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ネットウヨと全共闘(1)

まあ何と言うか、この間ここでは折にふれて「ネットウヨ」という呼称を使ってきました。たまには「ネットサヨ」とか「硬直左翼」なんて言い方もしています。元来(行動や思想にではなく)人にレッテルを貼るのを嫌がる私がこう言うんですから、それはつまり、かなり怒っておるわけです。

要は右系の人間には「右翼-保守-右派的意見を持った一般市民」などがおると、それに対応して左派系にも「左翼-社民-左派的意見を持った一般市民」がおるよと。それでこれらの人の意見はちゃんと尊重せなあかんわけですが、これらの外にネットウヨやネットサヨという、いわば鬼ッコがおると。こんな石頭はさっさとゴミ箱に捨てて、本来の右と左で真面目な議論をしようやと訴えてきたつもりです。

そんな中で、現在の喫緊の問題は絶滅寸前の「左翼教義に硬直したネットサヨ問題」よりも、「反体制には何でも反対のお子様ネットウヨ問題」であると、んでこれを追放するためにはむしろ真面目な右翼の方々とも協力すべきであるとさえ考えてきましたし、攻撃というよりは防衛本能につき動かされて「ネットウヨ批判」を何度か展開してまいりました。

これに対してコメント欄などを通じ、JSFさんとか、逸般人さんなどからネットウヨという呼称、およびその生態の分析について繰り返し異議が申し立てられておるわけです。それでまあ、エントリーをたててまとめて考えてみようという。

異議の要点はいくつかあるわけですが、大きくはだいたい次の3点にまとめることが可能なんではないかと思います。

1)あんたが「ネットウヨ」ちゅうとる人々は、あんたが言うような酷い存在ではない系の論点
2)そもそも「ネットウヨ」なんていう「謎の思想集団」は存在してへん系の論点
3)むしろ左派系のやつらのほうがよっぽど痛いんとちゃうん系の論点

んで、これに答えていくわけですが、まずもって順番として「ネットウヨ」でくくれる人の集団があるんけ?という根本的な2)系の問題から思うところを述べてみたいと考えるわけです。

●層としてのネットウヨ

もちろん私も別に「日本ネット右翼同志会」ちゅう団体があって、体制に文句を言うサイトを組織的に潰して回っているとか考えてるわけではありません(むしろその方が対処する側としても楽なわけですが)。
ただ、現在のネット上において、ある種の傾向を持った人々が層として存在しており、そうでない人々から見て一定の共通項があると。そしてこの層の人々は何かのきっかけで集団的に同じ方向に動き出すことがあるという認識なわけです。つまり「集団」ではなくて「層」なんですね。

わかりやすく言うと、たとえば「オタク」と呼ばれる人々がいたわけです(最近は下火というか定着して認知されたという感じですが)。しかし一口にこう呼ばれる人の中にも、もちろん種々雑多な人がいたであろうし、中にはお互いに仲が悪くて対立的な層もあったであろうと思います。では「オタク」という言葉で統一的に把握される存在は無かったのかといえば、決してそんなことはないわけで、「オタクじゃない人」から見ると、ある傾向を有する人々が「層」として確かに形成されてきたわけです。

これと同じように、なるほどネットウヨと目される人でも、一人一人を見るとごく普通の「右派的意見を持った一般市民」との境界をうろうろしてる、要は一般人とさして変わらない人も多いだろうし、個別の問題についてはそれぞれの意見も分かれるとか、場合によってはほとんど硬直左翼的なことを言う人もいるとか、それぞれの個性は当然あるでしょう。ある瞬間にはネットウヨである人も、必ずしも24時間365日「ネットウヨとしての矜持」を持って生きているわけでもないでしょうしね。

しかしやはりそこは「オタク」と同じように、「ネットウヨじゃない人(とりわけても左派的な人)」から見た場合、明らかにある種の行動を行なう層として「ネットウヨ」は存在するわけです。別の言い方をすれば、ネットウヨとは存在というよりは「行為」に対するレッテルであると言ってもいいです。

●ネットウヨが「謎の集団」と化す時

こういうある種の層(もしくはある特定の行動)が形を持って現れるのは、いわゆる「祭り」の時です。一般市民が別の一般市民の人権を侵害することはよくあることですが、個別事例の場合はまだ対処の方法もあります。やっかいなのは、いわば局地的な社会的現象というか「多数が少数を囲む」場合です。まるでイナゴの群れを追うようなもので、対処のしようがありません。

それはリアルの世界では、メディアスクラムと呼ばれる報道による人権侵害、あるいは報道された事件の当事者やその家族への、嫌がらせの電話や手紙の殺到などという形で現れます。それをそのままネットの世界に移したものが、イラクの人質被害者や、拉致被害者家族会へのバッシング事件、そして近年のコメントスクラム(仕掛ける側が「祭り」だの「炎上」だの言う事例)だったと思います。

こう書きますと、「いや、それは彼らのほうが悪くて云々」ということを言う人がいるのですが、ここでは話の論点がずれるので、攻撃された側の言論の内容が正しいとか間違っているとかは問いません。たとえば私から見て、それがどんなに「間違った言論」でも、他者の人権を具体的に侵害しない限りにおいては、それは守られるべきだと思うから。

つまりそれは「いじめられる側にも問題がある」という言い草や、「レイプされたのは注意が足りなかったんだから仕方ない」という言い草、総じて「被害者の側で被害を避けるべきで、そうしなかったんだから被害にあっても仕方ない」という屁理屈と同次元だと私は思います。いわゆる「いじられっこ」にある種の共通する雰囲気(たとえば「暗い」「見ていてイライラする」など)があったと仮定しても、だから何だというのでしょうか?それが毎日理不尽な暴力に耐えなくてはならない理由になるのでしょうか?それと同じことだと私は思っています。

ここで論じる問題は、こうして「少数を囲んだ多数」が、果たして「特定集団」か?ということです。
たとえばリアルの世界において、ある種の傾向を持つ層の人々が、ある理由で自然発生的に一箇所に集合した時、これを「特定」かどうかは別にして、「集団」と呼ぶのはそんなに無理なことではないと思います。ではネットではどうか?これはちょっと難しいかもしれないけれど、たとえば他の人の書き込みを読んで勢いづけられたり、ネット上で知り合いにも声をかけたり掲示板に書き込んだり、あるいは2ちゃんねるに専用スレを立てるなどしてどんどん人が増えてくる構図は、まさしく「群集心理」そのままであり、むしろリアルの世界よりも純粋にそれが現れてくるのではという印象を持っています。

まあ、群集心理という言葉の正確な定義からはどうなのか不学にして定かではありませんが、少なくとも「囲まれた少数」の側から見れば、それは「同じ傾向を持って連携しあう不気味な謎の集団」に見えても仕方ないでしょう。しかし集まってくる側にその自覚がないところから、「集団」というより「群集」というのが公平な評価かなと思います。

かつての70年安保当時には、マスコミはすでに左翼のデモ隊を「暴力集団」扱いしておったわけですが、実際には、全学連のデモ隊などが街頭の一角を制圧した後には、通りかかった一般の市民(野次馬でもいいですが)が、どんどん合流してデモ隊が膨れ上がるということがよくあった。機動隊の阻止線などがあると、それに血だらけになってぶつかる学生の後ろで市民の集団が声援したり、機動隊が壊走しようもんなら、歩道で見物していた市民から拍手や歓声がわいたものです。少なくともその逆はありませんでした。
中には単に鬱憤を晴らしているだけの人もいたでしょう。ちょうどコメントスクラムに集まっている人々は、機動隊に象徴されるものに共通の敵意を持った、この玉石混交の膨れ上がったデモ隊みたいなもんかもしれません。

●群集の論理

さて、「一定の傾向を持った層」があることはわかった。コメントスクラムに集まる人々が少なくとも互いに勢いを高めあい、時に補いあう程度の「群集」としての集団性もあるとする。ではこの雑多な個人が集合した全体としての「一定の傾向」とはどんなものか?それがわからないといいも悪いも言いようがない。

やっと話が1)の核心に入ろうという所まできましたが、もう寝ないと、あと3時間で出勤だ!という状況(笑
どーも、タイトルの「全共闘」がいつ出てくるんだという話になってきましたが。。。

とりあえず、ある保守系の方が主催するサイトの掲示板に去年の春頃投稿した文章を再録して、明日につなげたいと思います。随分前の文書になりますが、特に修正の必要を感じない。(直すとしたら「ネット右翼」を、右翼の方に失礼にならないよう、「ネットウヨ」と修正するくらいか)

//////////////再録ここから////////////////////

文章力のなさで趣旨が伝わらなかったようですが、私が言いたかったのは「左翼も一般人だと認めよう」ということではありません。「自分と考えのあわない一般人に『左翼』というレッテルを貼ることが間違っている」ということです。

たとえば「反戦」という考えをもつことは左翼ではありません。むしろ戦争に反対するのが自然な感情だと私は思います。戦争しているところに自衛隊を出したくないとか、クラスター爆弾で体を引き裂かれたイラクの子供達の写真を見て心を痛めるとか、この人達のために自分も何かできないかと考えることとか、そのことだけでは左翼ではありません。「そういう意見をもった一般人」です。むしろ普通より正義感の強い人だと思われます。

もちろんまた別の考え(正義感)から「イラクの人を助けるために自衛隊を積極的に出すべきだ」という人もいるでしょう。それも「そういう意見をもった一般人」なのであって、そのことだけで右翼だという批難を投げかけるのは間違っているのです。同じ理由で「自衛隊はこれこれこういう理由で撤退すべきだ」というような意見を述べただけで、やれ左翼だときめつけて口汚く罵るのは間違っていると言いたいのです。

最近知って驚いたのですが、右翼的な考えをもった中高生がレンタル掲示板などでニセの「反戦掲示板」を設置し、そこに「私も戦争に反対です」などと書き込んできた人を「左翼がかかった!」と言って徹底的に集団で馬鹿にし、罵倒しつくすなどということが流行しているというのです。彼らはこれを「左翼狩り」などと称しているそうですが、街のホームレスを襲撃したり、野良猫の目玉をえぐって歩くような人間と同じ精神構造だと思うのは間違っていますか?

また、2ch掲示板の「イラク人質3馬鹿の家族に一言」というテーマのスレッドでは
「高遠は今ごろぐちゃぐちゃに犯されているだろうな」
という書き込みがなされ、それへのレスとして
「あんなブス、誰もやる気なんてしないって(藁)」
というような、読むにたえない書き込みが延々と続けられました。

こういう「自分の考えにあわない」→「左翼だ」→「左翼は叩け!」的な思考パターンの人が、特にネット上では多すぎます。それはかつて国策にちょっとでもあわない考えの隣人を「非国民」とレッテルを貼って罵った、大衆相互が監視しあって必死に自分が「非国民」でないと証明せねばならなかった、「非国民」が「左翼」になっただけでそれと同じことではないでしょうか?特に左翼と同義で使われている「反日分子」という言葉は「非国民」を言い換えただけの全く同じ用語であって、とうてい怒りなしには聞けない言葉です。

左翼にしても、左翼になりたての若い者は、たとえば「黒柳徹子のユニセフ活動」なんかを見て、「あんなのでは不十分だ」「帝国主義打倒なくして飢餓問題は解決しない」はては「結局は帝国主義の搾取構造を補完、隠ぺいしている」とか言いがちなものです。
でもそこは活動歴の長い人が「ではそんなにご立派な意見を持つ君は何をしたというのだ」「少なくとも黒柳徹子の力で助かる子供達が一人でも二人でもいるではないか」とたしなめたものです。
「彼女の善意を認め、尊敬し、学ばねばならない」そして「彼女の善意を実現するためには反帝闘争を闘う必要があるということを君みたいに口先ではなく、彼女以上の熱意と努力で目に見える形で実践していかねばならないのではないか」「そうでなければ大衆は君ではなく黒柳徹子を支持するであろう」と。

私が最も危惧しているのは、ネット右翼、プチ右翼と言われるこういう若者らの卑劣な行動を批判しているのが、それこそ左翼的な人ばかりで、右翼的な考えの人から全然たしなめる声があがらないことなのです。くれぐれも間違わないでほしいのは、私は彼らが「右」だから批判しているのではありません。それ以前のあまりにも「お子様」な行為を批判しています。そして右翼全体にある、自分の考えに反対するものは「何でも左翼論」がその温床ではないかと言っているのです。

//////////////再録ここまで////////////////////

では、この続きは(まだ体力が残っていたら)明日に書きます。自信ないけど(泣

コメントを見る

  • 小倉さんは、1対1じゃないと議論できない(*1)とか相変わらずだだっ子(*2)ですね。

    (*1これは曲解ではありません。小倉さんの『ギャラリー』に対する評価と同じレベルでの思考の動きです)
    (*2だだっこは小倉先生の発言と類似の意味で人格攻撃ではありません)

    ところで質問なのですが、

    ・ 少なくとも自分が相手方を知っている程度には相手方に自分に関する情報を開示すること
    Q.私は小倉さんの公開ハンドルネームと自称の職業しか知らないのですが、それで充分なのですか?ではハンドルネームはサスケットでサラリーマンです。ついでに言うと左翼です。

    ・ 言葉遣い等で礼を失しないこと
    どの程度ならいいのでしょう?基準が不明です。
    だだっこですねとか、blog職業に特別な感情を抱いた人とか、暇な学生とか、丁寧語の婉曲表現は罵倒とみなさないと言う考えでよいでしょうか?

    ・ 対立する討論者間の数的バランスが取れていること
    Q.どうやってバランスが取れるのですか?先着順ですか?私が小倉さんの味方についたら二倍受付可能ですか?頭数になるのなら自信があります、一人分。任せてください。

    ・ 不規則発言が制御されていること
    不規則発言というのは、削除して飛び飛びになった発言のことですか?解答がなくて放置されてしまった発言ですか?

    ・ 相手の発言の趣旨を曲解しないこと
    Q.「どうしても「1対多」という状況での消耗戦に持ち込まなければ勝てないということで、そこに戻したがっている人がいるようですね。」J2さんと切りこみ隊長との対話がこう変換されるのは曲解じゃないのですか?基準がわかりません。J2さんと切りこみ隊長VS小倉さんだから1対多なのでしょうか?

    ・ 議論の終わりが決まっているか、またはこれを決める権限を有する中立的な行司役が存在すること
    Q.コメンターがJ2さんしかいなくても―いえ、いないからこそ最初から議論は成り立ちませんね。つまりネット上ではよほどの幸運が重ならない限り議論は無理だと言う考えですか?

    小倉さんも憎む曲解したくないので是非とも聞きたいなと思うのですが。

  •  私が提示しているのは、真摯な、それ故実りのある議論がなされるための条件です。それゆえ、現実社会では、たいてい守られているルールです。

     もちろん、そのような真摯な、それ故実りのある議論など求めておらず、ただ「勝利宣言」が行えればよいという方々が「ネットでのルール」と称して、その条件をあえて充たさないようにすることはありうるでしょう。現実社会のルールでは勝てない相手でも、社会一般のルールを無視した「ネットでのルール」を援用して、「1対多」の消耗戦に持ち込めばいずれ相手は音を上げる、そうすれば現実社会のルールの下では勝てない相手にも「勝利宣言」を行うことができるということに味を占めてしまった人々がこれにこだわるのは、彼らの境遇が切込隊長さんが推測するようなものであったならばなおさら、心情的にはわからなくはありません。欺瞞に敏感だとか偽善が嫌いだなんていうのは建前でしかなく、自分たちに有利な特別ルールの下で「勝利宣言」をしたいのでしょう。

     
     そのような方を相手にして議論をするのは意味がないし、時間の無駄ですので、私は基本的にお相手する気はありません(実際、多くの論者が「音を上げる」のは、コメントスクラム参加者の論理が鋭いからではなく、(少なくとも見た目には)多人数で執拗に押し寄せてくるし、的確に反論をしてもひるむことなく絡んでくるので、そのような人々を相手にするのは「時間の無駄」でしかないことを実感してしまうからでしょう。)。

     なお、「私がいつどこで誰と話をしようと私の勝手でありあなたに指図されるいわれはない」ということと、「たくさんの人が一人の人のところに行って入れ替わり立ち替わり罵声を浴びせかけることは間違っている」ということとは全く矛盾しません。

  • 小倉先生
    >真摯な、それ故実りのある議論がなされるための条件です。

    ネット上で一対一で(他者の干渉を排して)議論する方法などいくらでもあると思います。
    例えば、チャットルームを借りて議論。
    司会(進行役兼タイムキーパー)が必要であれば、ハングルファイトと呼ばれる議論方式。
    オープンにしたくないのであれば、個人でメールのやり取りにて議論。
    等々です。

    具体的な手段を取ろうとしない-手段を知らなければ聞こうとしない-のは逃げているように思えます。

    場汚し失礼しました。

  • >もちろん、そのような真摯な、それ故実りのある議論など求めておらず、ただ「勝利宣言」が行えればよいという方々が「ネットでのルール」と称して、その条件をあえて充たさないようにすることはありうるでしょう。現実社会のルールでは勝てない相手でも、社会一般のルールを無視した「ネットでのルール」を援用して、「1対多」の消耗戦に持ち込めばいずれ相手は音を上げる、そうすれば現実社会のルールの下では勝てない相手にも「勝利宣言」を行うことができるということに味を占めてしまった人々がこれにこだわるのは、彼らの境遇が切込隊長さんが推測するようなものであったならばなおさら、心情的にはわからなくはありません。欺瞞に敏感だとか偽善が嫌いだなんていうのは建前でしかなく、自分たちに有利な特別ルールの下で「勝利宣言」をしたいのでしょう。

    名文ですね、痛々しく哀れで、自己愛精神に満ち、ただ仮想敵の立場を貶めているだけの、実に聞こえの良い言葉です。

  • 「ネット右翼」がファビョッてる姿を眺めるのも
    なかなかオツなもんですな

  • >「ネット右翼」がファビョッてる姿を眺めるのも
    なかなかオツなもんですな

    小倉氏はネット右翼だったのですか?
    …やはりネットウヨとは違うのでしょうか?

  • あー、分かりにくいかな?

    「ネットウヨ」と「ネット右翼」が違う意味なのかなぁ、という疑問です
    前者のほうが軽いというか、ネット右翼の前段階という印象を受けますがカタカナだからかな。

  • センセイはやたら「1対多数」というけど、べつに議論の参加者が最初からポジション決めて議論してるわけでもないし、
    センセイが周りを納得させる論を展開すれば、
    いつでも「多対多」とか「多対少数」などの数的バランスになるとおもう。
    ようするにセンセイが「1対多数」の状況おかれ続けてるのは、
    それだけ賛同を獲づらい言動をしてる証明のひとつだと思いました。
    なぜセンセイに賛同する意見がなかなか増えないのか考えた事はありませんか?

    それに「1対1」にこだわるのはただ単に自分が有利なだけだからでしょう。
    センセイは絶対に自分が負けてる事を認めないわけで、
    自分の負けをみとめない戦略をとる限り、「1対1」ならいくらでも消耗戦に持ち込めますからね。
    1対1の議論にこだわるよりあるていどの人数で議論したほうが有意義な結果が導けると思うんですがね。

    センセイは全体的に冷静さを失って感情的になっているように見受けられます。
    いちどご自身の言動を冷静に見つめなおすのもいいのではないでしょうか。
    あなたのお仕事の裁判やってるわけじゃないですし、
    これはただの議論なのですから自分の主張の間違っている点は素直に認めたほうが賛同を得やすいと思いますよ。

  • JSFというハンドルに人をあちこちで見かけるが、どこで見ても「かまって君」ですなぁ

  • >軍板左翼

    内容と品性と知性に欠ける、短くて読むのに時間がかからないことだけが救いの駄文を書き散らかしてる暇があったら、書き込む前に推敲する癖でもつけることを薦めます。

    誤>JSFというハンドルに人を
    正>JSFというハンドルの人を