※本写真集は歴史的なニュースの記録です。転載はご自由にどうぞ。
※写真の説明は原資料記述のまま、解説メモは個人の体験に基づく私見であり、いずれも正確性を保証する趣旨ではありません。詳しくは こちら。
1971年の主な出来事
・ニュース
成田空港建設 強制代執行、沖縄返還協定調印、世界経済フォーラム(WWF ダボス会議)設立、ニクソン・ショック、中国が国連に加盟、林彪がクーデター失敗、スミソニアン体制発足
・ヒット曲
小柳ルミ子「わたしの城下町」、加藤登紀子「知床旅情」、尾崎紀世彦「また逢う日まで」、南沙織「17才」、鶴田浩二「傷だらけの人生」
【メモ】 この頃の分派闘争(内ゲバ)の一形態が、統一集会への他派の登場を阻止することだった。 今では新左翼系でそういうことをする人は少なくなった(よくないことだと学んだ)が、新左翼以外の勢力で、今でも反原発とかヘイトの現場でそいうことをやってる人が出てきたのを見るにつけ「歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」というマルクスの言葉を思い出す今日この頃である。
とまれ1970年6月11日、豊島公会堂で開かれた共産同政治集会で、登壇・演説中の三上治の合図で開始された叛旗・情況派の戦旗派へのゲバルトとそれへの反撃→撃退で叛旗派の分裂確定(三上治・神津陽は除名処分)。それ以降、集会前の戦旗派と叛旗派の旗竿部隊による勝負は、1971.4.28まで主なもので十数番に及び、すべてが戦旗派の完勝に終わった。負けたほうは部隊が潰走して当日の集会に登場できないお約束である 。 (ブントの1970年分裂についてはこちらを参照)
毎回おおくの見物人が集まり、もはや恒例行事と化していたが、 あまりに強すぎる私たちと、あまりに弱すぎる叛旗派ということもあり、戦旗派はギャラリーからの人気がなく、毎度「今日は勝てよぉ!」などと声援が集まるのは叛旗派のほうだった。
上の写真は、そうした分派闘争の頂点とも言える1971.4.28の一齣。
この日、 「12.18ブント」(鉄の戦線派・左派派・関西烽火派) は清水谷公園で赤軍派や赤ヘルノンセクトらと「蜂起戦争派」共同集会をもち、その勢いで戦旗派を圧倒・駆逐して分派闘争に決着を付けようとする(解説参照)。
これを、日比谷公園西幸門口(日比谷図書館前)で待ち構える戦旗派の鉄マスク・旗竿部隊。結局、赤軍派や赤ヘルノンセクトらは戦旗派との対決には加わらず、組織としては「12.18野合ブント」三派連合と戦旗派との激突となり、しばし持久の後、野合ブントは敗走した。
【草加メモ】 当日の報告では「野合右派、赤軍派、叛旗を粉砕」ということになっていますが、当日に居合わせた元赤軍の方のお話では「衝突を見物していた私らの一人が劣勢の連合ブント側に『ちょっと加勢してくるかな』くらいの感じで参加してみたけど『あー全然ダメだわ』と苦笑してすぐに帰ってきた」くらいで「私らも粉砕されたことになっているとは知らなかった」とのこと。
叛旗派はこの日、12.18ブントとの連携による戦旗派挟み撃ちを潔しとせず、野合ブントの敗退と、戦旗派部隊の態勢立て直しを待って(カッコいい!?)一戦に及んだが、勝利の勢いに乗る戦旗派の反撃にもろくも潰走した。
【草加メモ】 この時参加していた相手の方(おそらく叛旗)の書き込みをネットで読んだ記憶があるですが、「わけわかんないまま参加して、気が付いたら負けたので帰ってきた」とか「尻もちついてたら戦旗の人が『もう来んなよ』と言いながら竹竿を投げ返してきたので、受け取って帰った」とか、文章の勇ましい戦果報告しか読んだことのない私には、スポーツかよ!と思えるくらい牧歌的な印象で驚いた。ちょっと参加してみたかったかもとさえ思ったわw。
その後、12.18連合ブントはこの惨敗の余波で紛糾、内部崩壊し分裂解体。この日の衝突が、第二次ブントの分派闘争の過程における大衆集会場での最後の衝突(一応の決着)となった。
この衝突のあと戦旗派は「分派闘争の止揚と対権力闘争への転換」を宣言し、活動家を消耗させていた正統派争いから一抜け。自分たちもまたブントの一分派であるという意味で、それまでは他称だった「共産主義者同盟(戦旗派)」を正式に自称するようになる(この過程に ついてはこちら)。
【草加メモ】 上のような書き方は納得できない古老ブントの方もおられると思う。戦旗派コレクションでは「その後も断続的に不幸な小競り合いが続いた」くらいの認識ですが、全分派を敵に回しても一人勝ちしてしまう戦旗派が、他派との同席(共存)を拒めば、それは大衆的な登場を阻止するに等しい。積極的に潰しにいかないんだから、その程度はいいじゃないかとはならない。
学生反乱と分派闘争の時代の空気はわかるが、それでもブントの分派闘争とは無関係なノンセクト大衆である明大MUP共闘にまで、同じノリで衝突したのは決定的で、明らかに調子にのりすぎ(ではすまされないが)。これを「セクト主義・内ゲバ主義の誤り」として全面自己批判するのに、さらに数年の月日を要した。
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【メモ】 後の戦旗派分裂に際して、現闘団が西田戦旗についたため、戦旗(日向)派は現地での拠点を失い、組織的後退もあってすぐには再開できず数年間現地活動ができなかった。そのことを農民に自己批判の上で現地復帰が認められ、最初は熱田一さんのご好意でご自宅に住み込みで現闘団を再建。すぐに横堀の地に団結小屋を再建した(最終的に地上3階建て)。
農民たちは二つの戦旗派を団結小屋の所在地から「横堀戦旗」「岩山戦旗」と呼称して平等に扱ってくれた。なお、西田派系・共産同(統一委員会)では、「日本反帝戦線三里塚現闘団」の名称が今も存続している模様。
【メモ 】 反帝は「反 帝国主義」の略。「日本反帝戦線」は、1960年代後半の学生・労働者の組織形態であった全学連・労働組合/全共闘・反戦青年委員会という形態に対して、労学の区別を越えた戦闘組織をめざして1970年初めに準備され、叛旗派分裂後の7月、正式に結成された。反帝戦線(AIF=Anti Imperialism Front)の組織的位置づけについては諸説あるが、叛旗派も反帝戦線という名称を継承している。
もともと社会主義学生同盟系列の大衆組織として、○○大学反帝戦線・○○大学反帝学生戦線などの名称があったが、その後の経緯を考えると労働者組織としては無理があったと思われる。西田派系・共産同(統一委員会)では、「日本反帝戦線三里塚現闘団」などの名称を今日も使用している。
【メモ】 「沖縄返還粉砕」(戦旗派など)か「沖縄奪還」(中核派など)かをめぐる論争の激化と情勢の煮詰まりのなかで、1969年9月以来の八派共闘はついに分裂(1971.6.15 明治公園で社青同解放派と革共同中核派がゲバルト)。17日、返還協定調印式当日、戦旗派、社青同解放派、フロントなどの沖縄返還粉砕派は宮下公園での調印反対集会の後、調印式粉砕を掲げて火炎ビン・旗竿で進撃した。
注】「八派共闘」とは、69年の全国全共闘に結集した八派-中核派、社学同(旧統一派→戦旗派)、ML派、社青同解放派、統社同(フロント)、第四インター、共労党(プロ学同)、社労同(共学同)-のこと
「♪お~きなわを返せ 奪還~!」などと叫んで中核派にぶん殴られた人はいないだろうか? 揶揄は人の感情を逆撫でする。やはり論争は真正面からやるのが礼儀というものだろう。この頃の、沖縄人・返還粉砕派の主張の一端がネット上に収録されているので紹介します。
「我々は、はっきりと断言する。『七二年(沖縄)返還と対決しえない日本人民の運動は、無意味であり、敗北である』と。協定不満派としての復帰後の七二年返還の枠の中での運動に対して、返還粉砕派は、いまだ沖縄問題における一政治潮流としても本土においては登場しえない痛苦な現実をはっきり見なければならない。沖縄問題における復帰=屈服派と、返還粉砕派の分岐を鮮明にさせ、10・21大統一行動を準備する中から、徹底した大衆的討論で全人民に深化・浸透させ、強大な共闘機関をめざしつつ、10・21大統一行動を広汎な結集で闘い抜かねば、今日の主体の危機を突破できないであろう」
沖縄青年委員会(海邦)の呼びかけ文より。
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【草加メモ】 ベトナム侵略戦争の激化の中、米軍政下で基地の重圧、経済発展の遅れ、米軍犯罪と人権の軽視に苦しむ沖縄は、島ぐるみ闘争と呼ばれる民衆の怒りの抵抗で、軍政のままでは基地のまともな存続が危うくなっていく。
沖縄の人々の悲願は「平和憲法を擁する本土への復帰」であり「日の丸を打ち振って闘っていた」(読谷村:知花昌一さん)が、むしろ米軍基地の存続を優先する「返還合意」に失望と不満が広まる。この現状に対して「祖国復帰派(協定内容には不満)」、一連の返還劇が安保体制推進と基地維持を目的としたものである以上、これと対決する「返還粉砕派」、民族主義(反米愛国)的な「沖縄奪還派」、さらに沖縄現地では日米政府への失望から「沖縄独立派」なども一定存在し、それらが論争を繰り広げた。
沖縄でも一般的には「祖国復帰派」が大多数だったと思うが、それは「私たちは日本人だ。日本人として扱ってほしい」という純粋素朴な愛国心の発露であり、やがてそれは徹底的に裏切られていく(1987年知花昌一さん日の丸焼尽決起へ)。中核派などは日の丸焼尽決起に無邪気に喜んでいたけれど、本土の日本人の一人として痛苦な思いがするのは私だけか。今また辺野古新基地を押し付けられる現状に、かつて翁長知事が「沖縄は日本ではないのか」と安倍首相に問うた悲痛な叫びをどう受け止めるのか。これに対して安倍の後継総理に選ばれた当時の菅官房長官は「沖縄の歴史なんて知りませんよ」と冷たく答えた。
上の写真は報道カメラマンの嬉野京子さんが、文字通りの意味で命がけで撮影したもので、米軍政下の沖縄を象徴する一枚です。轢いた米軍人はお咎めなしで、女の子を放置して立ち去り、駆け付けた警官は米軍車両のための交通整理をするばかり。周りの大人たちは、ただ立っているように見えますが、証拠隠滅にきた米軍と決死の思いで対峙しているのです。
沖縄では米軍の犯罪(レイプ)を止めようとした警察官が、逆に米軍に射殺される事件もありました。嬉野さんは「命の保証はないよ」と言われながらも、周りの人の協力でやっとこの一枚だけ隠し撮りに成功したのです。
この写真が発表されたことで米軍の逆鱗に触れた嬉野さんは後に拘束され「沖縄では我々(米軍)が生殺与奪の権利を持っているんだぞ」と脅され、カメラを取り上げられ、ついには「米軍に暴行を働いた」という容疑で指名手配、山狩りまで行われます。最後は沖縄の人々の協力と、黙って通してくれた空港職員のおかげで沖縄を脱出します。
この一連の経験を嬉野京子さん自身が語った記録がこちらにあります。ぜひ読んでください。そして沖縄の人たちの気持ちを考えてください。ついでに言えば、そんな沖縄を「反日」などと言って罵倒している輩の姿も対比して考えてみてください。
【草加メモ】 関西地区は反戦旗派の牙城であり、ここでは戦旗派は少数派(同志社に少しいたくらい?)。とりわけ京大は彼らの安住の地。そこに大量の応援部隊を投入して「関西政治集会」を開催したのですから、すでに内部分裂と崩壊がはじまっていた関西派はさぞ驚愕したでしょう。「俺たちを潰す気だ!」「わざわざ内ゲバするために乗り込んできやがったんだ!」と(どっちも否定できないと思う 笑)。
写真のヘルメットに西部、南部、中部と見えますが、これ東京の西部地区とかの人ですよね。写真説明に「京都市中」とありますが、これ京大の周囲ですね。関西派(烽火派・赤報派)は、当然に(?)これをやめさせようとして衝突になりますが、戦旗派はそれを軽々と粉砕し、逆に学内を制圧してしまいます(ひどい)。関東の古参の方の中には、元ヤンの「俺も昔はヤンチャしたもんだよね」くらいのノリで語っている人もいましたが、やられた方にしたらトラウマものですよね。
【余談】 私は関西在住でしたが、そんな昔のことなんて知らない子供だったもんですから、オールドブントの方々に普通に笑顔で話しかけ、酷い対応をとられてびっくりすることが続き、なんが逆トラウマになってしまいました。トラウマの連鎖(笑)。
今ではもう一回ひっくり返って、オールドブントの方々も老境に達し、こっちが「元日向派です。すみません!」と恐る恐る話しかけると、やっと「そんな昔のこといいじゃないですか」と言っていただくことが多くなりました(ホッ)。
2.22 | 三里塚第一次強制代執行阻止闘争始まる |
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4.27 | 共産同政治集会 東京・南部労政会館 |
4.28 | 沖縄闘争。東京・日比谷公園で野合右派・叛旗派を粉砕 |
5.23 | 『戦旗』266号「階級的暴力の原則的駆使に関する我々の立場」:「我々は内ゲバの止揚を提起する。原則的な大衆闘争の組織化を通じての党派闘争という、本来の領域への我々の闘いの止揚と、敵権力との闘いへの全面突入を訴える」 |
5.29 | 沖縄返還協定調印阻止・外務省突入闘争に反帝戦線5戦士が決起 |
5.30 | 沖縄返還協定調印阻止闘争 明治公園から日比谷公園 |
6.17 | 沖縄返還協定調印阻止闘争 東京渋谷・宮下公園。 |
7.16 | 日本反帝戦線第2回大会(~17日) |
9.16 | 三里塚第二次強制代執行阻止闘争(~20) |
10.14 | 共産同(戦旗派)政治集会 牛込公会堂 |
10.21 | 沖縄返還協定批准阻止闘争 清水谷公園 |
11.6 | 戦旗派、社青同解放派、フロントなど沖共闘(沖縄返還粉砕共闘)結成 東京お茶の水・明治大学7号館 |
11.19 | 沖縄返還協定批准阻止・抜き打ち強行採決弾劾闘争 東京後楽園・礫川公園 |
12.10 | 共産同(戦旗派)関西政治集会 京都大学 |
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