kamakazuさんのおられた東北は、もともとインターの拠点だった地域です。それだけに、kamakazuさんは「元戦旗」ということだけで、未だに色眼鏡で見られることも多いそうです。一読して、同じような経験のある私としては(相手はインターではないが)、さぞかし悔しかったろうし、腹が立ったであろう、よく今まで我慢して自分の胸のうちに納めて黙ってこられたなと思います。
これを読んで、私なりに思ったことを書きます。
●「悪者を排除」すればそれで解決するのか?
自分達が主流である地域で、それを守るために、少数の反対派に暴力や恫喝を加えるというのが、三里塚分裂前の内ゲバの定型的なパターンでした。分裂後は相手の拠点に乗り込んでまでぶっ潰すみたいな動きもあった。関東では中核・解放・カクマルといった、いわゆる「内ゲバ党派」のお家芸でしたし、関西では自治会を掌握する巨大ノンセクト集団が(さすがに暴力はふるわなかったが)私らのような中小党派への妨害や排除や恫喝を日常的に行っていました。そして全国的には、共産党-民青が、新左翼党派や非共産党系のノンセクトや市民運動への暴力的な破壊活動を警察と一体となって行っていました。そして東北ではインターにも、こういう輩がいたということですね。
こんな惨状であるにもかかわらず、内ゲバ問題を左翼全体の問題としてとらえる危機感は薄くて、カクマル派はもう問題外としても、中核と戦旗ばかりが悪く言われ、「内ゲバ主義者を排除すればそれで問題は解決」といった風潮には最近特に疑問を感じます。確かに中核の内ゲバは日常的に当然のように行われ、被害者もケタはずれに多いし、暴力の程度も片足切断など陰惨なものでした。現在の路線転換も、いくら好意的に見ても「戦略・戦術」レベルの転換であり、暴力論的なイデオロギーのレベルでこれを総括するという視点がそもそも感じられません。そうである以上、今後の共闘の枠組みの構築を考えていく中でも、とうていこの問題を看過しえないというのはその通りでしょう。
しかし、では、こういう「内ゲバ党派」(中核・カクマル・解放・旧戦旗)を排除すれば、それで「内ゲバ問題」は解決に向かうのか。90年代に旧戦旗がやったことなんて、kamakazuさんの例にあるインターの担当者や、現在でも行われている共産党-民青の所業とたいして変わんないではないか。ノンセクトだって大きくなると同じような傾向を示しているのだから、これを「党派のセクト主義」の問題に切り縮めようとする「市民のみなさん」の言いようにも疑問を持つ(はっきり書くと腹が立つ!)。
●左翼として内ゲバ問題と向き合え
それまでもじわじわと広まっていた内ゲバ主義の毒は、70年安保敗北の後、それまでの共産党のみならず、新左翼にも急速に拡大し、それを内部から蝕んでいきました。こんなふうに書くと、「左翼の悪口ばかり言って、公安警察-機動隊の法を無視した国家暴力や、右翼のテロや暴力はどうなんだ!」と思う真面目な方もおられると思います。しかしそれでは、私達がブッシュの非道な殺人政権ぶりや、人権侵害を告発すると、「北朝鮮や中国では云々」と、全然関係ない書き込みで「そんなのたいした問題ではない」かのように見せかけようとするネットウヨの、幼稚で見え透いた印象操作を笑えないではありませんか。自分達の所属していた組織の所業が「中核らと比べたらたいしたことでない」というのも同じです。それは問題の本質を無視して、単なる程度問題に切り縮める暴挙です。
私もネットウヨらが2ちゃんねる掲示板などで、自分よりも弱い者を笑いながら差別するような書き込みを見るにつけ、ああもう、人間ってこんなもんなのか、差別や抑圧や暴力や権力を廃絶しようとする運動の中にすら内ゲバ問題がある。もう人類は救いようがない、滅びていくのを待つだけか、なんて思いにとらわれることもあります。そういうときには内ゲバ問題も、機動隊や右翼の暴力と並列に見えてしまい、「人間の業」みたいな観点から考えてしまうこともあります。
でも、やはり「決して諦めない!」と思いなおしてみると、左翼は左翼の観点から内ゲバ問題を、人間解放を求める左翼イデオロギーの力で克服していく(=自浄能力)必要があると思います。つまり、「外なる内ゲバ主義」を排除もしくは打倒していく「内ゲバ主義者と私たち善人」という「二元論」ではなく、「自分の内なる内ゲバ主義」を克服していく「私達が抱えている内ゲバ問題を克服する」という「一元論」の立場に立ち切ることなくして、内ゲバ問題は永遠に解決しないだろうということです。
●「二元論」について
まっぺんさんらの(←あ、書いちゃった∑(゚∀゚ ))「二元論」では、その言っていることをどんどん単純化して突き詰めれば、結局は「いい奴と悪い奴」がいて、自分は「いい奴」の一員であり、「悪い奴」を排除すればうまくいくという考えになっちまうと思います。
でもこれは「犯罪の厳罰化」や「死刑制度の強化」を求めて、そうすれば「犯罪が減る」という新自由主義派に見られがちな、根拠のないタカ派思想と同じです。人間は全員が「悪」であり、同時に全員が「善」なのですから、「自分は善であり、悪い奴をやっつけるんだ」というのはおごり高ぶったご都合主義であり、「ブッシュのアメリカ」の精神そのものです。
もし、理想的に「内ゲバ主義党派」をあらゆる大衆戦線への参加を許さずに放逐したとしても、その内部が「反セクト主義という名のセクト主義」「市民運動原理主義」に支配された窮屈なものでは、その大衆戦線は延びないと思います。ただそういう原理的な主義主張に賛同する人が集まる集団に純化するだけです。外から見れば、彼らの主観とは裏腹に「活動家が必死に市民ぶりっこしている」ようにしか見えません。そこで非常に活動家チックなアピアランスの集団に「主催者からの要請」という圧力が加えられるなら、それは内ゲバ主義とイデオロギー的に同根であるとしか言えないでしょう。
●イデオロギーレベルで否定できないと意味がない
つまり犯罪論についても、内ゲバ論についても、「二元論」は非左翼的なブルジョアイデオロギー的な発想の延長にあると思います。もちろん殺人、窃盗などの犯罪行為や、内ゲバ主義そのものもブルジョアイデオロギーです。それは賃労働制による資本主義の搾取構造を物質的基盤として派生する「他人を自分の道具に使う(=自分の利益のために思い通りにする)」思想です。左翼運動全体が、このブルジョアイデオロギーを克服できていないという現状の、現象形態として内ゲバがあるわけです。そんなイデオロギー状態の中で、ご都合主義的に暴力だけが「解禁」されたらどういうことになるか、言うまでもありません。
中核派が「現実の」戦術レベル(=方便)で内ゲバを停止しても、なんらこのようなブルジョアイデオロギーを克服したことにならないのはもちろんです。それはいつでも先祖返りする危険と背中合わせです。人民内部の意見対立(党派闘争)の決着は、大衆的実践を通じた、対権力闘争の競い合いによってのみ決着がつくということを、イデオロギー的に認識・表明するまで、誰も信用しないでしょう。
インターもまた、かかるイデオロギー的な観点がない「現実の」運動論で内ゲバ党派排除を論じるだけなら、いつでもkamakazuさんのエントリーのような例が発生するのだと思い知るべきです。インターだけでなく、市民運動やノンセクトも同様です。ここが一番重要です。かかる観点がなければ、いつの日にか巨大化した反権力市民運動が登場した時、その内部でさえ、内ゲバ的事態が発生することになると思います。
これは決して「中核派にくらべれば」という「程度の問題」ではありません。「二元論者」が中核の路線転換を信用できないのは、戦術が変わっただけで、イデオロギー的には同じだからでしょう。そこが同じなら、明日にもまた「戦術が変わる」かもしれない。だとすれば、私達の中に彼らと同じイデオロギーがあれば、私達もまた明日には「内ゲバ主義者」かもしれない。すでにその萌芽を「市民原理主義」の中に見出すことができるではありませんか。否、ロシア革命が変質したように、自分の内なる内ゲバ主義を克服しない限り、また形を変えた新しい内ゲバ主義は何度でも復活、発生します。
●「中核を許せ」と言っているのではない
誤解しないでいただきたいのは、「内ゲバ主義」を容認するとか、今までのことはすべて不問に付してやれと言っているのではありません。上記の犯罪の例でたとえるなら、自分達の社会には何の問題もなく、ただ「厳罰化」や「死刑」で犯罪対策はことたれりとする議論には反対しますが、それは、現に発生した犯罪を見逃せとか許せとかいう議論とは別物です。犯罪が構造的に発生する社会の変革を求めますが、行われた犯罪に対して応分のペナルティが課されるのは当然です。何事もなかったかのように権利だけを要求することはできません。むしろ自分がしたことに何年たっても責任を問われ続けると知ることは、本人のためでもあるのです。
ですが、犯罪者にペナルティが課されるのはなぜでしょう。それは彼が人権を蹂躙したからです。だとしたら、それを裁くにあたり、この犯罪者の人権を無視することは論理矛盾です。むしろ我々は堂々と、この非人道的な所業を働いた犯罪者を徹底的に人道的に扱わねばなりません。充分に弁明の機会を与え、彼に有利な事実も充分に探して調べ、しかるべき対抗手段がとれるように税金で弁護士までも用意し、それらをすべて考慮、吟味したその上で、はじめてなんら後ろ指さされることなく、堂々とペナルティを宣告すれば良いことです。つまり犯罪者自身が納得、更生する機会が与えられることが必要です。
ここには「立場の互換性」というものがあります。「自分や自分の身内は絶対に犯罪者にならない。奴らとは種類が違う」というのは、まったくもって思い上がった考えです。そういう思いをもってkamakazuさんのエントリーを読み、その悔しさをくんでいただきたいと思います。
●おまけ 「やな感じ~!」
しかし、なーんか嫌な予感。三里塚闘争分裂の時と同じ道を歩んでいるような・・・
(インター、戦旗)→vs←(中核) (これが)
(「インター」→vs←「戦旗」)→vs←(中核) (こうなって)
(インター)→vs(戦旗)vs←(中核) (こうなる?!) ( ゚Д゚)マズー
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風邪ひいてます。熱あります。仕事休めまへん。正月からずっと直んない。昨日くらいでやっと熱は下がった。
しかしまあ、毎日毎日、何も書かず済ませられないコメントやらトラバやら記事やらが続いて、ここんとこほとんど寝ていません。今夜だけはページを開けずに寝ます。コメントの返事は明後日以降にします。
議論が若干混乱しているのではないかと思うのですが。
まっぺんさん=第4インターではないし、
草加耕助さん=戦旗共産同
kamakazuさん=戦旗共産同
アッテンボローさん=中核
でもない。
もう辞めた人が、その組織の立場性にかわりに立つ、などということは、酒の上での戯れ言ならともかく、実際の政治の上では絶対にありえないことではありませんか?
その政治的立場を離脱したならその経緯がある筈なのであって、それを抜け落ちさせて数十年前の立場にすぽっとはまりこんでモノを言うというのは、混乱しかもたらさないのではないかと思います。
実際問題、運動界隈には「元なんとか派」の人なんてごろごろいますし、「ちょっと言えないぐらい無茶苦茶なことをやっていた」ような出自の人もよくいます。
で、そういう人たちが互いに「お前のところは何年にこういうことやったじゃないか」とかいうのんを現在の政治に持ち込もうとすると、えらいことになるのは目に見えているわけです。
まあ、実際に、意図的にその部分を曖昧にすることによって、それを政治的に利用しようという向きもありますし、実際、俺もやられたことがあります。
発話主体の混乱は、インターネットという媒介の特性でもあります。どこの誰が書いたかもわからない文章が意味を持ってしまったりします。
少なくとも、その発言はどういった主体から発せられているのかということを明確にする必要があるのではないでしょうか。
草加さん、かぜ早く治しなよ。今の時期のはしつこいぞ。生姜のみじん切りを何でも混ぜて身体温めたほうがいいよ。
さて本題、内ゲバ主義者のこの間の大衆団体もぐりこみ策動は、うわさには聞いています。そうしたときに私たちはどう対応したほうがいいのかなんですが、無原則に参加を認めることは仲間を人身御供うに差し出すことになりかねません。最近の連中は内ゲバなんぞ関せずという対応するようですから、容易に仲間を増やすでしょうね。やっぱ、noizさんが書いていたように、何らかの歯止めを必要とすると思います。
それが過去の大衆運動において大きな問題であったし、多くの仲間が運動から去った理由でもあるのだから。それでも彼らは賛同して入ってくるでしょうから、その後が大変でしょうね。
kamakazuさん、みたいのことは大小があれみんな経験しているんじゃないでしょうか?特に、都会の大学では縄張り争いがすごかったみたいですから。東北は良くも悪くも牧歌的なところがあったので、解放派とインターがぶつかったあとでもテロられることはなかったように思います。もちろん個人差は大いにあったようですが。インターの連中もいろいろなやつがいたし、ただ路線としては内ゲバ主義反対だったので、表立っては内ゲバはできなかったのです。ただ、個人への罵倒、蔑みは何処でも同じでしたが。
二元論だ一元論だというよりも、狼がうろついているところに、なんもせずに出て行くことはないだろうと思います。
セクトNo7さんがかいた
>最近の連中は内ゲバなんぞ関せずという対応するよ
>うですから、容易に仲間を増やすでしょうね。
に激しく同意します。
若い人(ってあえて言いますが)は、ほんとーに内ゲバに対する恐怖感なさ過ぎです。というか、自分はそんなことしないと思いこんでいる。
もうすでに、内ゲバ主義?(こんなもん主義でも何でもないけど)に入り込んでる。
根本的に、間違っています。
あと、二元論一般をブルジョワイデオロギーといいきってしまうのは危険だと思います。やっぱり、ブッシュや日帝は、「悪」だし、そういった線引きが必要な時はあるわけです。今回のイラク戦争では、ブッシュは明らかな「悪」です。ブッシュが、変わる可能性を否定する必要はありませんが、そういった作業抜きの闘争は、容易に敵に懐柔・屈服する路線になるとおもいます。
これ、内ゲバ主義とも同じ構造があって、暴力をふるう奴は悪:ふるわない奴は善とすると、今この場で権力に対して抗する奴ら:今この場でそれを止めている警察とかいうおかしな構図が生じてしまうと思います。
つまり、二元論線の引き方<敵対性の回復?>こそが、内ゲバを避け、権力と闘う時の第一歩になるのではないでしょうか?
草加さん
だいぶ前のブログですが、お返事ありがとうございます。
僕は、内ゲバとかは決して昔のことではなく、今でも面々として残っているものだと感じています。
イラク反戦が盛り上がったときも、黒旗もってるだけで、「あんたたちがいると迷惑なのよー!」とかさんざん言われましたし。
まぁ、白とかZとかが何食わぬ顔で組織介入するとかがあると、「あの子は個人的にはいい人だが、厄介な組織を抱えてますよ」とか言わざるえず、そうすると僕が内ゲバ思考があるとかみんなに思われるとか、歯がゆい思いをしました。
(内ゲバっぽいことをしてこなかったのかというと、あの時排他的な対応してそれから来なくなった人いるなぁと思うこともあるのですが)
何でこんな風習があるのかな?日本特有なの?とか考えることがしばしばあるのですよ。
ほんで一つの結論として私は「性善説」でも「性悪説」でもなく、「性ダメ説」に立つことにしています。
つまり、自分で良いと思っている行動するが、なんか上手くいかないと回りのせいにしだす。「自分がここまでしてんのにー!なんでこいつらはー!」ってやつですね。
業界用語(どこの?)では、「こじれちゃう」というやつです。頑なになっちゃって会話ができない状態。この状態がさらに進むと、たこつぼ的な人間関係が出来上がって非常に住みづらいものとなります。
このこじれちゃった最悪の例が内ゲバっちゅうやつやと思いますが、まぁ、若輩者の浅はかな知恵なんで、適当に批判してくれれば幸いです。
ほんで、解決するにはとなると・・・よく分かりません。こじれる前なら回避の仕方もあるのですが、こじれちゃった後となると・・・まぁ対話のテーブルにつくのが一番よいでしょうが、責任ある立場から腹割った話するとか可能なんかい?という気がしてて・・・
すいません。独り言でした
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諸先輩方の意見、興味深く拝見しました。
やはり私は、ちょっと世代が違うようです。中核派(における権威主義的な組織の統制)に幻滅したのも、ブント(戦旗・共産同)のシンパみたいなポジションについたのも,高校生(80年代半ば)のことですから。
で、大学以降は、ほぼ新左翼セクトと接点は無いので半ば外野からの感想なのですが、内ゲバの問題を考えるに際しては、やはり連合赤軍の犯した恐るべき過ちを避けて通る訳にはいかないと思うのですが、どうなのでしょう?
内ゲバと直接関係ないと思われるかもしれませんが、私は、内ゲバであれ暴力であれそれが正当化される根拠の一つは、以下のグロテスクなまでの原理主義思考に根ざしているのではないかと思います。まあ参考になりましたら。
書評「信仰が人を殺すとき」
ジョン・クラカワー著 河出書房新社
現代社会の多くの人々が一般的な価値観として共有している、自由、人権、民主主義、そして消費資本主義に対して、最も激烈に抵抗しているのは宗教原理主義である。そして、本書はこれらの価値観を最も体現しているアメリカ本国において、信仰に基づいて殺人を犯したあるモルモン教原理主義者の事件を中心に、原理主義とは何か、信仰とは何かを探求した名著だ。
モルモン教とは、1830年代、ジョゼフ・スミスにより創設されたキリスト教系の宗教である。現在、信者数は世界中に千数百万人。その信者の殆どは、保守的、道徳的な、よきアメリカ国民として市民社会に溶け込んでいるが、そのような正統派のモルモン教を、ジョゼフ・スミスの教えから堕落した姿と批判し、モルモン原理主義を唱えてカナダ、メキシコ、アメリカ西部に閉鎖的なコミニュテイを形成している人々が存在する。彼らの数は数万から十万人ほどの規模と見られ、数的にはマイノリテイに過ぎないが、モルモン教の教義の内最も重要なものとして、一夫多妻制(正統派モルモン教はこれを否定しているが、本書が明らかにしているように、スミスがこの制度を実践していた事は事実である)を唱え、実践し、アメリカ国家の法律ではなく神の法に従おうとしているのだ。
このようなグループの中で生じたのが、一九八四年七月二四日、ロン・ラファテイ、ダン・ラファテイ兄弟による、ブレンダ・ラファテイとその幼い娘エリカの殺人事件である。ロン・ラファテイはモルモン教原理主義の熱心な信徒だったが、信仰と布教活動にのめり込み、社会からもはみ出し、妻ダイアナに対してもひたすら独善的な態度をとるようになった。一夫多妻制を説き、十代の自分達の娘を本人の意思とは関係なく、他の信者と多妻結婚させようとした。ダイアナは夫を説得しようとしたが、ロンは全く聞き入れる姿勢が無く、彼女は友人達に救いを求めた。この時、彼女を励まし、狂信的な夫との離婚を実現させた一人が、ラファテイ家の末子アレンと結婚していたブレンダ・ラファテイだった。ブレンダは信念を持った女性で、結婚後もラファテイ家の過激な信仰に反発し、自らモルモン教の教義を学んでは理論的に反論するなど、一家の中での女性への抑圧に反抗していた。
そして、ロンは離婚後、ブレンダとその娘を殺害せよという「神のお告げ」を受けたのである。ロンは、弟で同じくモルモン原理主義者であるダン・ラファテイにそのお告げを語り、二人はこの「お告げ」が確かに神からのものであるという確信を得た。そして、余りにも残虐なやり方で二人の命を奪ったのである。この犯罪と、原理主義者特有の精神状態については、本書第15章、16章を是非お読みいただきたい。胸が悪くなるような描写と共に、殺害を行う時にも一つ一つ「神の意志」を確認している彼らの恐るべき精神が、シェークスピア悲劇のような迫力ある筆致で描かれている。
筆者はこの事件の他にも、モルモン原理主義者の一夫多妻制が、少女へのレイプや意に沿わぬ婚姻、時には近親相姦をもたらしていること、自称預言者たちの独裁的な支配、外部社会との情報遮断、様々な犯罪行為などを明らかにしている。しかし、著者は同時に、アメリカ社会全体の問題として、あくまで公正に信仰の問題を捕らえようとする。「信教の自由を守ることに熱心な民主主義社会で、一人の人間の非理性的な信仰は賞賛に値する合法的なものであり、別の人間の信仰は上記を逸していると断定する権利が、誰にあるだろうか?社会は、積極的に信仰を奨励する一方で、他方では、過激な信仰者に有罪の判決を下すことが、どうしてできるのだろうか?」(三百七十八頁)という著者の問いかけは、アメリカ社会が先述した「自由、人権、民主主義、そして消費資本主義」の価値観を、それこそ原理主義的に信望する傾向と、同時にキリスト教原理主義的の国内での復活とを同時に見据えた正当な批判姿勢といえよう。
この兄弟の精神の闇は、そのまま現在の宗教原理主義やテロリズムに直結する。9・11テロに対し、獄中のロン・ラファエテイは、彼ら実行犯と自分の相違は、彼らは間違った信仰を信じ、自分は正しい教えに導かれていることだとする。勿論、この思考は他者の理解を完全に拒絶した、彼自身の信仰の中でしか正当化されないものだ。かってドストエフスキーは、神を失った近代社会を「神(善と悪の基準、人間の利害を越えた信仰としての価値観)がいないのならば、全てが許される」ニヒリズムの王国として批判した。しかし、今起きているのは、イスラム過激原理主義から大イスラエル主義、アメリカのキリスト教原理主義、そしてオウム真理教に至る「私達だけの神(信者だけの主観的な善悪の価値観)が存在する以上、私達には全ては許される」という原理主義的価値観に基づくテロリズムである。私たちが、少なくとも民主主義や自由の価値を信じる限り立ち向かわなければならないのは、まず第1にこの原理主義思想である。
このような原理主義に対し、「人命尊重」の概念を唱えてもおそらく無力だ。彼らは、人間の生命よりも高い価値を神の名のもとに見出しているのだから。このような信仰(=正義の概念)の倒錯に対して、おそらく吉本隆明の「存在倫理」概念に導かれる形で、作家の笠井潔は「オイデイプス症候群」(光文社)の中で次のような美しい言葉を述べている。「倫理は『殺してはならない』というところになんかない。たんに殺さない、たんに殺せないという事実が、倫理的なるものの根底にはある。『してはならない』という当為から出発する倫理は(中略)最終的にはグロテスクな倒錯に行き着いてしまう。真剣に、『殺してはならない』と思い悩んだ結果、大量虐殺を犯してしまうような倒錯の罠に足を取られるんだ。」(「オイデイプス症候群」八六二頁)
この兄弟は、「殺さなければならない」という「神のお告げ」に導かれて殺人を犯した。彼らはそれを正義の実現と信じた。彼らの信仰体系においては、そのお告げを拒む事はできなかったからだ。殺害現場で、何度か殺人をためらった瞬間の心理を、兄弟は、神や霊に導かれて乗り越えたと証言する。正義や信仰の概念が、「せねばならない」という思考に導かれる限り、私達は誰しもその逸脱から無縁ではないのだ。これを回避する道は、何よりも、理論でも信仰でもなく、日常社会の「たんに殺さない、殺せない」という、ごく当たり前の世界の豊かさを、信仰、思想、政治、そして倫理の基本におく精神のみである。(後略)以前、三浦が「諸君」に書いた書評より
あのさ、日本は責任取れとか反省しろとか主張する人は
ぜひ一日本人として腹切って死んでくれないか?
責任はいつも日本政府と小泉に押し付けているんじゃ偽善としか思えない
過激な左派の中には日本を解体とか日本民族を抹消などと考えているけど
その中に自分が居ないのは困り者だよね
侵略するくらいなら侵略される方が良い
騙すくらいなら騙されるほうが良い
って言いたいなら
全責任とってくれ
日本が侵略されたとき話し合いで解決してくれ(無論その最中殺されても文句は言ってはいけない)
普段日本は軍隊不要といいながら周辺国の軍拡を批判せず
実際侵略されたらすぐに逃げ出すとか言っているんだからさ
本当護憲派と左派って偽善だよね
ウヨと何も変わらんわ
奇麗事を主張する人は大抵背後に不純な動機があるものだけど
本当に平和とか人権とか愛しているわけじゃないだろ
自分の個人的都合で社会主義を利用しているだけだな
なんかずいぶん痛い人が書き込みしてますね。自分の頭の中で勝手に左翼の主張はこうに違いないって妄想して、それに対して責任取れだなんて。
「過激な左派の中には日本を解体とか日本民族を抹消などと考えているけど」なんてことはどこの党派も言っていないのに。日本帝国主義の打倒と言う言葉の意味も全く理解していないようですね。資本主義社会を転覆して新しい政治経済体制を作ろうと言うことであって、民族抹殺なんてどこから出てきた妄想なんだろう。
「侵略するくらいなら侵略される方が良い 騙すくらいなら騙されるほうが良い」と言うけれど、侵略しないですむ社会を作りたいが侵略された方が良いなんて言っていないのに。更に騙さないですむ社会を作るためには騙されないようにする社会でないと行けないでしょう。
勝手に妄想膨らまして人に言いがかり付けてくるなんて最低の人間だな。