※歴史的なニュースの記録として掲載しています。転載はご自由にどうぞ。
※写真の説明は原資料に準拠、【メモ】は個人の体験に基づく私見であり、いずれも正確性を保証する趣旨ではありません。詳しくは こちら。
1973年の主な出来事
・ニュース
ベトナム和平協定 米軍撤退、日本赤軍ドバイ闘争、金大中氏拉致事件、チリ・ピノチェト軍事クーデター、第四次中東戦争、オイルショック、ブルース・リー死去、ノストラダムス『大予言』ブーム、小松左京『日本沈没』ベストセラー
・ヒット曲
学生街の喫茶店(ガロ)、神田川(かぐや姫)、恋する夏の日(天地真理)、喝采(ちあきなおみ)、個人授業(フィンガー5)、危険なふたり(沢田研二)、ひなげしの花(アグネス・チャン)、心の旅(チューリップ)
訓練に苦しむ住民のまなざしは熱く、奪い合って我々のビラを読み、「がんばれよ!」の声をかける。九大で訓練阻止を闘う学友らの発言をなどを受け、デモに出発。我々と住民の仲を裂こうとウロウロする公安・機動隊を軽く粉砕し、地元住民の立てた「射爆場撤去」の看板が林立する中で戦闘的ジグザグデモを貫徹。岡垣町役場、射爆場前で怒りのシュプレヒコールをたたきつけていった。
当日は一切の諸党派が2.11闘争から日和見を決め込む中、沖縄反帝戦線、派闘委、高校生派兵阻止共闘の赤ヘル部隊を先頭に6団体の共闘で闘われた。我々は「紀元節粉砕・ベトナム革命戦争勝利・天皇来沖阻止・自衛隊派兵阻止・全軍労闘争勝利」を掲げ、日帝の尖兵‐沖縄総合事務局‐防衛施設局、その先兵に成り下がった屋良県庁を攻撃目標として、果敢な旗竿行進を貫徹していった。
【メモ】このほか、名古屋・白川公園において「全東海 紀元節粉砕 高校生集会」などが闘われたようであるが、写真は残っていない。
司 会:前半・土方(克彦?)、後半・高木
記念講演:西田輝「70年代プロレタリア革命の新たな主体とは何か」
基調報告:村中泰
ほか、獄中アピール(佐脇正祐ほか)、連帯挨拶、決意表明など
小選挙区制導入をいったん取り下げた田中内閣をさらに追撃し、国会に上程されている諸反人民立法を粉砕して田中内閣を打倒する5-6月の闘いが全国で打ち抜かれた。5.15闘争は、泥沼の宗派闘争を繰り広げる革共同両派、社共の逃亡の中、唯一対権力武装闘争の大道を守り抜く沖共闘の呼びかけにより、多くのノンセクト諸君、各大学の実行委員会を結集して日比谷までの戦闘的デモを貫徹した。
集会後は安浦公園までデモ。神奈川県警機動隊だけでは抑えきれないと見抜いた権力は、東京からの応援を要請しデモ隊の封殺を狙ったが、赤ヘル部隊は機動隊の壁に何度もぶち当たってこれを粉砕。多くの横須賀市民の注視と共感の中、米軍『ベース・ヨコスカ』のゲート前で戦闘的ジグザグデモを貫徹した。
【メモ】 米空母の海外母港化は、米軍史上初めてのことだった。まさにベトナムへの空爆が続けられ、無辜の民が連日殺され、枯葉剤の散布が続けられる中、多くの人々が空母ミッドウェーの日本母港化に対し、硬軟それぞれの考えと戦術でこれに抵抗した。
実はこの時戦旗派は、6月の第12回中央委員会で内部的には分裂が確定していたが、この時点ではまだ公然化しておらず(知られてはいたろうが)、一つの隊列で統一して闘った。まだ各人や各地区・支部の去就や色分けが定かでなかったということだろうか( →戦旗派分裂参照)。
【草加メモ】 戦旗両派(日向・西田)が初めて別隊列で別行動をとり、分裂が公然化。両派とも公的には「我々が戦旗派であり相手は分派」という立場なので、名称は両派とも全く同名の「共産主義者同盟(戦旗派)」、機関紙も同名の『戦旗』というややこしさです。
消耗なブントの分派闘争にやっと一区切りがつき、対権力闘争の大道に戻ろうとした矢先の神田武装遊撃戦での大弾圧にも耐えたのに、またしても不毛な分裂による勢力半減です。もともとベトナム反戦・沖縄連帯・全共闘運動などを動機として歯を食いしばって闘ってきた優秀な活動家たちが、この時多く戦旗派を去り、複数の(?)自殺者までだしたと古参の方々から聞きました。
わが同盟=戦旗派は、再開された狭山差別裁判の公判に向け、11.19狭山差別裁判糾弾・無実の石川さん奪還 全関東労働者人民集会(大田区民会館)、11.23東京拘置所包囲闘争、11.27狭山闘争勝利1万人集会(日比谷野音)と連続決起で闘った。
2.11 | ベトナム連帯・紀元節粉砕全国行動 |
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3.24 | 労共闘春闘集会 東京渋谷区・幡ヶ谷区民会館 |
5.15 | 沖縄返還1年・侵略反革命体制粉砕闘争 東京・日比谷野外音楽堂 |
5.30 | 早稲田大学解放闘争・対革マル戦つづく。~6.4 |
6.15 | 田中政権打倒闘争 東京・明治公園 |
6月 | 共産同(戦旗派)第12回中央委員会。紛糾し、戦旗派分裂へ |
8.8 | 金大中氏拉致事件 |
9.15 | ミッドウェー横須賀母港化阻止闘争 横須賀臨海公園 |
10.2 | 韓国・ソウル大学の学生らが朴政権打倒に決起 |
10.14 | タイで学生と軍が衝突、タノム政権崩壊 |
10.21 | 国際反戦闘争 桧町公園。戦旗派両派、別行動により分裂公然化 |
>>1974年へ
この時の痛苦な体験、喪った仲間たちへの思いからでしょう、「もう二度と悲惨な分派闘争はしたくない」という心情は、80年代初頭に結集した部分も含めて共有されていたと思う。「もし将来的に戦旗派の運動に納得できない日がきても、運動や組織を割ることなく、自分一人でそっと去っていこう」と。
もちろん去ってから戦旗派とは無関係に独自の運動をするのは勝手でしょう(そういう人もいた)。なのに、下部メンバーまで自己の私兵のように巻き込み、運動を壊してまで、路線の違いというより、部隊指揮をはずされた自尊心を満足させるかのように行動したM君問題(分派ですらない)は、下部の女性メンバーに片っ端から手を出すみたいな、それまで全く放置されてきた親分‐子分的な体質、つまり「克服すべき戦旗派の内部問題」として、かなりのメンバーの怒りを買ったし、それも当然だろうなと当時の私には思えました。