私は純粋に「思い出話」を語るのに照れがあってどうも苦手でした。こういうのはどうしても「武勇伝」になりがちですし、その武勇伝も、本当に死線をくぐりぬけたようなものならいいのですが、そんなに大したもんではありません。一方で、本当に死線をくぐったような人ほど自分の活動については沈黙を守って何も語ろうとなさらないもので、ヒヨッコどもの他愛もない「武勇」をニコニコ微笑ながら無言で聞き流したりされておられるもんです。ですから私がここで微々たる思い出話をすることは、なんか「よくしゃべる下っ端のヤクザ」になったみたいで躊躇がありました。
また、体験のないような若い人がそんなもの読んで面白いのかなあという疑問もありました。たとえば私が幼稚園くらいの時代には、祖父の世代(今の高校生にとっての”ひいじいちゃん”)はみんな「戦場での体験」を酒が回るとよく語ったものです。当時は侵略がどうのなんて「うるさいこと」を言う人もなかったもんですから、記憶に残っているだけでも「中国人を何人殺した」だの「強姦した女性を連れて一緒に進軍した」だの得々と「自慢」するのをごく普通に日常生活の中で聞けたものです。
当時は幼かったのでその意味はよく(実はさっぱり?)わかりませんでしたし、「大人は酔っ払うと嫌だなあ」と思っただけです。また、たしなめる人がいても「子供の前でそんな話やめて下さいよ」程度のもんだったと記憶してます。じいちゃん達にしてみれば、「何をぬかす。今の日本があるのはわしらが命がけでこういうことをしてきたからこそだ」という自負があったのでしょう。しかし本人にいくら自負があっても、聞かされるほうとしては「酒がまずくなる」もんなのです。
ですからここで私が「おじさんの体験談」を語ることも、体験のない人から見たら失笑の対象にしかならんのではないかと思っていました。2チャンネルの元活動家が集まっているようなスレでならそういう話もいいかと思いますので、このサイトにある「思い出話」はほとんどが2チャンネルへの投稿文の再掲です。
でも、アッテンボローさんのサイトを読んでみて、その認識は変わりました。「思い出話」そのものがけっこう面白いし、見方によっては貴重な資料ともなっています。そこで私もアッテンボローさんにつづいて「元活動家のつぶやき」というカテゴリーを設け、「思い出話」も積極的に(?)つぶやいてみることにしました。アッテンボローさんとはこれからも是非継続して交流を持てたらと考えています。
なお、これは余談ですが、「ひいじいちゃん」世代でかつ誰がどう弁護しても侵略としか言えないような行為をした人であっても(歴史修正主義でもそういう行為が「部分的に」存在していたことは認めてるよね)、自分がしたことを「悪い」とか「侵略」だと思っている人は99%皆無だという印象です。せいぜい戦争だったんだから敵国の人間(民間人でも)を殺したり強姦するのは「仕方がない。当然だった」程度のもんです。
こういう「侵略の体験談」というのは、それを肯定する側も、否定する側も、引用して使っているのは、だいたいがそれを「否定して懺悔して反省している」人が書いた手記なんかが中心じゃないでしょうか。私はむしろ「反省している人」が「書いた」ものは一番残虐な部分だけが強調して取り上げられる(それは当然だけれども)ので、「全体の当時の雰囲気を知る」という目的には不向きではないかと思っています。こういった手記と字面で残っている「資料」や「ソース」ばかりを中心に論じられ、活字にならない素朴な体験談は無視されている現状には不満があります。
むしろ活字になった「資料」と平行して、「ちっとも悪いと思ってない」「自慢している」圧倒的多数の「ごく普通の感覚」の元兵士達が「懐かしく語った体験談」こそを、(残虐な部分だけでなく全体的な思い出を含めて)文書ではなく「談」として自由に(前後の整合性や時間的矛盾なんて重箱の隅をつつくような議論は全く無意味です)思い出を語ってもらってそれを収集し、議論の中心にすえるべきではないかと思っています。
私がこう思うのは、現在のSENKI派を批判する人が使っている資料に、かつての戦旗を「否定して懺悔して反省している」人が書いた手記が多く使われているからです。これらの手記を一読して思うのは、決して「嘘」が書いてあるわけではないのですが、当時の戦旗の内情や雰囲気、活動家個々人のモチベーションや、その目指していたものなどが全然正確に書かれていない。その人がやめてから確立した独自の解釈によっているのではないかということです。
だから意味がないというのではなく、こういうのはたとえば「A国から迫害されて亡命した人が語るA国の内情」のような位置付けで読まれるべきであると。つまりSENKI派を批判して打撃を与えるという「目的」に限定すれば非常に有用だし、そういう立場に立つ人はこういう手記に飛びついて「これこそ真実のすべてだ!」と思いがちです。しかし戦旗→SENKIを客観的に突き放して考察し、そこから何かの左翼運動史的な教訓なり総括なりを引き出そうとすれば、それだけでは不充分ではないかと。
私はこういう時にむしろ一番有用な資料というのは、今は当時の活動からすべて離れて何のしがらみもなく自由に語れるが、当時自分のしていたことを「悪いこと」だともまた「至高の行為」だとも思っていないような人が、読者を意識せずに自由に書いたり語ったりしたものだと思うのです。それと先ほどの「反省した人」の手記とつきあわせて使用することで、立体的な批判も可能になるんではないかと。そういう意味で私達「元活動家」が思い出を語るのも、それなりに意義があるのかなあと思ってます。実際には2チャンネルでの投稿においても、「反省した人の手記」で打ち出されている視点に全面依拠して「元活動家の思い出話」を批判する投稿はありますが、両者をつきあわせて客観的に分析し、「自分の視点」を持った投稿はほとんどありません。これでは読んでも「おもろくない」のでちょっと残念です。
ところで個人的にはアッテンボローさんが「元中核派」であること、あいけいさんが「元共産党系」であることは軽い驚きでありました。それと言うのも、私の偏見では、たとえ活動を離れて「元」になろうとも、かつての自分達の活動を、時には突き放して客観的に、時にはユーモラスに、あるいはシニカルに書けるような人材が、この両派にいたとは思えなかった。革共同両派(中核・革マル)、日共(日本共産党)の3派ちゅうのは、とにかく左翼の中では「自分達だけが正しい」と信じ込んで活動し、他の左翼組織を見下して軽蔑し、自分らと考えの違う運動はすぐにぶっ潰そうと身構えている尊大な人達という印象しかありませんでした(ごめんね)。
まあ、立場が変われば見方も変わるわけですから、私達のような、この3派とは違う左翼運動を模索していたような立場からの視点だけに限定すればという前提がつきますが、中核派や日共に対するこの評価はそんなに間違ったものではないと思う。私の場合は理論や路線がどうのこうのではなく「肌で感じる」その尊大さに反発していただけだったんだろうと思います。
一方で私達は「負け犬の遠吠え」にはなりたくなかった。中核派を批判するだけなら誰でもできる(テロられる心配はあるかもしれんが)。問題は中核派に匹敵する、あるいはとってかわれるくらいの勢力になることであって、その時にはじめて「批判」はその正当性が証明されたと言えるでしょう。それまではただの愚痴にすぎない。同じことは日共に対しても言える。
私らは自分達のことを「日本における革命的前衛党」だと思ったことはありませんでした。少なくとも私はそうです。そうではなくて「日本には革命的前衛党が不在である」という認識でした。そして中核派が日本を代表する革命組織である点において、この「革命的前衛党」に最も近い位置にいることを認めていたし、それにはそれだけの理由があると思っていた。だから私らはもちろん中核派を批判するわけだけれども、むしろその「中核派の強さ」に学びたいと思ったし、それと比較しての「自分達の弱さ」を中核派に学びつつ克服していくことのほうに関心があった。その点、ギンギンに中核派を批判して、その実践から切断された所で自前の運動を作ろうとしていた第4インターや反中核的ノンセクトの活動家と私達は随分とモチベーションが違ったと思います(今でも「中核に対する土下座外交」なんて言われる)。
第4インターは「中核派的なるもの」を批判する中で、それに疑問を感じていた人々を糾合して大きな組織を作り上げたという印象があります。私らの時代でも、第4インターはその「柔軟路線」ゆえにまだまだ人気があった。反戦派の大衆運動の中で、インターと中核がそれぞれ一方の旗頭となっており、戦旗は組織的にはインター派との共闘を選択したわけですが、そこに結集してくる個人のレベルで言いますと、「インターでも中核でもなく戦旗」を選んだ人間には、また一種独特のものがあったわけです。
別の言い方をすれば、第4インターの人々は「好き」だし、友達や仲間としてはとてもいい人達ばかりだったが、「学びたい」とか「ああなりたい」とは思わなかった。逆に中核派のことは「嫌い」だったが、一種の「敵」もしくは「競争相手」として尊敬していたし、その存在に「学びたい」と思った。そしていつか彼らに互するような存在へと自分達を高めたいと思っていました。
まあ、こんな感じでまたしても、元インターのまっぺんさんと、元中核のアッテンポローさんの両方から反感くらうような文章を書いてしまった(苦笑)。なんかねー、戦旗って、当時から両方に好意を持っているのに、両方から嫌われるような役回りが多くて、「なんでじゃー!」とか思ってたんですが、自分で今回の文章を書いていて、なるほどそうなるわなって、変に納得してしまったよ。
コメントを見る
はじめまして。
ぼくは20年ほど前、インターの活動家でした。なるほど、そうでしょうねえ。傍目に見ていても、戦旗の人たちは「中核派みたいな感じ」がきっと好きなんだろうなあ、とは思っておりました。
ぼくはビラの描き方(カットのデザイン、レイアウトなど)だけは、当時の中核派を真似したりしていました。
「よくしゃべる下っ端のヤクザ」のkamakazuです(^^;;;これからもよくしゃべりたいと思います。
恐れ多くも共産趣味者の世界での著名人草加さんにコメントとトラックバックを頂戴してしまい、恐縮しています。
最初は身辺雑記のブログにするつもりだったのですが、除名になった自分の総括というか自己批判というか、その為に過去の思い出を書いてみたのですが、こんなに長文のお便りをいただけるとは思ってもいませんでした。
ブログその物が拙いですが、今後とも精進したいと思っております。
草加さんもますますのご活躍をお祈り申し仕上げます。
売国奴どもにFUCK YOU-!!!
くたばれ共産主義者!
共産主義者に天誅を!!!!!
風太郎さま>
はじめまして。よろしかったら、これからもちょくちょく遊びに来てくださいね。
「中核派みたいな感じ」は好きなところと嫌いなところがありましてね。なーんかこう、他者をよせつけないような見下した感じとかはやはり誰しも(当人達以外は)好きになりようがないですよね。集会のたんびにレポみたいなんが来て、わしらの数をわざとこれみよがしに、高圧的に指差して数えていきよったりすると、どーしても「やな党派だなあ」と思っちまいます。
反面、何をするにもすごく原則的で、個々人が主体的に動くのに、全体としての方針が貫徹されてるところとか、決して他者と馴れ合い的な態度をとらないところとか、すぐにデレデレと馴れ合ってしまう私としては「さすがや」と尊敬しておりました。
kamakazuさま>
>「よくしゃべる下っ端のヤクザ」のkamakazuです(^^
ああ!決してそういう意味では・・・って、えーい言葉って難しいなこんちくしょう(笑
これからは私も「よくしゃべる」予定ですので、お互いに「おじさん話」で盛り上がりましょう。
そういえばkamakazuさんとは同じ集会に参加していたことが先日判明しています(明大での全国学生共同闘争)
アッテンボローさま>
さっそくの返信ありがとうございます。これからも頑張ってください。ブログはやはりエントリー書いてなんぼです。私みたいにへんに「ブログそのもの」に興味もってしまうと、カスタマイズとかにのめりこんでグチャグチャにしてしまったりしてろくなことはありません(苦笑)。しかし私って「著名人」なんすか?全然本人には自覚がないけど。まあ「共産趣味者界」自体がちっちゃな箱庭なんで、アッテンボローさんもきっと来月中には「著名人」すよ。
「除名」ですか。まあいろいろあったんですね。私もふくめて「元」はみんなそれぞれ何かの事情や傷をかかえていますよね。革命党派でハッピーリタイアは難しいもんね。まあ、ゆっくりのんびり「総括」していきましょうや。お互いにね。
ところで・・・・
↓ぎゃははは、なんじゃこりゃ!(ノ▽≦*)ノ彡☆
↓ハンドルネームが「レイピスト」だって。そんで「共産主義者に天誅」だって(* ̄m ̄)ぷっ
↓典型的ネットウヨ君よ、こんなこと書いてると、逆に本物の右翼に天誅くらわされるよ。
↓あんまりおかしいので、このままここに展示しておきます(^?^*)v
↓ところでわしらって「共産主義者」なんかね?
草加さんは多分、著名人という表現が合っていると思うのです。現在でも関生等の支援をされているようですし。マル共連や2ちゃんねるでも、よく拝見していましたから。
そう言えば私も別ハンドルで共産趣味の世界で書き込みしたりするようになって約一年になりますから、もしかすると「著名人」に成れるのかも知れませんね。マル共連では別ハンドルになりすましが数回確認されていますので。
私は、学内で革マル派の主導するサークル連合組織で活動したり、各種集会で出会う各派活動家と話をしたり、ずるずると籍を残していた民青の班会議に何年かぶりに呼び出されたりとか(同盟費未納なのに除籍されなかったのかな?)、そんな程度でしかありません(汗)
せいぜい大衆組織、大衆闘争の末端を覗いたくらいで党派活動の経験がないんです。わずかに末期、学習的な小グループに属したのみで。それも解散して今はありません。
だから、みなさんの役に立つ「思い出話」ができないのが悔しいなあ。
間近で見た革マル派活動家の表情くらいだろうか・・・
>みなさんの役に立つ「思い出話」ができないのが悔しいなあ。
って、これだけ活動歴があれば充分やがな(笑
別に「思い出話」はセクトや団体のことに限らないし、むしろ主義者Yさんの「経歴」って結構興味あるなあ。純粋のノンセクトでもないみたいだし。
私も短期間ですが民青に所属したこともありますよ。戦旗(社学同)に加盟したんで、民青やめたいと言ったら、「いや、もう除名になってると思うよ」との返事。こいつはスゲー!名誉の除名だ、日共本体でないのが残念だが、民青でも「除名歴」のある人はそうはいない。
そこで私 「除名通知くれ!」
相手 「は?」
私 「除名通知ほしい。みんなに見せびらかすから。くれへんかったらまだ同盟員やから、民青の会議に参加していっぱい発言するよ」
相手 「・・・・・・」
それから数日は「通知くれ!」と民青の班キャップを追いかけまわしていたんだけど、とうとう何ももらえんかった。もらえてたらかなりレアなコレクションで自慢できたのになあ。当時から私って「共産趣味」の気があったと見えます。
ああ、やっと見られた(笑)
そうですねえ。もとはといえば高校生のときに同じクラスのやつから、民青にオルグされたのがすべてのはじまりで。
大学で入った社会科学のサークルが革マル系だったことから、反帝反スタ・トロツキズムの影響をうけました。そのまえに高野悦子「二十歳の原点」なんか読んで、全共闘・新左翼の世界にぐっと心情的に寄せられるところもありましたけど。
でも内ゲバの反省をしないような党派は論外だし、ゲリラ戦のような戦術が市民社会の安定した日本の状況にそぐうものとも思わなかったし、三里塚闘争がどうして日本階級闘争の最前線なのかも納得できませんでした。そうするとほとんど、どこの新左翼党派にも属せないわけですよ。・・・あれはつらかった。ほんとうに、つらかった。
サークルは2年でやめて、そのあとはフラフラとあちこちの集会に足を運ぶようになりました。べつにシンパですらなかったのに、革マル派の主張と対立するような新左翼系の集会には行きづらかったのですね。彼らに掣肘されたわけではなく、気がねの問題です。
私を最初にオルグしたやつは民青やめて、親ソ連系の党派に行きました(笑)。つきあいで何度かそちらの集会をのぞいていたことが、反帝「反スタ」からバランスよく身を引き離した効果があったのかもしれません。そいつは今では民主党の市議会議員やってますけど(節操ねえぞ、おめー!)。でも、彼の手引きで旧ソ連のナホトカに連れていってもらったのが、自分が世界を歩くようになったきっかけだから、やっぱり感謝しなければいかんかな(笑)
マルクス主義をなぜ放棄したのか、なんて個人史を語るともっと長くなってしまうのでここでは割愛しますが、自分を「左翼」と位置づけていた最後の時期に属したのが、村岡到氏の主催したグループでした。中核から第四インターに移籍し、管制塔占拠闘争のあとインターも脱退して独自のグループを創生していた人です。広い意味での革共同の世界になじんでいた私にとっては、村岡氏の主張に共感を得やすかったのですね。氏はいまでも活発に論考を発表されていて、多くを学ばせてもらっています。
こまかい青春のつづら道をすっとばして、自分の思想的遍歴をかけ足でめぐると、こんなところでしょうか。
北原系よりは熱田系党派の集会へ一般参加者としてよく行っていたので、戦旗の隊列は何度も見ておりました。戦旗って、何でこんなに人が多いのだろう?とは訝っておりました(笑)。ひょっとしてそのへんで、草加さんとニアミスしたことがあるかもしれませんねえ。
「別に気にしなくてもいいんだが...」から、飛んできました。どうやら、小さい頃から心情左翼の性質(たち)のようで、大学入試のときは時計台の上で「キムデジュン死刑阻止」を掲げて赤ヘルと白衣の学生20名らが、赤旗をたなびかせているテレビ放送が直前にあった。ゴダールの「中国女」のようで、かっこよくて、志望校を地元大学から関西のその大学に変更しました。
入学すると4月には素直に、マオ派系のセクトに入り、学内では教科書問題、交通規制問題、廃寮化阻止問題で寮自治会運動、学外では街頭署名、講演会、オルグ活動、選挙支援、援農(三里塚、魚沼、水俣)をやりました。が、セクト活動は1年でつぶれてしまいました。大衆運動へのかかわり方の路線問題と、肉体的疲労のためです。
そこからは、つぶれそうだった大学新聞にスカウトされ、2年生はじめから卒業までかかわり、報道や編集に徹した。といっても、ノンセクトの学生運動は、全国的に報道する姿勢でしたから、4/20の日大・つくば支援の山手教会や、阪大寮決戦、同志社の田辺移転阻止、三里塚、泉佐野、もんじゅヒアリング、刑法改正、伊方などは報道の立場で皆勤状態。関西の大学ではいち早く、イタリアのアウトノミアを取り上げ、麻生玲彦や粉川哲夫、杉村昌昭らの対談、寄稿で埋めている。もちろん、バーダーマインホフGや、荒井まりこさん、ネグリの逮捕などについても報道していた。
まあ、日本読書新聞とインパクトと、人民新聞の大学新聞版かな。いまでも、月2回で1万部の発行部数を維持している。もちろんノンセクトです。
「20歳の原点」は僕も好きで、シアンクレールでは、JBLのスピーカーから流れるアルバート・アイラーにしびれていました。そして、僕の20歳の誕生日は、学生部長団交。前年の12月から、ふたたび運動に引きズリこまれ、都合、3ヶ月間、クラス入り情宣、オルグ、団交(学生部長団交3回、L団交、C団交、E団交、A団交、T追及)と、運動と報道の二束のわらじでした。しかたなく、入学以来つづけていた、山登りのクラブや、文化人類学の研究はこのときに中止し、二度と復活しなかった。20歳になったとき、それまで未成年だったのが、これからはつかまったらヤバイナと小心者の俺は思った。三里塚で、ユンボに火炎瓶投げていたくせに。
思想状況は、この時代は、豊潤でしたね。ドルーズ=ガタリがいよいよメジャーになり、網野史学や、アナール学派の史観がマルクス教条主義を打ち破り、女性学と男性学が登場。ネグリやブルデュー、テリーイーグルトン、サイード、プーランツァスがよく読まれていた。下地には確実に青年マルクス、グラムシとアルチュセールがいた。
83年からは、学内は中核派との対立状態で、直接にはいえないから、真継伸彦の「光る声」、村岡至の「スターリン主義批判の現段階」、エルサルバドルのFMLNの党内議論の紹介、片山さとし「日本共産党にあたえる書」、安藤仁兵衛「日本の社会主義政党」などの書評を毎回載せながら、路線問題の超克を啓発していったが、結局、相容れなかった。
85年の吉田寮の廃寮問題ではついに非和解になり、上記の教訓を入れて、熊野寮の路線批判を徹底した「吉田寮自治会方針」(のちに600頁の吉田寮在問題寮期限問題」の資料集に収録される)に至る。このときはすでに5年生で、お年寄りですね。いまでも熊野寮と寮問題では、共闘はしていないから、根っこは深い。
こういう経過から、全国の情報はたくさんあつまったが、目に触れたくないイヤな現場には、比較的立ち会わなかったので、気持ちよく充実した学生を堪能できた。
卒業時にレポートして書いた、吉田寮闘争史と大学学生運動史をいま、リライトしている最中です。前者は400枚、後者は500枚くらいになるか。と、いっても1988年までしか責任をもっては書けない。が、それでも、その流れから20年前よりもさらに少数派となった今のノンセクトの人たちが、考えるきっかけになれば幸いと思う程度に、趣味的にやっている。締め切りがない分、らくだ。