前回の続きです。こちらのエントリからお読みください。
さて、問題提起の後は休憩をはさんで全体討論にうつります。お三方それぞれの提起を中心に、質問や各自の問題意識、具体的な取り組みや報告、提案など活発な議論が行われました。そのなかでも、前半の針谷さんの「刺激的」な提起について、しばらくやりとりが続く場面がありました。
先に書いたように、針谷さんの言いたいことは、「テント村は左翼だけの運動にせずに全国民的な運動にするべきだ」ということなのでしょうが、すでにテント村に参加しているのは左翼だけではありません。その左翼の人にしたって、運動の内容を自分たちの主張で独占しようなどとは考えていません。
つまり、テントはすでに針谷さんが言うような「全国民的な運動」になっています。なにより「9条改憲阻止の会」が、福島のお母さんら、後から来た非左翼市民の人々に運営を明け渡し、自分たちは裏方に徹して支えているという、テント村成立の経緯がそのことを雄弁に物語っています。門戸は広く開かれているのです。
ところが針谷さんは具体的なイメージが頭にあるようで、現状がそうなっていないという点について非常に能弁に語られました。針谷さんに悪気はなくて、また、その場にいる左翼の人に失礼になるまいと気を使っておられるのも伝わってはきましたが、語れば語るほどにその内容はエスカレートしてきて、聞いている私はだんだんとイライラしてきました。
曰く、左翼的な雰囲気のスローガンや団体名、それらの入った旗などはいっさい出さないで、原発反対以外のことは言ってはいけないなどと、どっかで聞いたような話にはじまり、ついには「護憲集会などの帰りにテントに寄る人は、まっすぐテントに行かずにどこかで巻いてから来てください」とまで真顔で言い出された時には、会場の非左翼市民の方からも失笑がもれました。
それに対して針谷さんは「いや、そこまでしないとダメなんです!」と一段と大きな声で、「右翼というのは『左翼をつぶす』というのが目的みたいなところがあるから、私がいくら止めても、『そういう集会の奴らがテントに参加している』というだけのことで襲撃対象になって潰されてしまう」とおっしゃる。これじゃいつの間にか「全国民的な開かれた運動」ではなく「右翼に目をつけられない運動」へと論点がすり替わっています。
そこで市民運動の女性が小首をかしげて「9条改憲に反対すると左翼なんですか?」と質問されると、針谷さんは一瞬虚をつかれて黙られましたが、一呼吸おいてから「…右翼にとってはそうです」とおっしゃったので、会場からは「ええ~~っ?!」という驚きと共に、互いに顔を見合わせるシーンもありました。
ついには針谷さんの「右からの反原発デモ」に参加しておられる非右翼市民の方から、何の悪気もなく「じゃあテントに日の丸を掲げておけばいいんじゃないでしょうか」という「アイデア」が出され、これに対して針谷さんは「それはとてもいい考えで、私もテントのスタッフにぜひ日の丸を掲げようと提案しているんだけれど、スタッフから『いやそれだけはムリ』と断られているんだよね」と応じられました。話がどんどんおかしな方向にいくので、黙って聞いているつもりだった私も、とうとう辛抱が堪らずに手をあげて発言を求め、針谷さんではなく江田忠雄さんへの質問として、控えめに以下のように述べました。
「テントは思想に関係なく原発に反対する人みんなのものだという点に異論はありませんが、それをそんな形式やスタイルの話にするのではなく、中身の問題を先に議論するべきだと思います。
また、先ほど『9条改憲に反対する者は左翼だ』という話がありましたが、私らから見れば、サッカーの試合でもない政治的な集会に、それとは無関係の日の丸をわざわざ持ってくる人というのは、もう『バリバリの右翼』にしか見えないわけです。もし形式的なスタイルの問題で、右でも左でもないようにしようというのなら、右翼の人も日の丸を持ってこないようにするとか、一般の人に気を使うべきではないですか。
なのに主催者自身がテントで日の丸掲げるとかいうのでは、もうそれは中立ではなく右翼の運動になってしまうわけですから、今度は逆に左派的な雰囲気の人が参加できません。右翼は日の丸もってきてもOKで、左翼『だけ』に掲げる旗やスローガンや主張内容が規制され、本当は左翼なのに『左翼じゃないふりをしろ』と強要され、なのに集会には参加しろとか、そんな都合のいいことを言われて、それでどうして「全国民的なみんなの運動」と言えるでしょうか。
個人の思想的な背景として右翼も左翼もノンポリも同じように参加し、それでなおかつうまくやれているところと言えば、大きなところではアムネスティくらいのものだと思います。それとて単に一般論として『右でも左でもない』とか『人権侵害に反対する人は誰でもOK』とか言うだけでは何のことかわからず、その具体的な『中立の活動』の中身として思い浮かべるイメージは各人でバラバラになり、先ほどのようなおかしな話になってしまいます。
アムネスティがうまくいっているのは、そこで『国連人権規約(世界人権宣言)を基準とする』という明確な共通の価値観を打ち出しているからで、この価値観に基づいて、たとえば各国の政治体制や個別政策には賛成も反対もしないといった具体的な方針や各人の活動が統一されているから、『右でも左でもない』がうまくいっているのです。
これに対してテント村の共通の価値観は何ですか?。みんなが確認しているそういう具体的な内容があるのでしょうか?そういうものに照らして『組合旗を出すのはやめよう』とか『こういう主張はやめよう』とか主催者がいうのなら納得はできるし、できなければその運動には参加できないというだけのことです。アムネスティだってそうしてみんなが納得しているわけで、なおかつ、そいう共通の認識からはみ出す部分については、各人がアムネスティとは別の『自分の運動』としてやればいいわけですから。
なのにそういう内容的なことは何も説明せずに、ただぼんやりとしたフィーリングで『なんとなく左翼みたいだから』という理由で規制されたり排除しようとすれば、そりゃあ文句が出るのが当たり前だし、それでは絶対に誰も納得しない。また、単に『このほうが人が集まるから』みたいな理由、つまりその時々の風というか情勢しだいでいくらでも短期にコロコロ変わっては次々とすたれていく、流行ものにあわせた形式的な『ブリッコ』でもいけないと思うし、ましてやそのために主催者が日の丸掲げて右翼に媚びるなんて納得できません。
そこで、運動の形式論ではなく、私たちがテント村防衛の中で具体的に打ち出すべき中身はいったいどのようなものだと思われますか?そもそもそういうものがあるのか?もしくはテント村の内部で議論はなされているのでしょうか?」
上記も記憶に頼って「だいたいこんな感じのことを言った」という程度で書いていますので、細かい点などいろいろ違うかもしれませんが、趣旨としてはこんなことを言いました。
これに対して江田さんからは、「今、大変に重要な提起があった」という言葉をいただき、それは「われわれの正義性は何か、それをどう打ち出していくのかということだ」と一言でまとめてくださり、その必要性についていろいろとお話をいただきました。ただ、その具体的な内容については期待していたような提起はありませんでした。この場で独断的に言うことをさけられたのでしょうが、せっかくの議論の場なのですし、ウヨサヨをめぐる形式論に流されてしまう前に、もう少しみんなで討論してもよかったのではないかと、その意味では不満というか消化不良に感じました。むしろ私はここで一番に議論するべきことだという思いがありました。
これに関して、アメリカのウォール街占拠運動に実際に参加し、このほど帰国されたという女性からその体験を元にした経験談がありました。ウォール街占拠運動では広い公園の中、特に誰がどうという規制もなく、運動の趣旨に賛同する個人や団体などが勝手にテントを持ち込んで、各々の主張を自由に掲げて占拠に参加しているとのことでした。その中には本来の市民運動のみならず、右翼的な団体が公園の隅にテントを張って「参加」している姿も見られたとのことでした。
私はこの女性の生き生きとした現地の報告を大変に好意的に聞いていました。簡単に書きましたが、まさにダイナミズムのあふれた運動の様子が伝わってきて、うらやましく感じたし、そういう息吹にふれて帰ってきたら、日本の運動の現状や、そこでの「あれも言うな、これもするな、その旗は出すな」みたいなチマチマとした議論を延々と聞かされ、本当に失望というか、きっとうんざりするものがあるんだろうなと思いました。
ただ、少し運動の側を擁護するならば、日本の場合、「占拠」といっても実際には役所の業務や交通などにはなんの支障のない限られたスペースですし、民主国家とは言いがたいほどの弾圧によって、パブリックなスペースがすべて権力の管理下におかれている現状から、一概に一緒にはできないなとは思いました。いわばアメリカの場合、いろんな思想の人が一つのアパートの各部屋にわかれて住んでいるようなものであるのに対し、日本の場合は権力によって一つの部屋にギュウギュウと押し込められているようなもので、運動の側により高度な倫理観や意識が必要にされているということがあると思います。
私は彼女の発言に感銘を受けましたが、それについてあとに続く発言がなかったので、ちょっと失望というか僭越ながら気の毒にも感じました。それで終了前に2回目の発言を求め、「まさにそれは理想のあり方だと思う」ということと、「日本の現状にそのまま当てはめるのは困難」みたいなことを言いました。言葉足らずだったと思いますので、彼女が自分の発言に対する唯一のリアクションが否定的なものだと受け取って失望していなければいいのですが。むしろうまく彼女の提起を引き取って発展させられない自分の能力のなさに、自分が失望してしまいそうです。
あと、やはり形式の前に中身で討論したいという点について、江田さんにちょっと流されてしまったような気がしまして、「それも大事だね」で終わらせず、ちゃんと議論を継続して内容を早急に打ち出してほしい、そしてその結論のみまらず、経過などについても公開していってほしいみたいなことを要望として発言しました。仲間内で決まった結論だけをバンと打ち出して、それに文句を言うなということばかりでなく、その経過の時点からみんながいろんな場で意見を表明できる、そのことで議論に「参加」していくことで、内部の力関係や討論技術とか、声の大きい、あるいはカッコ付のエセな「議論」に長けた人ということではなく、大衆の支持(とりわけ運動内部の)をめぐって主張が闘わされる、そういうことがとても重要だと思いますから。
今回は自分が発言したところ、自分がひっかかりを感じたところを主に書きましたが、実際には私のような一般参加(根無し草)ばかりではなく、いろいろな現場に取り組んでおられる方々からも、それぞれ実践的な提起や取り組みの報告、考え方の表明などがありました。
最後に今回の討論を企画されたたんぽぽ舎の司会の方よりまとめがあり、最後に「実際にやってみて、議論するのはいいことだなと思いました」という言葉で締めくくられました。これには私も同感で、今回のエントリのタイトルに使わせていただきました。
たとえば、今まで自分の中の理念や思想に育まれた部分で、右翼との共闘などありえないとか思ってきたのですが、実際に右翼的な主張や運動と対決していくにしても、まず彼らの心情的な部分での正義感に共感することができなければ、こちらには多かれ少なかれ「デマだウソだ」みたいな言い方がまじってしまいがちです。もちろん本当にデマとかもあるのですが、それだけでは第三者や大衆に対して説得力ある反論を提起できない。まさにナチスに敗北したドイツ共産党と同じ陥穽に陥ってしまうと思うのです。今回は残念ながら、反原発運動をめぐる肝心の中身の部分についてそういった皮膚感覚的な議論はできませんでしたが、それでも私には、自分の考えや行動のあり方を固めていく上で、大変に勉強にもなりました。
最後に、討論会の席上で言い足りなかった点をひとこと言うならば、やはり右翼の襲撃をさけるために日の丸など「右翼ぶりっこ」をするなどというのは本末転倒であると思います。問題は理不尽な右翼の襲撃からいかにしてテント村を防衛しきるかということであるべきです。襲撃が怖いから形式的にせよ自分たちの主張やあり方を変えるべきなんてのは、それこそ日本のあらゆる大衆運動の生殺与奪の権利は右翼が決めていると言うようなものであって、そういうことを言う同じ口で「言論表現の自由」だの「民主主義」だの語るのはおかしいと思います。
また、「右翼は左翼をつぶすのが目的」というのは、まさにそれこそが右翼の限界というか低劣な本質として、左翼のみならず市民運動からも、もっと言えば一般大衆からも見下されてきた点です。
もし右翼の言うことも「表現の自由」だと言うのなら、むしろそう考える場合にこそ、自分たちの思う理想の国家像のために大衆運動なり、政府機関など権限(権力)をもった部署への要望なり抗議なりすればいい。つまり自前の運動は何もせずに、自分と考えの違う人たちへの攻撃ばかりおこなっている。そんな人たちが権力をもったり、そうでなくても社会の中で力をつけたりしたら民主主義もへったくれもありません。まさにこの世は闇です。
こういう過去のあり方こそ自己批判して改善し、内部批判もするべきではないのか。それをぬきにして、右翼はそういうもんだから、それに合わせろなんて話に誰が納得できるのだろうと思います。
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たしかに、「右か左か」とか「右も左も」とかを前提に議論しても中身のある議論にはならないんですよね。「敵は誰か」みたいな議論だけじゃなくて、「我々が守りたいものは何か」、「共通の価値観は何か」という運動の中身をこそ考えなくてはいけないのではないか、それに限らず、「なにが右でなにが左か」とか「そもそも何のために運動してるのか」とか根本的な部分の議論をネット上ではなくリアルの世界でガンガンやるべきではないか?そんなことを考えさせられました。
ずいぶん前のぶろぐ記事上下とも今さら読んだんだけど、この流れなら「右翼交えた議論は時間のムダ」て感想にしか。。。 議論するのはいいことだ(下)-形式や流行でなく運動の中身の議論を http://t.co/k64TRa7sbC via @kousuke431