「小説三里塚」第二章 入植

戸村一作:著『小説三里塚』(目次へもどる

第11話 豪雨(1)

空港建設前の三里塚は桜の名所だった 御料牧場の桜並木 八月も終る三〇日の午後――南の空の一端に雲か湧き出した。かとみるとそれが急速に拡がって頭上を掩うと、大粒の雨がポツリと落ちてきた。
 天来の慈雨――武治は庭に出た。祈るような姿勢で、掌を合わせ空を仰いだ。武治ばかりでなくどこの家からも、一斉に飛び出して空を仰ぎ、小躍りして喜んだ。
 黒雲は空一帯を掩い、突如、暗い空の一角に閃光がひらめき雷鳴が轟き渡った。雷鳴は、さらなる雨をもたらすかのように轟き、豪雨が降りしきった。空は、夜のように暗く、陰惨そのものである。

 武治の子供達は小屋の中で母親の体にしがみついて泣き叫んだ。七月から八月にかけてきまって年一度は、雷雨の集中攻撃をうけるのがこの地方の通例だった。これが下総高原を襲う、特有の豪雨となって、農作物に被害を与えた。

 四〇数年前の八月のことだった。
 木の根のすぐ近くには、御料牧場の大きな藁葺屋根の厩舎があって、そこに落雷し、全焼したことがあった。そのとき、馬が数頭焼死した。牛馬は火を見ると驚き、絶対に外に出ないからだという。
 その直後、宮内省はイギリスのダービーで優勝した血統証付の名馬トーノルソルを、一〇万円で買ってきた。今でこそ一〇万円は大したことはないが、当時は相当の大金だった。三里塚にくる人々は、必ずといっていいほど、この名馬を見て帰った。三里塚に桜花と名馬は、つきものだった。御料牧場ではその名馬を元手に種つけをして、大儲けをした。
 名馬は蚊も蝿も入らない厩舎に納まって、ピカピカ光る真鍮のたがの嵌った飼馬槽に首を突っ込んで、もりもりと飼葉を食んでいた。落雷の心配もあって、名馬の住む三号厩舎には避雷針が立った。

 四月の半ば頃になると三里塚では古木の桜花が満開になった。それが野山に棚引いて、春霞のように見えた。
 その頃、三里塚には駅があって、汽車が通っていた。戸田の父の武芳が村の消防団長と輝勝会長というのをやっていた。輝勝会とは三里塚にくる都会の人々を、消防団で奉仕的に案内する会だった。東京からは三里塚に向けて、特別仕立の「花見列車」が出た。春や秋の三里塚は、東京の人でいっぱいになった。三里塚ならではの、牧歌風景が見られたからだ。
 その後、太平洋戦争の頃、三里塚に通じるレールは取りはずされた。南方の前線基地の鉄道敷設のためだった。だが、そのレールを積んだ輸送船が目的地に着かぬ間に爆撃をうけて、船もろとも海の藻屑と消え果てた。それからというものは、成田から八日市場までのバスに変わった。

 その日の木の根も凄じかった。
 雷電が暗い空にきらめくと、轟音とともに火の柱がいくつも立った。豪雨が大滝のように、降りしきった。
 掘立小屋は浸水し、浮かび上がった。
 一瞬、武治の小屋に閃光が閃いた。
 轟音もろとも一家四人は、木端微塵に砕け散ったかと思った。子供たちは絹を裂くような悲鳴を挙げて、母親にしがみついた。二人の子供を両手でしっかりと庇っていた武治は、全身に痺れるようなショックを感じた。
 説子は子供たちを抱えたまま、武治の腕に飛ぴついた。――われに返ってホッとした武治は、小屋から首を出して外を見回した。豪雨は武治の顔に、降りしきった。
 見るとすぐ傍にある牧場の老松が二股のところから真二つに割けて、紫色の煙を挙げていた。今の大音響はこの老松に落雷したのである。
 雷雨はなおも容赦なく猛り狂った。閃光のきらめきに雷鳴が地軸をゆさぶって轟くと、火柱が各所に立ち上る。落雷は主に松や杉の大木にであって、幸い人畜には被害はなかった。豪雨は窪地にはけ口を見出して奔流となって流れ、滝と化した。それが畑に浸水し、一帯が湖沼のように変わった。

 旱魃の上の水害で、作物は潰滅状態だった。
 武治の小屋は雨漏りで、居所もなかった。彼は屋根の雨漏りを防ぎながら呟いた。
「この雨ももう一〇日も早く降ってくれれば……。もうどうにもなんねえ」
「父ちゃん、どうにもなんねえどころか、旱でりの上に……あれ見ろよ!」
 説子はめくれ上がったむしろ戸の外を指さした。一面の沼沢地と化した畑は、どこに作物があるのか、自分の畑がどこかも不明らなかった。武治の畑の落花生も里芋も、みんな水浸しだ。
「いくらか穫れるものまでが、ごれでまるっきり駄目だ」
 豪雨に煙る畑を見渡した武治の胸の中は、居ても立ってもいられない焦燥でいっぱいだった。今すぐにでも小屋から畑に一目散に、飛び出していきたかった。彼は水浸しになった作物が、可哀想でいたたまれなかったのだ。荒野を拓き、やっと種を蒔いて育ったかと思ったら旱魃、水害である。武治は身をひき千切られる思いだった。

 龍崎の小屋のある丘を前にして、武治の小屋の位置は凹地になっていた。高台から坂道を伝わって流れてくる雨水が、この凹地に集中して濁流となって迸った。その音が滝川の急流のように、ゴボゴボと聞こえてくる。
 雷雨は小止みなく降りしきり、間断なく雷鳴は轟き渡った。いよいよ暗くなった空には稲妻が魔物の足のように駈け巡った。閃光は、真昼を欺くように明るく、不気味な景観を呈した。
 木の根は忽ち、死の恐怖の世界に突き落とされた。各小屋は固く閉ざされたままで、どこにも人の気配すらない。

「父ちゃん、風が出てきた」
 風を伴って豪雨となった。横なぐりの雨水がざざーっと、小屋の側面にたたきつけてくる。そのたびに小屋はぐらぐらと揺れて左に傾むく。
「説子、早くここへきて押さえろっ」
 武治は必死になって怒鳴った。雷鳴は、それをも掻き消した。
 夫婦はありったけのカを合わせた。叩きつけるように降りしきる風雨に向かって、小屋の内側から必死になって丸太の柱を、体で支えた。荒縄で結えつけた丸太が、各所できしんでギイギイと鳴った。武治はあらん限りのカを肩にかけ、風雨に耐えた。風雨が荒れ狂うたびに、小屋は宙に浮動するかのように揺れた。二人の子供が小さな掌で、カを含わせた。

 雷雨は一晩中降りつづき、やっと朝方になって止んだ。畑一帯は沼沢地と化し、辺りは見違えるほど一変した。
 窪地の瓜生と鈴木の小屋は、全く水にとられて横なぐれになっていた。向こう端の田久保の小屋は風雨に吹き飛ばされ、跡形もなかった。
 彼等は夜中、雷雨の降りしきる中を、子供を背負って菱田や三里塚の実家や親戚に、辛うじて逃げのぴたということだった。
 朝が来て陽が昇ると、見違うような青天だった。

 武治は膝までつかって、畑の中に呆然と立ちつくした。水を透して畑の作物を憑かれたように見入っていた。そこへ弟の源二がやってきた。源二の家は武治の小屋のすぐ前の小高い丘の上だった。
「兄貴、何してんだ。もう今年の収穫はこれで全滅だな」
「……」
 武治は傍に立つ源二の声が聞ごえないのか、振り返ろうともしない。水面をじーっと、見たままだ。
 やっと気づいたか、はじめて源二をかえりみていった。
「ああ、源二か。タベは大丈夫だったか」
「うん、一晩中家中で小屋の吹っ飛ばされるのを押さえてたよ……兄貴、何もかも初めっから出直しだ」

 やがて秋が来た。収穫は殆ど零で、農協から営農資金や、親戚、兄弟から借金しなければ、誰も暮らしが立たなかった。
 雨水の浸水のため、小屋の使用が不能になった。無理して建てた新築家屋で、木の根は見違うような開拓部落となった。「これでやっと人間らしい生活ができるようになった」と、豪雨を喜ぶ者もいた。
 武治も掘立小屋から新築家屋に移った。

 一〇月半ばを過きると木の根は麦蒔きの支度に入って忙しかった。武治は再び畑を整地し、麦を蒔いた。豪雨の浸水で畑に肥料分が運ばれたせいか、麦は殊のほか、青々と芽を吹きだした。北総台地の作付は、落花生の跡には麦を蒔くのが習わしだった。
 落花生は浸水で全滅したが、それにもめげず、入植者たちは麦を蒔いた。麦の芽は寒天の霜を突いて、刃のように伸びていった。
 その年も暮れ、明けて三月になった。旱魃と水害による災害補償が各部落宛に支給されたが、ほんの涙金で何の足しにもならなかった。農協の被害調査はルーズで、その上、国や県の農民に対する災害補償は冷淡だった。

 武治は、四月の半ば過ぎる頃になると、伸びた麦の畦間に説子と並んで、落花生の種を落として歩いた。
「今年は父ちゃん大丈夫だろうか。去年のようだったら、もう浮かばれないよね」
「そんなことを考えたら百姓はできねえよ」
「それにしても旱でりだと、一ぺんに作物は干あがってしまうんだからね……」
「だから百姓やるにはどうしても旱魃に備えて給水が必要だ。他の開拓地では共同でスプリンクラーという給水設備を完成してるところもあるよ」
「木の根でもそれができればいいわね。父ちゃん!」
「うん、だから俺が何度もみんなにそのことをいったんだが、みんなてんでんばらばらだから……」
「お互いに見た眼はいいようだけど、横目で人の腹を探り合ってるみたいだものね」
「これから木の根では電気もひかねばならねえし、何一つやるんでも共同精神が先だよ」
 夫婦で話しながらやる野良仕事は、殊のほかはかどって、いつの間にか三アール近くも種を蒔いてしまった。

 新築家屋に移り住んだ彼等も、相変わらずランプの生活が続いた。
 部落の者が寄ると、触ると、語題はきまって電気導入のことだった。武治は部落から、電気導入の世話役に選ばれた。選ばれたというよりも彼は率先して、部落のためにその役を買って出たのだ。武治は農繁期のさ中、毎日のように成田や千葉の東京電力に、手弁当で通っては交渉を続けた。
 その甲斐あって送電工事が開始され、一九五三年七月一五日の夜、暗い木の根部落にも、ついに電燈が点った。

 原始生活に見るような掘立小屋から、瓦やトタン板の屋根のある新築家屋に移り、暗い不自由なランプから、明るい電燈に変わった。煌々と点る電燈の下に集まり、それを眩しぞうに見上げて子供たちは小さな掌をパチパチと鳴らして、はしゃいだ。その晩から子供も大人も畳の上に寝そべって、本を読んだり、新聞を見たりした。
 武治は夜の庭先に立って、木の根の原を見渡した。農道の辻々に点る外燈と、点々と光る家々の燈火が重なり含って、まるでどこか違うところの夜景を見るようだった。
 武治はじーっとみつめて、思わず微笑んだ。

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