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差別と多様性

何度でも言う。差別は「言論」ではない

Rights of Persons from Other Countries(法務省の啓発動画)

 前のエントリの最後で「もうちょっと考えてみる」と書いたので、その後自分なりに一生懸命に考えてみましたが、私の能力では特にこれといって新しい知見にいたりませんでした。ただそうですねえ、未だに「在特会」のようなヘイトスピーチを言論だと勘違いしている人が多いのではという気がしました。

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ヘイトは「左右の論戦」とは何の関係も無い

ヘイト「デモ」これが「言論」と言えるか?

 今までも言ってきたし、これからも何度でも言いますが、差別(ヘイトスピーチ)は「言論」なんかではありません。それは単なる人権侵害行為であり、ほとんどの先進諸国では犯罪の構成要件ですらあります

 在日朝鮮(韓国)人の永住権などの地位(植民地政策の戦後処理)や、今後の移民政策のあり方については、それこそ保守から左翼まで、様々な論者が意見を出し合い、左右の間だけではなく、保守や左派の内部でさえ鋭い意見の対立があって、議論が継続されています。アジア外交のあり方についてもまたしかり。別に韓国や中国や北朝鮮に抗議するべきことがあるなら抗議すればいいし(言論の自由)、これらの国家が王道楽土で無謬の国だなんて誰も思っていません。

 しかしヘイトスピーチ(差別)はこういった議論とは何の関係もないし、保守から左翼にいたるすべての論者が、一致してこれを批難し、社会的に克服・撲滅していくべき対象でしかありません。そういった社会的存在であるがゆえに、安倍首相でさえ「在特会」を正面から批難する以外の選択肢はあり得なかったわけで、そんなレイシストが自分たちを、保守から左派までを含めて繰り広げられる、こういった「議論の仲間」として扱ってほしいなどというのは、厚かましいにもほどがあるということなのです。

「人を差別する権利」なんて誰にもない

他人を差別することは「権利」ではない(当たり前!)

 もし、差別が言論だとすれば、その発露は人権の一つということになりますが、それでは「人権を侵害する権利」という論理矛盾になってしまいます。「自由には責任がともなう」とか「公共の福祉」という言葉を聞いたことがあると思います。これは「お国のためには個人は犠牲になってもかまわない」という意味ではもちろんありません。それは各人が個人として人権を保障される以上、各人は他人の人権を侵害してはならず、その範囲内で人権を行使できるということです。

 「人権を侵害する権利」という言葉が論理矛盾だというのはそういう意味です。わが国の憲法ではこれを「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」(12条)と表現しています。

 説明の必要もないくらいきわめて簡単な話です。私たちは日本国内のどこにでも無条件に行くことができる自由はありますが、「俺には移動の自由があるのだ」と言って、他人の家に勝手に入っていったり、面談だの「インタビュー」を強要したらどうでしょうか?あるいは気に入らない奴だの、気に入らない集団に属しているからと言って、面罵したりすることを「権利」として認めてもいいのでしょうか?「韓国人はみんな殺せ!」と叫びながら、韓国人のコミュニティに押しかけることが「権利」ですか?もう一度言いますが、そう考えれば実に簡単なことなんですよね。

「言葉」が罪になる場合

ネットの掲示板などへの書き込みが罪になることも

 おそらく勘違いしている人の中には、いくら差別的とはいえ、信条や言葉が罪になる、あるいは罪にならないまでも社会的に克服するべき対象であると観念することに、違和感やためらいを感じておられる方も多いのではないかと思量します。その多くは善意だと思います。しかし名誉毀損罪(230条)、侮辱罪(231条)など、すでにわが国の刑法典においても「言葉」そのものが罪に問われる規定が存在しています。なぜ罪になるかと言えば、それは言葉で他人の人権を侵害したからですね。

 また、殺人罪(199条)と傷害致死罪(205条)をわけるものは殺意の有無という内心のあり方です。多くの規定で重要な分かれ目となる「故意」という概念自体が、すでに心の中のあり方を犯罪の構成要件としているわけですが、これに異論をとなえる人は少ないと思います。なぜなら、そうすることで人権がより公平に守られるからです。

 名誉毀損罪の存在に反対する人はほとんどいないのに、ヘイトスピーチやそれをまき散らす団体の存在を(法的にか社会的にかは別にしても)克服して無くしていくべきだという主張に躊躇する人が比較的多いのはなぜでしょう。それは想像力の問題だと思います。名誉毀損なら自分や自分の身内が被害者になる可能性というか、そうなった時の様子がわりと想像しやすく、それを取り締まって自分の人権を守ってくれる規定の必要性が理解できるのだと思います。

 ところがヘイトスピーチの場合はそれが「他人事」になってしまい、自分の身につまされるような人権侵害ではなく、何かしらそれがあたかも「社会現象」一般のように思ってしまうのかなと思量します。人口の圧倒的多数をしめる私たち日本人が、日本国内で外国人から「オー、ニホンジンバカネ」とか言われても痛くも痒くもありませんから、マイノリティに対するヘイトスピーチもそれと同列に考えてしまうのかもしれません。

 ですが実際にはそれはとんでもないことであって、人口の1%からせいぜい3%にすぎない人々が、圧倒的多数の日本人の間に広まるヘイトスピーチに襲われた時の恐怖や不安はちょっと想像できないものであり、日本人ならばこそ、まずそちらの問題解決をこそ第一に考えるべきです。

罪の有無(内心)は行為の外形によって判定される

 あと付記しておくならば、よく殺人罪で起訴された被告が「殺す気はなかった」、つまり傷害致死罪であると主張することがあります。しかし極端な話、心臓をナイフでめった突きにしておいて「殺意はなかった」などと認定されることはあり得ません。当然ですが、いくら「内心」とは言えど、それを認定するのは外面の行為に対する判定だということです。

 それと全く同じように、よくレイシストは「差別の意図はない」などと強弁することがありますが、「チョーセン帰れ!」などと特定の民族への排除を主張しておいて、差別ではないなどと認定されることもまたあり得ない話です。差別(人権侵害)は、あくまでも行為の外形、またはその行為がもたらす効果によって判定されるという点も、外形である「言葉」を重視する必要性として、押さえておくべきだと思います。

差別排外主義(人種差別)の定義

国連人種差別撤廃委員会

 さて、ならば具体的にどういった言動が人種や国籍による差別にあたるのでしょうか?その基準について左派の間では、国家主義的な保守思想全般まで含めて差別であるという意見を表明する人もいます。それも理解できますが、ただ、ヘイトスピーチ(犯罪)の定義としては、現在的に少なからぬ争いのある範囲まで含めてしまうと、犯罪の範囲をあいまいにしてしまう、また、ヘイトスピーチとカウンターの対立を指して、それが一般的な「意見の違い」だと誤解されてしまうという危険性も一面ではらんでいると思います。

 当面それは「韓国人を殺せ」とか「朝鮮人を日本海に叩き込め」のように、誰の目にも絶対に疑いようのない、あからさまなヘイトのみに限定され、かつこのようなヘイトは必ず含まれるような基準が妥当であると考えます。これについては私の個人的な意見や左派の見解を紹介するより、現段階で国際的に確立している客観的な基準として、国連人種差別撤廃条約より、人種差別の定義をいくつか抜粋しておきたいと思います。

「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう

国連人種差別撤廃条約 第一条より(1969)

一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体

国連人種差別撤廃条約 第四条より(1969)

人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動(第四条)

国連人種差別撤廃条約 第四条より(1969)

※耳に馴染みのない「世系」という言葉ですが、これは血統や生まれた場所による集団的な区分のことで、従来の日本語では「門地」が近いです。つまり部落差別や沖縄差別は国際標準では人種差別に含まれるということです

※国籍に関する「区別」についてですが、これは人権は「人間の権利」であって「国民の権利」でない以上、憲法などによって認められた人権は、まず包括的に外国籍を含むすべての人に認められます。その上で権利の性質上、外国籍の人間には適さないもの(例:日本国籍を離脱する権利(憲法22条)など)のみが除外されるが、その除外は差別にあたらないとされています(本条約の第一条二項、および憲法の通説判例)。

※特定の弱者や少数者に対する不利な現状を打開するための特別の援助(いわゆるアファーマティブアクション)は差別ではありません(条約第一条四項)。ただしそれが単なる援助や優遇措置ではなく、恒常的な「権利の付与」とみなされるものであってはなりません。

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カウンター側も「同じこと」をしているのか?

2009 外国人排斥を許さない 6・13京都緊急行動

 最後に、前にもふれたAAさんの投稿にあった、「カウンター側も(ヘイト側と)同じことをしているではないか」ということについて考えてみました。

 AAさんがどういうことを指して「同じ」といったのが私にはよくわかりません。カウンター側にもいろんな人がいますが、ここは一つ、その全部を含めて幅広く考えてみます。さらにカウンター当日だけの行動ではなく、いろんな活動を全部含めたところまで広げて、同じ、または似たような行動を考えてみました。

 それでもし、こんなことをしていたとしたら、確かに「在特会」と同じで「意見の違い」にすぎない(同じ穴のムジナ)と言われても仕方ないなというような事例を思い浮かべてみました。

○米軍の新基地建設に反対するにあたり、「アメリカ人は敵だ!敵は殺せ!」とか「在日米人を太平洋に叩き込め」とかプラカードに書く
○米兵の暴行事件に抗議するにあたって「アメリカはレイプ大国」「レイプはアメリカの文化」と言う
○アメリカ人の経営する商店にしつこくつきまとって嫌がらせをする
○アメリカンスクールに押しかけて、そこの小学生たちに罵声を浴びせる
○米兵の家族が暮らす住宅に「デモ」と称してしつこく押しかけ、女性や子供を脅す
○「恐いか?悔しいか?嫌なら日本から出て行け!この豚ども!」とか言う

 「在特会」の左翼バージョンということで考えてみたけど、「在特会」がやっていることと言えば、だいたいこんなところかな。本当に幸いなことですが、今のところこういう「在特会」の類似行動をやっている団体を私は知りません。私が知らないだけかもしれませんが、こんなこと集団でやったら、ほんの数人でもすごい大問題になると思うので、やはりそういう人はいないんじゃないかと思います。やはり「同じ」ではありませんよ

 書きながら思ったけど、これって実際にやったら確かに「効果」としては大きいものがあると思う。まあ韓国人コミュニティを襲う「在特会」が野放しにされているのと違って、たちまち警察が真っ青な顔してすっとんできて全員逮捕されるでしょうけどね。それを差し引いても「効果」はあるでしょうね。けどねー、やっぱりいくら米軍や米政府の政策に抗議したとしても、「アメリカ人は敵だ」とかいうような人種・国籍による差別は私(たち)にはできませんよ。

カウンター内部でも風通しのよい議論を

 まあここまで酷くはないとしても、何にしても例外というものはありますよ。「在特会」の「デモ」にも、差別的な言辞の多さに辟易して行かなくなったなんて右派の人もいるみたいだし、逆にカウンター行動の側にも、「差別に反対してる者としてそれはどうよ!」と思わざるを得ない野次を飛ばす人もいる。

 そういう話では、「しばき隊」がよく槍玉にあがるんだけど、しばき隊の登場以前から、その手の人はどうしても何人かはいたものです。そういった問題を今まで放置しておいて、その場で議論をしてこなったわけで、今になってから突然、「しばき隊特有の問題」として詰問しようとするのもちょっと違うように私は感じています。

 問題はそういうことを、カウンターに参加した人たちが、所属や個人、団体の別を超えて、風通しよくみんなで議論できる雰囲気があるかどうかでしょう。それさえあれば、きっと克服できる問題だとは思ってます。せっかくネットというツールがあるのだから。まあ、そうなってないという現状は私もよくわかってます。なお、しばき隊については、しばき隊の皆さん本人たちを含めて、各方面にご迷惑をかけかねない誤解(またはデマ)が広まっているようなので、その点についてはまた後日に書きます。

 ところで、余談かもしれませんが、昨日もツィッターで、「左派の人を天皇にたとえてほめる」という、ある意味で勇者なことをしている人がいてね。当然のことながら「ほめられた」人は激怒してましたがね。そりゃ靖国に反対している人に靖国神社のお守り贈るようなもん、あるいは右翼に日の丸破れと言っているようなもので、いくらなんでもちょっと失礼というか、それを喜べというのは、お前の思想を全部捨てろと言っているに等しい。

 なのにその方は自分の非礼に気づかず、いくら激怒されても「自分にとってはほめ言葉なんだからこれでいいのだ」と意固地なまでに譲らないもんだから、数人から叩かれてましてね、私は火に油を注がないよう遠まわしに取り成そうとしたつもりだったんだけど、あまりに遠まわしすぎたのか(笑)、叩きにきた左翼の一人として認識されてしまった。んでその時になんか理想論がどーのこーのとか言ってたかな。

 でもまあ、しょうがないよね。理想論があって、それを実現するために現実主義があるんだからね。理想論をなくしたらおしまいですよ。やはりどこまでいっても、どんなに「効果」があろうが、「在特会」と「同じ」に私はなれません。

参考リンク

2013.6.30 新大久保 レイシストヘイト「デモ」への抗議行動 Japan Anti-Fascism Action

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  • 冷静な分析。レイシストに読ませたいが、これが理解できる脳味噌があればレイシストにはなってないな。==>ブログ旗旗 » » 何度でも言う。差別は「言論」ではない - 旗旗 http://t.co/mPQq2Maot0

  • RT @three_sparrows: 〈名誉毀損罪の存在に反対する人はほとんどいないのに、ヘイトスピーチやそれをまき散らす団体の存在を~克服して無くしていくべきだという主張に躊躇する人が比較的多いのはなぜでしょう。それは想像力の問題だと思います。〉 -ブログ旗旗 http:/…

  • この動画を見るとよくわかる。差別主義「デモ」を機動隊が守っている構図。 RT @pcmikejapan ブログ旗旗 » » 何度でも言う。差別は「言論」ではない - 旗旗 http://t.co/o0Ve1kJbKi