去る1月27日、東京日比谷野音で「オスプレイ配備撤回!普天間基地の閉鎖・撤去!県内移設断念!NO OSPREY 東京集会」が行われました。いろんな思いで2月の初旬に書きかけのままなっていた報告記事です。推敲の上で公開いたします。
すでにマスコミでも報道され、いろいろなブログでも記事があがった後ですので、集会の詳細はそちらに譲ることにさせていただき、私は自身の参加体験と、そこで考えたことなどを残しておこうと思います。
最初に書いておきますが、この日の集会はまさに前代未聞!沖縄県下のすべての市町村の首長と議会の議長がオスプレイに反対するために東京に代表団としてやってきたのです。この日の集会は彼らを迎えるためのものでした。代表団からの参加者は国会議員や地方議員も加えてその総数なんと144名!
壇上に「オスプレイ断固反対」の赤ゼッケンをつけて並んだ首長たちの多くは保守系・自民党系だったりするのですが、彼らは実行委員会を作ってオスプレイ配備撤回を求める10万人規模の県民大会を開き、その圧倒的な県民世論を背景にして、安倍首相に配備撤回の「建白書」を手渡すためにやってきたのです。
これを「沖縄の総意」と呼ばずして、他に何と呼べと言うのでしょうか?先の衆院選では安倍自民の圧勝を受けて、沖縄の選挙区でも当選した4人全員が自民党公認でした。そして同時に、この4人は全員が「辺野古新基地建設反対・オスプレイ阻止」を公約に掲げて当選しているのです。沖縄県議会でのオスプレイ反対決議はなんと全会一致!一人の反対もなく可決されました。
そしてついに沖縄のすべての市町村議会でも反対決議があがるという事態にいたっているのです。また、この日の集会の司会をつとめ、政府の姿勢を糾弾したのは、自民党の県会議員でした。この凄まじさがわかるでしょうか?いいえ、これを読んでいるあなたも、きっとまだわかっていません。私だってまだまだ骨身にしみてはわかっていない。頭でそのもの凄さを理解しているだけ。
政府だけでなく、本土のほとんどの一般市民もまた、沖縄の怒りを完全になめている。鳩山政権当時、「このままでは成田(三里塚闘争)のようになってしまう」という官僚の発言(悲鳴)が報道されました(→参照)。
実際、三里塚闘争がはじまった当時と似た状況はあります。三里塚でも地元の成田市と芝山町は全会一致で空港反対決議をあげました。地元住民や農民たちは、支援部隊などほとんどいない時代に、自分たちだけで5000人規模の反対集会を開催。そういった地元の総意を背景に、彼らは話し合いを求めて政府・省庁に陳情を繰り返しました。現在の反対同盟の萩原進事務局次長によれば、萩原さん個人が参加したものだけでも、大小200回以上は足を運んだそうです。しかしそのすべてに対して政府側は責任ある人物は会おうとせず、要するにすべて門前払いにします。
よく「沖縄の人々は合法的にできることはすべてやった」と言われます。それは三里塚農民も同じでした。しかし政府はその声に耳を貸そうとはしませんでした。そして何もかも自分たちが決めた計画通りに機動隊の暴力でゴリ押ししようとしたのです。その結果が三里塚闘争でした。
そしてもしこれが成田だけでなく、千葉全県下で、しかも当時の成田周辺住民の怒りを数倍する規模で巻き起こっていたとしたら?三里塚闘争は双方に多数の死者まで出し、「地域的内戦」とまで呼ばれました。そう考えれば、今発生している事態の深刻さがわかるのではないでしょうか。繰り返しますが、本当に私たちは、右も左も、政府も市民も、沖縄の怒りをまだまだなめきっています。
集会では沖縄の全市町村を代表しての翁長雄志・那覇市長(市長会会長)より「どうか日本が変わって欲しい。沖縄は国に甘えていると言うが、国が沖縄に甘えている」と訴え、さらに「安倍総理は『日本を取り戻す』と言いました。沖縄はその取り戻すべき『日本』の中に入っていないのでしょうか?」と厳しく問いかけたとき、それまで声援を送っていた会場が一瞬シーンと静まり返る一幕もありました。
自公の推薦で革新候補を破った保守系市長の、決意を込めた重い言葉が胸に突き刺さりました。こういう表現は本来保守系独自のもので、国際主義を看板にする左翼としては間違っているのかしれませんが、それでもやはり素直に「沖縄を日本に取り戻したい」と強く思わざるを得ません。
さらに沖縄の全議会を代表して発言した永山盛廣・那覇市議会議長(市議会議長会会長・自民党)も同様に「ウチナー(沖縄)は、日本なのか。米軍基地を74%を押しつけて、差別も甚だしい」とオスプレイ強行配備などをあげて怒りをぶちまけ、「今日は沖縄の全市町村長がひとつもかけることなく参加している。この姿を日本国民に見せたい」と訴えました。
本当にまあ、発言者が自民党ばっかりで、今日は自民党の集会かというくらいですが、最後に司会から、これまで沖縄県民大会などを積み上げ、その沖縄の圧倒的な総意を背景に、今回の東京行動、そして安倍総理をはじめ各大臣に「建白書」(「要請書」などではなく!)を提出することになった流れが紹介され、「建白書」が読み上げられました。
集会の最後の最後になって、若い司会の方が「え~、司会はわたくし、自民党沖縄県議団の……」と苦笑しながら自己紹介されました。なんかわざわざ苦笑しながら「自民党」を強調されたんでずっこけました。私の周囲は左派系の人が集まっている所でしたので、「なんで笑いながら言うんだよ!」などの野次も飛んでいましたが、他方で会場の前のほうからは「おぅ!頑張れよ~!」などの声援も飛び、司会の方も「はい!頑張ります!」と嬉しそうに応じておられました。
その後、デモ行進にうつりましたが、私は「東電前アクション」の園良太さんと「たんぽぽ舎」の皆さんが先導する市民隊列に入りました。私のような個人や、小さな独立系労組もここに入っていて、まあ沖縄勝手連みたいな雰囲気ですね。最近になって反原発とかの運動に参加された方なら「官邸前金曜行動の先頭から離れた真ん中あたりの一番面白いところ」と言えば雰囲気がわかってもらえるかな(笑)。
その場で「三里塚勝手連」の旗を見て、マイミクの方と、おそらくは中核派系(?)と思われる独立系労組のおじさんに声をかけていただきました。その労組のおじさんは、「いつも三里塚で旗をおみかけしてます」と言っていただき、また、私がヤフオクで買った3980円のトラメガを持っているのを見て、「マイクを持っている人はデモ妨害の不当逮捕の標的になりやすいから」と心配してくれるなど、終始気遣っていただきました。温厚でやさしい方でした。
デモ中はマイクのない隊列の後ろのほうにいて、できるだけ園さんのコールにあわせて盛り上げようと思いますが、ここまでくると園さんのコールもよく聞こえません。んでもうしょうがないので、園さんのものを参考に、自分で先導してコールをあげながら進みます。
でもやっぱり照れくさいっすよね(//∇//)。なんか「目立ちたがり」みたいで。途中で周囲の方にも「どうぞ」とトラメガを譲るのですが、「え、いきなりそんな」で、誰もあんまり替わってくれない。中核系(?)のおじさんも、「馴れたような私がやるより、あなたがやったほうがいい」とか言ってニコニコしてるし。それって私が素人っぽくて微笑ましいいってことかぁ?んでもう覚悟決めて、最後まで先導しましたってばよ。
そんな私ですが、最後のほうで「在特会」みたいなんと街宣右翼が連合して全力動員(200人はいた)し、日の丸を林立させて罵声をあびせていたのを見た時は、つい気分がヒートアップしてしまいました。
左翼の私ですら思わず知らず「沖縄を日本に取り戻す」とか右翼みたいなことを思うくらいに沖縄の訴えに感化されてるというのに、おめえらそれでも「右翼」だの「保守」だの名乗って恥ずかしくないのかと。てっきり「オスプレイはわが地元で引き受けてやる」とか言っているのかと思ったら、こいつら沖縄にすべての犠牲を押し付けるためだけに来ていやがるのだ。なんて自分勝手な弱いものイジメ!
中には罵声に対して罵声を浴びせ返している人もいましたが、私はこんなクソみたいな「ウヨク」に惑わされず、最後まで毅然と行動を貫徹するべきだと思いましたので、よりいっそう力を込めてしっかりとコールしました。
「基地はぁいらない!」「押し付けやめろぉ!」。
周りの方もそれに応えていただき、それまで罵声とか浴びせ返していた方も含め、あらためてみんなで心をひとつにしてしっかりと行動を最後まで貫徹することができました。途中、右翼と連動して警官隊が私を押し飛ばす一幕もありましたが、おじさんがすっ飛んできて守ってくれました。
デモが終わって流れ解散になった現場では、「あの人たち(右翼)って、先頭の沖縄の人たちにも罵声とか浴びせたのかなぁ?」「いや、いくらなんでもそれはないだろ。それをやったらもう終わってるから。後続の労組とか市民団体にだけだろ」などという会話が聞こえました。
その時は私も「そりゃそうだろな」程度に聞くともなしに聞いてました。でも実際には、むしろ先頭の沖縄代表団に一番激しい罵声を浴びせまくっていたということが、マスコミなどの記事やネットの証言などでわかり、本当に呆れました。まさに「終わってる」人たちだなあと。
この時点では安倍総理が代表団に直接面会するかどうかも危ぶまれていた(私は「いくらなんでも会うだろう」と思ってましたが)くらいですが、その後のアメリカとの会談の中でも、「建白書」をはじめ、沖縄の世論の話はいっさい出てきませんでした。というか、出すに出せないということもある、何ら対応の方途がない手詰まりということもあるのでしょうが、いずれにせよこれが現実です。
本当に私たちは、誰もかれも沖縄の民意を舐めきっています。その報いをいずれ必ずすべての本土の人々は思い知る時がくるでしょう。
内閣総理大臣 安倍晋三殿
われわれは、2012年9月9日、日米両政府による垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの強行配備に対し、怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるため、10万余の県民が結集して「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」を開催した。
にもかかわらず、日米両政府は、沖縄県民の総意を踏みにじり、県民大会からわずかひと月もたたない10月1日、オスプレイを強行配備した。
沖縄は、米軍基地の存在ゆえに幾多の基地被害をこうむり、1972年の復帰後だけでも、米軍人等の刑法犯罪件数が6千件近くに上る。
沖縄県民は、米軍による事件・事故、騒音被害が後を絶たない状況であることを機会あるごとに申し上げ、政府も熟知しているはずである。
とくに米軍普天間飛行場は市街地の真ん中に居座り続け、県民の生命・財産を脅かしている世界一危険な飛行場であり、日米両政府もそのことを認識しているはずである。
このような危険な飛行場に、開発段階から事故を繰り返し、多数にのぼる死者をだしている危険なオスプレイを配備することは、沖縄県民に対する「差別」以外なにものでもない。現に米本国やハワイにおいては、騒音に対する住民への考慮などにより訓練が中止されている。
沖縄ではすでに、配備された10月から11月の2カ月間の県・市町村による監視において300件超の安全確保違反が目視されている。日米合意は早くも破綻していると言わざるを得ない。
その上、普天間基地に今年7月までに米軍計画による残り12機の配備を行い、さらには2014年から2016年にかけて米空軍嘉手納基地に特殊作戦用離着陸輸送機CV22オスプレイの配備が明らかになった。言語道断である。
オスプレイが沖縄に配備された昨年は、いみじくも祖国日本に復帰して40年目という節目の年であった。古来琉球から息づく歴史、文化を継承しつつも、また私たちは日本の一員としてこの国の発展を共に願ってもきた。
この復帰40年目の沖縄で、米軍はいまだ占領地でもあるかのごとく傍若無人に振る舞っている。国民主権国家日本のあり方が問われている。
安倍晋三内閣総理大臣殿。
沖縄の実情をいま一度見つめていただきたい。沖縄県民総意の米軍基地からの「負担軽減」を実行していただきたい。
以下、オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会実行委員会、沖縄県議会、沖縄県市町村関係4団体、市町村、市町村議会の連名において建白書を提出致します。
1.オスプレイの配備を直ちに撤回すること。および今年7月までに配備されるとしている12機の配備を中止すること。また嘉手納基地への特殊作戦用垂直離着陸輸送機CV22オスプレイの配備計画を直ちに撤回すること。
2.米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設を断念すること。
(http://kenmintaikai2012.ti-da.net/e4331515.html)
◇平成の沖縄一揆!~NO OSPREY 東京集会に4000人(レイバーネット)
◇全録画(1)NO OSPREY 東京集会(琉球新報)
◇全録画(2)NO OSPREY 東京集会(琉球新報)
◇1.27 NO OSPREY 東京集会に4千人以上が参加。配備撤回求める(平和フォーラム)
◇no osprey沖縄県民大会事務局
◇オスプレイの沖縄配備に反対する首都圏ネットワーク
◇写真集】NO OSPREY 東京集会(かめよん写真館)
◇資料集】前代未聞の東京・オスプレイ反対集会(たむたむ)
◇翁長雄志さんに聞く 沖縄の保守が突きつけるもの(政治資料庫)
◇NO OSPREY東京集会(原発いらない女たちのテントひろば)
◇NO OSPREY 東京集会に参加(vanacoralの日記)
◇NO OSPREY 東京集会-1.27点描(1)(2)(3)(黙々と)
◇NO OSPREY 東京集会(Kura-Kura Pagong)
◇「愛国心」と「同胞愛」 NO OSPREY 東京集会とデモと右翼(薔薇、または陽だまりの猫)
◇1・27-28 東京〝オスプレイ撤回〟の声轟く(共産同(統一委)
◇報告】1.27オスプレイ反対全国集会-日比谷野音に4000人(虹とモンスーン)
オール沖縄へ奔走 9・9県民大会事務局
(2013年1月21日沖縄タイムス)
「場所は首相官邸のエントランスロビーでもいい。41市町村長と市町村議会議長、県議の総勢130人でずらっと並び『オール沖縄』で安倍晋三首相に直訴したい」
オスプレイ配備撤回を求める県民大会の実行委員会は、28日の首相直訴行動をこうイメージする。9・9県民大会直後の要請に対応したのは藤村修官房長官(当時)で、部屋に入ったのは県議ら10人ほどだった。
「でも、今回は違う。あくまで安倍首相本人に出てきてもらい、全員そろって大会決議文を渡したい」
実行委は今「おそらく過去にやったことのない”大衆面談”」(玉城義和事務局長)を目指してアポ取りに奔走している。
手渡す決議文は要請書ではなく、政府に異議を申し立てる「建白書」。文末には首長、議長、県議会各派代表ら90人超えの直筆署名をずらりと並べる。
「多少時代がかっているかもしれないが、インパクトのあるものにしたい。血判を押すくらいの覚悟だ」
直訴前日の27日には、都内で5千人規模の集会とパレードを予定。大規模な超党派の県民大会は復帰後4回目を数えるが、保革を超えた「首長連合」による東京行動は極めて異例だ。
背景には「県民大会を一過性で終わらせない」(大会共同代表ら)との固い決意がある。米兵暴行事件に抗議し日米地位協定見直しを求める10・21県民大会(1995年)、教科書検定意見撤回を求める9・29県民大会(2007年)、普天間基地の県内移設に反対する4・25県民大会(10年)とも、県民が求めた解決につながっていないばかりか、「大会慣れ」「要請慣れ」への危機感が広がっている。
オスプレイに至っては、まるで県民大会が無かったかのように、1カ月足らずのうちに普天間飛行場へ配備された。重低音を伴う訓練が本島全域で行なわれ「学校や病院を含む人口密集地域の上空を避ける」などの運用ルールを守らない飛行が常態化。午後10時以降の夜間訓練も頻繁にあり、普天間に加えて嘉手納基地にも配備計画が発覚した。
次々と進められる「出来レース」(大会共同代表・翁長雄志市長会会長)の中、総選挙と組閣を待って組まれた今回の直訴行動。昨年9月9日、炎天下の宜野湾海浜公園で汗をぬぐった参加者の姿が、直訴団の脳裏に深く刻まれている。(後略)
厚い壁 問われる結束 報道・罵声に嘆き
(2013年2月2日沖縄タイムス)
「この差別が一番心に残る。オスプレイ賛成、それは沖縄だから。東京に持ってこいとは言わない」。県町村会の城間俊安会長は1月28日、衆院第2議員会館の窓の外を見やり、ため息をついた。
オスプレイ配備反対を訴えて上京した首長、議長らは、排外主義を唱える団体の攻撃を受けた。前日のパレード沿道に続き、この日は会館前で日の丸を林立させ、要請団の出入りを待ち受ける姿があった。
保守も革新も関係なく、「反日サヨク」と浴びせられる罵声。「売国奴、日本から出て行け。なんでウチナーンチュがこう言われないといけないのか。日本国民は考えてほしい」。県議会の喜納昌春議長は、記者会見で怒りをぶちまけた。
しかし、それを聞いていたのは、沖縄のメディアと全国メディアの沖縄駐在記者が大半。宜野座村の當眞淳村長は「質問したのも地元の人ばかり、ガクッときた」と苦笑した。
前日のパレードは、東京版1面で取り上げた全国紙があった一方、わずかに触れる程度のところも。當眞村長は「(大相撲の)高見盛引退より小さいなんて」と嘆き「全国民に訴えるためには、メディアへの働き掛けを考える必要がある」と語った。
在京メディアの扱いについて、ある全国紙記者は「首長がそろったといっても、結局いつもの集会という感覚が東京にはある」と話す。「政権中枢が考えることは、実現する可能性が高いからニュース。逆に今回は政権に基地政策を見直す考えがないから、要請も大きなニュースではないという論法だ」と説明した。
結果的にタイミングが悪かった面もある。先に予定していたとはいえ、28日の要請行動は国会開会とかち合い、安倍晋三首相の所信表明演説があった。この日、首相官邸や議員会館に出入りしていたケビン・メア元在沖米総領事は要請団を見て「なんでこのタイミング?」と、けげんそうな顔を浮かべた。
安倍首相に提出した建白書には、前市長村の首長と議長、県議会会派代表者の署名・押印がそろったが、当初は難色を示す首長もいた。別の首長は集会やパレードと距離を置き、要請行動から参加した。
県市長会の翁長雄志会長は会見で「それぞれ考えは違うが、腹八分、腹七分で力を尽くす」と語った。本土側の厚い壁を前に、沖縄が結束を保てるかどうかも問われる。(後略)
「県外」世論 選挙を左右 自民県連、知事方針変える
(2013年2月4日沖縄タイムス)
「誰が責任を持つのか。オバマ大統領か。もし事故が起こったら(米軍普天間飛行場の)即時閉鎖・撤去としか言いようがない」
昨年7月1日、県庁。仲井真弘多知事は、墜落事故が相次ぐ垂直離着陸輸送機MV22オスプレイを普天間に配備する米国の方針を、淡々と伝える森本敏防衛相(当時)に強烈な皮肉を投げ掛けた。
会談後も記者団に、事故が起きれば「全基地閉鎖という動きにいかざるを得ない」と日米安保が崩れることを予言するほどだった。
県防衛協会長を務め、1期目は辺野古移設を進める立場だった。しかし、地元の名護市に移設反対派の市長が誕生するなど、県内の政治情勢が一変、知事も「県内移設は事実上、不可能」と政策を変え、本土の既存空港への移設を強く訴えるようなっている。
一方、知事の足元では、辺野古移設を容認してきた自民党県連が知事より早く「県外」へ方針を転換していた。民主党政権が発足後の2009年11月、「辺野古移設は苦渋の決断だった。県連は今後、ベストの県外移設を目指す」。
当時幹事長で現会長の翁長政俊さんは「民主党政権が県外移設を掲げて衆院選で大勝し、辺野古移設を容認した沖縄の自民党は全敗した。民意を考えれば、苦渋の決断をする必要はなくなった」と振り返る。
県連内には「現実味の薄い県外移設を掲げれば、かえって普天間の固定化を招く」との慎重論も根強い。翁長さんは、首相官邸内にいる鳩山由紀夫首相の側近に電話をかけ「民主党政権は本当に県外移設を貫くのか」と、“敵情視察”までして所属議員を説得した。
翌10年7月の参議院選、11月の知事選で、辺野古移設を容認していた保守系候補がいずれも「県外」に転換し、勝利した。
翁長さんは、県外移設の表明をちゅうちょする再選を目指す仲井真知事に、「このままでは、あなたを支えられない」と強い口調で迫り、翻意をうながしている。
自民県連の方針転換から3年以上が経過した。オスプレイ配備撤回を求める東京要請団に加わった翁長さんは1月28日、官邸で安倍晋三首相にこう切り出した。「今日は県議会の全会派が来ており、代表して私がしゃべっている」。普天間の県外移設を求める議会の意思をきっぱり伝えた。
国政与党は自公に回帰したが県内の選挙では、保守系議員が県外移設を主張する光景が日常化している。
県連幹部も「沖縄の民意は完全に県外だ。県連内に辺野古移設を受け入れるべきだとの意見もあるが、県連が転ぶ(辺野古容認に転じる)ときは、次の選挙で惨敗する覚悟が必要だ」と民意を重視している。