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ロンドン爆破テロで考えること

 ロンドンの同時爆破テロであります。実は今、私の娘がロンドンに長期滞在中であります。だから全然他人事ではありません。と申しますか、はっきり言っていてもたってもいられません。海外生活長くて、子供にこういうことをさせたいタイプの嫁さんは落ち着いていますが、私としては非常に歯がゆい。できることなら嫁さんと離婚してでも無理やりつれて帰ってしまいたい。何かあったら悔やんでも悔やみきれない。

 思うのは「これは戦争なんだ」ということです。イギリス軍がイラクで人を殺したように、今度はイギリスで人が殺されました。テロに対する非難はすでにいろいろな人が表明しており、私もそれに対して異議を唱えるつもりはありません。そしてそれと同時に、つまりイギリスで理由もなくテロリストによって人が無残に殺されていったように、イラクでも理由もなくブッシュやブレアによって大量の市民が殺されていったのだということです。そのことに何の違いもありません。死んだのが「イギリス人」ならそのことが理解できて、「イラク人」なら仕方がないとでも言うのでしょうか。まずこのことを忘れないで欲しい。

 私も少しは歳をとって、子供ができて人生いろいろあって、いろんな立場の方の心情とかにも想像力が働くようになってまいりますと、若い頃に直線的に理解したり主張していたことが、なかなか単純明快に割り切れなくなる。直線的な主張をしている人を見ると、思わず「若いなあ」などと思ってしまいますが、できればそれが「ずるくなった」んではなくて「幅ができた」と言えるように心がけたいものです。

 たとえば追い詰められたパレスチナ人の「自爆テロ」です。はじめての女性による「自爆テロ」実行者の職業は救急隊員でした。イスラエルはパレスチナの市民を「集団懲罰」的な発想から、無差別に攻撃・殺戮してまわるということをしているわけですが、その時に瀕死の市民を病院に運ぼうとする救急車を必ず攻撃しよるわけです。イスラエル軍兵士が現場に向かう救急車を止めて、救急隊員もろとも穴に生き埋めにしたという信じがたい事件まであります。こうして救急隊員の目の前で、何の罪もないパレスチナ市民がなすすべもなく次々と死んでいく。それでもイスラエル軍の攻撃現場に命がけで救急車を走らせているパレスチナの救急隊員は、一般のパレスチナ人と比較しても、はるかにイスラエルに対する怒りや憎しみは激しいものがあると思うし、またそれを非難することもできない。だからと言うて、やはり単純に「パレスチナ人の抵抗闘争支持!」で、「自爆テロ」を「殉教攻撃」と絶賛するのもなんだかなーと思うのです。

 もし私がイスラエルなんか観光してて、そこでパレスチナの「テロ」に巻き込まれたら、おそらく「仕方がない」くらいは思うでしょう。まあ「やっぱりテロはいかん!」とは考えるでしょうが、少なくとも「犯人」を憎むことはできんでしょう。イスラエル側にいたら「犯人」ですが、パレスチナ側からみたら「英雄」「戦士」「殉教者」です。そのことがわかってしまう。

 では巻き込まれたのが自分の娘だったらどうか?「仕方がない」と思えるでしょうか?おそらく無理でしょう。実際にはその場になってみないとわからないし、子供を軍の攻撃やテロで殺された人の気持ちなんて安易に「わかる」とは絶対に言えない。そんなの想像力の範囲を超えています。ただ、現時点で想像してみるならば、私は特定の「犯人」とか、その犯人が属する人種や国籍の○○人とかいうちっぽけなものではなく、まさしく戦争そのものをものすごく、悪鬼羅刹となっても憎みきるでしょう。軍の偉いさんとかが弔問にきて「必ず報復しますから」なんて言ったら、「もういい加減にしやがれ!」とその場で刺し殺すかもしれません。もしくはその上をいって人類そのものを憎んでしまう、地球なんてぶっ壊したいと思ってしまうかもしれません。

 繰り返しますがロンドンで起こったことは、現在イギリスが遂行中の戦争の一部として発生したものです。そして日本もイラク戦争を支持し、軍隊を送ってそこに参戦していると認識するべきです。この点、イラク戦争への軍隊派遣を支持する人々は、戦場は海の向こうの他国だけであり、死んだり家を破壊されて苦しむのはよその国の他人さんだけだと思っていたのではないでしょうか。自分たちが派遣した軍隊の中からでさえ、そうそう死者は出るまいと。それで「おいしいとこ」だけもって帰れると。たとえ「国際貢献」だのなんのといくら奇麗事を並べようとも、支持者のほとんどはこういう甘い見通しを前提にしていたからこそ、何の憂いもなく派兵を支持できたんではないでしょうか。軍隊を派兵することは「攻撃」と同義であり、こちらが攻撃した以上、向こうから攻撃されるかもしれないのは当然である。そこまで考えて派兵を支持した人がはたしてどれくらいいたでしょう。

 私は皆さんと同じく今回のテロを非難します。たまたまイギリスにいただけで死ななくてはならない理由などありません。それとまったく同じ理由で英米らのイラク人殺傷を非難します。これは戦争です。戦争をおこした人間の都合でいくらでも人は死んでいきます。「殺せ!」と命じる人間の並べ立てる高尚な美辞麗句とはうらはらに、兵士であれ市民であれ、その死に何の意味もありません。犬死です。「英霊」なんかではありません。

 その内容を吟味する必要もなく一般的・普遍的に存在する「祖国」などというものは、手でさわれる現実世界にはありません。それは空想上の概念としていわば哲学的・理論的に存在しているのであって、現実の政治過程では、一部の者の利害を「祖国」という概念にすり替えているだけです。実際に殺し殺される者同士は、戦う理由など何も存在しません。だからそこでの死は犬死なのです。犬死してから「わしらのためによう死んでくれた」と靖国に祀ってもらっても少しも嬉しくありません。もし「殺す」ことに何らかの意味があるとするならば、それは殺し合いをさせられている者同士が後ろを向き、安全な場所から自分に「殺せ」と命令している人間を撃ったときだけでしょう。暴力は、戦争を終わらせるための暴力、暴力と闘うための暴力にだけ道徳的な意味があるのです。「暴力を否定するための暴力」つまり「否定の否定の論理」です。それ以外の暴力はすべて退廃です。

 かつて私の現役活動家時代には、この「退廃たる暴力」を平気でふるっている警備-公安警察や日共-民青諸君から、常に「暴力集団」なるレッテルを頂戴しておりましたが、まさに「へそが茶をわかす」とはこのことでした。まあ一般市民から言われるのなら仕方ない。左翼運動にはそう言われても仕方のない否定的な事例が多く散見されたのですから、残念ながらそれは根拠のないことではありません。言い訳しても仕方がないので、それは職も生活も命さえかけて戦争や人権抑圧と闘ってみせる実践の中で挽回していくしかしようのないことです。しかしなあ・・・「おまいらが言うな!」でしたよ。

 私は社民主義者ではありませんから、非武装中立や護憲派の善意は高く評価しつつ、軽々な批判はできない(それは本来右派の立場でもそうあるべきだと思います)とは思いますが、共闘はしてもそこに与しているわけではありません。右翼や保守派の皆さんも、憲法9条の廃止や、軍隊の保持、その他国への派兵を支持しているのですから、それはとりもなおさず「行使しても許される暴力」「良い暴力」が存在していることを認めているに他なりません。たったその一点において、私と保守派の皆さんとは共通していることになります。そこで一つだけお願いです。「○○人」などという人種や国籍によるカテゴリーわけを使わないで、「誰が誰に対して何のためにどのような暴力を行使しようとしているか」を常に考えて続けていてほしい。そういう「○○人」という安易なゲーム的感覚で割り切らない保守派でいてほしい。それだけです。

参考・トラックバック先など

ロンドンの同時テロ(つぶやき手帳)
なにとの闘いだって? (despera)
ロンドンのニュースを聞いて(壊れる前に…)
七夕の夜に——-あなたと私のリアル(BigBang)
一転(ぽんつく堂)
もう暴力はいらない(Passing Strangers)
お前が言うな!(非国民のチャンネル)
テロも侵略戦争も許さないために知恵を出すべきではないか(読売新聞の社説はどうなの)

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  • >死んだのが「イギリス人」ならそのことが理解できて、
    >「イラク人」なら仕方がないとでも言うのでしょうか。まずこのことを忘れないで欲しい。

    こういうごくごく当たり前のことが通じ難い世の中になっている気がします。
    イラク戦争が始まった時の私の連れ合いの職場の人の発言
    「イラク人なんて皆殺しにしちゃえばいいじゃん?そう思わない?」

    断っておきますがこの人は「普通」の30代中盤のサラリーマン。
    かなり優秀な営業マンでもあり、小学生の娘さん二人を溺愛している家庭人でもあります。
    日常的に「極端な意見ばかり言う電波な人」とか「ものすごい冷淡で優しさのカケラも感じない」とか「2ちゃんねらー」とかそういうネガなレッテルなどは全く貼られる余地の無い人なのです。
    そうして上記の発言は全く悪気も無いし偽悪的に自分を見せたいとかそういう意図は全くないものなのです。
    まあそこが問題なわけですが。

    「宇宙戦争」とか「ID4」とかのアメリカ映画なんか観ますと宇宙人ってもう存在からして「悪」に描かれるわけじゃないですか。
    地球人から見れば「グロ」な外観も、その異星人にしてみれば、その星の環境に適応した合理的結果に過ぎない「普通」のものなのに
    地球人はグロい外観=殺しても構わない対象みたいな刷り込みを観客に意図的にすることによって
    理不尽な虐殺行為を「正義のための崇高な闘い」みたいなカタルシスにすりかえるわけですが、そういうハリウッド的善悪二元論と言いますか、底の浅い勧善懲悪ジャイアニズムになーんか人々は無自覚になっているように思えてならないんですよね。

    前出の営業マンの発言もイラク人のことを「何考えてるか分らないテロリスト」ぐらいにしか思ってないからそういうことが言えるわけですよ。
    ハリウッド映画に出てくる宇宙人程度の認識なわけです。

    つまりが他人に対する想像力とか思いやりとかの決定的な欠如ですね。
    「アメリカ的価値観」以外の価値観を拠り所にする理解不能な人間はもう殺しちゃってもかまわないでしょう、みたいな。

    本人に問いただすと否定するかもしれませんけど、多分彼は欧米人一人の命とイラク人一人の命を天秤にかけたら、絶対イコールとは思ってないんでしょう。
    もしくはのび太ですね。
    ジャイアンがのび太を殴っても「まあのび太だからしょうがない」逆にのび太がジャイアンを殴れば「のび太のくせにジャイアン様を殴るなんて」とさらなる反撃を加えると。
    ブッシュの認識もこの程度なら、この程度の認識に疑問を持つ人も驚くほど少ない。

    イラク戦争が始まった時の日本での街頭インタビューでOLさんが「テロに屈してはなりませぬ」というようなことを得意満面で語ってるのを見ましたけど、
    「『テロ』に屈しない」という理屈でアメリカの武力行使や日本のそれへの協力、自衛隊の派遣を肯定するならば、そういうアメリカの武力攻撃に屈ぜずに戦うイラク人民の武力による反撃も認めなければおかしいし、そうであるならばすなわち自分自身がその攻撃対象になることをも許容しなければならないわけですが、どうもそういう想像力が人々から奪われてしまっておりますね。
    こんな愚鈍な私の脳みそでもなんとなく胡散臭さを感じるのになあ。

    草加さんのおっしゃる通り、テロの是非というものを抜きにして「日本にだって弾は飛んでくるんだぜ」という認識をもって我々はイラク戦争のことを考えなければなりませんし、戦争で死ぬのはどう考えたってバカバカしいですよ。
    死んだ後に弾の飛んでこないところでブランデーグラスなんかを揺らしているジジイ(このイメージもステレオタイプですけど)に誉められたって嬉しかありません。

    「国際貢献」などという言葉に騙されないようにしなくては。

  • 暴力の応酬とは悲しいものですな。私は自衛隊派遣の支持派なので今ここでどうこうは言いませんが、賛成派も否定派もその多くが「戦闘地域」の定義を間違っているんではなかろうか、もしくはちゃんと定義できていないんではなかろうか、そう思うわけですよね。否定派は迫撃砲一発飛んでくれば「それみろ戦闘地域だ自衛隊は撤退すべきだ」と喚くし、推進派もどこからが戦闘地域なのかちゃんと定義できているのか怪しいなあと。・・・て、なんか記事と直接関係ない方向に行きかけているんでここまでにw 兵士であれ民間人であれ、人死にが出るのはいやだなあ、という点においては同感ですね。早く収まらないかなあ・・・。

  •  9・11の事を中核派は反米ゲリラと言うんですよね。今回の爆弾事件についてはやはり反英ゲリラ戦闘と言うのでしょうか。僕は、三里塚や国鉄、天皇儀式へのゲリラ戦は今でも正しいと思っていますが、それは対象を限定していたからであって、無差別の戦闘には同意できないのです。
     イギリスの政府機関や軍事施設への攻撃であったなら、政府関係者や軍人が何人死んでも無条件で支持できるのですが。

  • 娘さんのことは心配でしょうね。でも、テロの準備行動には周到な手間がかかるでしょうし、恐怖をまき散らすという目的は達成したし、厳戒態勢下のことですから、続けては発生しないでしょう。嫌な例えですが、一度落ちた砲弾の穴には続けて落ちてきはしません。
    女性救急隊員の自爆テロのことを言われてましたが、まさに私たちは「自爆」という行為に込められた絶望の重さに想像をめぐらすべきだと思います。くりかえし報ぜられる「自爆」の言葉に、私たちはどんどん不感症になってしまっているのではないでしょうか。
    >アッテンボローさん
    「政府関係者や軍人が何人死んでも無条件で支持できる」という言葉には、「戦争」というものに対するためらいが感じられなくて私には抵抗を覚えます。私は「武力」を全否定するものではありませんが、その線引きには迷う部分があります。暴力をめぐる議論には古くて新しいものがありますが、こういうときだからこそ詰めて考えてみるべきだと思います。

  •  主義者Yさんへ少し不謹慎な事を書いてしまったかもしれません。僕自身は中核派が9・11を支持している事に現在では疑問を持っています。誰であったか、ビルの清掃労働者や救急隊員の様な多くの労働者が死んでいるのにそれを支持するのはおかしいとの批判が有ったからです。無差別攻撃は良くない。
     80年代から90年の中核派革命軍の様に権力機構に限定したゲリラ・パルチザン戦闘なら支持出来ます。無関係の犠牲者を出さない様に最大限の配慮が必要だと言うのが今の僕の考えです。

  • ご家族のご無事を心から祈ります。

    国家、戦争というのは、要するに牛も角を外に向け、円陣を組んで自分たちを守るのと、一つの船を皆で動かすのと同じだと僕は理解しています。
    それがどこで、「死なせる命令者」と「殺し殺される兵」「一方的に殺される一般市民」に分かれてしまったのかはわかりません。
    そこでどうするか、円陣を組んで角を外に出すこと自体をやめるか…ただし非武装を選ぶ場合、ナチ級の悪に侵略されてホロコーストや次の侵略を手伝わされるのを防ぐため、全員に遠隔操作爆薬首輪をつけていざとなったらみんなで死ぬか、どんな拷問にも耐えて非暴力不服従を貫く訓練を義務付けるべきだと思っています…それとも国家、軍事という枠組みを保ちつつ、それを民主主義と文民統制で無駄な死者を敵味方とも出さないよう最善を尽くすか…それは個々が判断すべきことです。

    僕がまず考えたいのは、もちろん誰の命の価値も同じだという前提で、どうすれば一番犠牲が少ないか、です。
    アメリカやイギリスがイラク、アフガンから撤退したらもう一人の死人も出ない、とは限らないと思っているので。満足できる解はない、でも最善はあるはず、そう信じています。
    そのための第一歩として、僕は日本を民主化したいと思っています。

  • ロンドン爆破テロに関連して再びイラク戦争などがクローズアップされていますね。そんな中、私は「劣化ウラン弾により奇形児が生まれている」という、医学的・科学的根拠に乏しい風聞を垂れ流している反戦・反政府系思想のblogの存在に心を痛めています。私は広島市民で被爆三世です。反核の立場から劣化ウラン弾には元々反対ですし、もしそのような事実(
    奇形児云々)があるとすれば由々しき事態であり、さらに強く劣化ウラン弾の使用を禁止するよう求めていきたいと思います。しかし、奇形児云々を語っているその左派系blogではその根拠として「都合により匿名のメール」などという極めて曖昧なものを提示しているのみ。広島・長崎の被爆者調査では放射能による遺伝子の異常、それによって生まれる奇形児、どちらも「ない」という結論が出ているのです。ここで安易に劣化ウラン弾=被爆=奇形児と結論付けて政府批判などのネタとして利用するのは、広島と長崎の被爆者、そして二世・三世と続く家族の人たち(私も含め)に対して「被爆者は奇形児を産みやすい」「あの人が奇形なのは親が被爆しているからだ」などという間違った認識のもと、偏見と差別を助長する危険性があると思うのです。劣化ウラン弾とその使用による被爆からくる健康被害などに対しては毅然と非難の声を上げるべきだと思いますが、そのせいで奇形児が生まれたなどという、誤った認識を広めてはいけないと思う次第です。
    ここに来られている筋金入り(いろんな意味でw)の方々であればご理解いただけるのではないかと思いお話してみました。

  • チョシさん、Chic Stoneさん、RRさん、いつも問題提起ありがとうございます。
    主義者Y様とアッテンボローさんの論争(?)については、また別エントリーとしたいと思います。

    RRさん>
    劣化ウラン弾については白血病発生などの確立が高くなる「可能性」があるだけでも断固使用を中止するべきだと思います。ことは人間相手なのですから、疫学的な可能性が示されるだけで充分です。医学的に証明された時にはもう遅いと考えます。確か水俣病でさえ、患者側勝訴の民事判決が出た時点ではまだ疫学的な可能性だけで、工場廃水と発病の関係は医学的に完全に証明しきれていなかったはずです。しかしそれが証明されるまで排水を流し続けていたら、さらに悲惨な結果が続いていたはずです。

    しかし「遺伝」や「伝染」については被害者をさらに周囲からの差別の苦しみへと追いやるもので、軽々に結論を出すべきでないのはもちろんです。それはハンセン病差別の例をあげるまでもないでしょう。私が小学校低学年くらいまで「原爆の被害は遺伝する」みたいな誤解がけっこう実際にあったのです。私もそれくらいの小さい頃には漠然とそんなもんかと思っていました。そのことで被爆者とその子孫が縁談を断られたりという差別もあったようです。

    私が「そうでもないんだ」と知ったのは、その頃少年マガジンで連載していた「超人ハルク」の日本版を通してです。主人公の若き科学者(日本版だからもちろん日本人という設定)は、赤ん坊のころに被爆した被爆者という設定だったんです。彼はアメリカの核実験にまきこまれて放射能をあび、ハルクに変身する体になってしまうのですが、その時の彼のセリフが「僕は幼少時に広島の原爆の放射能を浴び、今また核実験にまきこまれてハルクになってしまったんだ」というものでした。

    それから一月くらい後でしたか、少年マガジンに「謝罪広告」が載りました。上記のセリフを引用した上で、「広島・長崎の原爆と、ハルクが関係あるかのような表現をしてしまいました」というのが謝罪の理由でした。今から思えば被爆団体などの必死の抗議があったのだろうと思います。なにぶん子供の頃のことですので、内容はさっぱり覚えていないのですが、私はこの謝罪広告で「ふーん、放射能って『奇形』とは関係ないんだ」と知ったことだけは記憶しています(こういうことがあるから、私はやはり「差別糾弾闘争」は基本的に必要派なのです)。

    ただ、これ(遺伝や「奇形」と関係ない」)を強調しすぎると、今度は本当の「遺伝病」の患者や先天的な「障害者」を差別することにもなりかねませんので注意が必要です。「障害者」差別や優性保護法改悪と闘う人々を踏みにじることになります。

    Chic Stoneさん>
    >全員に遠隔操作爆薬首輪をつけていざとなったらみんなで死ぬか、どんな拷問にも耐えて非暴力不服従を貫く訓練を義務付けるべきだと思っています

    あいかわらずたとえや選択肢が激しいですねー。
    左翼は社民と違って「非武装中立」でも「護憲」でもありませんよ。「侵略阻止」「改憲阻止」「帝軍解体」です。つまり今の国家は一部の支配者のためにあり、軍隊や警察はその暴力装置だというのが、教科書的な答えです。それで第一段階として、まず各個別国家ごとに「向こう側」にある「国家」や「軍隊」を解体して、民衆の利害だけを代表するそれと置き換える。次にその力で全世界的に「向こう側」も「こっち側」もなくして搾取や差別のない世界を作る(これは全世界的でないと実現不可能)。最後に国家や武器や軍隊も必要なくなって徐々に死滅していくというのが共産主義系左翼の考え方です(国家ではないけど行政機関は残ります)。無政府主義系左翼はいきなり国家や軍隊の自然な「死滅」ではなく破壊による「廃絶」を目指します。

    思うのは、現在の国家制度を守り抜くことを前提に、演繹的に理屈の整合性を追い求めていくと、わけわかんない泥沼に入っていくいということではないでしょうか。絶対に「戦争やむなし!」とか「愛国心の涵養!」ってことになると思う。「真の愛国者の党」日本共産党がその例でしょうね。
    別にいいんじゃないですか、ポーンとまず自分の良心にしたがった結論から帰納的に理屈を組み立てても。現状を前提にして組み立てきれなかったら、その現状を否定するところからはじめてしてしまえばいいんです。

    「殺すな!」と思うならそう叫べばいい。「殺さねば国家がもたない」なら、「じゃあ国家なんぞいらない」でいいではありませんか。私はいつもそのようにして考えを進めています。いつもどんどん話が大きくなっていくんが欠点(?)ですけど。

  • 誤解失礼しました。
    いろいろありますね…考え方の違いが面白いです。
    僕は、まず「本当にそうしたらどうなるかな」を想像してみるようにしています。
    たとえば、別に現行の国家制度を守り抜くことを前提にしているのではなく、国家制度を廃止したらどうなるか最悪も含めて想像して、メリットとデメリットを計算する、というような考え方です。

    >現状を前提にして組み立てきれなかったら、その現状を否定するところからはじめてしてしまえばいいんです。

    という考え方は僕もよくやりますが、人間は歪んだレンガであり、それをきれいなレンガとみなして建物を設計したらえらいことになる…というのが二十世紀の壮大な教訓では?

  • >草加さん

     ありがとうございました。思い切ってお話してみてよかったです。ネットにおける左派活動の重鎮の方からそういうお言葉を頂き心強く感じました。それにしても、タングステン鋼弾など代用品があるのにアメリカが劣化ウラン弾にこだわってばらまくのはなぜなんでしょうかね。安いのかなあ。たしかにタングステン鋼の弾頭は高価なのがたまにきずだと、軍事関係の書物か何かで読んだ記憶はありますが。