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小説・三里塚

小説・三里塚 戦後最大の住民闘争、三里塚。実在の開拓農家をモデルに、敗戦、開拓、闘争と、その波乱の道のりを感動で描く。

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市東さんの農地取り上げに反対する会 親子3代90年も耕してきた農地を、違法に取り上げる動きを見過ごすことができません。

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山城さんの講演からふりかえる―奴らが恐れるその運動を引き継ぎ広めよう

専修大学で講演する山城博治さん

専修大学で講演する山城博治さん

 現在、逮捕のための逮捕、沖縄の運動リーダーであることを理由にした不当な拘束を受けている山城博治さん。高江や辺野古での住民を先頭にした抵抗に手を焼いた安倍政権が、多少なりとも見せていた沖縄世論への慰撫や遠慮をすべてかなぐり捨て、強権的な暴力ですべてを押し通す判断に舵を切ったことの表れでもあります。そのリーダーの一人でもある山城さんできる限り長期拘束し、高江はもちろん、辺野古埋め立ての目処がつくまで外にださないつもりです。

 一国の政権がそこまで恐れる個人、山城さんの作ってたきた沖縄の運動とはどんなものか。不当弾圧への抗議はもちろん、その抗議の運動中でも、そして本土でも、先頭にたち続けた山城さんの敢闘精神とあわせ、安倍を恐れさせた山城さんの運動に対する姿勢についてもう一度振り返り、私たちなりに学び、山城さんを拘束してもそれがどんどん広まることを追求していきたい。

 その願いと、現在も持病の治療も許されず、沖縄弾圧への抗議として獄中ハンスト行っている山城さんへの思いを込めて、本年4月9日のDA(直接行動)主催の専修大学講演会での山城さんの発言と、3月27日の新宿デモにおける発言を振り返ってみたいと思います。それそれ講演と集会での演説という性格の違いはありますが、山城さんを獄に奪われた今こそ改めて学び直してみたい内容です。

 ただし専修大学のほうは、長時間の講演の中で、私が特に印象深かった運動に関する部分を抜き出したもので、全体はこれだけではありません。また、記憶と簡単なメモ書きを頼りに書いて再構成していますので、その文責はすべて草加にあります。

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■専修大学での山城博治講演会「抗う沖縄の声」より

専修大学・山城博治講演会「抗う沖縄の声」

専修大学・山城博治講演会「抗う沖縄の声」

「辺野古は不思議と『組織動員』がきかない。組合などにさんざん呼びかけてるのに来ないんでもうやめた。かわりに個人がいっぱい来る。だったら個人にあわせた形態にせねばと今のテントや座り込みの形になった。ゲート前でシュプレヒコールをやめて、かわりに歌を歌ってカチャーシーを踊った。最初はすごい苦情言われましたよ。何やってんだ、シュプレヒコールしろと」

「(個人中心にする過程で)形だけの運動はやめようと思った。日曜日に3万人で集まっても、相手は気にしないし何の打撃にもならなかった。それより(相手が仕事している)平日に千人で集まって、門前に座り込んで業務を止めてしまうことのほうが打撃になる。米軍司令部は大慌てで、海保の事務員はパニックになった。排除されたらスクラムを組んで、徹底的な非暴力でかつ具体的な打撃を与えよう、そこで逮捕者がでたら参加者全員で取り返そう
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戦争が身近な沖縄と「平和ボケ」した本土の右翼

対話羽賀さんの投稿への返信です)

 ビラの内容のことを言ってるのかな?正直言って、ないものねだりかなと感じました。なぜかと言えば、書いてあるように、これは集会に来てくれた方(およびこのブログの読者)に配布する、つまり集団的自衛権と安倍に反対するという目的(価値観)を共有する方に、では次に何をすればいいのかを提起するための文章だからです。文章や議論というのは、まずお互いに同意できるところまでおりていって、その共通の土台から出発しないとかみあった議論になりません。その意味でネット(掲示板など)は極めて議論に不向きです。

 さて、その上で以下申し上げるならば、まず私が見るところ、集団的自衛権に反対している方々の考えや潮流としては、大きくわけて3つです。

■戦後体制の「防衛」か「克服」か

 一つは、「戦後体制防衛派」で、憲法や平和、個人の尊重などを基礎に考える方々。戦後民主主義派というか、これが一番目立つし数が多い。ネトウヨさんが念頭においているのもこの部分。羽賀さんが攻撃しているのもここですね。この人たちは良心的だし、別に間違っているとも思わないし、共に手を取って闘いたいと思う。ただ、ビラにも書かれている通り、冷戦構造を前提として成立した戦後民主主義とその対立軸が、すでにそうとう劣化してきていることを、多くの人が知っているか、もしくは肌で感じています。閉塞感や漠然とした不安がある。とりわけ若い世代がそう。そこを右翼的に突破しようと呼びかけるところにファシズム登場の本質があるのであって、もはや保守の人でさえついていけない安倍政権のようなものが登場しうる根拠も、実はそこにある。一方、戦後体制防衛は世論でいえば年配を中心に3割くらいあると思うので、運動のスタート時には説明もしやすいことから、どんどん仲間が増えていく快感を味わえるでしょうが、実はこれでは過半数はとれないし、何より戦争に向かう世の中を変えることはできないだろうなと思っています。ただこの層が集会などで可視化されることは歓迎します。

3・21新宿反戦デモ

3・21新宿反戦デモ

 そこで二つめの潮流として、戦後民主主義の崩壊の中で、それを「守れ」だけでなく、危機の中でそれにかわりうる新しい価値観と社会を展望するべきだというのが私たちのような人たちです。「危機」とはなんでしょう?今までのやり方ではダメだと、みんなが感じているだけでは危機とは言いません。古いものは改めればいいだけ。そうではなく、ではどうすればいいのかということがわからない、それを危機といいます。この潮流は一つめ(たとえば社民・共産などの大政党)の影に隠れて目立たなかったし、今でも一つの「党」などにまとまっていないので、羽賀さんのおっしゃるようにわかりにくくはあるのですが、この10年であちこちで噴出してくるようになりました。私はここに期待をもっていますし、それはまだ「ふんわりとした方向性」を共有できればいいと思っています。一つの主張や一つの党にまとめる必要はない、大きな方向性の中で、雑多な人々が自由に議論して決めていく、むしろそういう空間を国境を超えて広めていくことに意義があると思っています(島国に住んでいるとピンとこないでしょうが)。ここについて語ると戦後民主主義(戦後資本主義)とは何か、それはどうして成立してきたのかという歴史的なところから全面展開しないといけませんので、ビラと同様にここでは指摘だけにとどめて先に進みます。
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「非暴力直接行動」って何だろう?(下)ー民主主義を取り戻そう

60年安保闘争で国会を取り巻く人々

60年安保闘争で国会を取り巻く人々

前回のエントリからの続き)

■歴史的経緯から見た、間接民主主義の機能不全

 また、これを歴史的な経緯から言えば、もともと現代の議会制民主主義は原理的に「間接行動(間接民主主義)」なのは小学生でも知っていますよね。それは市民革命の時代に、一般国民(「愚民ども」)が政治に口を出してコントロールすることを恐れた支配階級が、制度的にわざとそうしたのです。よく、具体的個人である国民は選挙日の一日だけ「主権者」であるとか、自分を搾取して支配するのが誰かを選べるだけなどという言葉で語られる議会制度の負の側面は、この制度設計によります。

 多くの人が勘違いしていますが、主権者としての「国民(nation)」という語は、憲法上、第一義的には具体的な生きた個々の人間のことではなく、また有権者団のことでもなく、なんとなくふわりとした抽象概念として想定されています。具体的な個々の人間を主権者として想定する立場は、国民ではなく「人民(people)」を使います。ゆえにたとえば国民投票や住民投票の結果が、首長や議会の決定を縛るような直接民主制度の導入は違憲とされています。なので各地の住民投票条例では、その結果を「尊重する」という表現で、違憲を免れているわけです。このあたりは大きな顔して書くのが恥ずかしいほど、憲法の教科書の最初のほうに書かれている初歩的概念です。

 ところがこれだと時々困ったことがおこります。いわば抽象的に「国民を代表している」政府(または自治体)と、現実の国民(=人民)の意思が著しく乖離する場面などです。単に時期的に乖離している場合は、それこそ署名運動やデモなどの間接行動で運動し(「民主制の過程」などと言います)次の選挙でその乖離を埋めるという建前になっています。だいたい議会に議席を持つ大きな政党は、この間接行動の流れを想定しており、「世論」に訴えた上で、次回選挙で自派の議席の上積みを目指すのが通例であり、市民運動などに対してもその範囲内(自派の議席獲得運動)にとどまってくれることを望みます。共産党も基本的にその例外ではない(というか典型的)でしょう。

 ちなみに書いておくと、この「民主制の過程」に瑕疵(かし=傷)があると、議会制民主主義が制度設計通りにうまく機能しません。ゆえに街頭での運動を含め、表現の自由などの精神的自由は、その他のどの項目よりも厳しく守られなくてはならず、たとえば経済的な自由などのその他の人権への規制なら合憲とされる(それは「民主制の過程」で是正できる)ようなことでも、精神的な自由では違憲と判断されるべき(「民主制の過程」そのものが破壊されるから)とされています(通説判例)。これをダブルスタンダードの原則と言います。別の言い方をすれば、少数派が多数派になりうる道が完全に保障されていない限りは、いくら多数派でもその支配は絶対に正当化されないということです。

 さて、ここまでは昔から言われている間接民主主義の欠点の再確認ですが、近年特に顕著になってきた、それ以外の困ったことがあります。一つは事態が切迫して次の選挙までまっていられない場合、二つには全体としては支持を得ている政党が、特定の政策では人民に敵対している場合、たとえば今の原発政策や秘密保護法、集団的自衛権などですね。三つには特定の地域や階層など、全体の中では少数に属する人々に、もはや「意見の違い」ではすまないような差別的な抑圧が加えられる場合で、ちょうど今の沖縄や三里塚、それに貧困問題などもそうですね。
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「非暴力直接行動」って何だろう?(上)-最も険しい困難な選択のはず

マハトマ・ガンジー

弱い者ほど相手を許すことができない。
許すということは強さの証だ(マハトマ・ガンジー)

 とりわけ3・11後の反原発闘争が盛り上がる中で「非暴力直接行動」を名乗る運動が増えてきました。一時期などは新しく立ち上がる運動や個人はみんな、猫も杓子も「非暴力直接行動」を謳っているような印象を受けたことすらあります。

 まあ別に学問的な意味で厳密な定義があるわけでなし、80年代に「○○ネットワーク」という名称が流行したみたいなもんで、名乗りたい人が自分流の解釈で勝手に名乗っていることに水を差すのもはばかられます。なので今まで黙っていましたが、どうにもこうにも「非暴力」もずいぶんと安くなったもんだというか、あまりにこの言葉がファッション化しすぎているような気がして嫌気がさしましたので、大変に申し訳ないですが、一度だけ書かせていただきます。

■直接行動とは何か

 まず非暴力直接行動とは「非暴力闘争」+「直接行動」の二つの合成であることがわかります。そして、それぞれの反対語は「実力闘争」と「間接行動」ということになります。
 最初に直接と間接について言うならば、たとえばある種の運動や要求があるとします。「原発再稼働反対」などです。これをその権限を実際に持つ人(政治家・役人など)にやってもらうように、要求でも請願でもお願いでもいいですが、何らかの行動で働きかけることが「間接行動」です。典型的なものとしては署名運動があります。デモも権力者が想定している合法的なデモは間接行動です。国会包囲や官邸前行動なども参加者の心意気は別としても、少なくとも権力は間接行動であると受け止め、その範囲内でのみ存在を容認します。つまり「まあ一応聞いておく」という感じです。石破が国家秘密法反対の包囲行動を「デモはテロ」と言ったのもそういう認識にどっぷり首まで浸かっている証拠です。「『お願い』以上のことはするな。俺らに迷惑かけんな」というわけです。

 これに対して「直接行動」というのは、権限を持つ役人や政治家を飛び越して、民衆が自分たち自身で民意を実現すること、またはその志向をもった運動のことです。たとえば再稼働が予定されている原発の前に座り込んで、必要な資材や人員の運び込みを止めてしまうなどの行動をさします。経産省前テント広場も、発想的にはこの系譜にあると思います。たとえばベトナム戦争の時、ベ平連系の団体で「ただの市民が戦車を止める会」というのがありました。これからベトナムに行って無辜の民衆を虐殺する米軍の戦車輸送に、文字通り役人でも政治家でもない、なんの権限もないただの市民が、その輸送路にただただ決死の覚悟で座り込むのです。

 当然、政府は機動隊を派遣してごぼう抜きに排除して逮捕しますが、当時の機動隊はたとえ無抵抗の市民でも最初から警棒で頭をかち割り、血まみれにしてぐったりした所を排除していました。それでも頭から血を流しながらお互いにしがみついて必死にその場を離れない。さらなる警棒の乱打を受けてもその場を動かないのです。おそらくその場にいたら、たとえ米軍への協力に賛成する人でさえ、人としての良心を持つ者は誰でも感銘を受ける光景だったと思います。

■非暴力運動とは何か

 次に非暴力について考えてみるならば、実際に相手に手を出さなければ、なんでもかんでも「非暴力運動」というものではありません。非暴力運動の祖であるマハトマ・ガンジーは、非暴力とは「相手を許し、罰せず、違いを受け入れること」だと繰り返し語っています。ただ相手を殴らないという消極的な態度だけでは、それは卑怯者や臆病者の言い訳にしかなりません。このことについてガンジーは「まず相手を罰することができるだけの力を得て、その上で罰さずに許すことが非暴力(運動)なのだ」と語っています。

 つまり非暴力とは何らかの行為や不作為のことではなく、まさしく運動の精神であり真髄をさした言葉なのです。この精神を忘れたら、それは少なくとも「非暴力運動」ではありません。70年代以降、日本で非暴力運動を志して実践した人々は、たとえば他者(警察・右翼・敵対的な団体)に抗議する時も、乱暴な言葉使いや相手の人間性を否定し、意見の違いを認めないような言動を行うならば、もはやその時点で非暴力運動ではないと語っていました。
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天は自らを助けるものを助ける(上)-左翼は「かわいそうな人」を助けられない‐

◆今のままでは今のまんま

 レーニン曰く「武器の使い方を習得し、武器の使い方に習熟し、武器をもとうとつとめないような被抑圧階級は、抑圧され、虐待され、奴隷としてあつかわれても仕方がない(全集23巻 軍備撤廃のスローガンについて)」これは現役左翼時代によく使っていたというか、あちこちに引用もされていた言葉ですが、今となってはもう(まだ)関係ないと思っている方が多いのではないでしょうか。ですが私の人生の中では今でもかなり大きな位置をしめている箴言であります。つまり、武器というのは銃だけではないのです。確かに現段階で、拳銃やバズーカ砲を苦労して備蓄することが賢明な闘争方針とは思われません。ですがその時々で必要もしくは効果的な武器というものがあると思う。

 何が言いたいかといえば、「天は自らを助けるものを助ける」ということです。抵抗もせず、そのための方法に習熟しようとしないものは、こき使われ、奴隷として扱われても仕方がない。それが私の人生訓の一つであり、それはレーニンから学んだものです。別の言い方をするならば、「待っていても何も変わらない」「今のままでは今のまんま」ということです。

◆「非常識」な抵抗が歴史を進歩させる

 誰も抵抗も暴れもせず「秩序」や「伝統」や「常識」を重んじていたら、原発だっていつまでもなくならないし、それどころか今でも奴隷制度が続いていたでしょうね。スタートレックでそういう惑星の話がありました。日本において戦後も天皇制がなくならず、未だに日の丸を使っているのもそういうことです。そのせいで右も左も共通して全国民が、とりあえずは「国家のしるし」程度には認められるような旗(国旗)が未だに日本にはない(→こちらを参照)。歴史を前に動かすのは、いつだってその時代の「常識」やら「良識」を真っ向から否定する「非常識」な人々なのだと思います。

 また、三里塚の農民が多くの支援を集めることができたのは、踏みつけられ、虫けらのように扱われて「かわいそう」だからではなく、そこで命がけの抵抗をしたことが一番大きい要因です。最近の人はよくわからないんでしょうが、その闘いの正義性と可能性に多くの人が魅せられたし、表面的なニュースを見ただけの事情をよく知らない一般の人でさえ、農民に大きな同情心を抱いて心情的に応援した。そのことが闘争と支援の輪を巨大なものにしていったのです。

 これは余談ですが、よく「左翼は農民を助けるようなふりをして実際は自分達の闘争に利用し云々」みたいなことを書く人が(必ずしも右派的な人に限らず)いますが、こういう人は歴史や現地事情を知らないがゆえに完全に誤解というか左翼への過大評価をしているんであって、そんなことで闘争がここまで大きくなるはずがない。つまり私たちが「かわいそうな農民」を「助けてやる」ために現地に行ったと思い込んでいるんでしょうが、それこそ農民やその闘いを高みから見下しているわけです。
 そうではなくて、私たちは尊敬すべき闘う農民にお願いして「支援させていただいている」と思っていたし、農民に迷惑をかけてはいけない、農民の役にたたねばと思って必死に闘っていました。農民を「助けてあげる」とか、ましてや「指導してあげる」みたいに上から目線で入ってきた支援は、共産党みたいな大きな組織力と動員力をもった団体さえ、結局は現地農民は絶縁し、排除しています(→「小説・三里塚」)。

◆「かわいそうな人」を助けることは誰にもできない

 不当な目にあわされている「かわいそうな人」はたくさんいると思いますが、もしその人がそこに身をゆだねて現状を変えようとしないのならば、神様か魔法使いでもない限り、周囲の人は手のだしようがないものです。もしそういう人を助けるのだとしたら、それこそ自分の人生を24時間すべて投げ出して、その人のために生きるくらいの覚悟がないとできません。それがわが子や恋人だったらそういう覚悟もできるでかもしれませんが、それは極めて特殊な場合でしょう。

 だから支配者にとって一番都合がいいのは、奴隷自身が「私は今のままでいい」と思い込んで「ご主人様(主君・天皇・社長・国家)に忠誠を誓います」と自発的に言うことです。するとそこで客観的に見てどれほど不当で非人道的な支配や搾取がおこなわれていようが、その関係性の外にいる人間は手の出しようがありません。その目的のために、どんな時代にもその時代の支配や搾取を正当化するため、あれやこれやのイデオロギーが道徳や常識とかのいろんな名前で存在するわけです。そこでヘタに支配者を倒して奴隷(的)な立場の人間を自由にしてあげても、「わが主君の仇」とか言われかねません。

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転載】金明秀氏による「反差別運動のあるべき姿」についての簡潔な解説

金明秀(キムミョンス)さんのツィートをまとめたもので、こちらから転載。勉強させていただきました。今、とてもタイムリーで重要なことだと思うので、一日も早くと思い、転載させていただきます。金明秀さんには事後報告で申し訳ないですが、不都合がありましたらすぐに消させていただきます。なお太字化は草加によるものです(もちろんイラストの選択もそうですよ(笑)。

fight_racism
【転載ここから】

.@kane031 そういうことはありますね。家族間での意見の衝突は根深く刺さりますし。でもやはり、主張を精緻に切り分けて整理したほうが、色んな意味ですっきりするのではないでしょうか。
ゆっくり、お考えを言葉にしてみてください。その間に、ぼくがどうしてこういう話をしているのか、背景を説明するツイートをポストしてみます。

 どっから説明したもんかなぁ。たぶん、歴史から説明するのがいいんだろうな。
 例えば @kane031 さんは、「共生」という言葉がどういう形で用いられてきたか、ご存知でしょうか。「多文化共生」でもかまいません。「共生」はマイノリティへの差別をやめて、社会に包摂しようという意思を表す言葉として80年代に登場した言葉です。後者はそれから派生した行政用語です。
理念としては、文化的に異質な集団を異質性を残したまま日本社会に受け入れて仲良くしようという発想をもつ言葉ですし、実際にも、各自治体の多文化共生課では、外国出身の市民がそのエスニシティを否定されることなく地域に定着することを目標にいろいろな支援がなされます。

 ただ、「多文化共生」という名のもとで語られたり行われたりすることには弊害が多いということもよく知られています。例えば、文化的マイノリティを包摂する努力をすることなく、ただマイノリティに同化の努力を強いるような場面で「共生」という言葉が用いられたり、逆に、出身文化に強いアイデンティティを(まだ)感じていない子どもたちを民族交流イベントに無理やり出席させて、○○人役割を強引に演じさせたり。

 生物学の世界では、共生関係というのは、異なる種が絶滅寸前まで抗争しあった末に偶発的に到達する安定状態だとされているらしいですね。いっけん仲がよさそうに見えますが、むしろ相互に痛みを経験したからこそたどり着ける境地といったほうがいい。
しかし、異文化接触に伴う痛みを知らずにただ仲良くやろうというような安直な文脈で用いられたとき、「共生」という言葉は、痛みの発生源であるマイノリティに対してある種の暴力として機能する場合があるわけです。
じゃあ、「共生」という言葉や、その言葉を用いた包摂の取り組みはやらない方がいいのか。というと、そうではありませんよね。むしろ、「共生」という理念の安易な適用が発揮しうる暴力性を忘れないようにしながら、さらに包摂の取り組みを実践していくべきでしょう。

 いま、「共生」という言葉を例に出しましたが、他にも類例はたくさんあります。ある運動の理念や目標や手段が批判されたからといって、やらない方がいいということにはなりません。むしろ、批判を受け止めたうえで成長しなければ、独りよがりの暴力に堕してしまう危険性があります
 そうはいっても、いっけん矛盾する命題を統合する形で成長しないと(暴力と化してしまうかも)というのは、ずいぶん難しい要求であるように感じられるかもしれません。

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議論するのはいいことだ(上)-「テント村を守ろう討論会」に参加

【討論会】経産省前テントひろばを守ろう
 去る2月2日に「たんぽぽ舎」で開催された「討論会・経産省前テントひろばを守ろう」に参加してきました。これも2月頃に途中まで書いて放置されていたエントリですが、詳しい報告は大幅に省略して特に印象に残ったことだけを書く事にします(→アルバム)。

◆「そんな話にのれんなあ」と…

 実は私は翌日に大阪で開催される「関西大弾圧跳ね返そう!全国集会」に参加するつもりで、安い夜行バスなど予約していたこともあり、さほど大々的に呼びかけられていたわけでもない、こちらの討論会に参加するつもりはありませんでした。ただ、討論会のゲストスピーカのお一人として、右翼の針谷大輔さんのお名前があることで、何やらもめているというか、ツイッターなどで執拗にたんぽぽ舎に抗議している人がおられるというのは聞いていました。それで私はてっきり、「針谷さんが右翼だから」という理由で抗議されておられるのだと思っていたし、6・11新宿集会の時みたいに会場に乗り込んで実力行使みたいなことにならない限りは、「右翼(団体)との共闘」に原則的な疑問や批判が出るのはむしろ当然というか普通のことだと思っていたのです。

 ところがたまたまだったのかもしれませんが、私が見たツィートでは、反対の論拠として、針谷さんが「暴力主義的政治団体の議長だから」という理由(だけ)が強調されていました。針谷さん自身はあんまり「暴力的で恐い人」に見えないわけですが、ブログだかWebだかの昔の文章へのリンクを貼ってその根拠としておられました。んでまあ、右翼だからというならともかく、そんな警察の過激派キャンペーンみたいな話にはのれんわなあ、と思ったわけです(→参照「反G8デモの禁止と参加者逮捕を弾劾する」)。

 なんというかなあ、「ドヤッ!これなら右とか左とかの思想で排除してることにならんやろ」と言われてるみたいで、なんかすごく違和感をもった。はっきり言うと反感を感じた。暴力的という理由で排除するのなら、たとえば運動内部での仲間内への言動が暴力的(内ゲバ主義的)というのならわかるし、6・11新宿のときはそれゆえに批判したんだけど、そうではなくて思想や政治主張が暴力的というところまで拡大してしまうと、もう歯止めがないというか、じゃあ直接行動はどうなんだとか、いくらでも人によって判断の基準が伸び縮みしてしまい、かえってよくないと思う。だいたいそれじゃ俺も排除されかねんし(笑)。

 そんでまあ、いろいろ引っかかるものを感じてしまって、あれこれ考えているうちに、「考えてばかりいてもしゃあない、そんなにけしからん、けしからんと言うのなら、いったいどんなにけしからんか、自分の目で見てやろう」と思ったわけです。あ、もちろん「テント村を守りたい。そのためにいろいろしたい」という気持ちもありましたよ。そうでなきゃ、単に「原発を考える」とか「政治を語る」みたいな一般的な討論会だったら、きっとわざわざ足を運ぼうとまでは思わなかったろうから。

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活動家は「細かいこと」を気にしないほうがいいよ

なおじさんのコメントへの返信が長くなりましたので、大幅に加筆修正の上でこちらにスピンオフしておきます。なお、私の自室は業者さまのリンク写真より約40%ほどマシ…かもしれないです(笑)。さらに本文には書きませんでしたが、私は近所のコンビニで済ませられない用事や手続きなどは間違いなく半年か一年以上滞る社会生活不適合者です。しょっちゅう電話とめられて随分たってからコンビニに電話代払いにいきます。仕事は真面目にしてるから、かつかつながらもお金がないわけでもなく、決して面倒だとも思っていないのです。ならなぜ払わないかと言われても自分でもその理由がわからないのです。特に欝期はそういう傾向がひどく、焦燥感と自己嫌悪の中で暮らしています。でも今回はそういう話ではありませんので念のため。

散らかった部屋の片付け屋さん。私もたのもうかなあ
 私なんかの書いたことでも なおじさん のお役にたてたようで嬉しいですが、そんなにおほめいただくと、なんかかえってこそばゆいなあ(笑)。

 きっと私と実際に合って、三日も一緒に暮らしたら、絶対に心底がっかりしますよ。どっかに一億円が落ちてないかなあとか、いきなりどっかで素敵な女性とお知り合いになれないかなあとか、そんなこと考えて暮らしている、どこにでもいるただのおっさんですから。とりあえず部屋をなんとかしてちょっとは片付けないとね。

◆世の中に「いい人」も「悪い奴」もいない

 基本的に現世には神も悪魔もそのへんをうろうろ歩いていたりはしないので、特定の誰かを祭り上げて依拠したり、逆に貶めて叩きまくるのはどうかと思っています。人間の心というのは誰でも7割くらいが善で、3割くらい悪で、それから弱い部分が7割くらいで、でも強い部分を3割くらいもっている。私もそういう普通の人間です。それから大切なのは、人間はいかようにでも変われるということだと思っています。一人の人間をとってみれば誰でも良いこともすれば悪いこともする。だからどんな指導者に対しても「おまえのそこはおかしいぞ!」と気軽に議論できること、その議論のやり方(不毛な「内ゲバ」や内紛や分裂にならないこと)、そしてそういう議論を容認できる組織や運動や指導者であるのかという点を私は重視しています。特に政治や市民運動の分野では、一時的な成功やら「時代の風にのっている」ことより、それが一番大切なことです。

 なおじさんのおっしゃるその彼も、実は本質は7割くらい「いい人」なんろうなと感じました。「差別者が日常の中で『いい人』だからってそれがどうしたというのだ」という人もいるだろうし、それはまったくその通りです。「いや、彼はいい人だよ」と言われても、差別されている側からすりゃ、だからなんだって話にしかなりません。ただ、そこで終わらずにもう一周考えることも、差別イデオロギーと闘うに際して有益なこともあるのではと考えています。私とその彼も、さらに「差別糾弾」とか言っている人とでさえ、実は紙一重でさほど変わらない人間だということを忘れちゃダメだというか、そうでないと、またぞろかつてのような「奴は敵だ。敵は殺せ」というレベルの低劣な政治(「在特会」がまさにそうなわけですが)に舞い戻ってしまうと思うのです。

◆差別には麻薬的な快感と習慣性がある

 思うに自分より下の人間をつくって差別するというのは、一種の快感があるんですよね。だけれど単純に差別して虐げると良心に咎める場合がありますから、それを正当化する屁理屈が必要になってくる。その屁理屈が時代によっていろいろ変わるだけで、本質的に江戸時代から今にいたるまで何も変わっていないわけです。
 それが今だったら「なんちゃら特権」とかいうんですか。厳しい毎日の生活のなかでも、「ほら、君はむしろ被害者なんだよ。君は本当はもっと偉いんだよ。なのに…」みたいにささやかれたら、本当の敵と地道に闘うより、本当は手をとりあうべき自分より弱い者を(ネットや脳内にしろ現実にしろ)イジメるほうが簡単で手っ取り早く、ほとんど麻薬的で抗いがたい快感があるんだろうなと思います。しかも「それが正義なんだ」とか囁かれるんだから!

 「在特会」とかのメンバーには、ニートや引きこもりなど、本来なら左翼として闘わなくては問題の解決にならないはずの人がなぜか多く存在しているといいますが、それはこういう理由からかと思います。日雇い野宿労働者のおっちゃんにも「朝鮮人」や「部落」を差別する人もいます。彼らを許せないと思う前に、手を取り合うべき生きづらさを抱えている底辺の人同士がお互いを差別して傷つけあうことで自己確認するなんて、なんで悲惨なと思います。
 それはまんまと分断されて本来の敵の手のひらで踊らされているだけなのですが、そうやって一度分断されて孤独に過ごしてきた彼らが、「お仲間」同士の中で現代社会で奪われた連帯感を、歪んだ形で「取り戻す」という面もある。かつての原理研(統一教会・勝共連合)なんかがまさにそうでした。一度その麻薬や「連帯感」にどっぷりはまると、そこから抜け出て本来の現実と向き合うのは、とても辛いことなんだろうと思います。

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初詣の思い出

死後裁きに合う
 他に書かないといけないことが沢山有り、実際三里塚のことを続けて書くつもりでおりましたが、マル共連BBSに投稿した以下の私の思い出話から、若干議論めいたレスがつきまして、それに回答すると本当に議論になりかねないので、こちらに回答(誘導)しておくことにします。それというのも、同BBSは共産趣味者の話題や情報提供、交流を設立の目的としたもので、短期で速攻の口喧嘩くらいならまだしも、特定の議論が延々と続くことになればBBSの趣旨を妨害し、一般参加者の迷惑になってしまうので禁止されているからです。

 この「議論」の意味がわからない方のために簡単に書いておきますと、なんでも中核派の前杉並区議会議員、北島邦彦さんが、初詣したとかしないとかいうことをブログで書いたことが、ネットの一部で話題となり、あちこちでお祭り騒ぎになっているわけです。まあ、中核派の日頃の行いの悪さから、ここぞと揶揄や皮肉をくれてやる程度の問題なら、わからんことはない軽い話題なんですが、そういう程度の人はさっさと次の問題(話題)に移行し、だんだんと「マジ」な人たちが残って、中核派の路線問題にまでからめたお祭りが続いているようです。

 それを見て一番最初に私の脳裏に浮かんだのは、毎年初詣の人ごみの中、「裁きの日は近づいた」「地獄に落ちる」とか書いたプラカードを持って、キリストを信仰しない者は地獄行きとかいう説教のテープを流しながら、じっと参拝客を睨んでいるカルト宗教の皆さんの暗い目でした。あるいはそういうのって、私には、なんだか以前に党旗を忘れた民主党が、とっさに日の丸を加工して党旗を作ったのがけしからんとか、国会の場でまでキイキイ言ってた人たちとだぶって見えてしまいます。キリシタン狩りの踏み絵じゃあるまいしと思ってしまいます。

 初詣が生活習慣だろうが宗教行為だろうが、「自分が初詣に行く」のと、行かない他人を攻撃したり、ましてや国家や行政機関が自身で「公式参拝」なり代表者が「私人名目」で参拝を行うなどの脱法行為で有形無形の圧力を加え、あまつさえそれに反対する者を民間右翼と公安警察が連動して弾圧しているのは全くの別問題です。
 それと同じように、自分が初詣に行かないのと、行った人を攻撃するのは全然違う問題だと思います。また、左翼でもクリスマスパーティーくらい参加する人はいくらでもいますが、それでキリスト教徒になったわけではありませんし、ましてや教会の帝国主義侵略に随伴した歴史まで肯定しているわけではありません。

 こういう議論は歴史的にも日本に限らず世界中にあるわけであって、たとえばアフガンでイスラム教の生活習慣をアプリオリに否定、蔑視したために(原因はそれだけではないだろうけど)民心を離反させて崩壊した左翼政権と、イスラム的生活を徹底して強要し、女子教育まで敵視したタリバーン政権のどちらを支持するのかと言われたら、私はどちらも支持しないし、その上で、アメリカの軍事侵攻をも非難します。そのことに何の矛盾も感じませんし、私の価値観は一貫したものであると思います(エントリ巻末リンク等参照)。

 北島さんの初詣については、まあどうでもいいというか、軽く皮肉の一つもくれてやりますが、それ以降の「原則的」にこの問題を長引かせようとする議論について言えば、要はこれは正しくスターリン主義の問題にいきつくと思います。左翼はカルトやポルポトであってはいけないと思います。

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総選挙の朝に思うこと ー 大人の責任

(昨日のエントリ「総選挙の前日に思うこと」の続きです。そちらを先にお読みください)

日本の右翼化を危惧する「Time」誌の表紙◆父親世代が逃げるわけにもいかないよなあ

 そういう危機的な状況が迫る中、マイミクでもあるプレカリアートさんが「事態はもう日本脱出を考えなければならない所まで来ている」と、もちろん最後まで最善を尽くすことを前提にしつつ、具体的な計画を練りはじめたことをブログで書いておられる(→ガラパゴス日本脱出計画(1)(2))。

 多くの日本人がこれを読んで、むしろ「何を大げさなこと言ってんの」くらいにしか思わないかもしれない。だが、私はプレカリアートさんの危機意識の鋭さにむしろ感心したくらいだ。想像してほしい。あなたがタイムマシンに乗って、ヒトラーや東条英機が政権についたその当日のドイツや日本に行ったとしたら?その当時、数年以内に逃げるか何か対策をたてなくてはと思っていたドイツ人や日本人はほとんどいなかったと思う。だが、歴史を知っているあなたは、逃げることにさほどの罪悪感を感じないはずだ。そしてまさに今日が「その日」かもしれないのだ。逃げられる人は逃げてもいいと思う。世界中のマスコミが日本が急激に国粋主義化してアジアの火種になるのではと注目している。当の日本人だけがのほほんとしているのだ。

 プレカリアートさんは、あの、自民党のトンデモ印の改憲案が、国民投票で信任された時点での脱出を考えておられるようだ。もちろんそうなる前に最善の努力はするわけだが、確かに反戦派市民が迫害から逃れるのであれば、その時点が最後のチャンスかもしれない。もう憲法の保護も自由も人権もないのだから。

 その後に実施されるであろう徴兵制については、私ら中高年が駆り出されるようになったらむしろ末期。一番に狩られるのは選挙権も与えられていないような若者たちで、「日本を守るため」などと騙されてイの一番に連れて行かれるだろう。その奴らの言う「日本」という記号が何を指しているのか、何を「守る」ために自分の命が紙くずのように消費されようとしているのか、彼ら若者がその中身に気がついた時にはすでにお陀仏して、一度も投票にいかないまま「靖国の檻」の中だろう。

 我が身や家族を守って逃げることは一つの選択で、真剣に考えないといけない時代が来ているとは思う。とりわけ自分の子供は逃がしたいだろう。だが、若者に対する大人の責任というのもある。そんな世の中にしてしまったのは私ら父親世代なのだ。今の子供たちには本当に申し訳ないと思う。
 だからもし、「非国民」「卑怯者」と友人や先生に罵られながら、それでも正義と信念のために耐え忍んで闘う若者が一人でもいるなら、それを見捨てて逃げるのはやはり良心が咎める。どこまでやせ我慢できるか正直言って自信はないけれど、可能なら最後までとどまって、明治憲法下の小林多喜二のように殺されようではないか。

◆情勢はそんなに悲観的か?

 だが実際、戦争勢力の市民社会への攻撃はプレカリアートさんの認識通りだとして、攻撃や侵食を受ける側の市民の社会的な力関係が、そこまで悲観的なのかはもうちょっと考えてみる余地があるだろう。

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