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5. 賃金における価値法則
もちろん労働力商品と、その価格である賃金も、その例外ではない。というよりは、すでにみたように労働力商品の売買を基軸として、価値法則は貫徹されるといえるのである。
賃金相場もまずは需要と供給の法則によって決まる
賃金もまた、まずもって需要と供給の法則によって決定される。
まず雇用情況や社会情勢、あるいは影響力のある企業や公務員の賃金なども、それが賃上げあろうと賃下げであろうと、社会全体に波及する。つまりその時々の社会全体の売り手(労働者)と買い手(資本家)の競争の力関係において、賃金の相場は変動する。まずこの力関係が基本である。
価値法則における労働力商品の価値
しかしこの変動の内部では、賃金は常に労働カの価値の大きさによって、つまりこの労働カ商品を生産するのに必要な労働時間によって決まるであろう。労働力は生身の労働者から切り離すことはできない。それはつまり生きた労働者を今日も明日も、労働力商品として維持するために必要な生活手段(衣食住など)の価値である。また、その労働者を労働者として育てあげるために必要な価値(修業費)である。(図D)
この点についてはいくつか注意しなければならない。まず労働者の生活手段の価値であるが、これには家族の生活手段の価値が含まれている。つまり、老年や死亡で消耗された労働力を、新しい労働カと交換できるようにするためには、その労働者一人分の生活手段だけでなく、家族の生活手段、すなわち労働者の繁殖費を含む。これは個別のではなく資本家階級全体にとって絶対に必要なことである。そしてこれら資本の外にある労働はすべて無給の「私生活」とされ、伝統的に女性の役割とされてきた。
付言するならば、マルクスの時代にフェミニズムという概念はなかったが、彼は家族の問題について詳細な研究を重ねていた。妻が夫の「財産」として扱われていた時代に、女性と男性は同等の一個の人格であるとした『共産党宣言』は、当時としては充分に過激派であった。研究の発表前にマルクスは亡くなるが、盟友のエンゲルスによって引き継がれ『家族・私有財産および国家の起源』として発表される。これは女性問題についての最古典の一つである。
純生活費+文化生活費+修業費=労働力の価値
それはともあれ、もう少しくわしくこの労働者の生活費と繁殖費(労働力商品の再生産)を見るならば、そのなかには、労働者の生理的・生物的な生活にとって絶対必要な生活手段の価値(生理的生活費部分=賃金の最低限界)と、労働者が文化的生活を営むために必要な生活手段の価値(文化生活費部分)がある。
文化生活費部分は、その時代・地域における労働者の、平均的文化的欲望の範囲によって決まる。たとえぱ現在的には冷蔵庫やテレビやエアコンぐらいは所有し、年に何回かは家族連れの旅行に行くぐらいはあたり前になっている。それもできないのは不当に安い(健康で文化的な生活の最低限度に達しない)非人間的な賃金ということになるだろう。
そしてさらに、これらの生活費とは独立の修業費がある。修業期間が何年もかかる複雑労働の熟練労働者は、それだけ賃金が高い。また一般的に中学卒よりも高校卒、大学卒のほうが賃金が高い。それは資本主義社会においてはそれだけ「金のかかった上等な商品」だからという理由にすぎない。
最後に、このようにして成立する”労働力の価値”のうち、修業費をのぞいた労働者の生活費部分(生理的+文化的)のことをマルクスは「最低賃金」と呼んでいるが、これは価値法則で見たように個別の労働者が必要とする最低限のことではなく、社会的・平均的にしか成立しないものである。
たとえば一口に”労働者の生活費”といっても、ある人は子供が五人いるかもしれないし、ある人は一人もいないかもしれない。しかし修業費や労働時間などの条件が同じであれぱ、たとえ生活費に倍以上の違いがあろうとも、資本家との関係においてこの二人の賃金は平等である。
「しかも現実には幾百万の労働者は、生活し、繁殖するのに充分な価値をうけとっているわけではない」。だから子供の数を決めるのは夫婦よりもその賃金である。しかし、修業費などをのぞいた労働者階級全体の最低限度の賃金は、その変動の内部で平均化されて、この「最低賃金」に一致する。
これらによって、同等な条件における社会的平均としての労働力商品の価値は決定し、あとは他の商品と同じく価値法則の範囲内で、需要と供給の力関係によって賃金相場が決定されていく。
本当はみんな知っている資本主義社会の仕組み
こうして次のことがわかる。労働者は資本主義体制のもとでは、自己を労働力商品としてしか社会的に表現できない。資本主義社会における人間の値うちは、商品としての値うちなのである。
私たちはそのことを経験として知っているはずだ。すなわち中学卒よりも大学卒のほうが労働力として高級であり、社会的にも高い地位になる。自己を労働力として表現できない「障害」者などは、きわめて低い位置しか与えられない。そしてすべての幸福と地位の規準は貨幣量である。それへの道は他者との競争であり、これに勝つことだ。競争しない(したくない・できない)人間は「怠け者」と呼ばれるのだ。
これがブルジョアジーの人間観であり、社会観であり、ブルジョアジーが支配する社会での一般的なイデオロギーとなる。そしてブルジョアジーは自分に似せて社会をつくる。このイデオロギーが社会でより強く貫徹されればされるほど、労働者には人らしく生きることができない「生きづらい」社会となる。
しかし競争イデオロギーに汚染された彼らには、いくら言ってもその生きづらさが全く理解できないであろう。「努力して這い上がればいいじゃん」くらいに思っているに違いない。金銭獲得競争に参加しない者なんて理解の外であり、それは単なる「怠け者」の自己責任くらいにしか思えないのだ。その思考のほうがよほど貧しい。そしてそんなものはただのイデオロギーにすぎないことをはっきり認識しておこう。
さて、このようなブルジョア体制は、何かしら「自然に」そうなってしまっているとか、あるいはその逆に警察や軍隊の暴力的強制のみで維持存在しているわけではない。ちゃんと物質的な基礎をもっている。それが「資本」なのである。次にそれを見ていこう。
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6. 資本=ブルジョア的搾取関係の物的表現
会杜の「資本」とかいった場合一般にそれだとされるのは、まず第一に資金であり、工場の建物とか機械とかである。そしてブルジョア経済学者もそう考えている。
「黒人奴隷とは何か?黒色人種の人間である。右の説明はこういう説明とおっつかっつのものである。黒人は黒人である。一定の諸関係のもとでのみ、彼ば奴隷となる。紡績機械は紡績するための機械である。一定の諸関係のもとでのみ、それは資本となる。これらの関係から切りはなされたら、それは資本ではない」
各種の価値(商品・貨幣等)はいかなる場合に資本となるか
では、一定の諸関係とはなにか。
まず工場に投下された資本(=産業資本)は、図Eのような循環運動をする。
資本家ははじめ、たとえば10億円の貨幣(Gという符号であらわす)をもって商品を買い入れる。
この商品は二種類のものからなっている。一つは生産手段(Pm)つまり工場の建物や機械・原料などである。もう一つは人間の労働カ(A)である。
この場合、たとえばこの両者に5億円ずつ使ったとしよう。資本家はこの両者をむすびつけ、生産過程(P)を通して15億円の価値をもった新商品(W´)を生産しそれを市場で売って、15億円の貨幣を得る。差引きで5億円の剰余価値(m)が資本家のもうけである。彼はこの剰余価値を得るためにこの作業をくり返す。
ところでこの新商品の価値はどこから来たのであろうか。5億はもとからあった原料や機械(の摩耗分)の価値が、新商品(W´)にうつってきたものである。(わかりやすいように、機械や道具も一回の生産ですべて摩耗して価値をうつすものとして考える)だから残りの10億円が、労働者がその労働によってつけ加えたものである。
労働者はたとえば八時間働いて最初の必要労働時間四時間で自分の価値5億円をWにつけ加えてしまう。残り四時間の剰余労働時聞で、資本家のもうけとなる剰余価値を生産する。剰余労働を長くすればするほど”もうけ”が大きくなることがわかる。
この図における最初の10億円は「総資本」である。このうち生産手段の買い入れにもちいられる5億を、その価値が変わらないところから「不変資本」(c)といい、労働力の買い入れに使われる5億円を、その価値が増殖するところから「可変資本」(v)という。
資本にはこの他に産業資本の生産物を売る「商業資本」(図F)や他資本に金を貸す「貸付―もしくは利子生み―資本」(図G)がある。
「資本」の本質(定義)
これらのことを見ると、資本とはまず第一に、あるときは貨幣形態、ある時は商品形態、ある時は生産手段と労働カの形態をとる”価値”である。
第二に資本は剰余価値を生み、自ら増殖する価値である。価値が増殖するのは資本家階級によつて労働者階級を搾取するために使われるからである。だから剰余価値を生むというのが資本の本質である。
「資本の本質は、蓄積された労働が生きた新しい労働のために新しい生産の手段として役立つという点にあるのである」
第三に、資本は循環し運動する”価値の運動体”であり、その循環の中で剰余価値を生む。この運動をやめれぱただの機械であり、商品であり、労働者であって、それは資本ではない。
まさしくこの資本がブルジョア社会の基礎であり、すべての矛盾の根源だと言ってもよい。受験戦争から侵略戦争までいっさいの差別・抑圧は、この循環の鎖をたち切らないかぎり、決して解決されはしない。
この資本の鎖をそのままにしての改良主義や組合主義は、まったくその展望をもち得ない。われわれは現在的に最も必要な闘争を闘いながらも、この資本を、階級社会を、地球上から根絶するために闘うのだということを念頭に置かねばならないのである。
こうして「賃労働と資本」は、同じ一つの関係を表わす言葉だとわかった。それでは、この関係の枠内にもうすこし立ち入ってみよう。
7. 資本家と労働者との交換関係(賃金)
さて、賃労働と資本の本質と関係性について理解したところで、多くの労働者にとって死活的な関心があるだろう、資本と労働者の間の交換(取引)関係について、すなわち現実的な給与・賃金の問題についてみていこう。マルクスはこれについて、名目賃金、実質賃金、相対的賃金の三つに区別して論じている。
名目賃金と実質賃金
「名目賃金」とは、十万とか二十万とかの貨幣額で言いあらわされた賃金のことであり、「実質賃金」とは、その貨幣額で買うことのできる物質的財貨やサービスの価格を考慮に入れた賃金のことである。よく言われるように名目賃金が上がっても、生活必需品やサービスの価格がそれ以上に上昇するならぱ、実質賃金は下落したことになる。
このような、物価に対して実質賃金が下がる状態のことを“絶対的窮乏化”という(窮乏とはやや古い言葉なので、現代的に貧困と言い換えてもいいかもしれない)。
相対的賃金と貧富の格差
「相対的賃金」とは、資本家が手に入れる利潤とくらべてみた賃金のことである。この相対的賃金は、資本と労働カとの力関係をあらわす。また社会的発展水準とその中から労働者階級に回されるわけまえの比率をあらわす。名目のみならず実質賃金が上がる場合でさえも、相対的賃金が下がれば労働者の社会的地位は低下する。
つまり「われわれは欲望や享楽を、社会を基準としてはかる。われわれはこれらを、それを充足させる物を標準としてはからない。欲望や享楽は社会的なものであるから、それらは相対的なもの」であるのだから。これを“相対的窮乏化”という(相対的貧困化を現代風に言えば格差の拡大ということになろうか)。
たとえば安下宿でふるえる非正規労働者に「君は原始時代とくらべると大変に豊かだ」と言ってなぐさめになるだろうか。あるいは低賃金長時間労働でこき使っている社長が、子供の教育費や親の介護など、家計のやりくりに悩む労働者にむかって「わしの若い頃は…」などと、何十年も前の話で説教しても愚弄にしかならない。
絶対的窮乏化を防ぐ意味でも、実質賃金の維持と上昇は、一般的な労働者や労働組合、さらに資本主義の体制を自明のものとして考察しない保守派であろうとも、最低限の要求または課題であるだろう(新自由主義者をのぞくが)。
その一方で相対的窮乏化をもたらす相対的賃金の下落、もしくは貧富の格差の拡大は、戦後復興期(高度成長時代)などの例外をのぞけば、資本主義社会の宿命であり、さけられないものであることは、世界的ベストセラーとなった『21世紀の資本』において、トマ・ピケティも論証している通りである。
相対的賃金の決定される構図
それではこの相対的賃金の騰落を決めている一般的な基準はどんなものだろう。商品の価値は三つの部分から成り立っている。1)資本家が前貸しした道具や機械などの消耗の回収と、原料の回収。2)前貸しした賃金の回収。3)これらのものを差しひいた残り、つまり資本家の利潤である。
このうち1)は前からあった価値の回収にすぎないが、2)と3)は労働者が新しく作りだした価値である。もちろん賃金は生産物からのわけまえではないが、実際にそうであるように、生産がくり返しおこなわれるものとしてみた場合、今賃金に支払われる資本は、前の生産で、労働者が労働によって生みだしたものに他ならない。そこで賃金と利潤とを、労働者が生みだした商品の価値の二つの部分とみることができ、両者の大きさを比較することができる。それが図Hである。
機械や原料の生産手段から移ってきた5cをのぞく、労働者がつくり出した価値はというと5v+5p=10である。賃金が上がって6vとなれぱ利潤は4pと下がる。逆に資本家の利潤が上がって6pとなれば賃金は下がって4vとなる。
このように賃金と利潤は反比例し、労働者と資本家の利害はまっこうから対立する。
「これでわかるように、われわれが資本と賃労働の関係の内部にとどまる場合においてすら、資本の利害と賃労働の利害はまっこうから対立する。資本が急速に増大するのは、利潤が急速に増大するのと同じことである。利潤が急速に増大(経済発展)できるのは、労働の価格が、相対的賃金が、同じように急速に減少する場合だけである」
この場合、資本主義体制を前提とした組合主義は、労働者が生み出した富の分け前、すなわち相対的賃金の割合をできるだけ労働者側に有利にして、その社会的地位の下落を緩和するということになり、社民主義の場合は、資本家の剰余価値に課税した上で、労働者を含む社会全体に還元することで、同じくその社会的地位の下落を緩和、さらに労働法制などで資本家が無茶をしないよう、ほどほどに労働者を保護するということになる。
どちらも資本主義体制を維持・存続させるためにはむしろ必要なことで、「戦争と革命の世紀」と言われた第二次世界大戦までの歴史的な反省と、ソ連圏の形成という事態を受けて、ケインズ学派などを動員した国内政策として、多かれ少なかれ資本主義各国で採用された。現在はケインズ政策の行き詰まりとソ連圏消滅という事態を受け、一部のケインズ派をも取り込んだ新自由主義の各潮流(主流派経済学)が台頭しており、総じて体制の危機を民衆にしわ寄せして乗り切ろうとしている時代と言えるだろう。資本主義の危機にはファシズムの台頭も考えられ、先は予断を許さない。
資本の側からの「労使協調」政策について
最後に、労働者と資本家の利害は決して対立しない、むしろ一致するという、マルクスに対する古くて新しい、ブルジョアとその追随者からの批判がある。その内容についてはすでに出つくしており、マルクス自身が存命中にだいたい論破しているが、ここでは「生産性向上運動」に代表される現在的にも広く流布されているものについて見ていきたい。
たとえぱ、ある工場で何らかの生産性の向上運動(実は労働強化にすぎないのだが)を実施したとする。それまで労働者がつくり出す価値が10億であり、そのうち賃金が3億で、利潤が7億、つまり3v+7p=10だったとしよう。
ここで生産性向上運動によって労働が強化され、二倍の労働量が支出されて20億の価値を生み出すようになったとする。賃金と利潤の比が前のままなら6v+14p=20となる。一見すると賃金も利潤も二倍になり、労働者も資本家も得をしたようにみえる。しかし実際に得をしているのは資本家だけであり、労働者は損をしているのである。
その第一は、まえの10億も、あとの20億も、ただ労働者だけがすべて生みだした価値であるということだ。労働者が搾取されていたのは前が7億だったのが、今では14億と倍増している。しかも賃金と利潤との差も、前の4億から8億へと倍になった。欲望や享楽は社会全体の水準ではかられるのだから、たとえ賃金が上がっても資本がもっと大きく増大してしまえぱ、労働者の地位は下がる(相対的窮乏化)のである。
第二に、労働強化をおこなうと労働力の消耗度が大きくなる。しかも労働力(肉体)の消耗度は加速度的に大きくなることを計算に入れねばならない。労働の強度が二倍、三倍、四倍になると、労働力の消耗度、したがって労働力の価値は四倍、八倍、十六倍になる。労働強度が二倍になり消耗度は四倍になったのに、賃金も二倍にしかならないのでは、実質賃金は切り下げられたに等しいのだ。
しかも現実の生産性向上運動では、価値が10から20になっても6v+14p=20とはしないで、4v+16p=20というように、賃金の上げ幅はなるだけ低くおさえようとする。よりいっそうの搾取・収奪が強化されるだけなのである。(以上)
参考リンク
◇「賃労働と資本」全文テキスト(レッドモール党サイト)
◇賃労働と資本 みんなの感想(読書メーター)
◇『賃労働と資本』―どうして日本の出生率は改善しないのか(無碍談片録)
◇オススメの一冊:賃労働と資本/カール・マルクス(ロック鑑定士の日記)
◇K.マルクス 『賃労働と資本』『賃銀・価格および利潤』(言の葉を紡ぎつつ)
◇「賃労働と資本」カール マルクス 大月書店(叡智の禁書図書館)
◇基礎学習文献解説「賃労働と資本」(レッドモール党サイト)
◇「なにを いかに学習すべきか」賃労働と資本(レッドモール党サイト)
◇マルクス主義入門「賃労働と資本」1(日本労働党サイト)
◇マルクス『賃労働と資本』を学ぶ(中核派『前進・速報版』サイト)
RT @megumes: @suzu1879 ③しかし、荒派のi人々は、経済的総括は、次です。
https://t.co/RIXVkVDF4I
マルクス入門『賃労働と資本』ノート/草加耕助
https://t.co/OP5xDArYx6
レーニン『帝国主義論』ノート/谷川 昇