都議選では議席ゼロも-維新の没落を見て考えたこと

きょう(14日)告示された東京都議選。惨敗した場合の責任について問われた維新の会の橋下共同代表は、「グループの中でそういう声が出てくるのではないか」と答えていたが、23日の投開票日、それが現実になりそうだ。政党やメディアの世論調査や選挙のプロの予想では、維新の会は34人を擁立するにもかかわらず、わずか2人が当落線上。ヘタしたら議席ゼロもあり得る散々な情勢なのだ。…(中略)…
今回の都議選は、告示日を迎えても全く盛り上がっていない。前回54・49%だった投票率は、今回は過去最低(40・80%、97年)や過去最低から2番目(43・99%、05年)に近づくとみられ、そうなると組織のある政党が強い。…(中略)… 「59人を擁立した自民党が議席を取りすぎる一方、維新とみんなが失速した。結果として民主が半減で踏みとどまり、共産は憲法改正に反対する人たちの受け皿になって倍増するのではないか。最大でも2議席程度しか取れない維新のダメージは相当大きい。参院選の前哨戦として、東京以外の有権者にも『もう、あの党はダメだね』という印象を与えることになる」(鈴木哲夫氏)。参院選前に橋下は代表辞任か。(日刊ゲンダイ2013/6/14


橋下主義(ハシズム)を許すな!(ビジネス社)
◆極右支持者にとって維新はもはや邪魔者である

 「従軍慰安婦は強制ではなかったし必要なものだった」みたいな妄言が、世界中の批難を浴びて轟沈していく様は、日本を含む市民社会がまだ最低限のモラルを残していることを示すもので、そのことは歓迎したい。たとえば「河野談話の(右からの)見直し」とはいったいどういうことなのか、今まであまり関心がなくて「なんか日本が悪者にされてるそうだから、超厳密に証拠を精査すんのはかまわないんじゃないの?」程度に思っていた人にも、あらためてそういう主張の本質がわかったのではないだろうか。

 だが今やそういう程度の認識の人たちを含めて、多くの市民が政治への希望や関心を失い、投票率が下がり続けるているのが現実だ。そんな低投票率の中、維新が自滅することで、自民党が組織票で幻の勝利に酔うという構造もなんだかなあとは思う。フランスでも主要国の大統領としては異色なくらい極右だったサルコジ政権の在任中は、ルペンら極右政党は選挙で勝てなくなったものだ。つまり極右票が与党に統合されてしまった。日本でも自民党が先進国の政権としてはあるまじきくらい極右化することで、安倍政権と維新のキャラがかぶってしまい、維新のポジションがなくなってしまったということだろう。そこで自民党ですら言えない本音を代弁することで、自民よりもう一歩右に出ようとしたら、そこはもう支持者すらついてこれない議会主義政党の枠外だったというわけだ。

 従来は社共に投票してきた革新浮動票も、前の総選挙では、ちっとも現状を突破できない社共から「今の政治を壊す」ことを期待して、かなりの部分が維新に流れたと思われるが、それも今回の従軍「慰安婦」をめぐる妄言と迷走で完全に冷え切ってしまった。みんなの党が早々に維新を切ったのは賢明な判断だが、右からの「第三極」のイメージ低下は並みのものではなく、まきぞえをくらった形でやはり苦しいのが現実だ。結果として「自民が伸び、民主が踏みとどまり、投票率がさがる」という寒々とした偽りの光景だけが繰り広げられる。

 幸福実現党もそうだが、自民党が極右化した今、極右支持者にとっての維新は右派票を分断する存在でしかない。ネトウヨさんらも普段自分たちが言ってきたことを代弁してくれた橋下市長が、一般の世論から袋叩きにあっているにかかわらず、いつもみたいに「在日の陰謀だ」とか騒ぐ声も少なく、比較的静かにしている。まあ、彼らにとって維新は、パソコンオタクの熱烈な Windows ユーザーにとっての Macintosh みたいなものである。むしろ邪魔でさっさとなくなってほしいと思うか、支持するべき関心の対象外なのだ。そこで維新が生き残るとしたら、熱心なMacユーザーを固める(大阪の地域政党としてやり直す)か、かつての iMac のように、ユーザーの予想のななめ上をいく路線を打ち出す(「マッチョな弱者救済」のようなファシズム左派路線)くらいのものだろう。

 橋下市長も維新は「自民党や民主党のななめ上」であるように有権者に印象づけようと模索していたのかなと思う。だから橋下市長がみっともなくも「真意と違う」的な失言者の決まり文句を言っているのは、要するに「自分の他の発言とあわせて、全体として自分にこんなふうな印象を持って欲しかった(持つべきである)」ということを他人に強要しているだけの泣き言である。結局はかつての Apple がとってますます墓穴を掘りかけたあの路線、つまり Microsoft の路線をまねしてその一歩先を行こうとする路線にはまってしまったようである。

◆ファシズム(極右・民族排外主義)が支持される構造

 もともとファシズムの支持基盤というのは、資本主義が没落して危機に瀕している時代、とりわけ都市部若年層の「俺たちは苦しい、損ばかりさせられている、誰か助けてくれ」という声であり、それに対して、従来の左右の大政党や財界資本家が既得権益などにしばられて動けない中、「よし、俺たちがあいつらを全部ぶっ壊して、お前らが本音で思ってることを、全部いいように決めてやるぜ」という新興勢力として登場してくるものである。各国の極右ファシズム政党が、ハンコで押したように「中道」を自称しているのはこの路線のためである。

 その過程では若者の不満のエネルギーを、本当の敵である資本主義体制の突破ではなく、適当にでっちあげた「左翼勢力」だの「在日外国人」やら「ユダヤ人」やら「特ア」だののスケープゴートを立て、それらを追放すればみんなうまくいくかのように問題をわかりやすく単純化し、一方で「栄光のドイツロマン主義」とか「輝ける天皇の国日本」だのの排外主義をふりまいて、「本当は君たちはすごくて偉いんだよ、なのにあいつらのせいで……君たちは悪くない!君たちは奴らの被害者なんだ!」と耳元でささやくわけだ。資本主義体制の危機のせいでかつての「中流」は没落し、若年層は「豊かな日本」に新規参入させてもらえない。なのに上の世代(現体制)はパイの分け前をよこさないで、体制危機を支える相応の負担ばかり押し付ける。そんな都市部若年層にとって、これは一種の麻薬的な心地よさをもたらす主張だ。

 どうすればこういうファシズムと対決できるのか、つまり生きづらさを抱えている人たちの苦悩を、「在日特権」などという弱いものイジメや差別(の正当化)によって、手っ取り早くすぐに得られる歪んだ快感(それは自分で自分の首をしめて敵を助ける行為であり、その快感は文字通りの麻薬だ)に利用するのではなく、地道ですぐに結果は出ないけれども、それでも本当に自分たちを苦しめている元凶、つまり本当に闘って改善すべき問題から逃げずにちゃんと向き合ってもらえるのか、そのためにはどうすればいいのか。

 そういうふうに真面目にとことんつきつめて考えている人たちなら、なるほど「差別に反対する右翼」も含めて、すべての右翼との共闘はおろか、同席すらもってのほかとなるだろう。反原発だの反TPPだのの集会でも、日の丸や君が代の登場なんぞ論外だ。大衆の生きづらさや不満を、「偉大なる天皇の国日本」という歪んだまやかしの方向ではなく、本来の敵(本来の問題)と向き合えるように心をくだいてきたというのに、なぜ一生懸命に押しとどめてきたものに協力したり容認しなくてはならないのかと。それでは反原発や反TPPの叫びもすべてむなしいものになって、日本をよくするどころか、場合によってはますます悪くなってしまう。……と、反原発集会に日の丸が登場することを批判している人は考えるのだ。「日の丸の登場自体が差別の容認である」という主張はそういうことだ。

 日の丸右翼の登場を「反原発運動の広がり」と思っている人は多いと思う。確かにそういう面もあるだろうが、本質的には「日の丸右翼が大衆運動の中にまで浸透してくるようになった」日本の右傾化がそこまで進んだという、逆から見た側面もあるのだ。念のために言うなら、反原発運動に参加する右翼の個々人が、悪意をもって参加してると思っているわけではない。一人一人は純粋な思いで参加されておられるのだろう。だがこの側面は、よほど注意しないと大衆運動そのものにあとからボディブローのように効いてくる可能性がある。そういう複雑で重要な問題なのに、一般には「反原発運動の広がり」を邪魔する「イデオロギーに凝り固まった人たちの妄言」「主義主張の押し付け」だと思われることも少なくない。はては「左の『在特会』だ」とまで書いている方もいた。そう言われるのは多くの場合、「日の丸排除」を「実践」している側の問題もあるのだろうし、実際、ほんとうにそういう言われ方をされても仕方のない行動や人物もいるのだろうと推察する。

◆もう一つの重要な論点

 思うに、ここでは私が繰り返し述べてきた、別の論点が存在すると思う。そしてそれは場合によっては運動の帰趨を決するくらい重要な論点なのだと思う。すなわちそれは、運動や民衆内部での意見の違いにどう対応するかということだ。この部分に大衆はすごく敏感だし、ここで非常識な対応をすれば、それだけでもう、主張内容の検討に入る前に入り口で大衆から門前払いされてしまう。いや、むしろ私の狭い経験上からは、「言ってることが正しくて正義感が強いけれども他人に不寛容」という運動や指導者が、一番たちが悪い最悪の指導者だと思う。少数派や仲良しグループのリーダーならそれでもいいんだけれども、様々に意見の対立する人たちみんなをまとめて運動全体に責任をもつべき主流派がこれでは、いつしか運動がどんどん先細りしてしまうだろう。

 共闘というのは「課題の一致・行動の統一・相互批判の自由」の3つが保障されていなければ成立しない。相互批判については時には相手の言葉が誹謗中傷に思えることもあるだろうが、いつまでも少数派意識では困る。与党根性と野党根性はTPOで使い分けなくてはならない。確かに計画的なデマは論外としても、まあ、相手が本当に私のことをそう思っているのなら仕方がないと私なんぞは思っている。それはこまめに反論するか無視するしかない。

 本当の意味で運動体の内部なら反論が基調となるが、ネット時代のことであるから、外部とか、ちょっとデモに来ただけの人が素直な反応や感想を述べるのも歓迎するべきである。組織や運動体の内部の問題についても、そうしてみんなが論争に「参加」し、そんな大衆を説得していく姿勢はとても重要だ。そういう外部からの批判については、自分の立場からは時に誹謗と思われるものも多いわけだけれど、適当に取捨選択しながら、だいたいは無視したほうがいい。まずもって自分の意見に世界中の100%が賛成してくれることはありえないし、自分の説明をみんなが自分の考えた通りに受け取ってくれることもありえないんだから。

 大衆からのすべての反対意見や勘違いにいちいち目くじらたてて「許せない」と思う人は、政治的な運動の責任者には向いてないと思う。少なくともそういう「敵味方思考」が強すぎるという自覚のある人は、何があっても絶対に運動の「指導者」にはならないように自制してほしいと思う。あと、相手と現場だろうがネットだろうが論争する時に、自分がネットで書いたことを相手はまず読んでいないという確率は70%である(笑)。読んでもいないことをあれだけ批判してたんかい!という突っ込みはもっともではあるが、お互いにそのことを怒らないようにしよう。ネットに書くと言うのは「誰でも読もうと思えば読める状態においた」とみなされる(実際はそうでもない)ことに意義があるのであって、それ以上でも以下でもないのだから。

◆「反原発なら何でもあり」派と「右派な人は強制排除」派の争いはちょっとうんざり

 いつも言っていることの繰り返しになるので、今回はちょっと目先を変えて書いてみた(変わってない?w)。要するにどっちにしても常識感覚というものが必要だと思う。それがないと、ただ「正しい」主張をポンと置いて、それに賛成してくれる人だけを同心円的に増やそうとする宗派的な運動や選民思想にとりつかれしまう。その一方で、「あるがままの大衆」を、そのまんま生の状態でまるごと肯定(迎合)して運動に連れてこようという傾向もよくある話だが、そんな構想は幻想だし大衆蔑視の思想だと思う。運動というのは多かれ少なかれ、対象に働きかけて変革していくものなのだから。この二つの傾向はどちらも大衆蔑視であるし、そして同じ団体や個人に同時に二つとも成立している場合さえあるのでやっかいだ。つまり大衆迎合と言う方針がセクト性や選民思想を帯びるまでに高めあげられていることがあるのである。しかも実によくあるし、そういう例を山ほども見てきた。

 まあ、なんというかな、このあたりの運動のなれの果てみたいなことについては、左翼(特に新左翼)が嫌というほど経験してきたことばかりだ。でもその歴史はほんのちょっとしか蓄積されてきていない。だから同じことを繰り返す。(新)左翼から距離感のある人なんかの場合はとくにそう。「自分は左翼ではない」とか「左翼の奴らは古い」とか思っている人に限って、「左翼のあやまち」をまたぞろ延々と繰り返しているようにしか見えない。そう、その当時はみんな「これが正しいのにみんなわかってない」と思ってやってたんだよね。

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