「反原発に名をかりた闘争妨害を許さない共同声明」によせて

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 去る3月11日複数の右翼団体によって、東電前行動に対する襲撃や、あろうことか福島から着の身着のままで逃げてこられた避難民にまで、拡声器で罵詈雑言、嘲笑を浴びせかけるという、心の痛む事件が引き起こされました。

 まさに今までの一線を超えたとしか言えないこの事件には、さっそくに共同声明が発せられ、賛同が呼びかけられています。これについては私個人も当サイトに転載し、周囲の方に呼びかけるなどさせていただき、微力ながらも5名くらいの方から「賛同したよ」というお返事をいただきました。また、私も参加している反原発ジグザグ会においても、討議の末、団体賛同させていただくことになりました。締切が3月末日と迫っておりますので、是非多くの皆さんの賛同を呼びかける次第です。

◆ご都合主義は信用できない-右派からの声はあがるか?

 ところで私は以前、「ヘイトスピーチに反対する会」(の一部有志)が、新宿の素人の乱主催の反原発集会に乗り込んで、事実上の妨害をした時、それに対する苦言を合計4回ほど書いたことがありました。(→その1その2その3その4

 そのとき、はじめのうちは、仲間内と言える部分からも叩かれましたし、草加は右翼の味方みたいなトンチンカンな「批判」も受けました。あまりにも私の主張がネジ曲げられているそのカンチぶりを見て、自分の至らなさに凹んだりもしました。Twitterや各種掲示板などでは支持してくれる方も多かったですが、周囲の特に左派と言われるような部分からは、私を公然と支持してくれるような人は少なかったですね。もちろんこっそり言ってくれる人はけっこういましたけど。つまり私はそれだけの犠牲や危険をはらってでも、言うべきことを言ったつもりです。

 さて、そして今回の件です。今度は右派の中から、それなりの危険を覚悟で公然とモノを言ってくれる人が一人でも出るのかなと注目しています。あるいはまた、「右も左もない」とか綺麗事で、口を極めて「ヘイトスピーチに反対する会」を罵っていたような良識ある人々が、今回も同じことを言えるのかどうかもね。もちろん匿名希望でこっそりと「私はあんな人たちとは違うから」とか、単に自己保身的に言う人ならいっぱいいるんでしょうがね。さあ、はたして公開された賛同人の中に、右派の有名人や、「右も左もない」派の方がどんだけいるか、注目させてもらいます(と、挑発してみるテスト)。

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◆「共同声明」の内容を見る

 ちなみに、この「共同声明」の内容は以下の通りです。少なくとも表現の自由や民主主義を肯定し、反(脱)原発を掲げる人なら、誰ひとりとして異議をさしはさむ余地のない内容だと思います。

           <共同声明>

  1. 「3・11行動実行委員会」賛同者・賛同団体への天皇主義右翼による闘争妨害、威迫行為を許しません。
  2. 自分たちと意見や立場を異にする運動体や個人に対する暴力的排除、攻撃のいっさいを許しません。闘争圧殺や弾圧には、力をあわせてたちむかいます。
  3. 原発事故ならびに事故後責任のすべての責任者に謝罪と被害者への完全な賠償を要求します。
  4. 日本国家の原発再稼働、原発輸出に反対します。
  5. 放射能汚染下で生活、労働を強いられているすべての労働者市民の健康被害をくいとめ、生活と権利侵害、健康被害に対する賠償と補償責任を果たすことを求めます。

 もちろん私も賛同しました。その賛同メールには、以下のような文章を書いて送りました。

 「この国の大衆運動には歴史というものがありません。『自分たちと意見や立場を異にする運動体や個人に対する暴力的排除』……いったいいつまで同じことを繰り返すのでしょうか。そのたびに同じような反応や意見が何度も繰り返されています。
 過去にそういうことがあったことは知っていても、それは特殊な人たちがおこした特殊な事例程度に思われています。そうではなく、誰でもそういうことをしてしまうし、被害者にも加害者にもなりうるのだと知るべきです。むしろ、よほど気をつけていないと、運動が発展した時、必ず、絶対におこることなのだと思うべきです。そこでは善良な人々が「正義」を行っているつもりで、いつしか加害者になってしまいます。
 もう私たちは「そういう世界」に入ってはいけません。目的意識的にきっぱりと決別(というか克服)の努力をすべきです。
 『攻撃のいっさいを許しません。闘争圧殺や弾圧には、力をあわせてたちむかいます』に心から同意します。そして自分自身が無意識に加害者になっていないか、常に自らを戒めていたいと思います」

◆左派と運動の主体側から考える-右翼批判だけで終わらせず運動の発展を

 このことをもう少し、左派の主体性にひきつけた問題として考えてみたいと思います。
 私はまず第一に、「原発は怖い、いらない」という点で一致し、そこから切り込んでいくことがとても重要だと思っています。ですから「原発は怖い恐ろしい(だけ)ではだめだ」という点を強調して(そのこと自体は正しいが)孤塁を守るかのごとき「ヘイトスピーチに反対する会」界隈のあり方には同意できません。

 第二に、意見の違いや自己の主張の正しさは、大衆的な実践で競い合うことで決着をつけ、淘汰していくべきだという、いわば大衆運動の原則を飛び越え、自己の主張を運動内部でダイレクトに他人に強制するやり方には同意しかねます。それは内ゲバそのものだからであり、今回の抗議声明で批判されている内容そのものだからです。

 第三に、モノホンの右翼とは別に、今の市民社会にはあきらかに右派的な考えや潮流が存在しているのであり(特に若年層)、それに対してまるでないもののようにというか、ただ自己が正しいということの確認と純化、宗派的な同心円的拡大の追求だけでは、運動の蛸壺化と選民思想化をもたらすばかりであり、ただの自己満足で先細りしていくしかないと思います。そこをいかに打破していくのかという動的な問題意識が「ヘイトスピーチに反対する会」などには感じられない。

◆上辺だけの「右も左もない」の欺瞞

 第四に、これと対極にある「放射能や原発災害に右も左もない」という主張について。それはある一面、つまり言葉そのものの意味としては正しいことに、誰も異論はないでしょう。とりわけ初期の頃(素人の乱時代)にそう言っていた人は、純粋素朴に善意からそう言っていた人が多いことも私は知っています。というか、私も一時はそう思っていたし、ある意味では今もそう思っていますが、それは単に放射能が人を選ばないということであって、そんなの別に当たり前のことでしょう。だけどそれは局面によっては重要な点になることもあります。

 ですが、時間がたつにつれ、「右も左もない」は変な意味で恣意的に使われるようになります。ごく普通に素直に考えれば、右も左もないんだから、反(脱)原発を掲げるものはみんなで協力しよう、つまり反原発ならなんでもありという主張のはずです。別の言い方をすれば「右も左も全部ある」という、ある意味統制のない自由な運動という結論にならなけばおかしいわけです。そして実際、初期の頃は「右も左もない」派とは、それを批判するにせよ肯定するにせよ、そういう考えの人をさしていたわけですよね。

 ところが今、「右も左もない」は、多くはそれとは全く異質な、運動統制派の人たちの決まり文句として使われています。曰く「右も左もないんだから、左翼的なスタイルや主張はやめろ」「右も左もないんだから、労働運動や組合だとわかるようなのはやめろ」そして「右も左もないんだから、右翼的なスタイルや主張でもかわまない」という使われ方をすることが多くなっていきます。

 つまり、「右も左もないんだから」左翼としての登場は禁ずる(でも動員だけは出せ)、「右も左もないんだから」右翼はそのまんまでかわまないというわけです。そこではいわば「右も左もない派」みたいな一群が形成され、その言動は一見まともな綺麗事を言いつつ、その実は左翼だけをていよく排除する(でも動員だけは出せ)、猫撫で声の気色の悪いものへと変質していきます。この人たちが言う「決して左翼を排除はしてない」というのは、つまり「動員だけは出せ」という意味です。

 エントリのはじめのほうで言っているのはそういう気色の悪い人たちのことです。「放射能の被害に右も左もない」と、純粋素朴に思っている善意の市民を、イデオロギーの高みからなで斬りにしているわけではありません。

◆いつの時代にもいた「秩序派」たち

 実はこういう気色の悪い人らは、何も最近になって急に出てきた類の人らではなく、昔っからいっつも!いるのです。それはかつて左翼運動家からは「秩序派」と軽蔑を込めて呼ばれていた種類の人らで、運動が盛り上がって煮詰まってくると「まあまあまあ、落ち着いて」とばかりに必ず出てくる類の人です。そして共産党や民青なんかは、まるで磁石のようにこの人らにピタリとくっついて寄生し、その後ろに隠れようとする。場合によっては共産党自身が自前で秩序派の役割を果たすこともある。

 全共闘運動などで顕著だったのですが、秩序派は最初は「良識ある中間派」みたいな顔で出てきて、事態収拾主義的に調停者として振舞おうとします。ですがその性質から、不可避的に体制維持派に取り込まれ、最後には保守派や右翼などの体制派と連合、とりわけ悪質な人は警備公安警察とさえ内通し、それらの一部として、社会変革を求める側(反体制派)を弾圧する一翼を担う。そしてこの秩序派との「話し合い」や「妥協」を演出することをもって、体制側が自己の「柔軟さ」をアピールして事態を収拾しようする、そういう役割を担うのが彼らです。

◆東電・安倍・原子力村との対決を主軸に闘おう

 私は、運動実践を飛び越えて、ダイレクトに他人を自分の主張に従わせようというやり方(内ゲバ主義)は、思想的内実において少しも右翼や安倍政権を超えていないと思います。そのほんの小さな波紋は、ただ「なんでもあり」派を壊滅させて右に追いやり、気色悪い「右も左もない」派(秩序派)の跳梁跋扈を正当化するばかりでした。現下の反(脱)原発運動は、すでに古典的な共産党的路線(要求貫徹=シングルイッシュ)から、むしろそれでは飽き足らない社会変革を志向する方向へと徐々に変化しつつあります。しかしそれは大衆の自然発生的な流れが「指導部」を乗り越える形で進んでおり、そこに左翼は何一つ噛めなかったばかりか、むしろ置いてきぼりを食わされてきました。

 そのような苦い経験を経つつ、今般、右翼からの執拗な妨害にさらされる「東電前アクション!」が、それでも即時的に右翼との一対一的な関係にまんまと乗せられることなく、「敵は右翼ではなく東電」と言い切り、運動の軸足がぶれないことを高く評価したいと思います。(→参照)私たちはあくまでも東電、安倍政権との闘いを闘うべきだ。くだらない内ゲバなんてしている余裕はいっさいありません。右翼や秩序派との闘いや運動の分岐は、その闘いの中で、あくまでも妨害をはねのけて進んでいくものとして措定されるべきだし、それでこそ私たちの旗幟は鮮明となり、正義性も明らかになろうというものです。その意味で、今回の声明は今の反原発運動の到達点の一つだと思います。

 まあ、もちろん、「明らかになった」からといって、それを支持してもらえるとは限りませんよ。そんなことはわかってますがね。ただ、「わけのわかない変な奴ら」と思われるのだけはさけないといけないと思うんですよね。ちゃんとわかってもらった上で、批判されるのなら、それはそれで仕方がないし、そういう批判の存在は受け入れないといけないのです。自分のことを「わかってない」ことを相手のせいにしたり、大衆や大衆団体を相手に「誹謗中傷」されたとか息巻くのは大人気ないと思います。人は自分が何を考えたり言ったりしているかではなく、実際に何をしているかを見て私たちを判断するのだということを忘れてはなりません。

14件のコメント

右翼の反原発運動襲撃に対する抗議声明に賛同しました

 去る3月11日、実行委の主催で闘われた東電前行動(3.11天皇出席の震災3周年追悼式典ー全国一斉黙祷反対!集会・デモ)に対して、右翼の「在特会」「男組」「我道会」を …

でもこうして見ると、ゲバ民(共産党・民青の対全共闘用の内ゲバ部隊)が、学園紛争が下火になった途端、共産党本体からやっかいもの扱いされて、ほとんど辞めていった(切られた)のもわかりますね。今回はどこが「本体」なのかはわかりませんが、そろそろやっかいものになりつつあるよね。

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