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カテゴリ: 差別と多様性

人権擁護法案その3-コメントへの反応

えーっと、この一つ前のエントリーである「人権擁護法案その2-差別被害者の救済とは」につけていただいたコメントへのレスを書いていたのですが、これが本文より長くなっちまいました(苦笑

やはり差別の問題は本当に難しい。いい加減な気持ちではコメントできないとつくづく思い知らされました。

つきましては、同エントリーの2005年03月16日までのコメントへの返信をここに新エントリーとして掲載させていただきます。ごみかきさん、まことさん、Chic Stoneさん、suzuさん、太陽に集いしものさん、そういうことですのでよろしく。

なお、ここをお読みになる方は、前もってこの一つ前のエントリーも読んでおいてください(そうしないと意味がわからないと思いますので)。

[1035] ごみかき 2005年03月16日 04:06

はじめまして。
非常に興味深く、うなづける面が多々ありました。
特に5段階の救済法はきめ細かく配慮され秀逸な提案だと思います。
ふと思ったのですが、あらゆるトラブルにおける被害者と加害者は暫定的なもので、実は両者共に被害者であると。加害者はトラブルに無関係だと思っていた自分かもしれない。
そういう考え方をするのがいいのかなと。
それと、人権擁護法案は戦争やあらゆる紛争解決にも通ずる肝だと思うのです。ですから簡単に成立し機能してしまったら、私達は定年退職後に何をしたらいいか戸惑うお父さんのようになってしまうかもしれません。
ある意味人類はこの問題を乗り越えるために存在しているのかもしれません。
そのくらいの大らかな気持ちで確実に一歩一歩前進させていきたいですね。
まぁ、こんなことを書いている自分は何様?という感じで、今投稿ボタンを押すか押すまいか悩んでいます・・・

「はじめまして」だっけ?確かごみかきさんのブログには何度か行ったような記憶があるのですが(気のせいですか?)。

>あらゆるトラブルにおける被害者と加害者は暫定的なもので、実は両者共に被害者であると。
うん、暫定的というか「相対的」なものなんでしょうね。私自身もある場面では被差別者であり、ある側面では差別者であるということでしょう。こうして「先進国」で普通に生きているだけで、世界の多くの人々の生存権を脅かし、その犠牲の上に自分の生活が存在していることを忘れてはいけないと思います。

>ある意味人類はこの問題を乗り越えるために存在しているのかもしれません。
動物としての種である人類にとって、実は「平等」というのは非常に不自然な状態であるのかもしれないと思う時があります。群れを作る哺乳動物には序列はつきもののようですし(最も近年はそれを否定する研究もあるらしいですが)。しかし少なくとも、どんな「序列」であれその内実は、本人が正しい目的のために努力した結果への人々の自発的な尊敬でなければならないと思います。「理由なしに偉い(貴い)人」だとか「理由なしに差別される(卑しい)人」なんて存在は、私が生きているうちに是非ともなくしたいものです。

>大らかな気持ちで確実に一歩一歩前進させていきたいですね
同感であります。

[1036] まこと 2005年03月16日 08:45

(前略)ところで、草加さんが書かれている
>こういう確信犯的な鬼畜に対しては、今まではたとえば支援の市民団体や解放同盟などの人権団体が集団の力で圧力をかけるとか
についてですが、確か89年に法務省が部落解放同盟の糾弾会・確認会は被糾弾者の人権侵害になる恐れがあるし民間の運動団体が実施するもの法的強制力も無いから出席する必要は無い、飽くまで人権侵害は司法機関なり行政機関を通じて解決されるべき、という趣旨の通達を出して、解放同盟側が”糾弾会を批判するなら人権救済のために実効性のある機関を行政側に創るべきでは無いか?”と主張したことが一つの契機になっていますよね。あと、人種差別撤廃条約の批准。この条約では特定の人種や民族に対する扇動を規制するための法的措置を要請しているのですが、日本はこの条文は「言論の自由」に抵触するとして留保した上で批准したのですが、国連や海外の人権団体はこうした日本政府の姿勢を「差別を助長している」と非難していますね。
 
この法案は「人権侵害」「不当な差別」等の定義が曖昧ですから、例えば部落解放同盟や朝鮮総連などの運動団体への批判的言辞を行っただけで「人権擁護法に抵触する」などと後ろ指を差される恐れがあるという一部から指摘されている危惧はもっともな面もあると思います。そういう意味では、「人権侵害」等の要件などをより厳密に規定するなどの措置も必要なのではないでしょうか。

いろいろとURLのご紹介ありがとうございます(前略の部分)。さっそく参考リンクとして本分に追加させていただきます。
解放同盟の糾弾闘争については書きながらも、補足が必要かなあ、まあコメント欄などで何かのリアクションがあるだろうからそれからでもいいか、などと思ってました。

ここで糾弾闘争についての(現段階における)私の考えを書いておきます。
解放同盟のすすめてきた「糾弾会」については、そりゃ様々な行き過ぎや問題があることを認めつつ、私は現段階ではこれを否定できない。むしろ原則支持すべきと考えます。

もし、糾弾闘争に何かの問題があるとすれば、それは被害者と加害者以外に中立的な専門家が介在していないこと、および本来はこの「中立的な専門家」が主催すべき「話し合いの場」が、被害者が主催する「糾弾の場」しかないということでしょうか。そしてのちに禍根を残す一番の点は、はたしてこれで本当に「和解」が成立するのだろうかという危惧です。私が糾弾闘争を批判もしくは疑問点を呈するとすれば、そこが本質になります。
資本主義社会では絶対に差別はなくらないという従来の左翼の立場からなら、むしろこれでいいというか、ガンガン対立を先鋭化させていって、「あなたは差別と反差別のどちらに立つかのか?」を問うていくということになるとは思いますが。。。

しかし一番の本質として、一人一人は弱くて抵抗できない被差別の弱者、少数者が、組合をつくり同盟して差別者を糾弾するということは、基本的に支持すべき正義だと考えます。

たとえば(夢のような話ですが)全国の学校でいじめられている「いじめられっ子」がいます。個々の現場では、”いじめている人間”のほうが、”いじめられている人間”の何倍も数で多いわけですが、全国のいじめられっ子が団結し、何十人、何百人で「いじめっ子」をとり囲んで二度といじめないと約束させ、恐怖でふるえあがらせる。何の対策もとらなかった学校や担任の教師を吊るし上げて糾弾する。我々にはいじめっ子を糾弾する権利があるのだと高らかにいじめからの解放を宣言する。「全国の兄弟たちよ!我々がいじめられっ子であることを誇れる時がきたのだ!団結せよ!」

実際、部落差別は本当に酷い。それに比べたら学校のいじめなんて「期間限定」のアマチュアのようなものです。実に何百年にもわたって(!)ただ耐えてきた部落の人々が「自分たちもまた人間であった」ということに気づいて怒りを爆発させたとしても、決してそれを誰が非難できましょうか!とりわけそれは差別問題解決の初期段階ではむしろ必要なことですらあります。もちろんそこに「エセ同和」などの非難されても仕方の無いような事例が多くあるのも事実でしょう。しかしそれをもって糾弾闘争批判の本質としているような論理は、たらいの湯と赤子を一緒に流してしまうものであってまやかしと考えます。

「糾弾会を批判するなら人権救済のために実効性のある機関を行政側に創るべきでは無いか?」というのは、「行政側」に作るかどうかは別にして、一定の説得力があると思います。
ただできうるならば、そういうことを行政(=国家権力)に要求する前に、解放同盟とその他の人権団体、弁護士会や学者らで「糾弾会」にかわる、部落差別にとどまらない人権救済の新しい民間の枠組みを追求してほしかった。その積み重ねの上に必要な立法があればその時点で要求するということでも良かったんではないかと思います。

人種差別撤廃条約の件については、アムネスティなどの主張で知っています(というか単に「聞いたことがある」程度ですが)。また、「運動団体への批判一般が人権擁護法に反するとされてしまう」という危惧については、たとえば「韓国(政府)」や「民団」を批判することは許されるが、「韓国人」のような特定の国籍あるいは民族を、劣等あるいは危険・邪悪な集団として描き出すことは差別として許されないなど、差別を厳密化することは可能なんではないかと思います。

このへん、こういう法律が必要なのかという議論とは別の問題として展開しておきたいと思います。
私は差別を厳密に定義することが「そんなに難しいのか?」という印象を持っています。それはちょっと「差別(的)言論をする人」に気を使いすぎではないですか。黒目さんの言うように、すでに「左翼(的)言論をする人」は、まるで駐禁の切符を切るがごとく、当たり前に摘発・弾圧されている世の中なわけですよ。だから差別的言論は国家が取り締まってもいいんだとするのも論理の飛躍のように思いますが、「言論の自由」は「人権の擁護」という目的に資する範囲でしか認められない「手段」ではないのでしょうか。
こう書くとかなりの反発が来そうなのを承知であえて挑発的に書いているんですが、たとえば現行法でも、名誉毀損や侮辱罪というのがありますが、これを「言論の自由に反する」という人はほとんどいないわけではないですか。侮辱する方法として、特定個人名の変わりにその人の門地や国籍など、本人の意思によらない、あるいは本人の意思では容易に変更できない属性を侮辱すれば非難されない。これはおかしいんではないでしょうか。

あと、ちょっと恨み節を書いておきますが(笑)、私達左派が「人権擁護法案」に反対して、「差別(的)言論」を弄するような右派(の中のごく一部の人)の人権をさえ守ろうとしているのに、右派の人々で「左翼(的)言論をする人々」への最近の弾圧について抗議の声があまりに小さいのはどうしたことですか?

ごく些細なことで当たり前のように長期拘留されるようになった現状に対して、2ちゃんねるなどでよく見かけるのが「たとえ些細でも違法なんだから逮捕されても当然」という意見です。「特定の思想の持ち主」だけを選抜して逮捕しているんだから、本質は当該違法事例ではなく、思想犯・政治犯として逮捕しているんです。それを容認するかどうかということが一人一人に問われているんです。これは実は「左翼は弾圧されて当然」という思想が背景にあるわけですね。それをよりはっきりさせた意見として「普通の人なら警察もそんなことはしない。普通じゃないからそんな目にあう」という意見がある。これも本当によく見かけます。「普通じゃない」というのは「反政府派だから(弾圧されて当然)」ということですね。
こういう人は将来、「自分と全面的に意見の違う政府」が成立して弾圧されるようになっても、同じことが言えるんでしょうか?

[1037] Chic Stone 2005年03月16日 20:18

五段階の救済は実にいいアイデアだと思います。それがうまくできればいいのですが。
特に「アカンベーをする人」「匿名に徹する卑怯者」をどうやって、人権そのものを傷つけることなく引き出すことができるか…難しい…

>こんな言動は「言論」の名に値しません。

僕もいじめについては被害者であり、心から同意します。その背景にある痛みも共感しようとしたつもりです。
しかし…しかし、「言論の名に値しない(規制していい)こんな言動」かどうかを、誰が判別するのでしょう!
政府?被害者(といっている人かも)?弱者?市民?国民投票?常識?知識人?教会?教皇?天皇?特高憲兵?独裁者?
その判別ができる存在はない、ということが、たまらなくもどかしいのですが真実だと僕は思います。
それが歴史から学ぶ知恵です…常識は一見かなりよく見えるのですが、逆に差別者からすると差別こそ常識ですから、それも失格なんですよ!
もどかしくて仕方ないのですが…

>しかし…しかし、「言論の名に値しない(規制していい)こんな言動」かどうかを、誰が判別するのでしょう!
このことに真剣に悩んでおられる姿に非常に好感を持ちました。この悩みはとても大切なことですよね。
一方、まことさんへのレスにも書きましたが、「名誉毀損」や「侮辱罪」が人権擁護法案どころではない、文字通りの「犯罪」として成立・運用されているのですから、「判定する人」をしばる「判定基準」を厳密化していくことがそんなに難しいとは思えません。むしろそれをちゃんと行なわない法務省の意図にこそ、なにかきな臭いものを感じます。

思うのですが、あまりにも「価値中立」にしばられる必要はないんじゃないでしょうか?たとえば憲法自体も一つの価値観を持っているわけで、それに従うということは、憲法の価値観に従うということです。あらゆる反差別の「人権宣言」や、人は平等で差別はいけないという考え方も、明確に一個の価値観にすぎないわけで、これを擁護するということは、一方でこれに反する考えの人にこの考えを押し付けるという側面から逃れられない。そのことをあまりに否定しようとすると、論理は円還し、結論が出ません。「人の権利を否定する権利(=権利の濫用)は誰にもない」というのは、現代人権思想の大原則の一つです。表現の自由とて、この原則から逃れられません。

人権擁護法案の土俵に乗って言うならば、それは「話し合いの場に引き出す」ための判定基準であって、「処罰(規制)の基準」ではないわけですから、定義不可能とまでは言いすぎなんではないかと私は思います(じゃあお前が定義してみいと言われても困るんですが)。

まあやはりそうは言っても、差別言論に対しては、法律(国家による規制)に頼るんではなく、対抗言論によって包囲していくのが基本だとは思いますよ。今は差別言論のほうが多すぎて「包囲」するどころではないし、逆に人権擁護派のほうが包囲されているのが現状だと思います(特にネットでは)。そこから「国家による自由」や「国際圧力」に頼りたい誘惑に私もかられるわけですが、そうではなく、たとえどんなに包囲された蟷螂の斧であろうとも、せめて最後の一人になるまでここでつぶやき続けたいと思うわけです。

[1038] suzu 2005年03月16日 21:19

差別という定義自体があいまいなことが問題です。
ここをいい加減にしてしまうと、草加さんも差別主義者となってしまいますよ。

>「殺してもかまわない」「殺したって罪にはならない」「殺して当然」「殺すべき」「殺される前にさっさと自決するべき」「つーか死ね!」
という発言は、「いじめた人間の生存する権利を不当に侵害した行為」ということで、差別認定されかねません。
いじめた人間は悪いのだから問題ない、というのなら、「日本人に暴行を加えた朝鮮人は、殺してもかまわな~云々」という発言もおっけーになってしまいますよね。

なんか、書いてるうちに草加さんはグレーじゃなくて黒のような気がしてきました。
草加さん、今日から貴方も 「ネットウヨ」?

あ、後、場合によっては第4段階と第5段階は逆効果になることもあります。ご注意ください。

>差別という定義自体があいまいなことが問題です。
法案の問題点としてはそうでしょうね。それはみんな言ってることですし。

>「いじめた人間の生存する権利を不当に侵害した行為」ということで、差別認定されかねません
私の文章の当該部分については、読んでいただければわかる通り、いじめを受けていた当時に、いじめている人間にどう思っていたかという回顧です。もちろん、今現在「いじめをするような児童はすべて死刑であり、いじめられていた児童が私刑として殺害することも容認すべき」と言っているなら、suzuさんの批判は当たるでしょうが、もちろんそうではないのであげ足取りです。

つーか、本気で私が「すべてのいじめっこは殺せ」と主張していると思ってるんすか?そりゃー、グレーも黒もないや!それはもう「差別」どころの話じゃないっすよ(笑

そうではなくて、差別を受けた人間が、(差別した人間にとっては)なにげない一言でさえ、どれほど深くて苦しい地獄に突き落とされるのかを知って欲しかった。そのためにあえて過去の「自分の恥」をさらけたんだということをご理解いただきたい。

>草加さん、今日から貴方も 「ネットウヨ」?
私にこういう定義をするならネットウヨではなくて「ネットサヨ」です。このブログではネットサヨ(硬直お子様サヨク)批判も展開しておりますが、彼らは今や絶滅寸前ですので、あまり全面批判してません。ちなみにネットサヨの基準でいけば、私も充分に「右翼と馴れ合う保守反動、反革命分子」ということになろうかと思います。実際、80年代くらいなら、私のような人間は左翼業界では生きていけなかったと思います(逆に「なんでもあり」の70年代なら別の意味で生きていけたろうが)。また、現在でも右翼業界では、三浦さんのような柔軟な人は浮いてたりするみたいです。そういう意味では今は保守や右翼業界より左翼業界のほうが居心地がいいっすよ。suzuさんもどうですか?(笑

[1039] 太陽に集いしもの 2005年03月16日 22:56

僕の経験ですが、ある金持ちのアメリカ白人が多い高級リゾートの話
止せばいいのに同行の連中がプールに入ったら、白人はみんな色が黄色くなるといって外へ出ました。
そして、にがにがしく日本人は貧弱な便?みたいな連中ねとささやいているいい年下白人女性がいました。
言葉が分からないだろうと思って好き勝手いいやがると頭にきましたので、眼つけて
”白というのはぶくぶく太っているが、こころは貧弱だなあ”とかましてやりました。
差別との闘いとはそんなものじゃないでしょうか?

いじめについても第三者の仲裁による上辺のよいこちゃんごっこより、全体の流れで、根性がなくいじめに加担している奴を、暴力的に威嚇し、いじめの本丸への追従をためらわせ、己のさもしさを味合わせてやるのが一番だと思います。
いわれなきいじめにあった子が、不良になり暴力的抑止力をもつのも、究極の自衛策だと思います。
へんにきれいに表面を取り繕っても、内在化する集団の暗黙の圧殺はどうすることもできないと思います。
宿命と開き直って、自衛する中から、真の人間のこころの拠所がわかるようになるのではないでしょうか?
暴力的にぐれてた奴の方が、早く大人になるのも、自己との闘いをも内包させるからだと思います。
その過程で、本人が打ちのめされたとしても、その不条理をかみしめつつ、まわりの義侠心のある奴が助太刀するしかないと思います。
個が主体的に宿命との闘うという決意なく、本質的な解放は勝ち取ることができないと思います。
その意味で法という形式に依存するのはナンセンスだと差別糾弾闘争の果てに確信しました。

非常に本質的な提起だなあと思いました。
まさしく差別との闘いは、差別された人間が「弱くて無力な存在」であることを止め、徹底的に差別した人間を糾弾の炎で燃やしつくすことからはじまります。それが出発点です。私が解放同盟の糾弾闘争を原則支持するのも、そのためです。差別された本人が差別と闘う意思を持たない限り、回りの人間は支援しようもありませんし、どんな法律を作っても無意味もしくは充分に機能しません。

ただ、私が「和解」を重視するのは、たとえば「太陽に集いしもの」さんの体験談で言えば、「有色人種のプール使用を禁ずる」がごとき規定はかつて普通にあったわけですが、これを糾弾してなくすことはできた。つまり糾弾すればホテル側は問題になるのを恐れて「いやいや」この規定をなくすかもしれない。
しかしそういうことを繰り返していっても、この「色が黄色くなるといって外へ出」るような白人をなくす(減らす)ことはできない。

別の言い方をすれば、こういう白人達をさえ、差別意識から救い出してあげなくてはならないと思うのです。つまりその場限りで表面的な謝罪をさせるだけでは駄目で、その後も、彼らがわだかまりなく有色人種と握手して肩をくめるような人間になっていないと意味がないと。

そのためにはまず自分がどれほど人を傷つけたかを自覚する「糾弾」の過程は避けて通れない。それは差別された人の心の傷を癒すためにも必要な段階だし、それはもう相手を泣かすくらいに激しく徹底的に糾弾しなくてはならんと思います。ただ、この段階で相手に謝罪を要求すれば、よほどの猛者か確信的差別者でもない限りは謝罪するでしょうが、やはりそれは表面的なもので、後で回りに「酷い目にあった。お前も気をつけろ」的なことしか言わないと思うんですよね。それで差別は表面的には沈静化しても、より陰湿化してしまうと。リアルの世界であまり出会わなくなった差別表現が、ネット(特に2ちゃんねる)ではあふれかえっているのがその証拠だと思うわけです。

だから私はやはり次の段階として、差別者に対し、自分の差別行為や差別意識を自分から引き離して客観的に批判できるように援助してあげる「確認」、それをたとえ苦しくても自分に引き戻して考える「反省」、そして今度は表面的なものでも他者の援助にもよらない自発的な自分の言葉による「謝罪」と、ここまでやらなくては問題の解決にならないと思います。さらに被差別者との「和解」を自分の力でなしとげた時、この人はどこかで差別を見かけても、今度は自分でそれを注意できるだけのヒューマニズムを身につけることも可能だと思います。むしろある意味、「糾弾」と(表面的な)「謝罪」だけですませたほうが、差別した人間にとっては「しばらく頭を下げてりゃいい」ので楽ちんだと思います。

もちろん「太陽に集いしもの」さんのおっしゃることは、一理も二理もあるわけです。何より差別された人はもう差別された時点で人間ではなくなるわけで、被差別者の「人間を取り戻す闘い」こそが優先されるべきだとは私も思います。あらゆる差別との闘いは、この「目覚めた(怒れる)被差別者による集団的な差別糾弾闘争」からはじまるし、この段階を避けては通れない。

ただ、ここから道が分かれると思うのですが、その差別が「社会的に構造化されたもの」であって、社会を変革しない限りなくならないと考えるか、またはまがりなりにも「法の下の平等」を掲げる憲法下における「体制内矛盾」として考えるかだと思うのです。
たとえば社会変革を指向するなら、反差別を階級闘争の中に位置付けて闘う新左翼各派の行き方があります。これは「和解」を目指さずに、むしろ対立をどんどん先鋭化させていく方向です。一方で日本共産党のように、差別はすでに社会的基盤を失っており、解消過程にある、つまり意識変革の問題にすぎないとして解放同盟を批判する立場もあります。

今回の「人権擁護法案」は、自民党を中心に出てきたところが大変に胡散臭い。この法案には、今まで体制変革路線を中心に据えてきた部落解放同盟の右傾化が背景にあるように思えます。つまり右傾化した解放同盟と差別糾弾闘争を、体制内にとり込んで制度化し、飼いならしてしまう、そういう方向での解放同盟と自民党の一部との妥協の産物という側面もあるんでは?と思えるのですが、どんなもんでしょう。

「個が主体的に宿命との闘うという決意なく、本質的な解放は勝ち取ることができないと思います」は、本当に重い言葉だと思います。やはり被差別部落出身でもなく、障害者でもなく、在日でもない、単に昔いじめられっ子だったので、差別される人の気持ちが少しは想像できるにすぎない私が、被差別者のあり方にこれ以上は「注文」をつけるがごとき物言いはできないと思いました。

被差別者の方々から、たとえば「太陽に集いしもの」さんのおっしゃるように、四の五の綺麗事を並べる暇があったら、集団の力でも暴力でもいいから、差別者を糾弾し、被差別者を守らんかい!と言われたら、私にはそれ以上、何も言い返すことはできません。

●サイト内リンク

”人権擁護法案”討論場
人権擁護法案その2-差別被害者の救済とは
人権擁護法案その3-コメントへの反応
また大阪府警か!(民事介入弾圧)
民事介入弾圧続報

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  • >もちろんそうではないのであげ足取りです。
    そうです。ですから、差別の定義があいまいだとそんなことも出来てしまうということです。現に無茶な差別認定をしている人結構いますし。
    どんなに筋が通ってても、レッテル貼られて印象操作されたら終わりですから・・・orz

    >つーか、本気で私が「すべてのいじめっこは殺せ」と主張していると思ってるんすか?そりゃー、グレーも黒もないや!それはもう「差別」どころの話じゃないっすよ(笑
    思っていません。差別を悪用して相手を陥れることもできる、という例に使わせてもらっただけですから。おっしゃる通り、差別どころではなくなってしまいます。
    草加さんのトラウマをこんなことに使ってしまったのは失礼でした。申し訳ありません。

    >どれほど深くて苦しい地獄に突き落とされるのかを知って欲しかった。
    多少ですが、私にも理解できます。私は天然らしいので、よくいぢめられました(´・ω・`)
    ただ、上みたいに悪用する人がいると、みんな味方してくれなくなります。ですから、このことも忘れないでください。

    >suzuさんもどうですか?(笑
    右翼と左翼の二択しかダメなのですか・・・?(・д・;三;・ω・)?
    右翼も左翼も怖いデスよ・・・(((゜Д゜;)))

  • > 「判定する人」をしばる「判定基準」
     右側による、人権擁護法案に対する反対には、その「判定する人」が何にも縛られないフリーパスである、だから選挙の洗礼も受けない絶対権力になってしまう(で、サヨクやコウサクインに占拠されてしまう…)という論が多いですね。
    その「判定する人」をしばる「判定基準」をしっかり固め、かつ政府の御用委員会にならないような代案を出せるよう、努力したいです。完全な判定者はいないと思いますが、だからこそ判定者に対して…難しい!
    僕は人権擁護自体に反対ではなく、反対するなら代案を出せという気持ちもあるので。無理難題にも思えますが。

    >思うのですが、あまりにも「価値中立」にしばられる必要はないんじゃないでしょうか?
     ここは非常に難しいです。僕は内心、言論、表現などの自由は事実上絶対にしないと危なくて仕方がない、という気もしていますが、言論表現の自由を絶対にするには人間の仕様品質が悪すぎるという根本的な問題もわかっています。

    >人権擁護法案の土俵に乗って言うならば、それは「話し合いの場に引き出す」ための判定基準であって
     確かに、その…少なくとも「おまえはこの情報を知らなければならない」とまでは言っていいと思います。ただし、それも最大限に悪用すれば一方的な洗脳にもできるので、要注意であることは忘れずに。
    ただこういう、制度の最大限の悪用を前提にした反対論は僕が自分のサイトで言った「1984コンプレックス」であって建設的ではないかもしれません。最低でも代案構築の努力は必要でしょう。

    >まあやはりそうは言っても、差別言論に対しては、法律(国家による規制)に頼るんではなく、対抗言論によって包囲していくのが基本だとは思いますよ。
     それは賛成です。僕も、まず自分にどんな差別意識があるかを見通すことからはじめましょう。そのうえで断固差別にはノーといわなくては。

  • >しかし一番の本質として、一人一人は弱くて抵抗できない被差別の弱者、少数者が、組合をつくり同盟して差別者を糾弾するということは、基本的に支持すべき正義だと考えます。(草加さん)
     
    これは私も同意見です。被差別者による糾弾闘争自体は差別と闘うための手段だと思います。もちろん如何なる手法で糾弾闘争を展開するのかという「運動論」への点検作業は運動側にも求められると思いますし、真摯な批判には耳を傾けるべきだと思いますが。
     
    ただ、部落解放同盟のような大きな運動体はともかく、組織力の無い団体や個人は人権侵害を行う側を「糾弾」しようとしても、人権侵害を阻止するための実効性のある「闘争」が展開できないという面もあるかと思います。私も以前、とある障害者運動に参加されている方が「ウチのような小さな団体は世間から歯牙にも掛けて貰えないよ」とため息を漏らしておられたのを耳にしたことがあります。そういう意味では、糾弾会・確認会の是非という問題とは別に、人権侵害の被害者を救済するための実効性のある機関自体は必要だと私は思っています。

  • http://blog.goo.ne.jp/hwj-ogura/cmt/a5ab82accd7eb4bbc2e99c97677c9889
    において、今リアルタイムで議論が交わされてますが、いい記述があってので転載します。

    反対派の矛盾点
    ?将来起きるかもしれない言論弾圧には危機感を持っているのに、今現に政府が行っている(主に左翼に対する)言論弾圧には口をつぐむ。
    (実例は 2005-03-29 21:33:43 で挙げられた通り。)
    ?法案の問題点の修正を要求するのではなく、法案そのものの廃案を求めている。
    ?廃案を求める際に、「言論弾圧につながるおそれのない、人権擁護に役立つ法」という対案を示していない。

    人権擁護に反対する人たちの一部にある胡散臭さ。
    ?児童ポルノ法改悪の時も同じように言論弾圧につながる恐れがあると、今回以上に問題になっていたのに(少なくともネットでは)、そのときは反対せず、今回だけ反対している議員が多い。
    (しかも、自民党の平沢議員などは、今回は反対してるのに児ポ法改悪では推進派だった。)
    http://otaku.rulez.jp/kill_the_assholes.html
    ?反対派大手サイトの中に、民族差別を行っているブログがあり、しかも多数のアクセスを得ている。
    http://hobby.2log.net/zk1/
    このコメント欄を見てもわかるように、「差別される側にも問題がある。」と差別を消極的肯定・容認する人たちが少なからずいる。