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管制塔闘争40周年集会での石井紀子さん(三里塚農民)からのアピール

3・25管制塔占拠闘争40周年集会に「思うところあって」文書での参加とされた三里塚農民、石井紀子さんのアピールです。問題提起であり、呼びかけであり、決意表明でもあり、そして人としての暖かい励ましでもあります。会場からは特に女性と若い層の方から「感動した」という声がたくさんあがっていました。ぜひ多くの方に読んでいただきたくて掲載しました。
 皆さん、こんにちは。本日私は出席できませんが、四十年前のことで思い出したこともあり、今現在の思うところもあって、文書で参加させてもらうことにしました。

 管制塔占拠のあった1978年というのは、私は結婚して三年目、幼い子を二人かかえ、なれない農作業や育児や、農家の嫁としての暮らしについていくのが精一杯で苦闘していた時期でした。闘争も、支援だった頃のようにはいかず、じいちゃん(石井武さん)や父ちゃん(石井恒司さん)たちは反対同盟の動きをわかっていても、私まで伝わってこないことも多かったです。
 管制塔に赤旗がひるがえり、書類が紙吹雪のように空を舞うのをTVで見た時、これは現実なのかと目を疑いました。よくこんなことができたものだ、すごいことだと心から感心しました。これで開港できない、よくぞやってくれたと嬉しかったのを覚えています。

 今考えるとその日の夜なのではないかと思いますが、晩ごはんがすんで後片づけをしていると、いつものジャンパーを着て出かける支たくをしたじいちゃんが、奥から出てきました。そのまま釜屋(台所)を通って外に出て行こうとした時、流しにいる私を見て「紀子、おらぁしばらくけぇんねぇからよ、後を頼むぞ」と言ったのです。
 私は一瞬何のことかわからず、えっどこへ行くの? 何で帰らないの? と思う内にじいちゃんはブーッと車で行ってしまいました。
 私はひどく不安な気持ちで、じいちゃんは何か大きな闘いをしようとしているんだ、まさか死ぬ気じゃないだろうな、帰ってきて~と、釜屋をうろうろしながらいろんなことを思いました。
 横堀の要塞戦で多くの逮捕者が出て、じいちゃんもその一人となったことを後で知り、あの時逮捕覚悟で出ていったんだ、だから後はしっかりやれと言ったんだとわかり、私は私の仕事をきっちりやってこの家を守ることがじいちゃんの闘いを支えることで、反対闘争を支えることにもなるんだと奮い立つような気持ちで毎日がんばっていました。

 管制塔占拠も、あれは極秘に進められた作戦だったろうし、同じ闘う仲間であっても知らされていない人も多くいたと思います。それでも、まぎれもなく、その人たちの戦いもあってこそ、あの作戦は成功したのでしょう。その底辺を支えた闘争の中には、女性達も何人もいたことと思います。
 今回私は、この集会への参加を求められた際「女性が発言者の中に一人もいないんです」と言われました。発言者の顔ぶれを見ると、柳川さんはじめ、中川さんや平田さんなどいわば「有名人」ばかりで、確かに男性ばかりでした。反対同盟の旗開きもそうですが、ズラリと男の人、それもほとんどおじいさん達(失礼)、これが三里塚の集まりの傾向でしょうか。

 71年に初めて三里塚に来た時、そこは確かに男ばかりの戦場でした。一緒にいったウーマンリブの人達は、こんなとこ女のいるところじゃないわ、とさっさと帰ってしまったけれど、私は一人、だったらなおさら、誰か留まらなきゃ、女達を増やしていかなきゃと思い、残ったのです。いわば、リブの出先機関のようなつもりでした。
 86年に東峰裁判の判決をめぐって、被告の妻たちを中心とする女達の運動が盛り上がり、100人近い女達が集まったこともあったし、現地のかあちゃんたちも各地の集会にでかけて行ったり、現地集会で始めて壇上に登って発言したりしたこともありました。

 けれども今はほとんどが出て行ってしまい、現地に残った女の人の中では集会に出て行こうとするのは私一人かもしれません。それを考えると、結局私は何をしてきたのだろうと無力感におそわれる時もあります。農業を夢中でやってきて、農民として一人立ちしていくことに必死で、女の運動もろくにやってこなかった、リブの出先機関の役割を果たしたのはあの二年間だけだったんじゃないかと自分をどつきたい思いもあります。

 反対同盟の現状はそうでも、支援の側はそんなことはない筈ではないですか。
「女性が一人もいない」と言われて驚きました。あの時いた女の人達はどこへ行ったの。今は連絡がつかないの。今どうしているか、何考えているかのか、何よりあの闘いは自分にとって何だったのか、そういうこと聞いてみたいと思わないの。私は不思議です。一人予定していた人がダメになったことは聞きました。一人探せたのならもっと探せる筈ではないですか? もっと身近には?

 この会場に来ている女性の方の中にも、当時三里塚の闘いに加わっていた、或いは現地に来ていなくても自分の場で三里塚に連帯していたという方はいらっしゃるのではないでしょうか。女性の発言者がいなくて困るなら、そういう方に発言を求めればいいのです。
 管制塔占拠の闘いは、決して中川さんや平田さん達だけで成しえたものではないでしょう。それを支えた闘いを黙々とがんばってきた人の中に、名前も知らない女性達もきっといたでしょう。(全然いなかったというならそれも又問題ですが)
 私の知る限り、プロ青もインターも、その後女性現闘も出していますし、支援党派の中でも女性がけっこういるという印象でした。その正しく(まさしく)「同志」であり「クルー」であった人達と、この40周年という記念すべき日に一堂に会して、それぞれの持ち場の話をし、当時の闘いを検証しようとどうして思わないのでしょうか。

 私は「女性の発言者がいないから」なんて理由でよばれたくはありません。いない筈ないんです。もっとちゃんと探してください。当時の私のように、闘争の大きな流れはわからなくても自分の持ち場を精一杯がんばることで闘争を担っているんだと、そういう気概をもって黙々と下働きのような作業をこなしてきた女性たちがいるんだということを忘れないで下さい。女性の同志の存在は昔も今も大きな力である筈です。まず一番身近な女性の話を聞く。それが大事なことです。
 会場にいる女性の方々、どうぞ発言して下さい。自分の今の立場、今の社会の中で生きていくことへの思いを語ってください。お願いします。

 私達は、前進していかねばなりません。止まっているように見えても、たとえ負け続けているように見えたとしても、精神は常に、前進していかねばなりません。それはどういうことかと言えば、昨日知らなかったことを今日は知っている、昨日思いもかけなかったことが今日はあたり前になっている。そうやって自分を打ちこわし、打ち破り、常に新しく建て直していくことです。その為にこそ、男の人達は、女の話を聞かねばなりません。自分の見えない地平から世界がどんな風に見えるのか、知らなければなりません。他のマイノリティの話はわかっても、パートナーであるべき女性の話は素通りしてしまうような「オレがこの社会を作っている」というつもりの男に成り下がってはいけません。どうか、そうならないで下さい。

 私ももう一度初心にたち返って「リブの現闘」としての役割を果たしていかねばと思います。立ち止まってる暇はありません。
 そうして、皆さんと又、いい出会いができるように、いつでも新鮮な出会いであるように願っています。
 皆さん、それぞれの立場で、がんばっていきましょうね!

 2018年3月25日      石井紀子