歴史の瞬間に立って-60年安保闘争の記録
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歴史の瞬間に立って


松山善三(シナリオ作家) 「主権者の怒り」(1960年8月15日発行)より

 この文章は今では歴史の教科書の一節になった60年安保闘争の直後に、「私は反米でもなければ、反ソでもない。とりわけ親米でもないが、親ソでもない」という若き日の松山善三さん(後に有名な映画監督となる)が一般市民の一人として書き残したものです。それだけに左翼的な文章を読んだだけではわからない、当時のごく普通の国民的な雰囲気がよくわかると思います。
 ★ ★ ★
 この文章に見られるように、当時のブント(に指導された全学連)に対しては大きな国民的同情がよせられていました。しかし同時にそれは「安保粉砕、日帝打倒」という左翼スローガンへの支持というわけでは全くなく、最大公約数として「やっとつかんだ平和と民主主義を守りたい」という素朴な意識であり、それを破壊せんとする自民党-岸内閣への不安と怒りであり、そしてその岸と最もよく闘う若い全学連への期待とシンパシーだったのです。安保反対はまさしく「全国民的な課題」として取り組まれましたが、そのことが闘いを巨大化させた最大の強みであると同時に、後に続くものを充分に残し得ずに雲散霧消して自民党を延命させた最大の弱点ともなりました。
 ★ ★ ★
 つまり、今から考えれば、安保をなくしたいという人民全体の願い(闘争課題)の実現のために先頭に立って全力で闘いつつ、同時に「そのためには革命が必要なんだ」ということを訴えて「日帝打倒派」の存在を反安保運動の中に作り上げていく、そういう運動と組織の両輪的な発展における好循環を作れなかった。自分たちへの大衆的な支持と運動の高揚に舞い上がって「安保が潰れるか全学連が潰れるかだ」という「いけいけドンドン」な思考に陥ってしまい、そして結局はブント(全学連)の方が潰れたということだと思います。この文章を読んだだけでも大衆の意識は、当時の社会党や共産党の思惑をはるかに超えてしまっていることがわかりますし、そういう主張が受け入れられる余地がある数少ないチャンスでした。つまりついて行けずに取り残されているのは大衆ではなくて未熟な組織のほうだったのです。
 ★ ★ ★
 この文章は、そういう当時の世相と一般市民の意識を100の論文を読むよりも雄弁に物語ってくれており、左翼運動の歴史やこれからを考える上でも貴重なものだと思います。

写真集『主権者の怒り』(PDF 14.16 KB)

 ついにその瞬間は来た。
 有権者の三分の一を越えるという二干万人余の新安保反対請願も日本歴史はじまって以来という空前の大衆行動も、「十九日午前0時」という“時”をおしとどめることはできなかった。
 携帯ラジオから流れる「新安保自然承認」というニュースを、私は首相官邸の前に集結したすわりこみのデモ隊の中で聞いた。一瞬、挫折感にも似た空虚な空気が、人々の顔をかすめたが、次の瞬間、デモ隊の人々は、立ち上がっていた。フラッシュとフライヤーに浮かび上がるデモ隊の人々の顔には、憎しみと怒りが、さらにこの暴挙をけっして許すまじという決意の色が赤々と燃えていた。

 宣伝力ーの上に立った社会党横路節雄氏が、「自民党は安保が成立したといっているが、これは無効です。これから議員面会所の前で、安保無効宣言を発表しますから、移動してください」と、声をからして叫ぶ。しかしデモ隊は動こうともしない。
 真白なホータイを頭にまいた全学連の京大北小路中執が、マイクを加藤委員長代理に渡す。二人の顔は蒼白だ。加藤委員長代理が、トラックの下からさし出された学友からのアンプル――ブドウ糖でもあろうか、ストローですい上げ、「学友諸君!学友諸君」と語りかけようとした時、議員面会所の方から北大の旗を先頭に各地の大学の旗をおしたてた学生の一隊が「岸を」「倒せ」「岸を」「倒せ」と叫びながら、怒濤のごとく首相官邸へ向かって流れて来た。

 汗とほこりにまみれた学生たちの顔、顔、顔が私の目の前を洪水のように流れて行く。「岸を」「倒せ」「岸を」「倒せ」というシュブレヒールは、時に「岸を」「殺せ」「岸を」「殺せ」という憎悪の言葉に置きかえられたが、しかし、その言葉は、さらに後続する「岸を」「倒せ」「岸を」「倒せ」という統一の中で、すぐに消えていった。
「岸を」「倒せ」は「安保」「反対」「安保」「反対」にうけつがれ、それはさらに「国会」「解散」「国会」「解散」の合唱にうけつがれる。まるでそれは美しい、荘重な音楽を聞くように、私の皮膚をつきぬけて、身をふるわすような感動となって、私の心につきささってきた。

樺さんの死から

 その日の朝、全学連の抗議集会が日比谷の野外音楽堂で開かれていた。「学生虐殺抗議、岸打倒、安保粉砕」のスローガンの下に、ニメートル四方くらいにひきのぱされた当日の現場写真と、セーターに身をつつんだ樺美智子さんの写真が壇上から、集合した学生諸君を見下ろすようにしてさがっていた。

 あいさつに立った樺美智子さんの父は、マイクの前に立ってしぱらく絶句した。異様な、しかし悲しみにつつまれた一瞬がすぎた。
「私もその日は学者、研究者の抗議集会に出席していました。民主主義は、もはや国会の中にはなく、わずかに抗議集会やデモの中に燃えのこっていると信じたから」
「娘は死の前日まで、ほとんど夜も眠らないようでした。デモから帰ってくると、卒論の準備におそくまで机に向かい、翌朝またデモに出かけて行くような毎日でした。明治維新史講座が娘の机の上にのこされていました」
 とトツトツと語って、こみ上げる涙をぬぐった。そしてまた、
「娘の死が民主主義と平和を守る、なにほどかの力となり得るならば、父としての悲しみは薄らぐだろう」と。

 その言葉には真実があふれ出ていた。しかし、美智子さんの死が平和を守る大きな力になり得たとしても、父として、母としての樺先生夫妻の悲しみは、永遠に深く胸をかきむしられるような思いとなって決して消えないであろう。それは、セーターに身をつつんだ可憐な少女のつぶらなひとみが、はっきりと物語っている。一ファシストに牛耳られたおろかな不安な日々の政治下になかったならば彼女の未来には、恋や結婚や育児という、輝かしい、そして美しい人間の生活があり得たはずだ。

「ふたたびあやまちはくりかえしません」と国民は原爆の地広島に誓った。しかし、私たちはふたたびあやまちをくりかえしたようだ。岸首相を政権の座に送ったことである。そして、未来ある一少女の無残な死を招いた。
 私たちは一体、だれがだれに何を誓ったのか。戦争責任の追求が政界におけるほど、安易に見すごされている世界を私は知らない。今日の不幸は、岸首相を政権の座に送ったその日から予測されていたはずである。しかし、美智子さんの霊は、樺先生にあてられた次のような一国民の投書によって慰められるだろう。
「私は今日まで保守党支持者であったが、岸内閣のような国民を裏切る政党には今後絶対に投票しない」
 そしてその手紙の中に百円札が一枚おりこまれていたという。

 学生の歌声に  若き友よ手をのべよ
 輝く大陽青空を ふたたび戦火でみだすな…

 高らかな学生たちの合唱を背に、私は音楽堂の外へ出た。公園には地方代表がそれぞれ旗を中心にしてぞくぞくと集結していた。

不気味な南平台

 その不安なニュースは午後二時ごろから人々の口から口へと伝わっていった。「南平台に焼き打ちをかける」というのである。女子学生の死が全学連の学生たちを異常に興奮させているというのである。私は南平台へ車を走らせた。
 道ゆく人々の足取りはせわしく、その顔には不安な政局へのあせりがみえるようだ。岸首相はデモを一部の反対分子ときめつけ、「野球場や映画館は満員だ」とうそぶいたが、映画館の中でニュースに岸首相が登場した時、「パカ野邸、ひっこめ!」と観客が叫び、その叫びに拍手のわく現実を、ご存じだろうか。私は映画の仕事にたずさわって十余年、このような罵声を、幸運にも一度も耳にしたことはなかった。

 南平台の公邸付近は不安なニュースとは逆に、ひっそりと静まりかえっていた。隣の私邸の門とヘイには有刺鉄線が縦横にはりめぐらされ、門のすきまからのぞくと、内部はがっしりと、これも縦横にくみ合わされた丸太でささえられている。公邸の門をはいると、異様な光景に驚く。五十人ほどの警官が、テントの下の荒むしろの上に河岸のまぐろのようにごろごろとならんでねむっている。警官たちの顔には疲労のあぶら汗がうかんでいる。警備の警官にふみあらされたのであろう、緑であるべき庭二囲の芝生は茶かっ色に桔れていた。

 公邸の裏にまわると、作戦本部といわれるテントがあり、大きなテーブルを中にして、十人ほどの警官が鋭い目で何台もの電話からはいる情報を聞いていた。
 その時、私の目にちらりと赤いものがうつった。木立の向こうに配置されていたのは一台の消防自動車である。水をはった真新しいバケツが四個、窓の下におかれていた。そのブリキの光が妙に印象的であった。不安なニュースは、事前に用意された消防自動車から生じたものではないだろうか。

ワレ友ヲウシナウ

「1960.6.15. ワレ友ヲウシナウ」
 樺美智子さんが殺された国会南通用門の門柱に、この文句が石でこすって書かれていた。ここにも二寸五分角の丸太が縦横に組み合わされ、その丸太に有刺鉄線がまきつけられている。有刺鉄線の上に、だれがそなえたのか、たくさんの花束がむざんにつき刺してある。あたかも、血をながした幾人かの学友を象徴するかのように、その花束の花は、一様にしおれて、首うなだれている。通用門の前の焼香台には、ひきもきらぬデモの人々が焼香と黙祷を捧げて、立ち去ろうとしない。「ご焼香のすんだ方は、あとの人に道をあけてください」と整理員がメガホンで叫ぶ。
 すでに国会周辺はもちろん、チャベルセンター前、人事院わきまで、Y字形の道にはデモ隊の人々がぎっしりと押しかけて身動きもできない。

 林立するプラカードと赤旗をぬって、ライトブルーの旗を先頭に午後五時、喪章をつけた東大合同慰霊祭参加者の行進が国会正門前を通って南通用門前に着く。約三百人の東大教授団、そのあとに約七千人の学生、そして一般都民が続いている。一人一人が一本ずつのカーネーションやマーガレットの花を手にしている。手から手へ、二本、三本と集められて前に送られる花は、次第に大きな花束となって、焼香台の前につみ上げられる。社会党議員にまもられた樺先生夫妻が、すずらんの花束を有刺鉄線につきさして黙藤をささげる。わっとカメラマンが夫妻をとりまく。私のところからは、もう夫妻の姿は見えない。身動きのできない学生たちはその場にすわりこみをはじめる。

 官邸前は、新聞社、ラジオ、テレビ会社の車が一列に並び、各社のテレビカメラが、ものものしくやぐらの上にのっている。官邸の門柱やヘイの上には、鉄カブト姿のカメラマンがひしめいている。四機のヘリコブターは、交互に音高く国会の頭上をとんで離れようとはしない。屋台のうどんや、ジュース、あんぱん、焼きいもなどを売る、その日ぐらしの商人が右往左往している。すわりこみのデモ隊の間をぬって、アイスクリーム屋が「安保反対、えー、アイス」と、アイスクリームを売って歩く。なんという貧しい国だろう、貧しい国のあまりにも貧しい政治がうんだ、これが唯一の笑いであった。

うつぼつたる怒り

「岸君、再び戦場で会おうぜ」
 次第にせまってくる夕やみの中に、ひときわ高く一枚のプラカードがかかげられている。あと五時間。
 国の長い運命を決定する午前0時が刻々と近づいてくる。不思議なことに、五月十九日以来一カ月の間、常に有刺鉄線の向こうに腕をくんでいた警官隊の隊列は、今日は見えない。警官隊は建物のかげにひっそりと集まって立っている。デモ隊を刺激するなという配慮であろうか。あるいは、やるならやってみろ、という高姿勢なのか。

 そのころ、また一つ不安なニュースが口から口へと伝えられた。市ケ谷、習志野、宇都宮、練罵の自衛隊員に外出禁止令が出たというのである。官邸内では閣僚会議が開かれ、白衛隊の“治安出動”が話題になっているというのだ。デモ隊の“院内突入”や“焼き打ち”にそなえ、議員会館では、“重要書類”を運び出したとか。国会議事堂内は鉄の防火トビラがおろされ、官邸内では消火栓につないだホースが、赤いジュウタンの上をはい、いつでも放水できるようになっているという。
 配慮か挑発か、それを断定できるものはだれ一人としていない。空前の大衆動員の成果を決定するものは、個人の責任と良識の上にかかっていた。

 学生も必死であった。教授も必死であった。各大学の教授団が、すわりこみの学生たちの間をぬって説得に奔走する。「国会や官邸へ乱入しても、安保阻止にもならなければ、岸を退陣させることもできない。それはむしろ右翼の登場をうながすだけだ。秩序正しく行動してほしい」と。
 はじめて国会周辺のすさまじい光景を目にした教授の中には、うわずった声で学生たちに呼びかける姿もあった。はた目にはコッケイでも、しかし学生と教師の間には、人間として通い合う血のあたたかさがのこされている。学生たちの笑いは、教場での笑いのように、明るく余裕があった。

ついに午前0時

 一方、三宅坂の国立劇場建設予定地を埋めつくした、公労協、民間労組は、デモ指揮班の「流れ解散」に反対して、一時は険悪な様相を呈した。くらやみの中に、うつぼつたる怒りとエネルギーがみなぎっていた。それはもはや、エネルギーという物理的な力ではなく、恐ろしいほど緊迫した精神を感じさせる。
「流れ解散絶対反対!」「すわり込め!」とヤミの中で叫ぷ一つ一つの声は、アジや、野次などというものではない。それは心の叫びを伝えている。指揮班の命を待たずに、すでに先頭は出発した。私は不安になった。何事も起こらなければよいが。しかし、その不安を消してくれたものは、国会正門前いっぱいにすわりこんだ高校生グループと、自発的にすわりこんだ一般都民の姿であった。「ふたたび流血をくりかえさないために」私たちはここにすわった、と紅顔の少年はいう。まだ中学生だという娘をつれた一人の母は、「樺美智子さんの死が他人事だと思えないものですから」という。

 三十万人余にのぽる秩序整然たるデモは、このようにして行なわれた。「ご苦労さまです」「ご苦労さまです」とマイクを通じてよびかける社会党員のよびかけは、もはや空虚なものになっていた。国民は自分たちのために戦っているのだ。一社会党や、共産党のために戦っているのでは、決してない。自分の生活を守るために、自分の足をふみ出したのだ。

 そうした国民の不安をよそに、時は一分一分と過ぎてゆく。
 そして午前0時をむかえた。岸首相は、三十万、いや、二千万人近い人々の心の叫びをついに聞こうともしなかった。
 携帯ラジオから流れる「新安保自然承認」のニュースは、黒雲のように、人々の頭上をおおった。
「もう一押しだったのに」とだれかがつぷやいた。はたしてそうだろうか。私たちは人間ではないものと戦っていたのではないだろうか。これほどまでの反対にあいながら、岸首相の手にのこったものは一体なんであろう。どのような約束手形が彼の手におちてくるというのだろう。私は暗い空にむかって、ふるえるような思いで立っていた。

 午前三時、私は家路についた。J紙の山本満氏からの手紙が一通、机の上で私を待っていてくれた。私はその手紙を読んだ。はじめて暖かいものが私の胸にこみ上げてきた。その一節をここにのせさせていただく。

まあたらしい生命

――六月十五日夜、若ものたちの群れのなかにいて、わたしは、「子供の徴兵検査の日に」という金子光晴の戦争中の詩を、しきりと思いおこしていた。「けずりたての板のようなまあたらしい裸で立っている息子の若いいのちを、「喰い入るように眺め」ながら、詩人は、のしかかる権力の暴虐に憎しみをたぎらす。
 その日、国会におしかけ、そして流血の犠牲をうけた学生たちは、みんな「けずりたての板のような」まっすぐで、感動的な若ものたちであった。未来をはらんで誇りを戦いとろうとする、「まあたらしい」若ものたちであった。“エネルギー”などという物理的な力ではない、ひとりひとりが限りなくいとおしまれなけれぱならない若ものたちであった。

 かれらの翹望(ぎょうぼう)する未来を、失礼千万にも権力によって奪いとろうとするものとは、用いられる武器が鉄の警棒であろうと、あるいは「理論」と称する衰弱した観念であろうと、わたしたちは、若い友人らと、肩を組んで戦おう。そして、戦いに傷ついた友には、かれがふたたび「けずりたての板のよう」に大地にしっかり立てるよう、父親や兄のごとくに助けよう。そのような行動を通じてわたしたちは、さいごまで若ものたちの誠実な友人でありつづけることを、かれらの「けずりたての板のようなまあたらしい」生命を熱烈に愛しつづけることを、かれらに保証し、そしてそれを、わたくしたち自身にもたしかめあうことができるだろう。犠牲者への救援を組織しよう。そして、たがいに裏切ることのない友情のしるしを、結び交わそう――。

ただ平和な生活を

 最後にお断わりしておく。私は反米でもなければ、反ソでもない。とりわけ親米でもないが、親ソでもない。私が熱愛するものは、平和な私自身の生活であり、この私の生活をささえてくれる美しい社会である。
 そしてまた、私は日本人であることの誇りと、日本人であることの喜びを、私個人の生活の中に反映してくれる、よりよき政治を念願する一日本人である。なぜこのようなわかりきった断わり書きを書くかといえば、過日私はある知人から、「お前はいつから敵にまわったんだ」と詰問されたからである。


参考)60年安保闘争の経緯



1958年9月11日
藤山外相、ワシントンでダレス米国務長官と会談。安保条約改定交渉開始の共同声明

10月4日
東京で安保改定交渉の会談はじまる

10月13日
警職法反対国民会議発足。警職法闘争で大衆勝つ

1959年3月28日
安保闘争の統一団体である「安保改定阻止国民会議」(以下国民会議と略称)が結成さる。社会党・総評などが中心。共産党と、のちに安保闘争の主役となる全学連は、ともにオブザーバー資格での参加が認められた。

3月30日
東京地裁伊達裁判長「米軍駐留は憲法違反」と判決

4月15日
国民会議の呼びかけによる第一次安保阻止全国統一行動

6月25日
第三次全国統一行動。炭労、ストに突入。
東京で二万六〇〇〇人が中央大会(日比谷)に参加

8月6日
第五次全国統一行動
全港湾労組時限スト。総評傘下各労組は職場大会。
東京で五万人の集会(後楽園)など、全国で四〇〇万人が統一行動に参加

9月15日
フルシチョフ・ソ連首相ワシントン着。米ソ首脳会談。
27日「国際問題の解決はカによらず、平和的方法で」と声明

9月16日
石橋湛山元首相、北京で周恩来中国総理と会談。
20日共同声明に調印。「政治と経済は切離せぬ」と強調

10月9日
文化人有志の「安保批判の会」発足

10月17日
学者の集り「安保問題研究会」が藤山外相あて公開質問状を出す

10月25日
社会党西尾派、社会民主クラブ(のちの民社党)を結成して分裂

11月25日
衆院外務委員会で政府・自民党が南ベトナム賠償協定の審議を打ち切ろうとしたため混乱。26日暁の本会議で賠償協定可決

11月27日
国民会議第八次統一行動
三万人のデモ隊国会を包囲。政府、自民党の暴挙に怒った大衆が国会構内に突入して抗議集会を開く。この日の行動により安保問題への関心が急速に高まり、安保反対闘争が全国民の課題となっていく

12月10日
第九次統一行動
炭労大手一四社二十四時間スト、国鉄労組の職場大会など

12月14日
北朝鮮への帰国第一船が新潟から出航

12月16日
最高裁、砂川事件の「伊達判決」を破棄

1960年1月16日
岸首相ら安保調印全権団、六〇〇〇人の警官隊と七〇〇人の右翼暴力団に守られて羽田を出発。渡米阻止のため前夜から空港に集まっていた学生七〇〇人警官隊によって弾圧され、七七人が逮捕さる

1月19日
ワシントンで新安保条約と新協定、附属文書が調印さる

1月27日
グロムイコ覚書「日米軍事同盟の締結はハボマイ、シコタンの日本への譲渡を不可能にする」と通告

2月1日
第三十四通常国会再開。11日衆院に日米安全保障等特別委員会を設く

2月25日
第十二次統一行動。官公労五割休暇闘争

2月26日
フルシチョフ、インドネシア議会で演説。「日米新安保は日本自体にとって危険なトバク行為だ」

3月19日
第十三次統一行動。全国六〇〇カ所で集会。五〇〇万人が参加

3月23日
社会党大会、浅沼氏を委員長に選出

3月28日
争議中の三井三池で、第一組合員久保清氏が暴力団員によって刺殺さる

4月10日
周恩来中国首相、人民代表大会の席上で「新安保は日本人民に災いをもたらし、中国、ソ連、東南ア諸国民の安全を脅かす」と発言

4月15日~26日
第十五次統一行動。合化労連が二四時間スト。
16日東京で三〇〇〇人の婦人が都心デモ。
法律家、学者、宗教家の国会講願続く。
26日東京で一〇万人が国会に請願行動。
同日、韓国の李承晩が学生を中心とする反独裁・民主化デモの広がりに抗し切れず大統領辞任を声明。この「四月学生革命」は日本の学生をも大いに勇気づけた。

5月9日
第十六次統一行動始まる
中国の首都北京で、日本人民支援集会に一〇〇万人。
12日総評、中立労連傘下の労働者四六〇万人が職場集会。
群馬県では商店が安保反対を表明して「商店スト」を実施。
14日東京では六万人が雨中の国会デモ

5月17日
米スパイ機(U2)のソ連領空侵犯が原因となってパリ首脳会談決裂す

5月18日
安保批判の会代表10人は岸首相と会見し、安保批准とりやめを要求。
翌日の国会会期切れを前に採決の目処は立たず国内情勢は緊迫

5月19日
深夜10時25分、衆院安保特別委員会で自民党委員が新安保を突然の強行採決。
同11時07分、警察官五〇〇人を国会内に導入。抗議する社会党議員を警察が強制排除。
同11時48分、野党議員排除後に衛視に囲まれて清瀬議長が本会議場議長席につく。会期五十日延長を可決して5分間で散会。会期切れまであと7分だった。院外ではニュースを見て駈けつけた人々が深夜の雨の中で国会を包囲しはじめ、その数は三万人に達した。

5月20日
日付が変わった午前O時6分、自民党単独で衆院本会議開会して新安保を討論なしで可決。その間わずか12分間だった。社会、民社、共産の野党三党のほか、石橋、三木、河野、松村等の自民党反主流派議員も岸首相の強引なやり口に反発して採決に加わらなかった。
採決後ただちに野党三派が議決の無効、国会解散要求の声明を発表。さらに国会前に残った一万人の人々が未明の午前4時まで国会を包囲してすわり込み、抗議を続ける。早朝からは国民会議の統一行動が開始。一〇万人が国会、首相官邸に怒りの抗議デモとなって渦のように押し寄せた。この日から国会は完全なマヒ状態におちいった。
自民党のこの暴挙は世論から爆発的な批判を浴びる。すでにかつてない巨大な高揚を見せていた反安保闘争はこの日以降「全国民的規模」の歴史的な大闘争に発展していく。

5月21日
岸首相は官邸で社会党代表と会見。内閣総辞職、解散要求を拒絶。
永田町の首相官邸、南平台の首相公邸が五万人のデモ隊にとり巻かれる。抗議デモはさらにひろがりアメリカ大使館にもデモ隊が押し寄せる

5月22日
首相官邸の石べいに高さ3メートルの鉄条網張られる
東京都立大の竹内好教授は「岸内閣の公務員としてとどまり得ない」と辞意を表明

5月24日
社会党浅沼委員長、マッカーサー米大使と会見、アイク(アイゼンハワー大統領)訪日延期を要望。両者卓を叩いて激論

5月26日
自民党と同志会だけで参院会期延長を議決。
一七万人の国会請願デモ隊が包囲。そのため岸首相は午後2時から10時すぎまで院内にクギづけで動けず
群馬、茨城両県では三度目の商店スト

5月27目
トルコ陸軍、クーデターを起す

5月30日
若い日本の会三〇〇名が集会、「安保議決を無効にせよ」と声明。各界の声明あいつぐ

6月4日
6・4安保反対ストが、国民的支持のもと成功裡に決行される。国電は始発から午前7時までとまる。旅客、貨車の運休は全国で七五九、遅延は一六七本。全商連加盟の商店二万軒も時限または全日閉店スト。この日だけで五六〇万人が集会やデモに参加した

6月7日
米上院外交委員会で安保審議を開始。
東久邇、片山、石橋の三元首相が岸首相に即時退陣を勧告

6月8日
総評臨時大会、満場一致でアイク訪日反対決議

6月10日
米大統領新聞係秘書ハガチー来日。羽田空港出口でデモ隊にとりまかれ、1時間10分立往生、ついにヘリコプターで脱出(ハガチー事件)

6月11日
第十八次統一行動。
全国三五〇カ所、二〇〇万人が参加。東京では二三万人が国会デモ

6月13日
岸・西尾会談。民社はアイク歓迎に転換。議決休会案話題になる。
東京教育大、法政大学自治会、日本鋼管川崎労組がハガチー事件で不法捜索さる

6月14日
全労、アイク歓迎を声明。新聞も同調。ハガチー事件弾圧で動揺した総評も羽田沿道デモ中止を社共両党に申し入れる

6月15日
6・15反安保スト。6・4ストを上回る。全国で五八○万人が統一行動に参加。
午後からタ方にかけて国会請願デモ。一一万人が国会周辺を埋める。
午後5時10分頃、国会第二通用門付近で右翼二一〇人がデモ隊になぐりこむ。
午後5時45分頃、全学連のデモ隊七〇〇〇人、国会南通用門を開き、同7時国会構内に入る。警官隊に襲われ負傷者数百名。この時東京大学学生樺美智子さんが警官に殺され、全国民の憤激はその頂点に達する

6月16日
政府は臨時閣議でアイク訪日延期要請を決定。反安保闘争が全国民的な広がりを見せるにつれ、政府側の動揺も激しくなってくる。
国民会議の抗議デモ一〇万人をはじめ、各大学での虐殺抗議集会など、首相官邸、国会周辺には樺さんの死をいたみ、岸内閣に抗議するデモ隊が終日相続く。国内情勢は騒然を極む

6月17日
社会党河上丈太郎顧問、国会請願受付所で刺さる

6月18日
全学連らによる樺美智子さんの東大合同慰霊祭・抗議デモが開催さる。
デモには、労働者、学生、地方代表、沿道の一般市民などが次々と合流し、遂にそれまでで空前の規模となる三三万人のデモ隊が国会を包囲した。政府としてはもはや手の付けられない規模であったと思われる。その一部は夜を徹して国会周辺に抗議の坐りこみをおこなった。岸首相はデモ隊に包囲されて一歩も動けず官邸に泊りこむ。
ここは危険ですので移動して下さいと密かに脱出することをすすめる側近に対して岸首相は「今の日本に私が安全な場所などあるのかね」と呟いたという。

6月19日
午前0時、参院で議決を経ないまま新安保「自然承認」。国民会議は直ちに「この条約は認めない」と条約の無効を声明

6月20日
参院自民党は単独での本会議開会を強行して新安保関係諸法案を一挙に可決成立。もはやここまできたら「毒喰らわば皿まで」ということであろうか。無法の連続

6月22日
第十九次統一行動。6・22スト。総評、中立労連の一一一単産、六二〇万人が早朝ゼネストに突入

6月23日
藤山外相、マッカーサー米大使、外相公邸で日米新安保批准書をひそかに交換。
岸首相、臨時閣議で辞意を表明。
樺美智子さんの国民葬行われる(日比谷)二万の労働者、学生、市民が参列


6月25日~7月2日

第二十次統一行動。
25日大阪で二万五〇〇〇人が安保不承認決起大会に参加。
7.2全国五〇カ所で「新安保不承認、国会即時解散、不当弾圧反対、新条約締結責任者の追放」をめざす集会。参加者は東京の一五万人をはじめ全国で二〇〇万人

7月10日
神奈川県厚木でU2機追放国民大会が開かれ、厚木米空軍基地に抗議デモ。参加者二万人

7月14日
自民党大会で岸総裁辞任。池田勇人を総裁に選ぶ。
首相官邸で岸首相、右翼暴漢に刺され負傷

7月19日
池田内閣成立
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