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人権擁護法案その2-差別被害者の救済とは

※「差別と人間の尊厳」から改題しました(03/17)

先の「人権擁護法案」のエントリーにおけるコメント(#1014 )で、紹介した「暴力団対策法は刑事法規でないから人権侵害するようなものではない」という意見は、実は知り合いの弁護士さんのものです。そしてその方はずっとヤクザの民事介入暴力から被害者を救済する活動に取り組んでおられる方なんですよね。

そういう方が、民事介入暴力みたいな、当時の現行法では規制できなかった人権侵害から市民を守る法律が是非とも欲しい!って切実な気持ち、痛いほどわかる。被害者の深刻さを知れば知るほどそうです。

ところがこの時も、これは破防法のような「団体規制立法」なのではないか、つまり「国が指定した特定の団体に参加したり支持したりすることが『罪』になるという構造」なんではないか、ということで、ずいぶんと反対があった。反対運動の中心は右翼団体だったけど、左派的にも、「暴力団を口実にしているが、闘争が高揚した時には、たとえば中核派みたいな左翼党派や戦闘的市民運動まで規制・非合法化されかねない」ということで反対論や反対運動が強くありました。

小倉さんのコメント(#1013)を読んで思ったのは、「人権擁護法」もこれと似た構造があるのかなと。小倉さんのおっしゃるように、法案の構造的には刑事罰を課すものではなく、中立の立場から被害者と加害者の調停・仲裁・勧告を行うものであって、これを拒否した時に課せられる罰金も行政処分にすぎないのかもしれない。つまり「刑事法」ではなく「行政法」であると。

しかしここでより重要なのは、暴力団対策法と同じように、被害者や支援にとっては「待ち望んだ法律」であろうということです。こういう心情は無視しがたい。今まではこういう場合に救済を求めようとしても、せいぜいが弁護士会などに勧告を求めるくらいしかなかったわけです。

加害者がどんなに酷い、人間とも思えない鬼畜の言動で被害者を追い詰めていても、人権団体が間に入って話し合いを要求しても、加害者がそれを拒めばそれ以上はどうしようもない。個人名をあげて侮辱していれば名誉毀損での告訴という道もあるが、「在日は」とか「部落は」とか「○○人は」などの”一般的な”言い方だとそれも成立しない。

ところが一方で被害者は一生消えない深い心の傷をおったり、結婚・就職などの現場で自分の意思では決して変えられない事実を理由にして、その人生をめちゃくちゃにされてしまう。だのに加害者の鬼畜どもは「こんなことくらい」と軽く考えて、まるで、自分が人間であるかのような顔をしてのうのうと生きている!実際、自分のことを「差別者」だという自覚すらない奴がほとんど!

同じようなことは差別以外にも、たとえばセクハラ、DV(含む夫婦や恋人間のレイプ)、いじめ、ストーカー、など数え上げればきりのない問題で構造化していました。これは形は違えど全部「差別問題」なんです。そしてこれらはみんな、80年代末くらいまでは「問題」であるとさえ認識されていなかった。これらの共通のキーワードをあげるとすれば、それは「人権」よりも「人間の尊厳の否定」という言葉がぴったりくる。これらとどう対決して被害者の人権を守るかっていう分野の話については「表現の自由」なんてことは全然関係ありません。こんな言動は「言論」の名に値しません。

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自分の人間としての尊厳を全否定された被害者が、どれほど悔しい思いをしているか!
自己紹介でも書いたけれど、私はいじめを受けた経験が少しあるから、まだ想像することができる。私は加害者を処罰したいとは思いませんでした。殺したいとも思いませんでした。正確に言うならば、「殺してもかまわない」「殺したって罪にはならない」「殺して当然」「殺すべき」「殺される前にさっさと自決するべき」「つーか死ね!」と思っていました。

でも、それを一皮むいてより深く考えると、私は加害者に、被害者がどれほど深く傷ついているか、自分がいったい何をしてまったのか、それを知って欲しかった。そして悔悟の涙を流して心から謝罪して欲しかった。そうしたら私はきっと相手の手をとって何のわだかまりもなく、すべてを許しただろう。それはどんな「復讐」をするよりも深く、私の心を癒してくれただろうに

いじめ→「いじめられるほうにも問題がある」「子供の喧嘩に親が出てみっともない」
セクハラ→「これくらい、ちょっとした冗談(しゃれ・ネタ・コミュニケーション)。そんなに嫌ならスカートはくな。化粧するな。全員ズボンで来い」
DV→「旦那と喧嘩して殴られた?よほど酷いこと言ったんだろ」「レイプ?夫婦なんだから・・・」
ストーカー→「ちょっとは女の方でも気のあるようなそぶりしたんじゃないの?隙があるんだよ」

違う!違う!違う!違う!違う!違う!違う!ぜんっ全わかってない!
腕力でかなわない、集団でこられてかなわない、上司だから逆らえない。どんなにあがいても決してかなわない。自分が無力でちっぽけで、いくら抵抗しても無駄なんだと思い知らされた時の底なしの絶望!無力感!みじめさ!そして殺人や自殺への誘惑。
勇気を出して先生に相談しても、親に相談しても、警察に相談しても、決して解決しない。加害者はのうのうとしている。絶対に処罰されない。何の落ち度もない被害者だけが苦しみ続ける。これをいったいどうすればいいというのだろうか!

セクハラ、DV、いじめ、ストーカーなどの分野では、ここ数年大きな進歩があり、各種の特別法も制定されたし、加害者に激甘だった一般世論も厳しくなってきました。いまやこういう行為を糾弾しても、それを「人権屋」だの「フェミ」だの揶揄するのは特殊な思想の少数派か、石頭のコンサバ親父だけになりつつあります。こういう流れの中で、一番古くて一番深刻な差別の分野で、特別法の制定を求める声があること自体は不思議ではありません。

では「被害者の救済」とは何だろうか?私は以下のように考えます。

第1段階)被害者が加害者に、自己の苦しみ・悔しさ・怒りを直接ぶつける場を作る(糾弾)
第2段階)人権・差別の専門家をまじえ、加害者の言動の何が問題だったのかを3者で検討(確認)
第3段階)加害者が、専門家と被害者の指摘や援助で自分の罪を認識することに成功(反省)
第4段階)上記の内容に基づいて加害者より心からの謝罪が行われる(謝罪)
第5段階)被害者が謝罪を受け入れ、許し、癒される(和解)

これらはこの順番とおりに行われなくてはならないし、表面的な謝罪が行われても問題の解決(被害者のトラウマの回復)にはつながりません。
たとえばありがちなパターンとして、自分が悪いと思っていない加害者に無理矢理に形だけ謝罪させた後、被害者がここぞとばかりに加害者を糾弾しまくり、お互いに「何が問題だったのか」を確認もせず、「今後は気をつけよう」で終わる場合など。これでは被害者・加害者双方の心にわだかまりが残り続け、和解や癒しにつながらないどころか、かえって差別を温存・拡大し、被差別者への偏見を助長することにもなりかねません。最悪の場合には、抵抗できなくなった加害者への報復(逆差別)さえ考えられます。

ですから1年でも2年でも、時間がかかってもいいから、確実に中身をともなって、この順番とおりにすすめていくことが大切です。そして被害者の心の救済で一番大切なのは、1)の「糾弾」ではなくして、5)の「和解」であると私は思います。この過程で実は被害者だけでなく、加害者もまた救われるべきです。人間に戻してあげるように援助するということです。ここでは人権団体の専門家以外に、より中立的な立場からカウンセラーなども参加するのがいいかなと思っています(臨床心理士のカリキュラムに差別問題を組み込むこと、およびこの分野での臨床心理士の参加・活用を提案します)。

部落解放同盟の、いわゆる「糾弾闘争」は、上記のうち(確認)→(糾弾)→(謝罪)の3段階で構成されているように思います(認識が間違っていたら教えてください)。南アで黒人政権が成立した後には、マンデラ大統領は白人への報復を行わず、国民和解のための委員会を設置したわけですが、その和解事業は(糾弾)→(謝罪)→(和解)の3段階だったという印象です。

問題はこういう差別事件の場合、加害者がほとんど「罪の意識」を感じていないことです。これを気づかせてあげることは加害者のためにも大切だと思うのですが、こういう人間が被害者の求めに応じて話し合いや仲介の席上に(自発的に)出てくることは期待できないということなんではないでしょうか。「アッカンベー」されたら、それ以上はどうしようもない。

こういう確信犯的な鬼畜に対しては、今まではたとえば支援の市民団体や解放同盟などの人権団体が集団の力で圧力をかけるとか、新聞に投書してみる、ネットでサイトを作って告発するようなことくらいしかできませんでした。差別は「言論」ではありませんので、こういうことも一定許されると個人的には思いますが、支援の捨て身の行動も、悪質な相手からは逆に刑事告訴などされかねないし、そこはやはり法律的に裏づけのある裁判所のような「公平な第3者機関」があれば、個人でも泣き寝入りせずにすむので、それは一定必要なことなのかなと。

まあ、現行法案については、まことさんの言う通り「今国会に上程されている法案には反対で、廃案にして再審議し直すべき」(#1020)というのが常識的な線かなと思っています。とくに仲介機関の第3者性の確保、政府機関からの自立などの問題でね。

>ヘイトスピーチの垂れ流しが正当化される訳では無い(まことさん#1023
>「差別する自由」のみが言論の自由の名に於いて保障されるなどという事が果たしてあり得るのか?(黒目さん

うん、まあね。モロ「差別する自由」的なものを主張してるのは、右派ではなくて、単なるネットウヨに過ぎないとは思いますが、右派系でこういうネットウヨの言動に甘い人が多いのも気になります。「そういう酷いことをを書く人もいるでしょうが」とか「もちろん差別はいけませんが」とかでサラッと流してしまったり、「これくらいのこと」「単なるネタでしょ」「左翼のほうが酷いじゃん」とか、とにかく甘い甘い。食べるとすぐに歯がとけてなくなるくらい甘い砂糖菓子よりもまだ甘い。

「これくらいのこと」や「ネタ」や「そういう人もいる」じゃないんです。それで人の命を奪うことだってあるのが差別なんですから。絶対にこういうのは許しちゃ駄目なんです。うるさいくらいに抗議し続けないといけない。そしていくら私のような左派が注意しても打撃にならない。もっと右派に頑張って欲しい。

80年代の「優生保護法改悪反対」の市民運動で、若い女性が混じっていたりすると「姉ちゃん、フリーセックスしたいからやってんだろ」みたいなアホ親父が実在したわけですが、このまま差別カキコの鬼畜野郎を放置しとくなら「兄ちゃん、差別したいから反対してんだろ」としか思われなくなるんでないかと心配しちゃうんですけどね。

あと、確かに左派側が普通にビラまいただけで逮捕され、マスコミなんかでも右翼色一色に染まりつつある現在、なんでワシらのことをボロクソに言うとる人の「差別表現の自由」を守るために闘わなあかんねんやろ?というやりきれなさはあります。そういう意味でも、このブログに右派系の人が多く参加され、左派への弾圧にも抗議されておられることはとても大きな救いになっています。

●サイト内リンク

”人権擁護法案”討論場
人権擁護法案その2-差別被害者の救済とは
人権擁護法案その3-コメントへの反応
また大阪府警か!(民事介入弾圧)
民事介入弾圧続報

●参考リンク、トラックバック先など

人権擁護法案全文衆議院ホームページ
人種差別撤廃条約外務省ホームページ
人権擁護法案に関するQ&A法務省ホームページ

人権擁護法案10年史趣味のWebデザイン
人権関連法案に関するまとめの手助け

人権擁護法案反対論への違和感リーマン放言録

人権擁護法案(despera)

人権擁護法反対論批判 前編
人権擁護法反対論批判 後編上
人権擁護法反対論批判 後編下
 (bewaad institute@kasumigaseki

『人権擁護法案反対運動』に辛口エールを送る音極道茶室

人権擁護法案
ネットで流行るデマとこれを信ずる国会議員
ネットで流行るデマとこれを信ずる国会議員(つづき)
 (小倉秀夫の「IT法のTopFront」

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  •  はじめまして。
     非常に興味深く、うなづける面が多々ありました。
     特に5段階の救済法はきめ細かく配慮され秀逸な提案だと思います。
     ふと思ったのですが、あらゆるトラブルにおける被害者と加害者は暫定的なもので、実は両者共に被害者であると。加害者はトラブルに無関係だと思っていた自分かもしれない。
     そういう考え方をするのがいいのかなと。
     それと、人権擁護法案は戦争やあらゆる紛争解決にも通ずる肝だと思うのです。ですから簡単に成立し機能してしまったら、私達は定年退職後に何をしたらいいか戸惑うお父さんのようになってしまうかもしれません。
     ある意味人類はこの問題を乗り越えるために存在しているのかもしれません。
     そのくらいの大らかな気持ちで確実に一歩一歩前進させていきたいですね。
     まぁ、こんなことを書いている自分は何様?という感じで、今投稿ボタンを押すか押すまいか悩んでいます・・・

  • 当該「人権擁護法案」の全文が掲載されているページのURLを掲示します。
    http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g15405056.htm
     
    以下は「人種差別撤廃条約」が掲載されているページです。
    http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinshu/
     
    最後に「人権擁護法案」の国会上程までに至る議論をまとめたページです。
    http://deztec.jp/design/05/03/08_history.html
     
    ところで、草加さんが書かれている
      
    >こういう確信犯的な鬼畜に対しては、今まではたとえば支援の市民団体や解放同盟などの人権団体が集団の力で圧力をかけるとか
     
    についてですが、確か89年に法務省が部落解放同盟の糾弾会・確認会は被糾弾者の人権侵害になる恐れがあるし民間の運動団体が実施するもの法的強制力も無いから出席する必要は無い、飽くまで人権侵害は司法機関なり行政機関を通じて解決されるべき、という趣旨の通達を出して、解放同盟側が"糾弾会を批判するなら人権救済のために実効性のある機関を行政側に創るべきでは無いか?"と主張したことが一つの契機になっていますよね。あと、人種差別撤廃条約の批准。この条約では特定の人種や民族に対する扇動を規制するための法的措置を要請しているのですが、日本はこの条文は「言論の自由」に抵触するとして留保した上で批准したのですが、国連や海外の人権団体はこうした日本政府の姿勢を「差別を助長している」と非難していますね。
     
    この法案は「人権侵害」「不当な差別」等の定義が曖昧ですから、例えば部落解放同盟や朝鮮総連などの運動団体への批判的言辞を行っただけで「人権擁護法に抵触する」などと後ろ指を差される恐れがあるという一部から指摘されている危惧はもっともな面もあると思います。そういう意味では、「人権侵害」等の要件などをより厳密に規定するなどの措置も必要なのではないでしょうか。

  • 五段階の救済は実にいいアイデアだと思います。それがうまくできればいいのですが。
    特に「アカンベーをする人」「匿名に徹する卑怯者」をどうやって、人権そのものを傷つけることなく引き出すことができるか…難しい…

    >こんな言動は「言論」の名に値しません。

    僕もいじめについては被害者であり、心から同意します。その背景にある痛みも共感しようとしたつもりです。
    しかし…しかし、「言論の名に値しない(規制していい)こんな言動」かどうかを、誰が判別するのでしょう!
    政府?被害者(といっている人かも)?弱者?市民?国民投票?常識?知識人?教会?教皇?天皇?特高憲兵?独裁者?
    その判別ができる存在はない、ということが、たまらなくもどかしいのですが真実だと僕は思います。
    それが歴史から学ぶ知恵です…常識は一見かなりよく見えるのですが、逆に差別者からすると差別こそ常識ですから、それも失格なんですよ!
    もどかしくて仕方ないのですが…

  • 差別という定義自体があいまいなことが問題です。
    ここをいい加減にしてしまうと、草加さんも差別主義者となってしまいますよ。

    >「殺してもかまわない」「殺したって罪にはならない」「殺して当然」「殺すべき」「殺される前にさっさと自決するべき」「つーか死ね!」
    という発言は、「いじめた人間の生存する権利を不当に侵害した行為」ということで、差別認定されかねません。
    いじめた人間は悪いのだから問題ない、というのなら、「日本人に暴行を加えた朝鮮人は、殺してもかまわな~云々」という発言もおっけーになってしまいますよね。

    なんか、書いてるうちに草加さんはグレーじゃなくて黒のような気がしてきました。
    草加さん、今日から貴方も 「ネットウヨ」?

    あ、後、場合によっては第4段階と第5段階は逆効果になることもあります。ご注意ください。

  • 僕の経験ですが、ある金持ちのアメリカ白人が多い高級リゾートの話。
    止せばいいのに同行の連中がプールに入ったら、白人はみんな色が黄色くなるといって外へ出ました。
    そして、にがにがしく日本人は貧弱な便?みたいな連中ねとささやいているいい年下白人女性がいました。
    言葉が分からないだろうと思って好き勝手いいやがると頭にきましたので、眼つけて
    ”白というのはぶくぶく太っているが、こころは貧弱だなあ”とかましてやりました。
    差別との闘いとはそんなものじゃないでしょうか?

    いじめについても第三者の仲裁による上辺のよいこちゃんごっこより、全体の流れで、根性がなくいじめに加担している奴を、暴力的に威嚇し、いじめの本丸への追従をためらわせ、己のさもしさを味合わせてやるのが一番だと思います。
    いわれなきいじめにあった子が、不良になり暴力的抑止力をもつのも、究極の自衛策だと思います。
    へんにきれいに表面を取り繕っても、内在化する集団の暗黙の圧殺はどうすることもできないと思います。
    宿命と開き直って、自衛する中から、真の人間のこころの拠所がわかるようになるのではないでしょうか?
    暴力的にぐれてた奴の方が、早く大人になるのも、自己との闘いをも内包させるからだと思います。
    その過程で、本人が打ちのめされたとしても、その不条理をかみしめつつ、まわりの義侠心のある奴が助太刀するしかないと思います。
    個が主体的に宿命との闘うという決意なく、本質的な解放は勝ち取ることができないと思います。
    その意味で法という形式に依存するのはナンセンスだと差別糾弾闘争の果てに確信しました。

  • 細かな返答、ありがとうございました。ゆっくり考えてみます。
    その中で、また揚げ足を取るようで申し訳ないですが、気がついたことがあります。

    五段階の救済の、
    第3段階)加害者が、専門家と被害者の指摘や援助で自分の罪を認識することに成功(反省)
    第4段階)上記の内容に基づいて加害者より心からの謝罪が行われる(謝罪)

    についてですが、これは加害者側の「内心の自由」に関わる問題ではないでしょうか。

    よく考えてみると、「自分の罪を認識する」ためには常識、認知方法、人格そのものを変える必要がある、それこそ宗教の回心に等しい心の動きがある気がします。
    そして、僕はそれは回心同様、人間の力ではできないもの、他者が、特に法や制度には踏み込めないもの、神の領域に属するものではないかと思います。

    さらに「心からの謝罪」という言葉にも、よく考えると違和感を感じました…これまで、歴史認識問題でも感じてきた違和感ですが、「心から」という言葉は政治、法の領域に出してはならないのでは?たとえば歴史認識問題では、国民全員の内心を謝罪反省に統一せよというのは僕は(全員の内心を国体への忠義に統一しようとするのと同様)危険ではないかと思います。
    また、刑法には肉体の自由、生命、財産に罰を与えることはできますが、「心から反省させる」という条項は一語もありませんし、あってはならないでしょう。

    「内心」は外から証明することはできません。しようとすると、たとえば心から反省しようとし、しているつもりでも相手および力のある者が「おまえは心から反省していない、反省が足りない」と無限に言い続け、追い詰められる…死ぬほかないですし、死んでも信じ許してはもらえない、想像しただけでぞっとしました!赤軍事件の総括の本を思い出しました…肉体的拷問のほうが楽です!
    あ、それが糾弾闘争に感じてきた違和感、恐ろしさなのかもしれません。「**教を信じよ。その信仰を証明せよ」と強要したら計り知れないほど恐ろしいことになるように。実際、死に匹敵する苦悶がなければ加害者が真に自分の加害に気づき、心から謝罪することはありえないのでしょう。でも、それを…いかに被害者であれ外部から強要していいのか…でも被害者にも死に匹敵する苦悶はある…

    かといって何もしなくていいということはないでしょう。
    少なくとも、加害者の側は情報として加害の事実、被害者が被害を訴えていることを(形だけでも)聞く義務はあるでしょう。
    また、精神医学、心理カウンセリングの技法を進歩させ、応用することも考えられます。ただしそれも、洗脳という究極の自由侵害にならないか心配ですが。
    その結果、認識>謝罪のステップに加害者側が自由意志で乗ればいいのですが…

    また、これ以上の加害行為をしないよう誰かが止めなければならないでしょう。ただ、その「止める」ことは暴力、名誉毀損などはっきりできるもの以外、制度(法、政府、法的な権限を与えられた市民団体など)がやっていいとは思えません。
    僕は…それは、悪である可能性を承知している一個人がすべきことではないかと思います。一個人がノーということはできるのでは…それもまた危険は危険ですから、暴力を止めるため以外には暴力を使うことなくという原則は必要でしょうね。
    もちろん、まず僕自身ができる限り加害者にならないよう努力します。

    こう考えてしまったのはちょっとゆがんだ大げさな考えかもしれません。
    でももどかしいけれど、やはり内心、表現の自由は守りたい、少なくとも政府の干渉は拒みたいです。本当に「悪がある人間」と「内心、表現の自由」は難しいです。

  • もし今のコメントに糾弾闘争に対する誤解、もしくは僕自身の「注意深く教えられ(南太平洋)」た無自覚の差別意識があったとしたら申し訳ありません。
    常にそれはある、と思って冷徹に事実を見るようにしなければなりません…糾弾闘争がどのようなものだか、僕自身は体験していないので知っているとはいえないです。糾弾闘争という言葉を例に出してしまったこと自体が間違いでした。すみません。
    ただし、論理的には反省の強要によって、逃げ場なしに人格が壊れるまで追い詰める可能性は…僕の中にあるかもしれない「注意深く教えられて」を考えた上でも、あると思います。
    もちろん糾弾闘争の側も、それが過剰な攻撃、復讐にならないよう、当然の感情である復讐心を抑え、有用かつ他にないけれど危険な武器でもあると理解したうえで必死で理性を働かせてきたと思います。実際にはどんなものだか、できれば知るようにしてみます。
    本当に人間の心の闇は深いものです…自分が恐ろしくなります。
    (もし不快に思う方がいたら、下のコメントともども削除してください)

  •  草加さんの糾弾から和解までのプロセスの内、一番重要なのは第2段階の確認のプロセスじゃないかと思います。

     この後に草加さんプロセスだと反省・謝罪・和解とくるわけですが、このプロセスは確認された内容如何によっては加害者・被害者の主客が逆転したり、差別問題という倫理の調停から、個人の欲求の衝突という利害の調停のプロセスに移行したりとプロセス自体が変容する可能性があるわけです。

     そういう意味では、Chic Stone さんの反省・謝罪が内心の自由を踏みにじるのではないかという議論は第2段階の確認のプロセスをないがしろにして第3段階以降に進もうとしてるからおこるんじゃないかと思ったりします。
     
     つまり、謝罪しろの反省しろのでもめていたりする人々はお互いに対する確認がおろそかになってしまっているまま何か主張してるんじゃないかと。

     で、まぁ、こー考えると、結局、差別が解決できるかどうかと言うのは被害者加害者両者の問題認識能力によってしまうのであり、法律でどーのこーのしてもぜんぜん解決にはならないのかもしれない。が、逆にこういう法律が提案されようとしてしまう現状というのは、日本という国が社会としての機能を失いかかってるからなのかもしれないですね。
     
       ・・・と、つらつらと書いてみました。