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宮台真司さん

 いや、決して「狙った」結果ではないんですけどね。白川氏の職質被害のエントリーで、宮台真司さんのブログにトラックバックを送ったら、最初の48時間以内に70件以上のアクセスが当方にありました。(旗旗への逆アクセスランキング参照

 「旗旗へのリンク」へのクリック数は、GoogleとかYahoo!などの検索エンジンを除けば、よくアクセスをいただくリンク先からでも、だいたい月50件くらいです。ここみたいな「ちっぽけな個人のつぶやきサイト」としては、これでも充分にありがたい数字です。
 それが「48時間で70件」というのは、ちょっとびっくりしました。別に宮台さんだからって、特に何も思わず、単に「沢山あるいろいろな意見の一つ」としてトラックバックしただけです。

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 ところで、ネットなんかを見ていても、宮台さんのことを「論客」とかいう表現をしている人をよくみかけました。だいたい私、「論客」って言い方が嫌いなんですよね(⌒・⌒)ゞ 。宮台さんはどうか知りませんが、そう呼ばれて平然としてる人の神経はちょっとわからないなあ。(さすがに自称してる人はいないみたいだけど)
 お前、「評論家」やろ、「学者」やろ、それに誇りもてや!って思います。まあ、「論客」呼ばわりされている人の中にも、一流の学者や評論家はもちろんおられるのでしょうけど。

 「評論家」=大衆の立場に立って、かつ自分の責任で、ある問題について判断できる視点を提供する人って思っていました。独りよがりに「自分の言いたい事」や「自分の価値観」を吐露し、叫んでいるだけの人はプロの評論家としては失格です。

 一方でマスコミから「論客」って呼ばれてもてはやされている人は、見ていて面白い個性的な人、要はテレビ向きのエンターテイメント性の高い人だと思います。良識的・常識的な意見は敬遠され、むしろそれを個性的な表現やパフォーマンスで声高に否定できる人がいいようです。評論家や学者としての資質とは、まったく別の価値観で評価されたレッテルが「論客」だという印象を持っています。

 これはたとえば、ちょっと前に予備校の講師なんかで「名物先生」が次々とマスコミに登場し、講義でも派手なパフォーマンスを繰り広げて生徒の人気を集めていったのを思い出させます。予備校もその宣伝効果で潤いました。そして生徒の人気=講師の人事評価となり、パフォーマンスはできないけれども、内容的に熱心ないい講義をする、昔ながらの地味なタイプの熱血先生の評価は下がっているというニュースを見たことがあります。

 また、ラジオの深夜放送の担当者も、かつては「ディスクジョッキー(DJ)」と呼ばれていました。ディスク=レコード盤を自在に乗りこなし、自分が得意とし愛する分野の音楽を中心に曲順も含めて番組を構成する。流行りだけに流されず、自分の番組のリスナーに紹介したい曲があれば、どんなに無名のミュージシャンでも積極的に紹介する。
 もちろん、それが独りよがりではリスナーから見捨てられます。リスナーが欲しているものをいかに提供し、それだけでなく半歩先をいってリードしていくか。そこにはプロの矜持がありました。

しかし、今ではこういうDJらしいDJは、ラジオの音楽番組では皆無かと思います。今はディスクジョッキーではなく「パーソナリティ」というのです。漫才師や落語家、コメディアン、歌手など、幅広い人が「パーソナリティ」を務めています。番組構成については、おそらくプロの構成作家もサポートしていると思います。
 ラジオ番組は100%エンターテイメントでもあるわけですし、パーソナリティはパーソナリティなりのプロの矜持をもってやっているのだろうから文句をいうべき筋合いはありません。でも、ディスクジョッキーのラジオからの絶滅はやはり寂しい。

 思うにこの「評論家→論客」、「熱血先生→名物講師」、「ディスクジョッキー→パーソナリティ」という流れは、その受け取り手が、文字の通り「受け身」になってきていることの現れかと思います。
 自分で食いついていって、自分で考える、そのための材料を求める。自分より上の者の言うことや、やることも、常に批判精神をもって眺める。決して鵜呑みにしない。青臭くてもいいから、既存の物に疑問を持って、違う方法を考えてみる。そんな姿勢なりバイタリティが、日本社会全体から急速に失われています。

 「だから右傾化しているのだ」と安直に言うことはできません。たとえば「左翼思想」自体がすでに「既存の物」になりつつあり、それを可塑的、発展的に考えることのできない、いわゆる「硬直左翼」も存在するからです。また、実は「左」の人間にとってこれが一番恐ろしいことかもしれないのですが、最近になって、右翼や保守思想の信奉者の中にも、柔軟で、違う考えの人とも交流可能な尊敬すべき人が現れつつあります。これは「左」にとっては困ったことであり、右翼なんてのは、みんな石原都知事みたいに頑迷な「わからず屋」でないと困るわけです。

 右でも左でも、なんにせよこういう「既存のもの・既存の社会・既存の権威に反対し、文句を言い、立てつく」こと全体に対する冷めた見方が広がっているように思います。

 まあ、私は「評論家」にも「論客」にも「ディスクジョッキー」にも「パーソナリティ」にもなれるわけがないので、ひらすらつぶやき続けるだけの存在です(一番最低?)。(ー_ーゞ

 ただ、これらの中からどれかを目指すとしたら、やはり「ディスクジョッキー」だなあ。「ディスクジョッキー」は自分で演奏する存在ではないですし、非常に「評論家」にも近しい存在です。基本的には自分の言いたいことをつぶやくだけのブログですが、「ディスクジョッキー精神」だけは持ち続けていきたいと思います。

結論:「論客と、言われるほどの馬鹿でなし」≧(´▽`)≦