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三里塚空港反対同盟 石井武さんを悼む

Bund Web Site(現在は消滅)2003-7-25付記事より転載

 7月8日、三里塚芝山連合空港反対同盟旧熱田派世話人の石井武さんが、耳下腺ガンのため亡くなった。享年79歳。13日成田市の八富成田斎場で行われた告別式には、親族・地元住民・ゆかりの人々300名が集り、石井武さんとの別れを惜しんだ。
 東峰部落に戦後入植した石井武さんは、反対同盟結成時からの中心メンバーとして、政府・公団の強権的な空港建設・農地強奪と闘い続けた。空港予定地内に0・2ヘクタールの土地を持っていた。71年の強制収用では地下壕に潜って抵抗し、78年の開港阻止決戦では横堀要塞に立てこもった。3度の逮捕歴をもつ歴戦の勇士であった。35年以上の長きにわたる闘いを貫いた石井武さんのご冥福を心から祈ります。

武さんとの出会いから闘いに生きることの価値を知った

元現闘・東峰部落担当 A.H

 「源さんをたのむぞ。熱田さんをたのむぞ」。木の根や横堀のことが話題になると、石井武さんは最後に必ずこういって話を終えた。私を木の根の小川源さん宅へ入れ、私たちに横堀の団結小屋を持たせたのも、自分と一緒に源さん、熱田さんを支えてほしいという武さんの願いからだった。

 しかし、政府との話し合いが模索されてからは武さんと私たちの間に距離が生まれ始めた。武さんは、源さんたちが安心して用地内で暮らせるよう、強制収用の不安を取り除きたいと考えていた。そのためには対話にも応じようとしたのだ。私たちは、対話路線の中心にいる人たちが闘争幕引きをしようとしていることから、対話拒否、徹底抗戦で闘うことを訴えた。

 反対同盟の討論の場では、私に農民たちの追及の矛先がむけられることが多かった。現闘なのだから、自分たちの気持ちはわかるだろうという。私は頑なに自分たちの考えを述べるだけだった。親しかった農民からは、業を煮やして罵声が浴びせられることもあった。武さんにも「こんなやつらもう話しても無駄だ、出て行ってもらえ」と怒鳴られた。7・20決定(草加注:熱田派反対同盟による戦旗派との絶縁宣言)によって、武さんとの直接の交流は途絶えた。

 昨年4月、私は病気見舞いに久しぶりに石井さん宅を訪れた。そのとき武さんは予想に反して一生懸命闘い続ける決意を語った。
 幾度となく武さんと私たちは対立をした。しかし、武さんの「源さんをたのむぞ、熱田さんをたのむぞ」という想いには、私たちは不器用だったが愚直に応え続けられたと思う。武さんもそれはわかっていた。そして武さん自身人生の最後まで空港に反対し続けた。

 私の住んでいる地方の新聞でも武さんの死は報じられた。最後まで土地を売らずに空港反対の人生を貫いた人として。三里塚闘争にほとんど関心を寄せる人のいないようなこの地でも、武さんの人生は報道する意味と価値があることだったのだ。

 三里塚で闘えたことは自分にとって本当にかけがえのない財産だ。学生あがりの自分に闘いに生きる意味と価値を与えてくれた。武さんとの出会いがその始まりだった。武さん、私も初めて会ったときのおやじさんの歳になりました。おやじさんのように、理不尽なものには人生をかけて抗い続けていきます。

ブントと武さんの間には深い物語がある

三里塚二期阻止・土地収用を許さない 全国運動 T.I

 長い闘いの人生を生きた石井武さんのご冥福を祈ります。
 思い返せば、われわれブントと石井武さんの間には、極めて深い物語がある。ブントは反対同盟が三派全学連との共闘を開始した当初より空港反対闘争に参加していたが、73年には、一時現地活動から召還した。そうした負の経歴をもつわれわれを、76年に再び受け入れ、自宅や島村昭治さん・小川源さん宅に民泊させてくれたのが石井武さんだ。石井さんは現地活動や全国での集会参加などでもなにかにつけて面倒を見てくれ、ブントにとってまさに「親父」であり「後見人」ともいえる存在だった。

 しかし一方で、83年の北原派との分裂以降徹底抗戦派農民と、政府との話し合いに展望を託そうとする部分との玉石混淆状態にあった熱田派のなかで、石井武さんとわれわれは三里塚闘争の方向をめぐって幾度となく対立することになった。
 二期工事が切迫する89年、青年行動隊が政府・公団との話し合い路線に全面的に踏み切ったことで、その対立は決定的となった。石井さんは「政府との話し合いで二期工事をやらせないようにする」という路線を支持した。用地を持つ農民が、政府・公団との話し合いのテーブルにつくことは決して闘争勝利の道にはつながらないと主張するブントを、「今はいないほうがいい」と断絶したのである(7・20決定)。ブントはそれに抗し、熱田一さん、小川源さんら用地内に土地を持つ農民を支えようと90年11月、横堀砦戦を闘う。

 90年代前半に行われた公開シンポジウム・円卓会議では、政府・公団は「C滑走路は凍結、Bはあくまでも話し合いにより」という社会的確約を発表した。ところが96年には、地元地権者・関係者には何の相談もないまま、B滑走路2000年完成という方針を突然発表する。
 その時石井武さんは「何のためのシンポ・円卓だったのか」と激しく反発した。政府・公団は反対派の土地を除外し、滑走路を短縮して北側にずらして建設するという今日の暫定滑走路、2002年供用開始にむけ工事を強行する。
 「裏切られた!」それが石井さんの率直な思いだったのだろう。暫定滑走路開港を前にした2001年9月、東峰出荷場前で開かれた集会で石井さんは「シンポジウムなど話し合いをやってきたことで、あれは相手のペースでやられている、だまされているなどと批判されてきたが、ほんとうにそのとおりになってしまっている。残念ながら今はその批判を認めざるをえない」と発言する。その頃からわれわれは再び石井さんと交流するようになった。

 「逮捕するならしてみろ!」武さんは2001年6月に行われた東峰神社立木伐採に体をはって抗議した。ガンを発病しながらも闘いの前面にたった最晩年の石井さんの姿は、鬼気迫るものがあった。
 地元住民を無視し頭上に航空機の大騒音をまき散らす政府・公団を告発し続け、生涯農地を手放さなかった石井武さん。極めて近しい存在であったがゆえに反撥もしたが、今となってわれわれは石井さんの苦悩がよく分かる。

 空港閣議決定以来7月4日で37年目を迎えた成田国際空港は、羽田国際化や来年度からの民営化移行を契機として存続の危機に立たされている。武さん、われわれは熱田一さんらとともに横堀で闘いの道を歩み続けます。長い間本当にご苦労さまでした。

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※草加注)元記事には戸籍名での署名がありますが、転載にあたってイニシャルにさせていただきました。
石井武さんを支持して行動を共にされた方々には、納得できない内容もあろうかと思いますが、石井さんの訃報に接し、基本的には最後まで対立し続けた者からする追悼文としてご理解ください。その意味ではわりと好きな文章なんですよ。