主張の正しさは行動を正当化しない。逆もまたしかり(上)

◆自分に誠実であるために

 他にも書きかけの原稿や、優先順位から言えば先に書かねばならない大切なこともあるのですが、ちゃんと書いておかないと、私のいままでの、そしてこれからの発言が嘘にもなりかねない話題だろうという点で先に書いておきます。

 何のことかと言って、知っている方も多いでしょうが、反原発100万人行動における、6・11新宿デモの主催者側と、同デモに参加した「ヘイトスピーチに反対する会」(以下、反対する会)内の有志との確執(?)のことです。関係者、とくに「反対する会」有志の皆さんには失礼な言い方ですが、客観的にみれば今のところコップの中の嵐といわざるを得ない状況ですし、無関係なのに口を出すのが面倒なのか、関係者以外のブロガーであえて言及する人も少ないようです。地理的にも離れていたりして、無関係の度合いが強いスナフさんとか非国民通信さんくらいかな?

 そんな多勢に影響のない(今のところ)状況ですから、ほおっておけばよいものを、他の人から見れば、わざわざ「火中の栗を拾う」かのように見えることを書くのにはわけがあります。それというのも、この話題を無視して何も書かないことは、私が今まで長年にわたって書いてきたことの整合性がとれない、もう少し強く言えば、今まで書いてきたことが嘘になる、さらに強く言えば、私は少数とはいえども、このブログの読者さんをだましてきたことになりかねないと思うからです。そのことは後で書きます。

◆事実経過

 さて、6・11実行委と、それを批判する「反対する会」内の有志の皆さんとの問題について、私が把握している(思っている)事態の推移は以下のとおりです。ここで重要な部分が間違っていたら、あとの考察も的を射ないものとなってしまうかもしれませんので、大きな間違いがあったら指摘していただきたいと思います。

1)6・11と同じ主催者による4・10高円寺反原発集会に参加していた新右翼の鈴木邦男さん(「一水会」創設者)が、主催者に乞われて飛び入りアピールを行う(⇒動画)。
2)6・11主催者側が、鈴木さんと同じ一水会―統一戦線義勇軍系列の新右翼、針谷大輔さん(統一戦線義勇軍議長)に当日の発言を要請、針谷さんはこれを受諾し、集会の公式ページにも掲載される。
3)集会前日、「反対する会」内の有志5名の皆さんが、針谷さんの発言を中止するよう主催者に要求する「質問状」を公表。聞き入れられない場合は「会場で問題提起をする」と妨害行動を予告。それと前後して主催者側より「都合により」針谷さんの発言を中止すると公式ページ上で発表がある。針谷さんらは主催者からの中止要請を受諾した上で、集会にのみ参加しデモには不参加の方針を決める。
4)当日の会場内において、日の丸をもって参加した針谷さんらの一行に対して「帰れ!」などと詰め寄る複数の人が目撃されている。針谷さん側にいた高校生は「殴られた(ボコられた)」とも証言しているが、「反対する会」側はそれを否定している。また集会が終わって帰ろうとする針谷さん側の人に対し、会場を出るまでつきまとって問い詰めている人もいたが、これらの行動をとった人が誰なのかは不明
5)集会で「ふるさと」を歌って「私は日本が大好きです」と発言した(⇒動画)14歳の少女タレント(藤波心さん)に対しても、ブーイングをあびせている人がいたとのこと。ただしこれも誰なのかは不明
6)同じく「日本人は世界に誇れる民族」と発言した映画俳優(中山一也さん)に対し、「反対する会」の人々が壇上に詰めよろうとして主催者に止められ、もみ合いとなる。「反対する会」は同会の野次に対して中山さんが壇上から挑発しかえしたのが原因と主張(⇒同会の言い分 ⇒動画)。
7)針谷さんへのリスペクト(あるいは「反対する会」のやり方に対する反発?)から、日の丸をもって壇上にあがったアナキストに対し、同会がマイクを引き抜いて発言を阻止。さらに主催者に対して「どういうことだ」と詰め寄るなど混乱(⇒動画)。
8)同会は今も針谷さんを呼んだ理由や経緯について釈明するよう、主催者に要求を続けているが、主催者側は公式な回答書などは出さずに黙殺を続けており、同会もまた今回の妨害行動についての総括などは出しておらず、互いに沈黙のまま事態は風化しつつあるように見える。

◆訂正(2011.06.27)

 これ↑を読んだ統一戦線義勇軍の方から直接に訂正を要請するメールをいただきました。まず針谷さんは当日、結局別の集まりに参加して新宿には行かなかった。また、その他のメンバーやシンパも含め、義勇軍関係者は新宿集会に一人も参加していないので、それは明確に書いてほしいとのこと。新宿集会に日の丸を持って参加していた人たちと義勇軍は無関係であるとのでした。

 また、「反対する会」への批判もしくは針谷さん擁護の発言をしたために会場で「殴られた」と主張しているのも義勇軍関係者ではなく、S君という法政大学の左翼(アナキスト)学生だそうです。また、殴られたと主張している場所も会場内ではなく、デモが終了してからのことでした。「殴った」という表現に関しては、それほどのものだったのかどうか直接現場を目撃していませんので、私としては両論併記以外に方法がありません。「第三者」の目撃談についても、一般的にネット上の発言を鵜呑みにするのは危険だと考えています。そのあたり慎重になることはご理解ください。まあ、私なら集会などの内部でちょっとくらい殴られても、大怪我しない限りはご愛嬌ですませますから、そのあたりの感覚は少しズレているかもしれませんね。

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◆多少の問題整理として

 まずもってこれは、あくまでも「反対する会」有志と、6・11デモ主催者側との問題だということですね。その元になった針谷さんについては、集会の趣旨に賛同して賛同人(Web上で一般公募されており、誰でもなれる)になり、それをうけて主催者側のほうから針谷さんに「当日に発言してほしい」とお願いしたものであって、別に針谷さん自身が「集会で発言させろ」とか要求したわけではありません。さらに前日になってからのドタキャンも受諾し、集会運営には協力しているわけですから、特に非難されるような点は見受けられません。実際、反対する会の「質問状」(実際には要求書ですが)の名宛人も集会主催者になっているわけで、この両者の対立に針谷さん側はまったくからんでいません。このあたりを混同するとわかりにくくなると思います。

 次に、「質問状」に名を連ねているのは「反対する会」の有志7名(うち2名は匿名)であって、「反対する会」全員の総意ではないようです。そもそも「反対する会」自体が個人共闘で、その意思は独立したものであるようですし、この「質問状」に名を連ねていないかたもおられるようなので、その点には注意しておく必要があると思います。さらに、この有志7名にしても、その統一した意見や要求として出されているのは、「質問状」と同会からする「当日の経緯」の二つだけであって、たとえばTwitter上などで活発に発言しておられる方もありますが、それはこの「質問状」に名を連ねた人の個々の思いをつらねたものにすぎません。

 多少ややこしく感じる方もいるかもしれませんが、要はあくまでも「質問状」およびそれによる当日の集会における混乱、それだけを判断材料にすればいいということです。それ以外は、この事態に対する「いろんな意見」の一つにすぎないと考えればいいということです。

◆私の第一印象

まず、「質問状」を一読して思ったのは、これは20年以上前の新左翼の文書には本当によくありがちだった論理展開であって、おそらく新旧の活動家には理解できる範疇だけど、震災以降の数ヶ月間の事態の推移によって、新しく流入してきた人には消耗をもたらすのではと心配しました。文書自体が非常に活動家向けに書かれていて、それ以外の「ズブの素人さん」への説得をほとんど意識しておられないように思います。別にそれならそれでいいのですが、当人たちにその自覚がないことに危惧を感じます。そして当日の集会進行に対する妨害行為を含めて、「ちょっとそれはないんじゃないの」と思った。この時期に書いた私のTwitterを羅列すると以下のとおりです。

とても心配しています。主催者が呼んでおきながら同じ主催者が排除とわけわらんことになった針谷氏には気の毒に思うが、「反対する会」をあまり孤立させたくない。

針谷氏めちゃくちゃ怒って吐きまくっている。まあ、怒ること自体は今回ばかりは仕方がない。本人が参加させろとか発言したいと言ったわけじゃなく、「そっちから呼んでおいて」ということだからなあ。

「質問状」の「反原発の核心」についての趣旨には異論はないが、なんで高円寺集会に鈴木邦男氏が登壇した時に問題提起しなかったのだろう?そうしていればこんな問題にもならなかったのに。鈴木はよくて針谷はだめというのがよくわからない。

特定の主義者ではないという意味の「一般参加者」への影響が心配。おそらくどんなに趣旨を説明しても「左翼が右翼を(イデオロギーの違いから)排除した」程度にしか思えないだろうから。

ただ、いくら反原発の一点で…といってもものには限度がある。新風-在特会サイドの一部には反原発を言い出した部分も存在する。こういう排外主義者が参加してきたら、それも容認するか?発言させるか?言ったことは自分にかえってくるのだから、そこまで考えてものを言わないといけないと思う。

どうも「ヘイトスピーチに反対する会」への風当たりのほうが強いし確かに「妨害します」「デモ参加・発言を妨害することに協力してください」とまで書かれると引くけど、それに「非常時の大同団結」を対置することにも組できない。もう少しまとめてブログに書こうと思う。

針谷氏と「ヘイトスピーチに反対する会」の問題で、同会の「思想」に異議はないが、「行動」に疑問を感じると言ったら、「右翼差別主義者の味方」認定されてしまった。そういう問題ではないのに。

私は今まで、いわゆる拉致問題やチベット問題を、右翼が私物化しようとしてきたことに不満と批判を述べてきました。その点についてダブスタにならないように慎重に考えています。ただ、たとえばカクマル派のやったことをインターに追及するみたいな無知なことの裏返しはやめたいと思う。

また、同会の「質問状」のコメント欄に、以下のような文章を書きました。

この文章に異論はないが、皆さんが「反原発の一点で集まろう」という集会の趣旨に同意できるかどうか。できるなら針谷氏の登壇時に抗議行動などしてはいけない。できないなら参加しないで独自にやればいい。これが基本。質問状は集会の趣旨に介入して変更を求めるものだから、それはやりすぎであって支持できない。
もちろん針谷氏のアピール内容も集会の趣旨を壊すものであってはならないから、針谷氏が何を言っても我慢しろとまでは思わない。内容しだいではヤジもあり。「純化」にも反対だが、馴れ合いは良くないと思うし、安易な「左右共闘」にも反対。だが左右以前に「人として許せない」ことには「人として反対する」のは当たり前ではないだろうか。
ただ、いくら反原発の一点で…といってもものには限度がある。新風-在特会サイドの一部には反原発を言い出した部分も存在する。このコメント欄にも、さっそくこの質問状が正しいと証明するような輩による書き込みがある。こういう排外主義者が参加してきたら、それも容認するのか、発言させるのか。言ったことは自分にかえってくるのだから、そこまで考えてものを言わないといけないとは思う。
2011-06-11 09:57

かなり混乱していることがわかりますね。でも、だいたいここに私の問題意識は出尽くしていると思います。

◆自身の発言との整合性として

 この問題で私が一番に思い出したことは、自分がたとえば拉致問題やチベット問題、あるいはブログや掲示板などでの荒らし行為に対する自分の意見です。最近は「在特会」の行動などがドン引きの対象になってくれたおかげで、ヘイトスピーチに対する風当たりも若干ですが強くなり、一時期ほどではないようですが、初期のころは本当にひどかった。私はそれに対する問題提起を何度もおこなってきました。思い出す範囲でいくつかあげてみますと。

ついにこの話題に言及-北朝鮮と拉致問題-
「ラチラチ詐欺」被害が依然として続いています!
対北朝鮮人権運動の全人民化を希求します
長野聖火報道で見たショックな光景
「君が代」の替え歌で懲役2年もー自民党が法案提出を検討

 この頃、佐藤勝巳氏などが「拉致被害者を救う会会長」の名前で、「センター試験において、ありもしない強制連行を試験問題にする事」に対する声明を出したとか聞くと、まったく何をかいわんやという気持ちでした。拉致被害者の政治利用もはなはだしい。自分の主張(右翼政治運動)を押し隠し、被害者の陰に隠れて反戦派を撃つ。右翼がその政治運動の一環として拉致問題にとりくむのは、ある意味では論理的帰結ではあるが、それをまるで拉致被害者を救援する一環として右翼運動をしているかのように見せかける、結果、そこから左派を排除して入れないようにする、そうしておきながら、左派は拉致問題に取り組んでいないとか、あまつさえ北朝鮮の味方だとかのデマを流す。これはもう政治的な詐欺師以外の何者でもない。

 この時期にはネット上でも上記のような詐欺師(ネトウヨ)が横行し、北朝鮮とはまったくなんの関係もないエントリにまで、唐突に「北朝鮮はどうしたw」みたいな荒らしコメントを集団で書いていく輩がぼうふらみたいに湧いてでていました。だいたい政治的なブログや掲示板でなくても、荒らしは削除するのが当たり前です。そのブログなり掲示板なりには、設置した目的というものがあるのだから、それを邪魔するような行為は言論弾圧なのです。なのに荒らしコメントを消されたという当然のことをもって、それが「言論弾圧」だなどと、事実を180度逆に歪めて粘着してくる。

 こういう最低の輩は、いったい言論の自由というものはなんだと思っているのか。たとえば共産党の演説会でもなんでもいい。その集会の趣旨に反する団体なり個人が、「この集会の趣旨に異議がある」からという理由で押しかけ、演壇を占拠したり勝手に演説とかはじめたら、会場からつまみ出されるのが当然ではないか。そういう妨害行為をしている人こそが「言論弾圧」をしているのであって、「演壇占拠したら排除された!これは言論弾圧だ!」なんて寝言は寝てから言えということです。

 言論の自由というのはもっとも基本的な人権の一つです。だからこれに対抗できるのも人権だけです。自分の人権を主張しておきながら、それを他人の人権を傷つけるために使うのは論理矛盾です。これは「人権の内在的制約」と言われる論理ですが、単に「俺は何をしても自由だ」とか言って、気に食わない奴を殴って回る自由など誰にもないという、ごく当たり前のことを言っているだけです。だからいくら言論が自由だと言っても、他人を傷つけるような差別言論、すなわちヘイトスピーチの類は、その自由人権の名において許されないし、それを停止するように要求する権利が、直接の被害者のみならず、世界中のすべての人にあるのです。私たちが他国の「内政」であるはずの北朝鮮や中国の人権侵害に抗議することができるのも、唯一この理由によるわけです。

 多くの左翼は、左翼としてではなく、一個人としてたくさんの人が拉致問題やチベット支援の集会に参加しています。ですが、いっとき私は、拉致問題についてはもちろん許せないし、これが「全国民的な課題」だと言うのなら、その趣旨に全面的に賛同する左翼として、赤旗を掲げて集会に参加してもいいではないか、一度やってみよう。と提案したこともあります。いっしょにやろうという賛同者が一人もいなくて、小心者でもあり、なんか「殴りこみ」みたいな参加の仕方も主催者に迷惑をかけるのではという危惧をもったので、いまだに実現はしていませんが。

 でも、もしここで、あいつは左翼じゃないか、確かに北朝鮮とは対立して批判しているけれど、左翼思想とは北朝鮮と同じなのだ。たとえ集会の趣旨に賛同する人間であっても、左翼の根本である思想を共有する奴は排除してしまえ!そう言って、主催者でもなんでもない右翼団体が、主催者の意思を無視して勝手に、私を暴力的に排除したらどう思うだろう。ブログなどにどう書くのだろう。そう考えると、やはり何かを言わなくてはと思いました。こういう事態が、右翼側よりも先に左翼側で発生してしまったことが大変にショックでもあったわけです。

 Twitterのやりとりなどを見ていますと、だいたい「反対する会」の行為に対する批判に対して、「左翼が右翼と連合するなんていいのか」みたいな一般論を対置するという構造で話が進んでいます。でもそれは少し違うと思う。いくら「理論」が高邁で正しくても、実践的な行為をそれで正当化することはできません。行為はその動機とは独立して、その正当性が議論されうるし、行為者はその範囲内でも弁明に成功しない限りは、決して行為が正当であったと人々を納得させることはできません。

 同時に、私が今回の針谷さんの動きにはなんら落ち度がなかったと言ったとしても、それは針谷さんの政治主張を私が支持したり納得しているわけでは全然ない。出会うTPOによっては、お互いに殴りあうかもしれない(まあ勝てないでしょうが)。それは関係ないのです。そこをごっちゃにする議論の立て方は卑怯だと思います。

 長くなったので(下)に続きます。次はもう少し左翼らしい視点から考えて見ます。

ここまで読んでいただいてありがとうございます!

3件のコメント

日帝植民地支配・軍事性奴隷制に触れることなく「拉致問題」を取り上げる。極右の「言論の自由」も認める。化けの皮が剥がれてきましたな。

sagesagetjanさん>

いい機会ですので少しだけ長文になります。ご容赦ください。

>化けの皮が剥がれてきましたな。

いや、まったく逆ですよ。今回の暴力による集会妨害を認めて支持したら、それこそ私が今まで言ってきたことはすべて嘘で、「化けの皮がはがれた」「結局左翼の本性はこんなもんだ」ということになるんではないでしょうか。あんまり他人様にむかって「今まで俺が書いてきたものを読め」と言えるほど立派な人間ではないので本当に恐縮で申し訳ありませんが、ある程度はリンクしてありますので、暇なときにでもざっと目を通していただければそれがわかるはずです。

それと、私が書いたことの内容をろくに読まずに、どうしても主張の左右の問題に(=まるで私が右翼をかばっているかのように)意図的に捻じ曲げたいようですが、それこそ論点のすりかえというものです。当たり前に考えればわかるはずです。「お前の主張は間違っている。だから実力で妨害して潰す権利が俺にはある」そんなことをみんなが言い出したらいったいどうなるのでしょうか?さらに言えば、たった5,6人の妨害行動で、1万人規模の集会や運動でもぐちゃぐちゃにしてしまうことができる、そういう「実績」を残してしまったことに危惧をおぼえます。これは最低限でも「方法論」としては大衆的に否定的な評価を残しておかなくてはなりません。

つまり生起している事態は「左右対決」ではありません。「有志」の皆さんによる611集会主催者への介入であり、この両者の問題です。さらにそれを両者の主張やイデオロギーの土俵で議論するためには、「有志」の皆さんがやったことについて、ちゃんと評価なり総括なりをしてからでないとすすめないし、すすめてはいけないと思います。それは80年代における中核派によるインターへのテロ襲撃と同じことです。

主催者でもない民衆の一部が、別の民衆の集会に介入して潰そうとするのは、昔から大党派が弱小の党派やノンセクトなどにさんざんやってきたことです。それは今どき規模の大小に関係なく、誰も容認しないし許されないことですが、それでも別にいいんですよ、たとえば集会の発言に納得できないことがあって、それに野次を飛ばすなんてのもありだと私は思うんです。そして事後にも大衆的に訴えればいい。それでこそ「問題提起」だと思います。その主張や提起に説得力があれば、大衆的に問題を止揚することだってできるでしょう。そういう地道な大衆的な実践をすっとばして、自分の「正しい」主張をいきなり人民大衆に暴力的に押し付けようとする、一言でいってそういう内ゲバ主義、内ゲバ政治はもうこりごりだと言うことです。野次にハンドマイクを使ったのは一線を越えています。

sagesagetjanさんはいったいなぜ、どのような内容性をもって「日帝植民地支配・軍事性奴隷制」を批判するのでしょうか。どうして私たちは植民地支配の非道を非難することが可能なのでしょうか。それは彼らが右翼で私たちが左翼だというイデオロギーゆえに自動的に正当性が確保されているとでもお考えなのでしょうか。突き放して客観的にみれば、「人は自分が批判しているものにどんどん似ていく」ことになっていませんか。sagesagetjanさんの短い、しかし極めて教条的な臭いのする書き込みだけでも、そんな腐臭がプンプンとただよってきます。

左翼としての原点を忘れて「ニセ」になっているのは、私の基準ではむしろsagesagetjanさんのほうのように思えます。今一度、その原点に立ち返られることを願ってやみません。

(追記)
思うに、勢いがあったり、魅力的である運動は、例外なく「会議が楽しい」ものなんですね。抑圧されてうつむいて暮らしてきた人でも、そこでは自分の尊厳を取り戻して自由に創意工夫を提案したり、自分の考えていることをのびのび言えるというか。最盛期の中核派もそうだったと聞き及びます。
ひるがえって、「有志」の方々がもし運動や会議を主催したらどうなんだろうと考えてしまいます。実際にどうなっているかはともかくとして、少なくとも今回のようなセンスの延長に考えられることは、一つは完全に同質で、世代を超えた新しい人々が流入していきにくものになってしまうか、もしくは新しい人が自分の意見を言えない、または言いにくい、あるいは言っても単に潰されるだけ、そんな会議になってしまうような気がします。
念のために言いますが、これは私の「偏見」です。実際にそうだと言っているわけではない(知らない)ので、とりわけ読者の皆さんはそこんとこ間違えないでください。ただ、私がどういう運動のあり方を念頭においているか、それとの対極にある雰囲気として「有志」の皆さんへのイメージ(偏見)を持っているのか、つまり今後、私に意見してくださろうという奇特な方々への参考として読んでいただければ幸いです。

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