000のうちインター、日向はどの程度なの?

808 :名無しさん@3周年:04/05/10 18:32
>>803
ノンセクトって中核嫌いってのが多いだろうから労農合宿所からはそう見えたのかもな。

809 :名無しさん@3周年:04/05/10 18:35
分裂後にしか三里塚に行ったことのないオレとしては一度でいいから分裂前の集会に行ってみたかった。
1万人近い(色とりどりの)メットの隊列ってさぞかし壮観だったんだろうな。

810 :名無しさん@3周年:04/05/10 18:57
条件闘争で収束したい青行石井一派とそれを利用しようとした四ターがために塚はこんなことになっちまった。
チュンも頑な過ぎるが、禍根はそこにあり。人民の砦を瓦解に導いた罪は重いと思う。その頃の四ターは管制塔の頃とは大違い。獄に入った同志が可哀想になるくらい変節してしまってたなぁ・・・

811 :名無しさん@3周年:04/05/10 19:20
>>810
当時のことについてインター諸君(プロ青でもいいけど)の弁明を聞きたいものだ

812 :名無しさん@3周年:04/05/10 19:24
>>809
そりゃそうよ、壮観、すごいエネルギー。全国から来てたからな。
新左翼見本市で、普段目にしない党派もいた。あんなに集まるのは三里塚か狭山闘争ぐらいか。

813 :名無しさん@3周年:04/05/10 19:27

お名前 : すえいどん
登録日 : 2004年5月10日17時27分
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以下、時系列的に整理したもの。ご参考まで
1979年6月15日 いわゆる6.15協定問題
1982年2月 石橋委員長代行、内田行動隊長辞任(話し合い問題で)
1982年7月 成田用水菱田工区結成
1982年?月 第四インターレイプ事件でD査問(自己批判拒否)
1982年11月 石井新二、実役に一坪再共有化提案(1億5千万を集める方針)
1982年12月 実役、用地内の反対で一坪再共有化案きまらず
1983年1月9日 同盟旗開き、石井新二ら「共有運動取り組みのお願い」配布
1983年1月27日 実役、「お願い」配布問題となる
1983年2月12日 「反対同盟大地共有委員会」名で全国に募集開始
1983年2月28日 実役、議題は再共有化、石井の北原解任動議で流会
1983年3月8日  反対同盟分裂
1983年5月29日 仙台熱田派集会 中核派排除
1983年7月1日  大阪熱田派集会 中核派排除
1983年9月 第四インターA、B、C、D除名
1983年11月 菱田地区が成田用水計画に組み入れられる
1984年1月 中核派、第四インターへのテロ、5件の襲撃で5人重傷
1984年9月 中核派、2期工事阻止の自民党本部放火事件
1985年10月 中核派、2期工事阻止の10・20三里塚闘争241人検挙
1986年10月 東峰十字路事件1審判決、29人に執行猶予付き有罪判決
1986年9月14日 熱田派集会、菅沢事務局長、政府との話し合い解決を求める
1988年9月21日 千葉県収用委員会会長襲撃事件
1989年3月 熱田派,戦旗と絶縁
1991年 第1回成田シンポ(隅谷調査団)、熱田派参加

814 :名無しさん@3周年:04/05/10 19:34
>>812 それをおかしくしちまった、その端緒となった連中が許せないよ今も・・・
同盟の半数が快く思わぬ一坪再共有など、なんで分裂してまで持ち込む必要があったんだか。。

815 :名無しさん@3周年:04/05/10 19:56
>>814
分裂を確信的に進めたのは中核だと思いますけどね。
82年12月にのちに熱田派へ行く党派の集会があり、そこで、北原事務局長は83年の反対同盟三大方針といって、一坪方針を明確に訴えている。旗開き以前に同盟として決定していた、と見れる。ところが、年末から年始にかけて、中核が強引に反対オルグをしたのか、突然一坪が問題化していったのが実際のところ。
一坪問題は当時青行路線とうかたちで明確化していないものの、中核がなんらかの危機感をもち、それに抗するために持ち出された方便では。だから、いまでは平気で一坪をやろうともいうわけだしね。

816 :名無しさん@3周年:04/05/10 20:16
>>815
815さんの考える中核が持った「何らかの危機感」ってどのようなものでしょう?

(1)一坪共有者の名義から地権者の個人情報を革マル派に知られるのを恐れた
(2)除々に力を持ち始めた赤ヘル系の影響力を恐れた
(3)石井新ニが鬱陶しかった
(4)その他

817 :名無しさん@3周年:04/05/10 20:36
>1982年11月 石井新二、実役に一坪再共有化提案(1億5千万を集める方針)
>1982年12月 実役、用地内の反対で一坪再共有化案きまらず

>>815ちとつじつまあわへんな・・・
「旗開き以前に同盟として決定していた」

なんらかの危機感て、
「インター・日向=大セクト、中核=弱小党派」てやつ??
それを巻き返す作戦だったんかいな・・・・
なんか変やな。

818 :名無しさん@3周年:04/05/10 21:06
>>816
これは想像でしかなく、何の根拠もないものですが、
しいて言えば、(3)。
もちろん、うっとおしいというレベルではなく、一坪を推進している
勢力が路線的に変質することを感じでいたのでは。
赤ヘルの影響力拡大については面白くないものを感じていたとは思いますが、
それで同盟を分裂させることを中核はしないと思いますよ。
最後に「今になってみれば、中核が正しかった」という意見は
納得できません。確かに83年当時に青行路線が条件化への道であることを
見抜いた、というのであれば、中核に先見の目があった、となります。
だからといって、条件化を望んでいない熱田派の農家にまで、デモかけて、
罵倒したり、原則の観点が自派と違うからといってインターの諸君を
テロルのは三里塚のプラスになったとは思えない。それはあのテロをきっかけに
浅田氏をはじめ多くの中核シンパが100万実委を離れていったこともその証左です。

819 :名無しさん@3周年:04/05/10 21:46
(3)か・・・・
それがらみは感じます。
現地では一坪につき説得する中核現闘を殴る蹴る放題と聞いた。
当然、青行も同盟だから中核といえど徒手空拳、無抵抗は当然。
やべぇ~と思った。中核もぎりぎりまで我慢したと思う。
3・8で遂に「切れた」んだろうな・・・

820 :名無しさん@3周年:04/05/10 21:56
中核は一途過ぎるというか真面目過ぎるんだと思う。〝遊び〟というか〝懐が浅い〟というか。
と、いうと「原理原則が・・」と云われるけれど、あまりにもガッチガッチでは。
いまは80年代のような固くなさは薄れやや柔軟性は出て来ているのだけど。
着いていけなくなる者への配慮も必要だったかも知れませんね。
もしも3・8の悲劇が起きず、「話し合い絶対拒否」「農地死守」「空港絶対反対」を同盟全体が
貫いていたとしたらいまはどのような展開になっていたのだろうか。

821 :名無しさん@3周年:04/05/10 22:43
以前からセイコウ主流派は政府との話し合いによる決着を望んでいたわけで。
遅かれ早かれこうなってたと思う。
菱田に援農に入ったとき、セイコウ幹部から政府との話し合いは必要と言われビックラコイタ記憶がある。
だから中核のごり押しも排除の根底にあったが、一坪をきっかけとして、これ幸いと中核排除を仕掛けたと思われる。
またその時期、同盟全体を覆っていたのは、東峰判決だった。
大事な跡取りである息子達が、東峰判決で下獄することへの恐怖もあいまって
親同盟が中核排除反対を明確に打ち出せなかったのではないかとも思う。

822 :名無しさん@3周年:04/05/10 22:48
そして我がお人よし千機は、現行隊展開し、中の危機感とはまったく関係ない地平で農家に中の
理不尽を語り、結果としてゴメンナサイしたのだった。

823 :名無しさん@3周年:04/05/10 23:58
>>821
>またその時期、同盟全体を覆っていたのは、東峰判決だった。

そうね。これは結構大きかったのかも。
とある援農先ではオッカアが戦闘的で有名な人だけど息子さんが東峰裁判の被告になっていた。
息子さんは正直支援の援農には冷ややかで迷惑そうだった。
オッカアが逆に色々と気を使ってくれて昔の闘争の話なんかをしてくれた。
三里塚の農民は全て「話し合い一切拒否」「実力闘争貫徹」で意思統一されていると信じていた
当時の私は大変複雑な気持ちになった。

825 :名無しさん@3周年:04/05/11 13:14
>1983年9月 第四インターA、B、C、D除名

こりゃあなんや?詳細キボン。

826 :名無しさん@3周年:04/05/11 14:53
>>825
4トロスレで聞けば答えてくれるかもよ。
藻前は労農合宿所とかいってなかったのか?

827 :名無しさん@3周年:04/05/11 17:23
>>826
今これを聞かれてホイホイ答えてくれる4ター関係者なんていないと思われ

828 :名無しさん@3周年:04/05/11 20:20
この問題はかなり同盟内の特にセイコウのおっかあーに衝撃を与えた。
ABCDはいずれもインターの三里塚幹部であり、横堀要塞の被告も含まれている。
強姦問題だが、これを巡ってインターは衰弱を辿っていく。

829 :名無しさん@3周年:04/05/11 20:47
なんだよ、腐敗してるな。条件派ともども類は友を呼ぶじゃないかよ。

830 :名無しさん@3周年:04/05/11 20:57
>>829
よくわかりもしねーで大口叩いてんじゃーないよ。小僧!

831 :名無しさん@3周年:04/05/11 21:18
はぁ??ABCDのことかぁ~
だいたい想像できるけど、、、何をわかれと?
よくわかりたいとも思わんがね、そっち方面はw

833 :名無しさん@3周年:04/05/11 21:38
俺が言いたいのはABCD問題を擁護してるんじゃーなくて、その当時
反対同盟に嫁いだ新左翼の嫁にも衝撃を与え、この闘争の意義が大きく問われた時期でもあったんだ。
それを簡単に条件派でくくるのは許せない。
インターの行為は許されないが、78空港阻止はインター主体だし。
それを語らずして、829のように条件で言うのは許せない。

838 :名無しさん@3周年:04/05/12 20:47
農民に分裂を強要したのは中核のほうだろ。

839 :名無しさん@3周年:04/05/12 22:20
一坪さえ無理強いせねばそんなことには「絶対」ならんかった。いまでも俺は悔しい。

841 :名無しさん@3周年:04/05/12 22:59
長年くすぶってたものが、爆発したんだと思う。セイコウの多くは用地内ではなく
完成後は騒音下での生活を余儀なくされる人々で構成されていた。用地内農民を守る
というより、完成後の生活をどうするかにウエイトが置かれていたと思う。
だから、用地内農民を闘争の中心に据えていた中に対しては嫌悪感を持ってたと思う。
特に天神峰の農民に対しては、かなり・・・だった。
だから中の無理強いに対して、同盟の主体性をかけた分裂をセイコウは描き出したが、根底は
用地内一辺倒からの決別を宣言したのではないかと思う。
その当時千機は、天神峰農民の信頼関係も強めつつあったが、結局棘の道を歩み、同時に分列を機に
月日とともに用地内も瓦解して行った。
そしていまや当時のセイコウは町長にまで登りつめ、この世の春を謳歌してるという訳さ。(私論)

842 :名無しさん@3周年:04/05/12 23:12
ははぁ~、、だから敷地内の「農地死守」に対して「一坪」を敢えて対置したのか!?

843 :名無しさん@3周年:04/05/13 01:15
もう反対同盟の分裂も20年前の出来事だし、今さら原因がどこにあったかっていうのを
追求しても不毛なことなのかもしれないけど、少なくとも三里塚闘争だけでなく
日本の反権力闘争に与えた打撃は計り知れないだろう。
そういう意味では当時三里塚に関わっていた全ての党派に責任はあると思う。
指導部の思惑は分らないけど、当時の戦旗の「同盟の再統合」という訴えは少なくとも
若手の下部メンバーにとっては真摯なものだったと確信している。
集会などでの北原派への批判なんかは正直暗澹たる気持ちになった。

844 :名無しさん@3周年:04/05/13 05:31
一坪の「再共有化」だろ。一坪運動なんか社会党時代からやってきたことじゃない。
瓦解しようとする一坪運動を、再組織化するすることがなんで「切り売り」に
なったり「農地死守」と対立することになるんだ。
理不尽なケチ付けをして、分裂強行や個人テロを正当化するなよ。

845 :名無しさん@3周年:04/05/13 06:54
農地は反対同盟が死守して持ってりゃ済むことじゃ??
反対同盟が信じられなかったわけか?敷地内農民に対する不信が底流にあるのではないのか?
そういう相互不信を助長することに対して「再共有」には疑問点が残ると思う。
すべてが〝今更〟なんですけどね・・・。そういう類のものを無理強いする必要も無かったかと。
「分裂行動やテロ」以前の問題だろう。センセーショナルにそういえば何か正当化できるような、
欺瞞的マヌーバは止しましょうよ。一坪強行だって分裂の原因かもしれないしね。

846 :名無しさん@3周年:04/05/13 09:08
はあ?
再共有化しようとした農地は、全て元からの一坪共有地。
用地内農民の土地ではない。
敷地内農民に対してではなく、中核に対する不信が底流。

847 :名無しさん@3周年:04/05/13 11:54
そうは言うけど結局一坪の再共有化を推し進めた青行路線が話し合い路線へと転落していったのは事実。
戸村さんが当時存命ならば、分裂の危機をおしてまで一坪再共有化を支持しただろうか?
同盟の方針に支援が口を出し過ぎるのは敬遠されるかもしれないけど、やっぱり大事なのは
「農地死守・話し合い絶対拒否」の大義だったのではないかと今になって思う。

848 :名無しさん@3周年:04/05/13 12:01
>>846 だから反対同盟がもてばよかったんでは?同盟共有地とかで。
それを不特定多数(どんな椰子らが混じるかわからない)にするから疑心暗鬼がおきた。
ところで当時再共有に登記した椰子らはまだ「農地死守」してるのかな?

849 :名無しさん@3周年:04/05/13 17:22
分裂して気勢を上げたのはいいが、インターの隊列って集会の度に目に見えて減っていったよなぁ。
85年辺りだともう戦旗の隊列の方が多かったな。

850 :名無しさん@3周年:04/05/13 17:31
ABCD効いたんだろう・・・

851 :名無しさん@3周年:04/05/13 17:52
>>850
中核のテロとABCD....。まさにダブルパンチ。
インターの隊列カッコよかったんだけどな

852 :名無しさん@3周年:04/05/13 18:41
わが三里塚(風と炎の記録)に戸村委員長の考えが書いてあった。共有化だよな。
インターはイッパイイッパイだったと想うよ。財政でも、組織的にも。
丸投げで団結小屋が維持できるわけがない。荒んでしまったんだ。小屋の指導部も。
おっと言いすぎた。

853 :名無しさん@3周年:04/05/13 19:17
ところでインターと戦旗は仲良かったのか?
プロ青とインターほどではなかったにしろ。それでもイデ闘くらいはしたんだろう。
じゃなきゃ単なる「ズブズブ」ってやつだからね。そこら辺どうなのよ。

854 :名無しさん@3周年:04/05/13 22:49
仲良かったよ。横堀要塞を建設した戦旗派の同志はまさに献身的だった。
上は知らんが、イデ闘する時間なんかなかったよ。

だああから共同で実力闘争を闘えたんだ。信頼だよ。

856 :名無しさん@3周年:04/05/14 00:12
荒氏の著作を読むと、分裂のきっかけになる共有運動の前にもあった
一坪共有運動は殆ど有名無実化して実体が伴わなくなっていたとある。

最初の一坪共有は大々的にやらなかったから実行力をもちえなかったのかもしれないが、
「不発」だった事浜違いないだろう。
それをもう一度同盟の方針としてぶち上げるからには何らかの議論はあっただろうが、
予想される弊害について第四インター(現闘)内部でどう意思統一されたんだろう。

弾圧に対する心構えがない人間が共有に参加し、3倍から5倍の値段で
共有の解消をちらつかされる危険と、その共有を解消される事で
元の農民の土地所有の正当性を揺るがされる危険は想像できた事だと思うのだが。

857 :名無しさん@3周年:04/05/14 00:42
オレ全斗煥の時だったと思うけど、ハンスト中の公園(渋谷だったよーな)からマルキの排除に合って
引っこ抜かれそうになった時にインターのメンバーに助けられたんだよな。
ありがとうあの時の人。

858 :名無しさん@3周年:04/05/14 04:09
一坪共有地が今日まがりなりにも用地内に散在しており
それが公団の空港建設の障害になり続けているという事実も忘れてはいけない。
社会党時代に一坪共有がされていなかったらそれらの土地はどうなっていたか?

いずれにせよ、一坪再共有化は原則問題ではなく、単なる戦術上のささいな問題だと
俺は思うよ。それにこだわり続け、分裂事態にもちこんだ中核や青行両方が
間違いだったと思う。というか、そうなったことが、それまでの三里塚の
同盟ー支援の相互利用の関係性が孕んでいた陥穽を象徴的に表現してし
まったというか。

859 :名無しさん@3周年:04/05/14 06:38
で、当事の再共有登記した方たちは未だに「農地死守」なさってるの?
お一人も買収に応じたり脱落したりした方はいらっしゃらないのですかね。
そこ知りたい。もうあれから20年以上も経ているのですけど。

860 :名無しさん@3周年:04/05/14 10:58
で、一人でも買収に応じた人がいたら許せないわけ?
20年たった今、用地内がどうなったか知ってて言ってんの?

862 :名無しさん@3周年:04/05/14 12:01
まあまあ859さんも860さんも以前はどこかの集会で顔を合わせてたかもしれないんですし
マターリやりましょうよ。
859さんの疑問はオレも思わないでもないですよ。
別に「農地死守してるんだろうなぁゴルァ!?」とか思ってるわけじゃなくて
あれだけ三里塚闘争に禍根を残した一坪再共有という戦術が結局は20年経った今どうなんだ?と。
色々と党派の思惑はあったとは言え、分裂の契機になったことは確かなわけですし。
特に戦旗は熱田派に属していながら一坪は棚上げっていう立場でしたから「結局どうなったんだ?」
ってのは気になりますよ。
ところで>>860さん。用地内って今どうなってるんですか?

865 :名無しさん@3周年:04/05/14 21:54
インターの中の人も大変だったんだな

866 :名無しさん@3周年:04/05/14 22:26
共同で実力闘争を闘えたのは3・26だけだった。
戦旗派、共労党の同志を信頼できなくては何もできなかったよ。
空港に突入したさい、党派の違いはなく共に助け合った。
あの時の記憶は絶対に忘れない。同志だったんだ。

867 :名無しさん@3周年:04/05/15 00:13
空港突入戦士の>>866さんはその後の同盟の分裂、条件派の台頭・転落、熱田派支援党派の変遷を
どのような思いで見つめていたのですか?

868 :名無しさん@3周年:04/05/15 00:28
やっぱり石橋さん、内田さんだろうな。いちばんビックリしたのは。
これを境に、核を残してあとはレッテルを貼って切り捨てることにした。
条件派・脱落派。楽な言葉だよな。

869 :名無しさん@3周年:04/05/15 00:54
>条件派・脱落派。楽な言葉だよな。

そんな情緒的なことを云って自己憐憫してるけど、
そうしてるうちにも対極で歯を食いしばって頑張ってた人々に、
そんな倦怠的な言葉云えるのかオマエ。
ギリギリのとこでで頑張って農地死守、話し合い拒否、空港絶対反対を
堅持していた人にとって、そういう泣き言は問題外だったろうよ。
そんな連中はどう映ったんだろうな。少しはそういう立場に立ってみたらいい。
泣き言なんて云っている暇もなかったはづだぞ!頑張っているひとにとってな。
無責任な感傷にひたるな、そんなんは自分の心のうちに隠しておけ。

870 :名無しさん@3周年:04/05/15 01:04
>これを境に、核を残してあとはレッテルを貼って切り捨てることにした。

そういうあなたは核を切り捨てたのでは???
本末転倒の妙・・・・・それもこれも正当化さえできぬ自己正当化のなせる業。
理由がほしかっただけでしょうw条件・脱落のさ、ヤメヨォそういうの。

871 :名無しさん@3周年:04/05/15 01:17
>>869>>870
人には色々な事情があるでしょうよ。オレ868じゃないけど。
条件派に転じた人だって空港を憎むことには変わりは無かったと思います。

872 :名無しさん@3周年:04/05/15 01:17
>>868さんの言い方は
>>869さんのような反発を買うと思いましたよ。
原則論の応酬をすると、前提がかなり違う気がしますので、
あまり感情的にならないようにしましょうよ。
なんだか、80年戦旗スレがいつの間にか3・8スレに変わってきましたが、
できれば、事実経過について語り合えば、別の視点が理解できて、
両派お互いに有効なのでは。

873 :名無しさん@3周年:04/05/15 01:24
私は熱田派でしたが、前から石井シンジについてはどーも胡散臭い気がして
いたんですよ。「岩山に鉄塔ができた」という映画で、鉄塔建設のために
泣きながら必死になって訴える彼が出てきます。後に彼は「あれは鉄塔を
作るために演技で泣いたんだよ」と言ったらしいです。それは照れ隠し
だったのかもしれませんが、実際どんな人物だったんでしょう。
なんか、支援を「利用」することに長けていた感じがあったもので。

874 :名無しさん@3周年:04/05/15 01:31
>>872
まあ80年代の戦旗については3・8分裂無しには語れないものがあるからなぁ。

875 :名無しさん@3周年:04/05/15 09:04
>>873
シンジは、独自の農民論を持ってたんだと思う。
論も立つし。どちらかと言うとセイコウ主流とも一味違うと感じたが。
行動力はぴか一だったし。
セイコウ幹部と違ってたのは、東峰被告ではなかったことか。
そこが彼にとって、負い目だったのかも。支離滅裂でスマソ。

876 :名無しさん@3周年:04/05/15 20:34
しかし、あの管制塔占拠の闘い、インターの機関紙「世界革命」1面の写真は
当時すごい話題になったな。武装トラックで進撃するあの写真。あの機関紙
すぐ売り切れで、増刷につぐ増刷だったと聞いたけど。
管制塔にはインター、戦旗、プロ青の旗がひるがえったなあ。

877 :名無しさん@3周年:04/05/15 20:38
>>876
>管制塔にはインター、戦旗、プロ青の旗がひるがえったなあ。
インターは旗忘れたんじゃなかったっけ?

878 :名無しさん@3周年:04/05/15 20:42
そうだっけ? じゃあ後はどこの旗だった?

879 :名無しさん@3周年:04/05/15 21:55
インター、戦旗、プロ青=三里塚闘争に連帯する会がやったんだろ。
インターが旗忘れたんだったら、戦旗、プロ青の2派の旗しかひるがえ
らなかったんじゃねえか・・・

880 :名無しさん@3周年:04/05/15 22:17
>>878
「管制塔に赤旗が翻った日」の写真見ても戦旗とプロ青の旗しか見えないな

881 :名無しさん@3周年:04/05/15 23:54
>880さん
本読んだのなら知ってるはず。置いてきてしまったのです。
>879さん
インター、戦旗、プロ青=三里塚闘争に連帯する会じゃないよ。
=で連帯する会を括るのは間違いです。
全国の組合活動家、反戦労働者、学生が共闘したのが連帯する会だったわけで。
元々は戸村選挙の支援団体。中核、解放派もいたんだ。怒涛派もね。

阻止決戦当時の合宿所は各地の方言が飛び交い、うるさくて眠れなかった。
尼崎反戦と靜岡の連帯する会が論争したり。
「三里塚闘争の全国展開を三派に任せてばかりではいけない」等々

882 :名無しさん@3周年:04/05/16 00:07
今現在も荒んとこに残ってエコ活動している連中はどういう方たちなの?
かつての「同志」たちも大分残って活動してんだろうけど。
毎年の合宿(セミナー?)の報道をHPで見ると相当の動員はしているんだな・・・
なにか宗派じみてるんだけれども。かつての活動家の皆さんはどう感じてらっしゃるんですか?

883 :名無しさん@3周年:04/05/16 00:22
>>882
>かつての活動家の皆さんはどう感じてらっしゃるんですか?

このスレで散々語られてるけど、オレは胸中複雑。
自分のいた頃と違う組織になったことで、活動から召還したことの罪悪感の呪縛から
解放されたような、戦旗はあくまでレーニン主義を貫いてほしかったような。
まああのような変わり果てた姿になったからこそこういうスレが成り立つとは思うけど。

884 :名無しさん@3周年:04/05/16 08:05
>>882
このスレが荒されずまともな気がするのは、やはりあの当時の政治方針がまっとうだったからだと思う。
現状どうかと言われるとやはり少々複雑か。組織も瓦解し消え去った党派も多い中で所属組織がどういう形であれ
残っているのはやはり嬉しい。その反面客観的にみると粗の宗派組織であり、なんだかなーという気持ちが今。

885 :名無しさん@3周年:04/05/16 08:30
セクトというより粗ファン倶楽部と化しているのではないでしょうか。
路線・方針は別として粗自信の個人的な魅力というか人間性に魅かれるものたちが
未だに多く存在する。とりわけマルクス主義を放棄したことにより、ウイングが右に
伸びて、右派的な層を取り込み拡大している感じがする。で、それを所謂「左翼」と
呼んでいいものかどうか。右翼エコロジストのような規定がピッタリくるように思える。
で、それはもう皆が郷愁に浸る80年代戦旗の残像とは明らかに似ても似つかない。
俺はいまでもBUNDと称して存在していることがとても不愉快である。
一個人のファン倶楽部、粗を囲む会とか名実共に過去と切断してもらいたいよ。

886 :名無しさん@3周年:04/05/16 09:08
>>885
そうね。昔はそういう荒個人へのファンクラブ的要素はあんまり無かったな。

889 :名無しさん@3周年:04/05/16 13:05
>>884

元日向の友人の所説。326前後は、荒が獄中にいたために、
トップだけは駄目で、下部は誠実な日向派はまともな闘争を
結果的に組めてしまった、のだと。

891 :名無しさん@3周年:04/05/16 14:59
>>890
あの当時は、K置さんをトップに、N村やT原さん、S脇さんが
取り仕切ってたはず。
組織の伸張は、やはり粗出所後の80年からだった。
当時は79問題の陥穽が声高に叫ばれ、強固なレーニン主義党建設が粗から提起されたと記憶している。

892 :名無しさん@3周年:04/05/16 18:50
その党建設が、アジトでの共同生活なわけだ。

893 :名無しさん@3周年:04/05/16 19:10
>>892
戦旗しか知らないオレは新左翼はみんなアジトで共同生活するものと思い込んでたけど
他党派は違うのか?違うのか?

894 :名無しさん@3周年:04/05/16 19:16
>>893
そうだよな。
アジト生活が当たり前とおもってたからな。
アジト生活できない奴は主体的に弱いなんて言われてたからな。

895 :名無しさん@3周年:04/05/16 19:18
まぁ、どこも似たよーなもんだ。
飯場生活でレーニン主義的中央集権を学んだ。
大抵は2~3人の共同生活だが、知ってる某党派は
3LDKマンションに2段ベット4台を持ち込んで
8人が常駐なんて凄いのもある。

896 :名無しさん@3周年:04/05/16 19:28
共同生活で真剣に困ったのは真剣な話オナーニだ

897 :名無しさん@3周年:04/05/16 19:32
アジトでは出来ないので、喫茶店のトイレでハゲシク励んでいました。

898 :名無しさん@3周年:04/05/16 19:34
>>896
そうか?
というより、あの頃金も無くて、Hの場所には正直困った。

903 :名無しさん@3周年:04/05/16 19:42
一回だけ真昼間に誰もいないアジトで激しくコスり上げますた。
あの時に中核が攻めてこなくてよかったッス

905 :名無しさん@3周年:04/05/16 19:45
>>898
学生のアジトにいきなり行ったらメンバー同士ヤってたとか言う話は聞いたことあった。
「アジトでそんなことすんなよ!」とか調子合わせてたけどハゲシク勃起した

904 :名無しさん@3周年:04/05/16 19:45
まーそろそろ本題に戻ろうぜ。
しかしアジト生活は俺は正直苦にはならなかったな。
色んな人間いたし、帰ると誰かいるというのは、田舎から上京した俺には
安らぎだったしな。

906 :名無しさん@3周年:04/05/16 19:53
>>904
気の合わない人間が全くいなかったわけじゃないけど
概ねみんなといると楽しかったな。
アジトでもそうだし、三里塚の小屋や闘争で学生寮なんかに詰めてる時の
緊張感も伴った解放感はちょっと特別だったな。
同志と一緒ということと自分自身の若さ。
これからの人生、ああいう解放感を味あうようなことは二度と無いんだろう。
でもまあ消耗してくるとその共同生活が苦しくなってくるんだけど。

907 :名無しさん@3周年:04/05/16 19:55
山行はどうだ。オレはいまだに山やってるぞ。

908 :名無しさん@3周年:04/05/16 20:06
>>906
確かにそうだよな。
出身階層・学歴も含め、飾らず自分自身をさらけ出すことの出来た空間は
あそこしかなかったしな。

909 :名無しさん@3周年:04/05/16 20:10
>>907
すごいな。
俺はジムでの筋トレだな。
代謝が落ちてきてるのか、太りやすくなったしな。
山行の思いでは、こける直前は、頂上まで歩ききれなかったな。
精神的に萎えると早く温泉に入って楽したかった。

910 :名無しさん@3周年:04/05/16 20:13
>>907
年越山行は楽しかったなぁ。
自分達以外誰もいないところでテント張ってるから酔っ払って思いっきりアジったりしてw
仲間も「意義ナーシ」とか「ナンセーンス」とか突っ込んでゲラゲラ笑ってた。

911 :名無しさん@3周年:04/05/16 20:14
>>907
山行はブント系のノンセクトなんかでもでも結構やってたぞ。
オレの知ってる人は、谷川岳でロッククライミングしてたぞ。
もう、革命戦士を育てるというより、自分の趣味の世界だったな。

912 :名無しさん@3周年:04/05/16 20:22
>>911
某キャップはどこかの城壁でロッククライミングの練習してたら
そこをベースに練習してる山岳会の人に海外遠征誘われたらしい

913 :名無しさん@3周年:04/05/16 20:23
援農からアジト生活そして山行。常に肉体を酷使したんだが、でも今となれば
それも、苦しくも楽しくも精神的には張りのある青春の日々だったんじゃない。

914 :名無しさん@3周年:04/05/16 21:08
山行って山谷闘争支援ではなかったのですね。

915 :名無しさん@3周年:04/05/16 22:04
あはは、登山。しかも本格的な登山。冬山もあった。

916 :名無しさん@3周年:04/05/16 22:17
遭難して随分迷惑かけた上、お上に助けてもらったなー恥

917 :名無しさん@3周年:04/05/16 22:33
連赤もそうだがブントって山にこもるのすきですなぁ。
山岳民族のような。どこから山のDNA取り入れたんだ。
というか、持ち込んだ椰子はだれだ?

918 :名無しさん@3周年:04/05/17 00:25
ひゃはははは。
やっぱ粗だろう。
彼は彼で冬の剣が目標だったし。
冬の富士登山などは、日本登山史初の快挙!(人員的に)と騒いでたし。
確かに遭難すると武装訓練とブル新によく報じられたな。
俺は冬山なんぞ千機に入らなけりゃ絶対あり得なかったな。
そういった意味では、マイナス30度の世界の体験は良かったよ。

919 :名無しさん@3周年:04/05/17 00:32
粗は登山の心得があるのか?
早稲田時代登山かワンダーホーゲルしてたとか。
ハイキング部か?

921 :名無しさん@3周年:04/05/17 00:50
>>919
始めたのは、分派以降と思われる。
最初は、ハイキング程度の山から徐々にグレードを上げていった。
トップグループは、ホント登山家としてもいけたんじゃないの。
山岳同○会にもいけそうなメンバーもいたし。

922 :名無しさん@3周年:04/05/17 00:51
そう言えば山登りだけ来て集会には一回も来なかったオル対がいた

923 :名無しさん@3周年:04/05/17 00:55
>>921
>山岳同○会にもいけそうなメンバーもいたし。
ゲ○ジさんなんてまさにそのレベルだったよね。
それにしても山岳○志会って....
その名前を知る新左翼なんてやっぱ戦旗くらいだろうなぁ。
まああの山岳会は登山界の中核派みたいだったけどw

925 :名無しさん@3周年:04/05/17 13:16
某地区では戦旗ということを隠して登山サークルを設立したそうな。
正体をばらしてからも残った人がいたというのもスゴイ。

926 :名無しさん@3周年:04/05/17 13:18
アジトの表札に○○山岳会とか書いてあったな。
同じ建物の住人に「僕も山登るんですよ」とか言われドキマギしますたw

928 :名無しさん@3周年:04/05/17 15:53
>>925
>正体をばらしてからも残った人がいたというのもスゴイ。

マジかよっ!

929 :名無しさん@3周年:04/05/17 19:09
>>923
山岳○志会は最近パッとしねえな。ま、あまりにも多くの死者だしすぎてるからな。
20人入会すると、1年後に残るのは数人。1年に10人死ぬって言われてたもんな。
戦旗はそこまでいかなくてよかったね。

930 :名無しさん@3周年:04/05/17 19:23
やくざは、へまこいて手の指を落とすが。
当時の千機は、冬山登山で足の指落としてた。

931 :名無しさん@3周年:04/05/17 19:25
>>929
一年に10人は大げさだけど「遭難同志会」とか言われてたのも確か。
八ヶ岳赤岳東壁靴下登頂男小西正嗣ですら死んでしまつた。
スレ違いスマソ
新左翼に若い人が集まらないように伝統的な大学山岳部にもあんまり人が集まらないようだ。

932 :名無しさん@3周年:04/05/17 19:28
それと、中のテロによって瀕死の重傷を負った奴はいなかったが、
登山では何人もいたなー。
今思えば、常識からするととんでもない山行だったな。

933 :名無しさん@3周年:04/05/17 19:31
>>932
戦旗ってそんなにも遭難者出してたの??
オレがいた頃は聞いたこと無かったな。そんなに高山には行ってなかったからな。

934 :名無しさん@3周年:04/05/17 19:59
>>933
例えば登山経験が無いが、3泊4日の冬山が初登山。
それも南アルプスていう感じだった。
若さかな。

935 :名無しさん@3周年:04/05/17 20:05
>>933

俺が知ってるだけで3回遭難してるw
その上、権力に助けて貰ってあの時、辞めてて正直、良かった
とつくづく思ってるw
反権力が権力に助けてもらう構図なんて、マルでもないはずだ!w

936 :名無しさん@3周年:04/05/17 20:09
だいたいあんな大人数で山へ行きゃあ、時間はかかるし、アクシデントも
起きて当然。遭難までいかなくても、ヒヤリはしょっちゅう。
今、中高年登山ツアーで事故が多いのと同じこと。もしかして、今も元戦旗
が事故ってるんじゃあ・・・

937 :名無しさん@3周年:04/05/17 20:14
オレがいた時は純粋な登山好きな人なんかも結構いたので
登山におけるアクシデントは決して革命的精神なんかでは乗り越えられないwという
リアリズムも認識した上で登ってたような気がするな。
まずは丹沢日帰りとかからはじめたらよかったのに。
権力に助けられるのは真剣みっともないな。

938 :名無しさん@3周年:04/05/17 20:37
静岡のガサ入れでは散々権力に嫌味を言われたらしいが。
まー色々あったが、今やそんなこともないだろう。
ていうか、今なら即救助のコールサインだろうが。

940 :名無しさん@3周年:04/05/17 21:46
皇居に火炎弾攻撃なんてのもやってたのを覚えてるが、理系に強いというか
その方面に詳しいのがいたんだな。農業もやれば山にも行く、火炎弾も作る、
合間にアルバイトで稼ぐ・・・ 忙しいな。

941 :名無しさん@3周年:04/05/17 22:59
まー色々あったが、80年代前期は、健全な左翼たらんと頑張って気がする。
そのことに悔いがないが、学生時代の友人が一人もいないのも悲しいものがある。
ほんと青春はBUNDに捧げたな。

942 :名無しさん@3周年:04/05/17 23:08
それは革命家の宿命さ。
70年代ならいざ知らず、クラスの主流派は「しらけ世代」ばっかだった。
80年代、既に層としての「左翼」は退潮の一途だったもの・・・・
その頃でさえ左翼言う奴は浮きまくり、民青だって撃滅していった訳だし。
団塊の世代の尻拭い、なんていう奴さえいたなぁ。

943 :名無しさん@3周年:04/05/17 23:25
俺80年代半ば、代々木で予備校行ってたころ、戦旗派の人が代々木駅
で演説してたので話を聞いたことがある。
心情的に左側だったので、興味があったんだけど、やっぱり過激派の運動に
係わるのは躊躇いがあって、結局お誘いは断った。
入っていたら、皆さんのようなことになっていたんだなぁ。
いろいろ勉強になりました。

944 :名無しさん@3周年:04/05/17 23:55
>>924
いやー80年代では本当に学内では浮いてたよ!
メット情宣とか、教室でアジったりするともう
ヒソヒソ( ´Д`)(´Д`)ヒソ(´Д` )ヒソヒソって感じだったしねえ。
オレはまあ学校にも友人が何人かいたから余計に辛かったよ。
「お、お前何やってんの?」とか情宣中に声かけられると「あ...いや...」
とか口ごもったりしてw
大体もうその頃の学生なんて右翼と左翼の区別もついてないのがいるから
右翼の街宣車が通ると「おーい、お前の仲間だぞー」とかからかわれてさ。
でもまだ東大(本郷)とかは雰囲気残ってたよね。
ハンスト防衛とか言われて夜中に交代でメット被って角材持たされて
キャンパスをウロウロしてたら夜中の三時頃なのにあちこちで立て看書いたりしててさ。
やっぱ偏差値の高い国立大は違うなあとか思ったよ。
寮の中も日帝打倒!とかの落書きだらけだったし。

945 :名無しさん@3周年:04/05/18 00:05
>>943
>入っていたら、皆さんのようなことになっていたんだなぁ。

まあここで色々思い出を書いている人は皆「わが青春に悔い無し」って感じじゃない?
普通に大学生活しているだけじゃ経験できないこともたくさん出来た。
過激派なんて言ったって中に入れば普通の人々と普通の付き合いがあった。
前のレスにもあったけどむしろ通常の人間関係よりも自分をさらけ出した付き合いが出来た。
それに慣れちゃうと外に出てから苦労するんだけどねw

946 :狼煙派:04/05/18 00:44
登山ネタで盛り上がるあたりがやっぱり(w

>>935

俺は冬山は無いけど、沖縄のヤンバルの沢登りで死にかけた事あったな。
琉大ワンゲル部は西表島合宿で二年連続でヘリ出動させて、議会から
追放勧告を受けたぐらいだから、いい勝負じゃねえか(ゲラゲラゲラ

947 :今さらですが1 ◆y6SLqwSRMc :04/05/18 00:46
今さらですが1です。
過去の例からブントスレは荒れることを覚悟してスレ立てたのですが
思いのほか荒れることなく比較的良スレと言っても差し支えの無い進行だったのではないでしょうか?
これは皆さんの良識によるところが最も大きいと思います。
同時に何方かも書いていらっしゃいましたが、当時のブントがマジメで熱意を持った活動家によって
支えられていたこともあるでしょう。
人間の一生にも色々な段階があるように、組織にも生まれてからその使命を終えるまで
様々な段階を経ていくものだと思います。
思うに(格好よく書けば)80年代の前半~中盤辺りは戦旗・共産同という組織にとってはまさに
輝かしい青春時代だったんじゃないか?などという気もしています。
その時代と自分の青春時代がシンクロしたのはある意味とても幸運だったと今にして思います。
さて、お集まりの皆様。
まだ語りつくせないようでしたら責任上次スレ立てますけど如何ですか?

949 :名無しさん@3周年:04/05/18 09:17
>>947

 是非パート2も頼む。俺はBUNDのOBではないが、
 一応まじめにコメントさせてもらっている。
 皆さんの真摯な姿勢が伝わってくるゆえに。

 当時は寧ろ違った立場の者でありました。
 立場は違えどお互い「青春」でした。

950 :名無しさん@3周年:04/05/18 19:45
>949さん
禿同
>1さん
70年代後期からのひたむきで献身的な戦旗派活動家諸君が基礎を作ったから、
80年代の闘いが組めたのじゃないのかな。
三里塚の集会場で出会うといえば長蛇のトイレ。我慢できずに土手を乗り越え
一緒に立ちションしたXさん。なつかしいな。

951 :名無しさん@3周年:04/05/18 19:46
うだな。
俺も昔がよみがえって、ここを見るのが楽しみの一つ。
妻も子供も書き込みしてるのは知らないが。
同窓会でもそのうちすっぺ。

952 :名無しさん@3周年:04/05/18 19:49
それがよかろう。酒の勢いで新宿か渋谷あたりでジグザグデモなどいかがだろう。

953 :名無しさん@3周年:04/05/18 20:19
コールは安保粉砕!日帝打倒!でいきますか。

954 :名無しさん@3周年:04/05/18 20:26
安保! 粉砕!

日帝! 打倒!

闘争! 勝利!

955 :名無しさん@3周年:04/05/18 20:31
いやほんと戦旗は真面目。血債、猛省精神ですから。
立ちションはおおめにみてよ。

956 :名無しさん@3周年:04/05/18 20:34
まじで同窓会やらない?
企画は1で。
6月中旬辺りで東京というのはどうよ。

957 :名無しさん@3周年:04/05/18 20:40

 元㊥とか元青とかでもいいのか??

 そうなりゃ、新左翼同窓会になっちまうな(w
 ゲバだけはごめん蒙りたい(口だけなら・・・w)

958 :名無しさん@3周年:04/05/18 20:47
お互いコケた物同士で仲良くやれるだろう。

959 :名無しさん@3周年:04/05/18 21:00
アラも呼ぶのか。

960 :名無しさん@3周年:04/05/18 21:05
呼べば来るだろうが、OB会なのでそれはやめようぜ。(笑)

961 :名無しさん@3周年:04/05/18 21:22
酔った勢いでうっかり殴っちまいそうだしな(w

962 :今さらですが1 ◆y6SLqwSRMc :04/05/19 00:03
1です。
みなさんのご賛同が得られたと解釈しまして、次スレ立てさせていただきます。
スレタイは
【安保日韓】’80年代ブントを語れⅡ【血債猛省】
とかこんな感じでいいですか?
何かご意見あればお願いします。

>>950
>70年代後期からのひたむきで献身的な戦旗派活動家諸君が基礎を作ったから、
>80年代の闘いが組めたのじゃないのかな。

全くその通りだと思います。
80年代に結集したメンバーにとって「3・26戦士のように!」は共通認識だったと思います。
70年後半に切り拓いた地平が80年代に花開いたと言っても過言ではないと思います。

969 :名無しさん@3周年:04/05/19 23:11
60年代からの活動家は、今もこの青春に悔いなしなんだろうな。
中の迎賓館デッチあげ奪還戦士とか見てるとある意味新左翼も歴史を刻んでいると思う。
しかし衰退の一途だが。
ホント日本もイタリアのオリーブの木みたいに連合統一候補で総選挙に打って出るくらいのパワーが欲しいよ。
ちまちましたって政治は変わらないよ。
千機が伸びた80年代だって、たかだか600名の動員だよ。それから20年、今の動員・・・・。
こんなんじゃー政治が変わりっこないジャン。
人はどこから来てどこにいくのか?これは多分ここに参加している人の全ての命題ではないか?
俺はいまの日本の政治に正面から切り込んでいくならいつでも応援したい。と家族を抜きにして思う。

991 :名無しさん@3周年:04/05/21 20:41
このスレ、ずいぶん楽しませてもらったよ。ありがとう。
あの人の書き込みかなとか、もしかしてあいつかな、とか、いろいろ想像したりした。
オレは70年代後半に活動した世代だけど、80年代の皆とも楽しく語らせてもらった。
次スレに行く前に、お礼の一言でやんした。

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