ブログをお休みする前に、このタイトルでを書いたのが、もう昨年の9月なんですね。このエントリは、元はmixi日記からの逆輸入でして、それも「友人にのみ公開」で書いたものです。それと言うのも、もともとは自分の中の膿を出すつもりで、自分の中の差別意識を吐露するつもりで書いた文章だからです。こんなことを思うのは、やはり差別意識が根底にあるのかなと思いつつも、それが湧き出てくることを否定できない。そんな自己をどのように批判すればいいのか、その回路がわからない、そこでその意識をそのまんま書いて、信頼できる友人の皆さんからの批判をあおごうという趣旨でした。
それをこちらのブログに転載するにあたり、逆に「そうだそうだ」と支持する人がいたら困る、私の差別意識を拡散するようなことになっては本意でないと思いまして、mixi日記を骨組みに、もう少し運動主体の問題に引き付ける形で、一から書き直そうと思ったのが先のエントリです。↓
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ですがそのことでものすごく言い訳がましい文章になって、何が言いたいのかさっぱりわからないものになってしまいました。そこでブログ再開にあたり、mixi日記で「友人にのみ公開」で書いた文章を、変な言い訳を付け足さず、このエントリの後半部分にそのまんま転載して批判をあびることで、本エントリの(下)に変えたいと思います。
誰でも自分の心の中の醜い部分や弱い部分を指摘されたり、ましてそれと向き合うのは嫌なものです。そのことは、差別を指摘されたり糾弾された人が、どんなにあからさまな差別をしていようが、それでも最初はほぼ例外なく「自分は差別者じゃない」と反発することでもわかります。「在特会」のような、ほとんど言い訳不可能な連中でさえそうだというか、そういう差別と向き合えない、人の心の弱さや自己保身や言い訳を、そのまんま合理化や責任転嫁したのが「在特会」だという一面もあると思います。つまりは誰でも我が身がかわいいわけで、常に自分を正当化したい。私もその例外ではありません。
以下はこれも「言い訳」になるかなと少し迷ったのですが、悪文のため、そのままではすごくわかりにくいと思いますので、こういう駄文をmixiに掲載するにいたった私の問題意識を少し書いておきたいと思います。
まず、昔からよく言われることですが、左翼でも論理やイデオロギー(頭)では男女平等などを言い、それも決して嘘をついているわけでもなく、本当にそう思っているんですが、いざ結婚したり女性との付き合いの中で、どうしても見に染み付いたもの(心)として「亭主関白」や「男尊女卑」な態度を(そしてここが恐ろしいところですが)なんの悪気もなくとってしまう人がいます。そして右翼でもその逆バージョンみたいなことがあるわけです。口では「伝統」などという言葉で合理化して差別イデオロギーを撒き散らしつつ、家に帰ればフェミニストみたいな。どちらも本人とってはそのほうが楽な生き方なわけで、人間は楽なほうに流れていきやすい生き物なんですね。そして自分にとって楽なことを正当化したいという誘惑に勝てない。
でもそれではこの短い人生、いつまでたっても進歩がなく、あるものをないものとして、やるべきことをやらないで正当化していては、一見すると楽なように見えて、いつまでも不要で自分を苦しめる荷物を捨てられません。それではちょうど10年前の夏に、このサイトの目標として書いた文章の境地に達することはできない(今気がついたが、今年で「旗旗」10周年だ!)。そこでまず、自分を苦しめるような感情を、頭の中の理屈で解釈して修正することなく、そのまんま書く事で客観化してみるという趣旨がありました。
次に、とりわけ私が家庭内や周囲の女性とのつきあいの中で、少なからず「イラッ」とくる場面があるわけですね。なぜイラッときて反発を感じるのかよく考えて言葉にしてみますと、相手の女性が自分への差別をまるで肯定しているというか、「守られるべき弱い存在」であることを演じつつ、利害や感情が対立する場面(喧嘩とか)では突然に差別を糾弾してみたりとか、そういう自立しない中途半端な(と私からは思える)言動にいらつくことがわかりました。つまり被差別者側の主体の問題ですね。
このいらつく感情を、社会運動に参加する者としてどう考え、運動や闘いの中にどうフィードバックさせていくかということが、自分では混乱してわからない。これは、共産党など「要求貫徹」路線な旧左翼出身のかたには、何を言っているのかさえわからないかもしれませんが、こういう社会への「要求」だけではなく「変革」を志向し、その変革されるべきものに自分自身も含まれているという発想が、多かれ少なかれ非共産党系左翼の正の意味での伝統(自己否定の論理)です。
ただ、この伝統は、正しく自己につきつけられた時には一種の良心回路として作用し、運動に深みや豊かさをもたらしてきましたが、それが「主体はこうあるべき」という「べき論」によって他人に押し付けられる時には、むしろセクト主義や内ゲバ主義の温床ともなりうるものです。また、こちらの文章でも言われていますが、それが被差別者に対して向けられるならば、むしろ被差別者を厳しい状況におしやることさえ考えられます。主張している人の意図とはうらはらに、差別者がよくやる「差別される側にも問題がある」という、あの妄言と、同じような論理構造に陥ることさえ考えられる。
そんなこんなで思考はジグザグし、時に円環構造に陥り、なかなかまとまらない。被差別者の主体の問題、その接し方、寄り添うべきあり方としては、結局は「ケースバイケース」という言葉に逃げることしか今の私にはできないのです。ただ現象的にはケースバイケースでも、そこに貫かれているべき基準はあると思うのですが、今のところ「愛」という「没階級的」な言葉しか思い浮かびません。それでもいいような気もしますが、あまりにも個人の個性に頼りすぎな基準に思えます。
そして一番大切な点です。それは自己の小さな「正義感」で、他人を変えようなどと思うのはあまりに思い上がりだということです。そんなふうに思いつめるから、愛からはじまった運動が、いつの間にか「憎悪」をエネルギーに動くようになってしまう。そして苦しむことになる。そうではなく、他人を変えようと苦しむよりも先に、そのためにはまず自分を変える、永続的に変え続けることを考えたほうがよほど生産的です。そしてその自己変革、主体形成の闘いが、そのまんま社会変革の闘いへとつながっていく、それこそが運動を豊かにし、魅力的なものにしていくあり方ではないでしょうか。
とまあ、こういう言い方ではかなり抽象的ですが、これが私の問題意識です。この問題意識からして、自分の「イラつく感情」をどのように客観化していくべきなのか、その方向性がいまいちモヤッとしてわからないということなのです。え?お前の文章のほうがよほどわからないって?そりゃごもっとも。まあ、そんなふうに混乱して、自分の中の差別意識とその克服の方向性につき、混乱しているということで……。以下、mixi日記からの転載です。
///(転載ここから)//////
天は自らを助けるものを助ける(2013年08月04日22:59)
レーニン曰く「武器の使い方を習得し、武器の使い方に習熟し、武器をもとうとつとめないような被抑圧階級は、抑圧され、虐待され、奴隷としてあつかわれても仕方がない」これ、よく使っていたというか、あちこちに引用されていたように思うが、原典はなんだっけ?忘れてしもうた。(注:全集23巻>『プロレタリア革命の軍事綱領』>『軍備撤廃のスローガンについて』…だそうです)
この言葉は、今となってはもう(まだ)関係ないと思っている方が多いかもしれないが、私の人生の中ではかなり大きな位置をしめている箴言であります。つまり、武器というのは銃だけではないのです。確かに現段階で、拳銃やバズーカ砲を苦労して備蓄することが賢明な闘争方針とは思われません。ですがその時々で必要もしくは効果的な武器というものがあると思う。
何が言いたいかといえば、「天は自らを助けるものを助ける」ということです。抵抗もせず、そのための方法に習熟しようとしないものは、こき使われ、奴隷として扱われても仕方がない。それが私の人生訓の一つであり、それはレーニンから学んだものです。
三里塚の農民が多くの支援を集めたのは、踏みつけられ、虫けらのように扱われて「かわいそう」だからではなく、そこで命がけの抵抗をしたからだと思う。不当な目にあわされている「かわいそうな人」はたくさんいると思うが、その人がそこに身をゆだねて助けを待っているだけなら、周囲の人は手のだしようがない。もしそういう人を助けるのだとしたら、それこそ自分の人生を24時間すべて投げ出して、その人のために生きるくらいの覚悟がないとできない。それがわが子や恋人だったらそういう覚悟もできるが、それは極めて特殊な場合だろう。
以前に私がつきあっていた女性は、口げんかになると必ず、「女って損ね」とか勝ち誇ったドヤ顔で言う人で、そこは嫌いなところだった。それを嫌いだとか言うと、女性差別論者にされかねないような人だったので黙っていたが、なんか違うという思いがあった。
「女って損ね」って何だ。それって、性被害における「男はそういうもんだから(我慢できないんだ)」というのとどれくらい違うというのか。女とか男一般ではなく、もっとはっきりと「私は損をしている」とか「俺は我慢できない(から女性を襲うような人間だ)」とはっきり言うべきだ。
「私は女性だという理由で損をさせられている」→「それは不当でありゆえに抗議し改善する」という人はいくらでもいる。そういう人は尊敬すべき人だ。さらにその行動は、必然として自分一人ではなく、他の多くの人の利益をも代弁し、社会をよりよい方向に変えるものであるがゆえに、高い公共性をもつ。だから多くの人が集まる。必ず手を差し伸べる人はあらわれる。それが「闘争」というものだ。そしてその闘いの中で、闘争主体もまた変わっていくのだ。
だが、単に「○○って損ね」と愚痴ならまだいいが、だからそんな「かわいそう」な自分をみんなが助けるべきだ、自分は何もしないけれども、ただ周りの人は自分の要求を聞くべきだ、だって私は「損をしている」「かわいそう」な人なんだから。そういうのってどうなんだろう。そんな人を「助ける」ためには、それこそ本当に一生面倒をみるくらいの覚悟がないとできないし、できたとして、単にその人一人の利害にしかつながらない、社会性のないものだ。
もちろん闘争は、そもそも「かわいそうな人」を生み出さない、どんな人でも人として尊重される社会を目指すものだから、広い意味ではこういう人もその中に包含しえるものではあるのだけれど。けど、「私ってかわいそうなんだから、あんた助けなさいよ」という人は私ごときでは助けようがないとも思う。助けられると思うのはむしろ思い上がりだ。こういう考えって差別者なのだろうか?そのへんがわからない。どなたかご教示を求む。
///(転載ここまで)//////
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RT @kousuke431: ブログ更新 » 天は自らを助けるものを助ける(下)- なんちゃって主体形正論 - 旗旗 http://t.co/5kHEMvk5Fr
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天は自らを助けるものを助ける(下)- なんちゃって主体形成論 http://t.co/LVK1oMGu0H @kousuke431さんから
草加様の問題意識を拝見して、自分なりに考えてみました、
心の中に感情が沸き立つためには、その感情を構成するための知識・情報が必要だということです、
そして、感情そのもの(好き嫌い)は、知識や情報の量に関係なく、発生してしまうのです、
身も蓋もない話ですが、善良な人ほど、相手の話を肯定して受け入れやすく「信じて」しまいやすいのですが、
オレオレ詐欺を鑑みるまでもなく、「信じて」しまった段階で、
事実を検証することも・他のルートからの情報を確認する事も、できないのです、
これは、あらゆる差別行為に共通して現れることかもしれません、
そして、惨い差別であるという世間様の同意を得るためには、
差別(嫌われる)内容が、間違った事実認識による一方的な判断によるものであると、
双方の情報を提示して、納得してもらう労力・行為が、必要不可欠であることです。
ですが、それらを全て行って、間違いが周知のものとなった上で、
相手の性格や生き方が気に食わない、自分とは相いれないと思うことは、
人間である以上、差別云々とは関係なく当たり前のことだと思っています。
そして、草加様のmⅰxⅰの文面から感じることは、
「援助(ボランティア)を当然のように強請してくる人に同意する必要はない」
ということだと思います。
レーニンのこの言葉は運動論以上に、世界の矛盾に対する考え方、向き合い方としてのある種の「覚悟」を感じさせるものですね。ただねえ、こういう言葉ってレーニンの意図を離れて(というか、あんまり離れてないのかもしれないが)利用されたり悪用されやすい気もするんですよ。
一つには、左右の活動家から見たら、どう見ても立ち上がるべきなのに政府に従順に見える民衆を、要するにこいつら奴隷なのだ、奴隷は導かねばいかんみたいに見下す人って結構いません?右には結構いたんですよ。でも、実はその蒙昧に見える民衆の中には、右の人が逆立ちしてもかなわない本当の日本的な伝統を体で守って、しかも暮らしの中できちんと家族を守り、子どもに受け継いでいて、どんなに政治体制が変わろうが権力と無縁のところで何かを守り抜いているんですよね。まあ私も実はそういう悪しき右派みたいなところはずいぶんあったし今もあるんで人のことは言えない。
あと、このレーニンの言葉を誤解するとね、難民とかに対してすごく冷淡になるような気がする。戦う民衆は偉大だが逃げる民衆はだめだみたいな、下手をするとそうなりかねない気もするんですよ。まあこれは誤解ですよ、誤解と分かって言ってるんですけどね。
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