(とある方への意見として送った私のメールを、プライバシーに配慮して修正の上で転載)
ただ、何やら「また頭の固いサヨクが右翼に文句つけてるよ」とか思われてるみたいに感じますが、そういうステレオタイプな認識のほうがよほど頭が固いと思います。
私は別に右派がカウンターの現場に来ることや、そこで(事実上の)現場共闘が成立していることを否定していないし、やめろなんて言ってません。それどころか、右派がファシスト「在特会」との実力攻防の敷居を大きく下げたことを正当に評価しているではありませんか。それらをふまえた上で、以下、簡単に私の意見を述べます。
最近は「カウンター」とか「直接行動」という言葉が一人歩きしています。右翼のみならず、「在特会」系の人間までがこの言葉を使っている(!)くらいで、彼らはとにかく「カウンター」とさえ言っておけば、あとは多少のことは許されるくらいに思っているんじゃないかとさえ感じる。2009年に蕨市で「在特会」がおこなった外国人少女へのハラスメント(自称「デモ」)に対する抗議行動や、京都での差別扇動デモに対する対抗デモの頃に、左派が中心で切り開いてきたカウンター(対抗行動)とは、かなりかけ離れた使われ方をしています。
それはぶっちゃけ「正義の自分たちが悪を懲らしめるんだからいいのだ」という程度の内容しか感じられない。ですが本来「他者の政治表現を妨害する行為一般」は、思想表現の自由という観点からは「許されない行為」であると思います。それはまさしく、先の経産省前テント広場襲撃に見られるように、歴史的に右翼がやってきたこと(「天誅!」ってやつね)そのものです。そういう貧困な彼らの側の自称「カウンター(天誅)」と私たちのカウンター行動は無縁だし、また、無縁でなくてはならないと強く思います。
それはともあれ、私たちのカウンター(対抗行動)とは、まず右翼ファシストのこういった昔からの言論弾圧、差別抑圧、少数者(マイノリティ)の自己主張や存在への否定、国家統合への暴力的強要などの差別的「行為」が先にあって、これに対する民衆(市民)の側からの良心的な抵抗として、対抗行動がある(べき)と思います。苦しめられ、踏みつけにされている人々への思いが前提であり、あるべき何かへの忠誠心やイデオロギーが前提になっているのではない。それは右翼の「天誅」的な発想とは全く違います。言い換えればザイトクら右翼のカウンターは「けしからん者への憎しみ」、左派のカウンターは「踏みつけられた者への優しさ」が原動力になっています(本来は)。
そこでは右翼にみられるような「自分と意見の違う者の表現を許さない」とか「こんな奴らの考えが広まったら日本はダメになる」みたいな、自己の政治信条の押しつけを超えた、普遍的かつ道徳的な理由や態度が絶対的に必要であると思います。その点が、私たちのカウンター行動が、日教組の大会に押しかける街宣右翼とは全く違うところです。
「優しさを束ねて闘う」はかつて三里塚闘争のスローガンでしたが、もし私たちが踏みつけられた人々への優しさを忘れ、敵への憎しみにのみ捕らわれて行動するなら、ザイトク側とカウンター側の主張は等値になってしまい、どちらが正しいかは大衆が判断するみたいな世界に入ってしまいますし、ザイトク側がやっている反靖国デモや反原発デモへの「カウンター」と、私たちの差別反対の行動は、単に方向性(思想信条)が違うだけの裏返し的なものとして(少なくとも表面的には)大衆の目に映ってしまう危険性が高いのではないでしょうか。
参考として、こういう問題意識のもとに書かれた私の文章をあげておきます。もし議論を継続される場合はお互いの省エネのためにも、先に目を通してくださるようにお願いします。
→「何度でも言う。差別は『言論』ではない」(ブログ旗旗)
勘違いなさらないでほしいのは、そういうイデオロギーや「右とか左」はどうでもいいと言っているのでなく、それはなぜこの社会が「在特会」のような卑劣な奴らを生み出すのか、そこで私たちはどうすればいいのかを考え、解決の道をさぐる中で生まれてきたものであって、決してその逆ではありません。三里塚や沖縄の問題でもそうであるはずです。だから沖縄の人々は「辺野古の海を守れ」とは言っても「アメリカ人を叩き出せ」とは言わない。その一方で「朝鮮人を射殺しろ~!」と喜色満面で楽しそうに連呼するザイトクの女性もいる。そういう類の集団と、沖縄を闘う人たちの思想性(=道徳性)のレベルの差はあまりにも歴然としています。
さて、まだまだ書き足りないのですが、前に簡単にふれたことを少しだけ詳しく書いてみました。○○さんの決め付けてきなレッテルを少しは剥がしていただけましたでしょうか。その上で、○○さんが私に「一緒にやれ」と要求なさる方々との共闘が可能かどうか検討してみたいと思います(事実上の現場共闘はカウンター参加者全員で常に成立しています。というか現場で参加者同士が争うほうが非常識なわけで、そこは除きます)。
思うに○○さんがおっしゃるような方々は、カウンターが「本来はやってはいけない」行為であり、だからこそそれは「自己の政治的信念の押し付け」であってはならず、万人が(日本人のみならず世界の人々が)共感するような普遍性と道徳的な決意が必要であるという点、つまり先に右翼ファシストどもの差別扇動(=犯罪行為)があって、それによって具体的に傷つけられる被害者がいる、これに対して民衆の側からの共同した抵抗、被害者の防衛として発動されるべきだという意識が、全くないか極めて弱いように感じています。そうでないと言うのなら、○○さんのほうから具体的に「そうでない事実」をご教示いただければ助かります。それによって私はいつでも考えを改める用意があります。その場合、個々の誰それが「いい人だ」というのは直接には関係のないことです。
まず私のほうから、そういうふうに感じる理由をあげておきます。○○さんは意図的にか相手にザイトクが含まれている場合のカウンターだけを例にあげられますが、彼らはザイトクのみならず、今年だけでも3・11、4・29、8・15においては、そのザイトクと同じ側に立って、市民集会やデモに「カウンター」を行っていることもまた事実です。よく「一人一派」とか言われる右翼が何を考えているかは関知しないところですが、これは私たちの感覚では(あえて客観的にとは言わないであげます)ザイトクとの「現場共闘」による市民集会への襲撃です。○○さん、総合的に判断しないといけません。自分の論拠に都合のいいところだけを見て判断を押し付けるのは公平ではないですよ。
たとえば私たちは、ザイトクが行った「原発賛成デモ」には、それがどれほど不愉快な主張であろうと、カウンターという手法をとった人はいないか非常に少なかったはずです。政治団体や大企業に対するデモ、大使館や官庁への行動も同様です。決してそれらを容認しているわけでも「やっていい」と思っているわけでもありませんよ!お間違いなく。内容の差別性が高いものはカウンターの対象にするべきだとも思います。ものには限度というものがありますから。ただ、この点でも反原発デモなどにいちいち「カウンター(天誅)」してくるザイトクと私たちとの違いは歴然ですし、同じザイトクへの「カウンター」と言っても、彼らはザイトクに「天誅」しているだけであって、私たちとでは、その趣旨が全く違うと断じざるを得ません。
まとめます。趣旨が全く違います。「敵の敵は味方」とも思いません。「目的は手段を正当化する」とも思いません。彼らが敵対してきたら防衛的に対抗します。ただ、先の抗議声明にもあるように、敵は安倍政権で民間右翼ではありません。安倍政権(警察・公安)に関しては部分的にせよお互いに「守りあう」のは、大衆運動の内部では当たり前のことです。ですがそれ以上に関わりを持つ気もありません。そういうことです。
ザイトクとそれに対する側が、互いにヘイトスピーチを競い合う、まさに悪夢のような光景です。私たちは差別に反対しているのであって、右翼の内ゲバを見に来ているのではありません。そういう部分の「カウンター」は、私たちとは異質で趣旨の違う、合流(共闘)が不可能なものであることがわかると思います。私たちは鬼退治に行く桃太郎ではない。「けしからん奴をやっつける。そのために手段は正当化される」とは思いません。
以上です。お気に障ったらお許しください。
本当はこの3倍くらい書きたいけど、思いは伝わったでしょうか?疑問があればまたお知らせいただければ幸いです。今回は意見があいませんが、また機会があれば共に闘いましょう。その節はよろしくお願い申し上げます。
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RT @kousuke431: ブログ旗旗 » 「カウンター」という行動について考える~右翼との共闘? - 旗旗 http://t.co/dClKWqejR0
やはりメール用の文章で支離滅裂だが、ご容赦のほどを・・とほほ
うん、そうだと思う。
「カウンター」という行動について考える~右翼との共闘? http://t.co/CEcTAFH2aw с помощью @kousuke431
※私見であり、参考程度に読んで頂ければ幸いです。
部落に対して、憂さ晴らしや楽しみで 誹謗中傷を行なっていると考えるのは、
むしろ「人間」に対する冒涜であると考えます、
なぜ怒り批判されるのか、その「理由」を慎重に聞き分けなければならない、
弱者の名のもとに、批判をすべて差別として封じこめるのは、自らのファシスト化につながる危険な行為です。
罵倒の叫びや、売り言葉に買い言葉は、問題の本質では無いと思います、
一部の人又は他団体の犯罪的な行為を、その「運動に関わるものすべての総意」として断ずる行為は、
お互いに、対話の拒否と同義であり、平和と愛から遠く離れていく対応でしかない、
単純な罵倒や殴り合いには、それ以上の意味などないのです、
むしろ、なぜそのような「行動」を起こしたのかを追及し、「その理由」を確認しなければなりません、
結果として誤解や事実誤認があれば、それを指摘し納得してもらうための「対話」が必要なのです。
以下補足です。
大阪・奈良・京都での同盟員の不正や行政との癒着など、明らかに市民社会の倫理に外れた行為は、
批判と糾弾と共に、単なる罵倒や嫌がらせも伴うものでした、
しかし、全国的な、各支部での勉強会・反省のための事実確認会により、
批判と単なる罵倒とを分けて、対話により私たちの考えを伝えるための努力を重ねてきました、
差別と批判を混同することなく、「敵」を倒すための理屈でもなく、
「事実と我々の心」を共有してもらうための活動をしてきたと思います。
勉強のための資料:部落解放運動への提言 - 部落解放同盟中央本部 http://www.bll.gr.jp/20071212teigen.pdf
RT @zigzagkai: ブログ旗旗 » 「カウンター」という行動について考える~右翼との共闘? - 旗旗 http://t.co/VoQJummI1S
少し認識が甘いのではないかと思います。カウンター側の主催者達のむき出しの差別者意識を見ていないふりをする事は出来ません。在特会と同じ穴の狢という認識で良いのではと思っております。
「カウンター」という行動について考える~右翼との共闘? http://t.co/JfSC9Cn7MY @kousuke431さんから
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この間のカウンター現場て感じた違和感は、自分だけでなかったのですね。草加さんの見識に賛同します。2006年頃初めて、在特会のデモを見て自分では何もできないくせに、「○○革命軍は何をしているんだ」と憤ったものです。その頃は在特に抗議する側が少数でまた公安から弾圧されていました。ようやく、在特をカウンターが上回るようになりましたが、「こちらが絶対正義」「よって、何を言ってもやってもよい」は違うと思います。
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