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「近代合理主義批判」に関して

一つ前の「日本共産党への批判」に対する主義者Y様のコメントに対してレスを書いたのですが、ちょっと長くなったので別エントリーといたします。
これはあくまでもレスなんで、あんま深く考えてないのでお目こぼしを。って、他のエントリーは「深く考えてあの程度かい!」って話ではあるんですが(自爆

>「スタ克」についてのごくごく簡単な説明を、他の文章から持ってきてくっつけてあるというのは、「?、革命運動のスターリン主義的歪曲と闘う観点」の部分でしょうか。

くっつけた(差し込んだ)のは「?、プロレタリア革命運動における人間変革の問題」の部分です。つまり近代合理主義批判としてスターリン主義批判を展開するということですね。マルクス主義は本来、近代合理主義を越え出た、それとは別個の地平に成立しているものなのに、左翼運動の担い手が西欧的な近代合理主義イデオロギーを未克服のままで、かえってそれを丸出しにすることにより、スターリン主義が発生してくるんだという理解です。

デカルト以降の近代合理主義に対する批判というのは、その後は哲学の世界でもわりと一般的なようですし、黒目さんによれば左翼の間では一種の「お約束」になっていくようです。まあ、79年から80年初頭という早い時期にこの観点を左翼的に提起したこと、主体性論と結びつけて、いわば運動を行なう側の「自己批判の回路」として構築しようとした点が評価できるかなと思っています。「相手(=対象)を変革するためには、まず自分(=主体)が変わらなくてはならない」というくだりは、今でも人生訓として役立っていますしね(笑)。

たとえばトロツキスト(第四インター派)の「反内ゲバ主義」は、とてもすっきりしてわかりやすいし、原則的に反論はないのですが、それでは第四インターが権力を持ったら、そこでその「第四インターの目的」(それは主観的には『人民の解放』なわけですが)のために、反対派を弾圧する、人民抑圧のスターリン主義にならない保障はどこにあんのよ?と。やっぱりあんたらも「内ゲバ主義者(とレッテルを貼った者)」を弾圧するんとちゃうのん?と。単に理論的にスターリン主義や内ゲバ主義を批判することに成功すれば「私達はこんなことはしません。すでにそれを超えた存在です」と、観念する人には、この不安が常につきまといます。

私が第四インター派ではなく、戦旗派に参加したのは、この「人民抑圧にならない保障はあんのか?」という問いに対して「無い」ときっぱり言いきったのが気に入ったからです。
それどころか「私達が今こうして話している内容でさえ誤りかもしれない」とか「それは永遠・不断に自分のやっていることを振り返って自己批判的に検証を続けていくしかない」あるいは「絶対的な真理(正義)は存在しない。真理は常に相対的である」という姿勢に共感して結集しました。
まあ、現在のSENKI派を見ると、この時の言葉を皮肉な形で証明したと言えないこともないのが悲しいところですが(注:現在のSENKI派は共産主義や暴力革命を放棄している)。

それはともあれ、ここでの主張は、
1)ソ連の一国防衛主義や生産力至上主義、あるいは日本共産党の諸要求貫徹路線など、「もっと儲けたい、いい暮らしがしたい」という、あるがままむき出しの個人主義的欲求に訴えるような「左翼運動」が、スターリン主義の正体であるということです。そういう個人主義は西欧合理主義では「正義」なわけですが、マルクス主義ではそうでないはずだと。別に「悪」と言うんではないけれど、少なくとも止揚・克服すべきもんであったはずだと。

2)そしてその個人主義は、他者を血の通った痛みを感じる生きた人間としてではなく、あたかも自己の人生や目的のための機械の部品のごとく発想する合理主義を生み出すと。こういう個人主義・合理主義の土台の上にマルクス主義をのっけたもの、それがスターリン主義の反人民性の内実であるということです。

3)だからスターリン主義との対決というのは、外在的な「官僚制の打倒」という意味ではなく、内在的な人間変革の問題であり、個人主義や合理主義(たとえば人民にてっとり早く言うことをきかせる内ゲバ主義など)を越えた地平で「マルクス主義ってこんなんですよ」という実践を、まず自分たちの運動で示さないといけないし、そのためにはまず個々の活動家が自分を変革しないと他者に影響を与えるなどできっこないということです。

従来のスターリン主義批判は、ソ連などの「全体主義」に対して西欧的個人主義を対置することで成立してきた側面があります。反戦運動ですら「生活防衛」の観点から語られています。しかし実は、それらはいずれも近代合理主義の亜種にすぎず、その枠内での対立にすぎない。
「全体主義」の問題点は、「全体」と言いながら実は一部の階級や階層の利害を「全体」にすりかえて犠牲を強いることにあります。階級社会では本当の「全体」など絶対に存在しないのです。
西欧個人主義はこの「全体」に「個人」を対置するという戦略をとる。これに対してマルクス主義は、階級と国家を死滅させることを通じ、「個と類の統一」をはかる思想であるはずだと。

ここでいう「類」は階級社会と国民国家で生きている我々には、頭の中ですら実感として観念することは困難ですが、革命運動を担う実践の中で、運動の担い手側が一般社会に先行して自分の近代合理主義的発想を克服する努力をしてなかったら、それは嘘の運動やろと。つまりそれがスターリン主義克服の闘いであって、運動実践なしにスターリン主義を口先で理論的に批判しても、それを言ってる運動する側の主体が変わらなければ、それ自体が一つの疎外形態であると。

これでいきますと、トロツキズムとその影響を受けた60~70年代学生運動も、結局は近代合理主義の変種に過ぎないと判断されます。トロツキーは私には体質的に西欧知識人的な合理主義の色彩を強くもっているように思えるので、彼のスターリン主義批判とそのマルクス主義からの理論的逸脱の指摘は、日本に生きる私達(とりわけ学生)にとっても非常にすっきりと理解しやすく、また受け入れやすかったと思えるのです。

これに対して毛沢東の実践や文化大革命は、近代合理主義の観点からは不合理きわまりない泥臭い暴挙であって、にわかには理解できない。西欧知識人も文化大革命はボロクソに批判しているし、トロツキストはだいたい毛沢東やイスラム革命が大嫌いです(でもキリスト教の流れをひく「解放の神学」は評価しているのがいかにもですよね)。

私らも文革当時は「毛沢東大嫌い」な党派であったわけですが、やがて毛沢東の政治手法、つまり「もっと良い暮らしができるよ」ではなく、「政治的な正義」を掲げて人民を大量動員していく方向に注目します。
毛沢東の呼びかけに応えた人々が、生活向上どころか自己を犠牲にしてさえ「正義」を実現しようとする。それは昨今のような排外的「反日愛国運動」ではない、国境を越えた「正義」としても観念されており、そのためには中国での生活水準が下がることもいとわない。
まあ、その「正義」への評価は別にしても、そこにブルジョアジーに包囲され、支配されている現代社会の中において、地域的・一時的なものにせよ、近代合理主義とは別の地平で人間の主体が成立することの可能性を見たわけです。

さて、私達は反スタ派の革共同両派に「反スタ・スターリン主義」の好例を見ることができます。スターリン主義の人民抑圧を批判しながら、逆らう者には内ゲバで対処するなんてのはマンガ以外の何物でもありません。しかしこれを批判する第四インターもまた、西欧的個人主義を対置しているに過ぎないのではないか?
「近代合理主義とマルクス主義のミックス」つまり「近代合理主義的に歪曲されたマルクス主義」は、必ず人民抑圧のスターリン主義になるのだとすれば、「すっきりとわかりやすい個人主義」からするスターリン主義や、中核派革マル派への批判は、批判としてはわかりやすくても、自分たちもまたそうならないための回路たり得ないでしょう。

さしずめ私は現在の日本における近代合理主義的歪曲の好例として、ネットウヨの糞リアリズム(国益)から逆算したゲーム的な論争手法や、相手の口をふさいでしまうことを目的とした一部の確信犯的な荒らし行為なども説明できるのではないかと考えています。尼崎の転覆事故に見られるJRの「効率優先・人間無視」の企業運営もそうですし、戦争を「目的」から逆算した「費用対効率」で考えるブッシュ政権とネオコンの思想や、刑務所まで「民間委託」して捕虜虐待を招いた過程、さらには「ロボット兵士」の開発までも近代合理主義の発想そのものです。

また、フランス革命において、最も過激に「自由・人権」を叫んだはずのロベスピエール派が、最悪の人民抑圧政権となっていく過程も、この合理主義によって説明できるような気がしています。さらに文化大革命の「行きすぎ」にしても、「行政機関の破壊」などという合理主義的な観点ではなく、反対派への抑圧過程の問題として検討するべきだし、結局は障ナ小平の近代合理主義路線に負けて、今日の「反日愛国」という排外主義的なスローガンが登場するにいたる不充分さの過程として研究するべきであろうと思います。
まあ、これらに付け加えるとしたら、私が運動から離れていく過程にしても、理想主義を追及する過程で組織と衝突したのではなく、(今から考えれば)どちらかと言えば個人主義を全面開花していく過程で離れた側面が強いのが辛いところですが(苦笑)。

こういうネオコン・スターリン・ネットウヨ(さらに付け加えるならホリエモン?)のような「合理主義」路線に対抗するにはどうしたら良いか。かつての私はそれを「真のマルクス主義(=人間による人間の全的な解放、自己解放と類的解放を一つのものとして実現する共産主義革命運動)の復権」に求めていたわけですが、それを提唱していた戦旗派そのものが共産主義を放棄しているご時世ですしねえ。まあ、当時から私は「共産主義は手段であって目的ではない」と考えていたわけですから、それはそれでいいんですけどね。本当に「目的」を追求した結果による「手段」の放棄だったのかどうかは疑ってますけど。

さしあたって私は個人の立場から、「合理主義や屁理屈リアリズムなど糞食らえ!」「国家なんぞ滅びてしまえ!」の「救い難い理想主義者」を自称しておるわけです。この理想主義(目的)から逆算した手段の選択が、今のところの私の「合理主義」路線に対抗する個人としての立場となっています。

これにたいして「太陽に集いしもの」さんは「(日本)民族主義」を、三浦小太郎さんは「右翼思想」を、まっぺんさんは「トロツキズムの復権」を、TAMO2さんは「仏教徒」の立場から自称「極右にして極左」という立ち位置で、秋津巌さんは「保守主義」から発言を続けておられるわけで、僭越ながら、みんな「お友達」であります(笑)。
あと、黒目さんなどは右翼青年から無政府主義オヤジ(失礼!)に転向した後、今は「もう主義なんてどうでもいいやん」という立場から、漠然とした「反国家主義者」だそうですが、出自による色や臭いの違いはあれども、これが今の私にも心情的に一番しっくりくる気がします。(黒目さん、不愉快なら失礼しました。言うてもらえたらこの部分消しますんで)

●サイト内リンク

日本共産党への批判(文献再録)
日本共産党員への質問

●参考サイト

スターリン主義について2(アッテンボロー)
風は桶屋を儲けさせたのか?(despera)

コメントを見る

  • 私のほうこそ、懐古趣味なお気楽コメントを書き連ねてしまいましたが、それに対する真摯なエントリーを返していただき本当にかたじけなく存じます^^)
    >この「人民抑圧にならない保障はあんのか?」という問いに対して「無い」ときっぱり言いきったのが気に入ったからです。
    それは素晴らしい!私も当時そういうことを言われていたら、きっと心が動いただろうと思います。自己批判の回路を残しておく、そういった「奥ゆかしさ」を弁えている党派を新左翼のなかに求めることがどれだけ難しかったか・・・焦慮にも似た想いで自分の身を置くべき「前衛党」を探し、ついに辿りつかなかった私の過去に比べると羨ましさも感じます。
    スターリン主義を批判しながら自らもその似姿になっていく、いったいそれは何故だろう?というのが私にとってものっぴきならぬ疑問でした。たかだか政治党派にすぎない集団が、全き人間の幸福を約束するという傲慢さを、当初から嗅ぎ取っていたのかもしれません。出発点から引きずっていたその思いが曲折を経て、トロツキズムどころかマルクス主義の放棄に至る私自身の核にあったと思います。
    ・・・なんやら文学的な飛躍ですが(笑)個人史の詳細はまた別のところで展開しましょう。
    毛沢東の実践あるいは中国革命の経験は、たしかに西欧的合理主義とは異なる地平から生成したものだったと言えるでしょう。グラムシはロシア革命を「資本論に反する革命」と評しましたが、中国革命はそれどころの話ではない(笑)私は、あれをマルクス主義の言葉で説明するのはそもそも無理ではないかと考えています。あるいはむしろ中国革命のもっとも良質な部分を見落としてしまうのではないかと。「大長征」「抗日戦争」のなかの紅軍兵士の姿、「撫順戦犯管理所」での人間革命・・・いくつも心に穿たれる光の風景は、近代合理主義「理論」の内側にはないものでした。それだけに「反右派闘争」から「大躍進」「文化大革命」に至る負の歴史が、反転して重くのしかかっています。その意味で中国の経験は、自分では未整理の課題を多くのこしています。
    うーん・・・なんだかイマイチ「近代合理主義批判」と切り結ばないなぁ(汗)
    とりとめもない駄文で申し訳ありません。(もうそろそろ寝たいので・・)でもこのエントリー、いろんなことが書きたくなってしまいます。

  • 主義者Y様>
    >自己批判の回路を残しておく、そういった「奥ゆかしさ」を弁えている党派を新左翼のなかに求めることがどれだけ難しかったか
     
    確かに個々人が「自己批判の回路」を持っていたことは、戦旗派活動家の優れた点だったと今でも思いますが、回路を「持っている」ことと、党全体でその回路が正常に「作動」したかどうかはまた別問題です。それこそ理論ではなく実践で検証されるべきことだったでしょう。その点では少し自信がない。
     
    >でもこのエントリー、いろんなことが書きたくなってしまいます。
     
    はい、是非ご自分のブログなんかでもいろいろ書いて下さい。期待しています。
    私達はソ連・中国をはじめとするスターリン主義国家の現実に失望し、日本共産党のように、民衆の闘争に枠をはめて囲い込もうとする官僚的なあり方にも幻滅し、それでも権力の不正義や戦争策動に憤りを感じて闘ってきました。ですから左右を問わずにあらゆる類の党・組織・権力というものが、民衆に君臨しようとする動きには人一倍敏感になっちゃうんですよね。そんな私達にはこの「近代合理主義批判+主体性論」の組み合わせは、わりと心の琴線にふれるものがあったと思われます。それも今となっては古い議論になるのかなあ。
     
    「近代合理主義+マルクス主義=スターリン主義」という方程式は、実はかなり正しかったんではないかと今も思うのですが、現在の運動側はこの「近代合理主義」はそのままにして、「マルクス主義」の方をはずしていく(あるいは修正する)ことでスターリン主義を回避する方向のように思えます。今、左翼の間では「レーニン批判」が一種のトレンド(死語)状態のようです。
    「近代合理主義+(マルクス主義-レーニン主義)=スターリン主義にならない左翼運動」といきますかどうか。

  • この問題は興味深いですね。
    同時期に戦旗の活動家だった私も草加さん同様そういう戦旗派の内省的な姿勢に感銘を受けて結集したものです。
    しかしそういうスターリン主義への批判を近代合理主義(西欧型個人主義)の回路を通さずに行おうとすれば、
    その「スターリン主義を克服した状態」というのは当時の戦旗の活動家個々の中でもかなり曖昧としたものだったのではないでしょうか?
    言ってみれば先人達がことごとく失敗し、人類にとっても「まだ見ぬ地平」のことをまだ二十歳そこそこの若者が語ってるわけですから...。

    戦旗派のメンバーにしても「我々がスターリン主義的陥穽に陥らないという保証は無い」と言うことによって何となくスターリン主義を克服していたような気になっていた側面は無いと言い切れるでしょうか?(ややこしい)
    つまりは戦旗派にしたところで、革共同両派に代表される「反スタ・スターリン主義」の亜種になる危険性からは自由ではなかったでしょう。

    いずれにしても当時19歳だった私が、そういう戦旗派の姿勢に震えるような感動を覚えたのは事実。

    草加さんと私の差は、未だ当時の教訓から近代合理主義を超えた人類のあり方(自分の生き方)を模索している草加さんに対し、
    すっかり「そういう理想に燃えていた自分」をただ愛しく思い出しているだけの私ということになりましょうか。
    情けなくもほろ苦い結論..。

    今後ともこの議題での活発な議論を望みます。

  • チョシ様>
    >同時期に戦旗の活動家だった私
    はー、そうだったんだ。(^^)
     
    >その「スターリン主義を克服した状態」というのは
    うーん、どうも皆さんと話が噛み合わないと思ってたんですが、戦旗派もしくはその活動家が、「自分たちはスターリン主義を克服した」と考えていたという認識なんでしょうか?私はそんなこと全然思っていませんでしたよ。「俺達はスターリン主義者を克服した」と思った瞬間に「スターリン主義者」ではないですか?(ややこしい)
     
    もし、スターリン主義が、戦旗の言うように「近代合理主義」に基づくものだとしたら、資本主義社会でスターリン主義を完全に克服した個人主体が成立するのは不可能、もしくは大変な困難がともなうはずです。ファシズムの「滅私奉公」とどこが違うのかも、かなり理論的にも道徳的にもしっかりしてないと、見分けがつかなくなってしまう。いわば「個人主義」を超えるためには、資本主義の「常識」に流されない「個人」がしっかりしてないといけないという(これまたややこしい)。
    つまりは、「スターリン主義の克服」というのは自転車、もしくは下りのエスカレーターを登り続けているかのようなもので、資本主義社会の中では、常に実践的に走り続けて検証して、自分を作り変えつづけていないと、立ち止まったとたんにスターリン主義者に戻ってしまうということではないでしょうか。
     
    こういう理由で、私は当時の戦旗が「スターリン主義を克服していた」とは爪の先ほども思いません。ただ「自己批判の回路」を持っていただけ。しかもその回路が正常に作動していたかどうかはまた別の問題であると。しかしそういう「回路」を持っていただけでも、たいしたもんだったんだろうと思う。「セクト主義」批判をしている「自由主義」的な人達でさえ、自分を振り返るための回路は持っていなかったという印象ですから。
     
    >そういう戦旗派の姿勢に震えるような感動を覚えたのは事実
    私の場合は「一国社会主義建設可能論はスターリン主義ではない」という認識に感動した。そういう「理論的な間違い」をスターリン主義として、何でもかんでも「スターリン主義者が(は)悪い」にしちゃいかんと。確かにそれじゃあ共産党が使う「トロツキスト」と変わらないもんね。
     

  • 草加さん>
    お忙しい中レスいただきありがとうございます。

    草加さんのレスの中にまたもや考えさせられる内容が書かれていますね。

    >もし、スターリン主義が、戦旗の言うように「近代合理主義」に基づくものだとしたら、資本主義社会でスターリン主義を完全に克服した個人主体が成立する>のは不可能、もしくは大変な困難がともなうはずです。ファシズムの「滅私奉公」とどこが違うのかも、かなり理論的にも道徳的にもしっかりしてないと、見分>けがつかなくなってしまう。いわば「個人主義」を超えるためには、資本主義の「常識」に流されない「個人」がしっかりしてないといけないという(これまたや>やこしい)。

    これはまた資本主義体制下だけでなく、社会主義政権誕生後の過渡期の段階でも同様のことですよね。多分。
    そして結局のところ我々がまだ見ぬ最終的段階の共産主義に至るまでの世界では、近代合理主義に基づいたスターリン主義的陥穽に陥らないためには、
    草加さんおっしゃる通り「倫理的にも道徳的にもしっかりした『個人』」というものが求められると。
    そこがね。よく分からないのですよ。
    いくら過渡期とは言え、社会主義政権の成否を左右するのが結局のところ下部構造に規定されているはずの
    「個人の意識に」左右されてしまうというのが、どうにもマルクス主義的哲学観と大きくかけ離れて感じてしまうのです。
    (この辺は私の勉強不足が原因ですので何かとご教示いただけると嬉しいです...)
    そうなってくると、近代的個人主義でもなく、またファシズム的「滅私奉公」でもない「ワンフォアオール・オールフォアワン」的世界の具体像というのは
    誠に曖昧模糊としたものに思えてくるのですね。
    草加さんおっしゃる通りこういう堂々巡りに対して、近代合理主義に回答を求めるのは誠に分りやすくスッキリとしている。
    簡単だし疲れなくて済む。
    しかし草加さんにしても微少ながら私にしても、そういう安易な回答を潔しとしないのは共に19歳前後の多感な時期にレーニン主義の洗礼を受けたからに違いありませんでしょう?(そんなことないッスか?)
    私の場合召還した主因は結局のところ増大していく「個」の意識に負けたと言いますか、平たく言えば組織活動がしんどくなって耐えられなくなったわけですが(苦笑)
    そんなヘタレな私でも「まあ共産主義なんてハシカみたいなもんだよハハハ」としたり顔で言うオッサンに
    「そんなんじゃない!そんなんじゃないんだよ!オレわなァオレはなァ」と反発心を憶えつつも「まあでもオレもやめちゃったわけだし..」という自問自答を繰り返したりするわけで、
    そんな中で本家であるところの左翼諸党派がスターリン主義克服の光明としてレーニン主義批判なんかをしだすと
    「おいおい今さらそんなこと言わないでくれよ」っつー気分にもなりますわな。
    (コケた自分は棚に上げて)

    ところで私が誰なのかは書き込みの内容から察してください(笑)