この間いろいろと「内ゲバ」関連のエントリーを書いてきまして、それに関連して三里塚闘争の3・8分裂の話題も出るようになりました。そして、この問題で元戦旗派の人の発言などを思い返してみますと、実は今回再録した論文の内容が非常に大きく影を落としていると思われるわけです。たとえば、2ちゃんねるの戦旗スレッドでも、この問題に関してたびたび「影山論文批判」という言葉が出てきますし、03年4月の「検証内ゲバPART2」出版記念シンポジウムに参加された五味さんの発言なんかもそうです。
戦旗派の後継団体である「SENKI派(自称:ブント)」は、左翼思想を捨てて「パラチェン」したわけですが、なぜか三里塚分裂問題に関して語る時だけは、突然に「戦旗・共産同」に戻ってしまい、インター・プロ青への「ルサンチマン」を全面開花して熱くなってしまわれるようです。かつての主張をすっかり変化させてしまった中において、ここだけがシーラカンスのように保存されているといった感じでしょうか。そしてもちろん現在の私自身も、この論文の内容に色濃く規定されています。それくらい当時を共にした活動家の間で強烈な印象を残しているということです。
この論文は中核派など、当時に対立していた方々にも読んでいただきたい。特にインター・プロ青の皆さんは、現在にいたるまでの、戦旗派系の人々の発言の意味が、そのメンタル面も含めてすとんと理解できるようになるでしょうから、お薦めですよ(笑)。
【内容紹介】
●はじめに
→左翼的な”様式美”に満ちた書き出し部分(笑)
●83年5・22集会勝利の地平として捉え返すべき諸点
→現在の位置の総論的な内容
●対日帝実力闘争路線の展開で内ゲバ党派を逆規定せよ!
→中核派批判です。闘争路線は似ているので、組織・運動論が主です
●第四インターの右翼日和見主義と三里塚二期決戦からの逃亡
→インター批判です。路線的に対立しているので、全面的で執拗な批判です
●八三年春夏大攻勢の圧倒的貫徹により克ちとるべき主体的課題
→そして戦旗派が克ち取るべき当面の方針と方向性
※左翼の文章を読み慣れない方に申しておきますと、だいたい冒頭は全体情勢の分析(ここは「大本営発表」になりがち)、続いて個別情勢の分析と自派の主張(ここがメイン)、次に場合によっては他党派批判が入り、最後はスローガン(我々の当面の任務と大衆への呼びかけ)と言う「様式美」に満ちた世界なのであります。
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【武装を内包する革命党】全文
全国の同志・友人諸君!
われわれ戦旗・共産同と全革命勢力は反対同盟の分裂をはさんだ3・27三里塚闘争、その過程での中核派、第四インターなどとの攻防をふまえた5・22安保-日韓闘争勝利、中曽根ファシスト政権打倒集会を共に勝利的に戦取しぬき、今、八三年春夏大攻勢の大爆発にむけ大きく飛躍しぬこうとしている。
大衆的実力闘争と結合したゲリラ・パルチザン戦闘の遂行をかかげ、破防法弾圧に打ち勝党建設へむけ突進を開始したわれわれに対し、日帝三井-下稲葉警備公安警察は、一気に厳戒を強め、尾行・張り込み・スパイ潜入を強化しつつあるが、われわれはこれを打ち破り必ずや八二年春夏大攻勢の大勝利をもぎとる決意である。考えてもみたまえ、情熱の煮つまりにおいて既に余りにも機は熟しているのだ。
73年6月アダチ分派問題後丁度10年たち、ブント主流派としての完全な地歩を築きつつあるわれわれにとり、日帝国家権力との正面きった対時戦の進行はまさに望むところであり、全身に燃えたぎるパトスの爆発をもって勇躍戦闘におどり込まんとする心のたぎりをわれわれは誰もが押さえることができない。
光州民衆蜂起に連帯すること、武器をとり闘い抜ける組織主体への飛躍を克ちとること、この数年間決意に決意を固め、覚悟に覚悟を重ねてきたわれわれにとり、道はまっすぐに掃き清められている。投獄も死さえも恐れず生き急ぐように駆けぬけること、それが問われる情勢として、主体の位置として、われわれはこの春夏大攻勢をとらえているのだ。
すべての同志諾君!共に革命的に前に躍り出よう。全世界人民の反戦・反闘争の爆発が実力闘争形態をもって打ちぬかれ続け、中米エルサルバドル、ファラブンドマルチが総蜂起へむけ突撃を開始し、レーガンの反革命介入に対しニカラグア人民が「勝利か死か!人民は必ず勝利する!」と雄叫びをあげて総反撃している現在、われわれも又革命的左翼の主力党派として、已の全思想性にかけて安保-日韓体制打倒の戦略的大道をひた走る以外、他のどんな生きざまがあるというのか。
われわれ独白の戦争の論理にもとづき、不抜の戦略的方向性に忠実に、六・一九反安保・中曽根打倒闘争から、八・八パイプライン供用開始粉砕と連動しての7・31戦旗・共産同政治集会、そして八月ニュージャージー横須賀寄港、トマホーク配備阻止闘争へと大進撃を貫徹すべく、更に猛烈な運動展開と組織戦に着手しぬこう。
本稿は、この春夏大攻勢を闘い抜くわれわれの位置につきふまえるべき諸点をつかみとり、勝利の展望を明確化することを目的としている。
われわれは既に3・27闘争後の党的展望としてあった5・22光州蜂起三周年・安保-日韓闘争勝利・中曽根ファシスト政権打倒集会を、滝野川会館大講堂を埋めつくす×××名の大衆結集をもって打ちぬいたわけであるが、この闘いの勝利の意義をまずもって明確化することをつうじ、いかなる方向と内容において今後われわれが闘いぬき、又何を戦取すべきなのかを明らかにしたいと思う。
5・22集会は3・27三里塚闘争後の極めて困難な諸状況の下で組織化され、打ち抜かれた全く党的な闘いであったが、広範な人民の支持を集めることに勝利し、現在のわれわれの力量をほぼ出しきる成功を×××名動員として克ちとった。この集会の勝利的貫徹の持つ意義はきわめて大きなものである。
それは第一には三里塚第一公園と横堀共同墓地広場での分裂集会となった3・27三里塚闘争前後の政治局面、われわれを取り巻いた一方における中核派の「党派戦争宣言」事態と、その収拾をめざした「3・18革共同への申し入れ」をめぐる「連帯する会」、第四インターの反対策動に対し、その両方をのりきり、打ち破る位置性においてわれわれが5・22集会を打ち抜いたという点である。
そもそも大地共有化運動を発端とする三里塚芝山連合空港反対同盟の三・八分裂に対して、中核派は自らの党派的横暴に対し農民自体がさしむけた批判として、その過程でまきおこった「三・三幹部会声明」等をうけとめようとはせず、これをどこか他の党派が自分達にさしむけた策略、陰謀のたぐいとして分裂の主謀者さがしをなし、全く理不尽な「党派戦争宣言」をもって、「ギタギタに粉砕せよ」「徹底して追いまくり、蹴ちらせ」といった対処をわが同盟に対し振りかざしたのであった。
当初その主謀者とされたのがわれわれであり、「獅子は兎をとらえる時にも全力を尽くす」等というおよそマルクス主義とは縁もゆかりもないような尊大なポーズをもって、彼等はわれわれに襲いかかってこようとしたのである。もとよりわれわれは、三里塚反対同盟の分裂によって何の利益を得るわけでもなければ、中核派を政治的に窮地におとし人れることに展望をたくす何の必然作を有していたわけでもない。むしろ同盟の分裂は闘争全体の戦闘力からいっても、又それが中核派対青年行動隊という形になった場合の青年行動隊のエコロジー的変質の危険性からいっても、われわれにとっては回避すべき命題以外の何ものでもなかったのであり、そうであるがゆえにこの事態の進行にはわれわれは全くとまどい、ひとつの組織的混乱状態みたいなものに一時期おち入ったといっても過言ではない。
何故ならぱわれわれは第二次ブントの七花八裂に対して党勢を保持しきり、70年安保闘争を主流派として領導したかつての中核派に対し少しは党的幻想を抱いていたし、十年来の対カクマル戦争の歴史がこれほどまでに中核派の政治展開を変質させきっていたとは全く思ってもいなかったからである。試練派が繰り返していた「津久井一派の官僚的変質」といったことも、理論的な地平からうけとめていたにすぎず、ましてやわれわれが中核派を直接の党派闘争の対象とするまでに党的伸張をなしてきた等という認識には、全く達していなかったのであるから、ここでの混乱はやむをえないことでもあった。
われわれは成長過程にある青年期の党派として、第二次ブントがなしえなかった武装闘争を内包する全人民的政治闘争の政治的領導をきわめて原則的に実現することを志向しつづけ、それにより今日の一定の伸張をもたらしたのであり、そこでは73年6月のアダチ分派問題に対しても内ゲバを回避する方策をとりつづげてきたのである。ゆえに少くとも大衆運動における戦略的×××名動員の定着化ぐらいまでは、80年以降の政治展開とそこでの政治的位置をキープしつづけんとすることは、この間の戦略的意思統一の前提をなすものであり、当然中核派の「内ゲバ宣言」に対しても、これを回避せんとするのがわれわれにとっての大道であった。われわれは中核派のスターリン主義的変質に対し、これを見限る位置に立ちつつ、内ゲバ回避のための対処をなす以外なかったのである。
つまり「3・18革共同への申し入れ」は、それが中核派の内ゲバ恫喝に屈するものだ何のといくら大衆運動的観点から批判されようと、われわれにとっては党の死活をかけた問題であり、当然いわねばならないことであった。われわれはそれを、(1)内ゲバに突入しても現下の力関係からいって軍事的に勝利できる見込みがないこと、(2)党派闘争に突入し、戦争にのめり込んだ場合の混乱、消耗のほうが、内ゲバを回避し、やらないようにした場合もたらされる混乱、消耗よりどう考えても大きなものであること、(3)内ゲバによって三里塚闘争全体が疲弊し、闘争全体の生命力を喪失してしまうと予測されることから決断したわけであり、全党が一致団結してこの決断と対処を守りぬきさえすれば必ず次の地平が切り拓かれると確信することにおいて「申し入れ」たものである。
だがこれに対し「連帯する会」系諸グループ、諸派にとっては、われわれがこうした対処をなすことは、中核派に対し戦旗という防波堤がなくなり、今度は自分達が戦争事態に巻き込まれることになるが故に、反対を必然化させたのであった。
これらの諸派、とくにプロ青やインターにあっては、「空港より緑の大地を」に示される青行のエコロジー的変質は、レーニン主義的党建設や前衛党の戦略的領導に反対するという自分達の路線の貫徹にとり全く一致する方向にたつものであり、ゆえに中核派の排除は望ましいものだというわれわれとは全く逆の価値判断にたつのであるが、しかしながら中核派のホコ先だけはわが同盟にむけさせようとする全く都合のよい要請から、わが同盟に対しては「3・18声明の撤回」を「大衆運動の利害」を根拠に申し入れ、それがなされないことに対する断罪をセクト主義丸出しの「連帯する会からの戦旗の排除」として実現しようとしたのである。
そこでの食い違いは結局は三里塚闘争の戦略的領導をめぐる路線的対立に裏打ちされたものであり、二期決戦よりも「二期が来ない運動」を、共に反中核の形で闘えというのが、第四インターなどのわれわれへのつきつけの中味である。
ゆえに戦略的方向性との関連においても、われわれがこれを拒否することは全く当然のことである。
何故ならぱそれは、82年「9・16青行文書」批判以来の、否それ以上に80年8・22政治集会以降のというべきわが同盟の安保-日韓体制打倒潮流としての基本路線と戦略的方向を、あくまでもわれわれが守り抜くのか否かという本質的命題として結局はあったからである。
この拒絶においてわれわれがはっきりさせておくべきことは、中核派の内ゲバ主義的変質を差し引いたとしても、戦略的方向性としては、われわれにとってはインター、プロ青的方向よりも中核派のほうが、まだ政治的に近い位置にあるという基本間題である。つまりは闘い方の基軸性として、われわれは青行のようなエコロジー的変質において三里塚闘争を担うことはできないのであり、これを批判しきる地平の構築がわれわれの勝利の展望なのである。
インターを主導力とした「連帯する会」からの戦旗排除の目論見が成功しえず、われわれがそこに残りえたのはそうした位置でのわれわれの戦闘力、動員力の持つ影響に対し、彼等がそれを無視しえず、無いものとして考えることが結局は不可能だったからである。
つまり三月の過程では中核派との攻防を闘い、四~五月の過程では主要にはインターの「反中核大衆戦線」からの戦旗排除の策謀と闘いぬくことによって、そのどちらにくみするのでもない独自の安保-日韓体制打倒潮流としてのわれわれの政治的地歩をキープしぬいたのであり、5・22集会における、昨年8・1政治集会、12・19二期決戦勝利集会を引き継ぐ動員力の保持は、それらすべてによるわれわれへの封じ込めが成功しなかったことを例証するものである。
これによりわれわれは3・27以降の政治的後退を突き破ったのであり、この点が5・22集会勝利の第一の意義としてつかみとられるべき点である。
第二にはわれわれは、5・22の勝利とこの攻防の過程をとおし、内ゲバ党派の存在に対し、内ゲバ主義反対をかかげ地域住民闘争や労働組合運動に逃げ込むといった右翼的形態ではない、より正面きった突破の方向を明確化したことである。5・22集会はその方向を大衆的に刻印するものとして、独自の意義を有するものであったといわねばならない。
われわれが三里塚反対同盟の分裂事態に対し、中核派の内ゲバどう喝にさらされ、これへの対処に坤吟せねばならなかったというそもそもの基本問題は、その整理の方向として、われわれが革共同両派の糾察隊なり、JACといった内ゲバ部隊と同等のものを構築しておらず、又それにむけての党の武装をおろそかにしていた結果であるととらえては絶対にならないことである。
そうした観点の徹底化においてもたらされる結論は、内ゲバ部隊をつくって内ゲバに勝利することを展望するか、或いは又その全くの裏返しとして、内ゲバなど絶対にやらないことを至上目的としてただやみくもに内ゲバ党派との対立を回避し、逃げまくることを党的延命の道とするといった全くの右翼日和見主義的方向にしか至らないものである。
内ゲバ軍事力が強烈なものであるかどうかが革命党としての威信を高めあげ、人民の信頼を獲得することにつながるわけでは絶対になく、全く逆に、日帝国家権カに対する革命党-革命勢カとしての闘争力の存在、戦闘カの有無が、人民に対し革命党への信頼と威信を築きあげるのである。
われわれがこの十年間の闘争展開に対し総括すべき点は、その点で大衆動員、闘争結集のみを基軸としてきたわが同盟の在り方が、日帝権力に対するありとあらゆる形態をもっての闘争展開の自由を内包させてきたとは決していえず、権力にとっても内ゲバ党派にとっても比較的底の浅い組織力、闘争力としてしか位置してこなかったという限界性の克服の問題である。
日帝権力との実力攻防に打ち克つ陣形の構築、いつでもゲリラ・パルチザン的闘争形態をもって権力と闘い抜ける党的構えが作り上げられていたならば、その組織的戦闘力の存在に対しては内ゲバ党派であろうと、右翼民間反革命であろうと、日帝国家権力にしてからがそうおいそれとは手出しすることはできないのである。この点での陣形構築の遅れと、その観点をつかみとるまでの問題整理の不充分性が、3・27を前後する対処過程でのわが同盟の混乱を生み出さしめたといわねばならない。
そのためにこの過程にあっては党の正規軍建設(=RGの再建)が糾察隊やJACへの対抗手段としてかかげられる傾向とか、内ゲバを題材とした文書を今更のように読みまくってそれ自体うんざりしてしまう、ひいては階級闘争そのものからも召還しようとするといった傾向も内包されたわけであるが、5・22集会を組織化し、党的前進を再度開始するなかにおいて、日帝権力との攻防に打ち克つ陣形の構築が内ゲバ党派、民間反革命との関係も規定することを全党的につかみとることに成功し、問題の整理がなされたのである。
5・22集会において大衆的実力闘争と結合したゲリラ・パルチザン戦闘の遂行、大胆なそれへの着手を訴えきり、全党全軍の基本的な意思統一をなしきったことはこの点においてわれわれの内的な前進を意味するのであり、今後の闘争展開のあり方、組織建設の方向を明確化するものである。その物質化にむけ全力が傾注され、構造的な確立がめざされねばならない。
5・22集会貫徹の意義は、80年代階級闘争の領導にとり必然ともいえるこの問題整理との関連からとらえ返された時、一層きわだった位置を持つことがおさえられねばならない。
第三には、3・18声明後の防御戦に勝利しぬき、各戦線・各地区党が昨年8・1政治集会に匹敵する動員を実現し、6・19反安保反中曽根闘争から7・31政治集会、8月ニュージャージー横須賀寄港、トマホーク配備阻止闘争への突破口を切り拓いたという組織総力戦、「党としての闘い」としての5・22の意義である。
これは少しかたちをかえていえぱ共産同・赫旗派が四、五月過程での明大生協移転問題の煮つまりとそこでの解放派(狭間グループ)との党派闘争において、地区労に調停を依頼する等という民同的対処を内包させ、その処理をめぐってML・紅旗連合と遊撃グループに完全に分解し、地区党の奪い合いに入るといった党的脆弱性、左翼サークル主義を全面露呈させていることとの対比において考えても明らかである。
われわれ戦旗・共産同の組織的団結と、構成主体の政治的成熟度が、かなり構造的なものとなり組織力を増している結果のりきった三~五月の実証として5・22を捉え返すことができるということである。それが単に内的な成熟として言えるのみでなく、具体的な各地区党の動員力の保持と増大として例証された点において意義を持つのである。
少くとも「三・一八」をめぐる事態ぐらいの攻防で党の団結にヒビが入り、党的動員力が大きく後退してしまうのでは、われわれのアダチ分派後の党建設、主体形成の苦闘は全く口先きだけのものであり、本質的に脆弱な小ブルサークル主義の位置にたつだけのものとみなさざるをえないわけであるが、それを全く払拭する地平においてわれわれは5・22の戦取を実現し、次の闘争展開への突破口を切り拓くことに勝利したのである。たしかに赫旗派のような混乱は、単一の分派として十年の実践を重ね歴史的に蓄積された党史を持つわれわれには考えもつかないことであり、何よりもわれわれは、彼等よりもっと政治的に錬磨され、各主体は党全体に対し従属的であり、原則的な確認、闘争主体の政治的思想性を骨幹的に作り上げてきたとも言えるのであるが、しかし赫旗の混乱は「ブント主義の再来」であり、「他山の石」と言うべきものであって、笑ってすませられることでは決してないのだ。
動員力の保持が、政治的方向性、党的対処への構成メンバーの基本的合意を基軸とすることから言っても、われわれの乗り切りに対し、赫旗派が綱領だ理論だと「レーニン主義」をいくら振り回しても、第二次ブント総括の主体化には全く成功しなかったことが彼等にあっては顕在化しているのである。その逆にわれわれ戦旗・共産同の今日までの歩みが着実なものであり、全くもって主体化された内実をもつものであることは、ここにおいて例証されたといわねぱならない。
5・22集会の勝利を突破口に6・19に攻めのぼり、ニュージャージー寄港阻止闘争の大爆発を実現し、もって真のブント主流派としての政治展開を継続しきること、これを次の課題として是非とも確認したい。
要するに赫旗派の敗北は党的主体形成の本質的地平における理念性、理論主義の敗北であり、われわれにとっては「ブント」の敗北の一つの形態として反面教師としての位置にだけ立つものである。下級を自己の足にしたてあげようとし、党への絶対的帰属性を忘却しきり、意見のくい違いを組織の分岐にまですぐに拡大するようなそんなデタラメなインチキ革命家、政治的未熟性はもはやわれわれは、この先のいかなる試練の到来においても完全にこえでた地平において対処しきり、党を守り抜くことを意志統一しようではないか。
5・22勝利の地平は、ゆえに大衆運動的展開におけるもり返しといったレベルだけからでなく、その過程における組織的コンフリクトに打ち克った位置性において確認されねぱならない重要性を有している。
たしかに三月過程における三里塚闘争へのかかわり、そこでの運動展開や対処のアマチュア性とジグザグについては、より下向した位置において総括を深めるべき点は多々あるのであるが、ともあれ3・27以降5・22にまで辿りついた現在の地平からとらえ返し、以上のような三点の基本的意義を5・22総括としてまずもっておさえておきたい。
この三~五月の過程はアダチ分派問題以来最大の政治的試練として位置したことは歴然たる事実であり、ここでの苦闘を血肉化することによって、更なる飛躍を実現していくことこそわれわれの使命である。
ところでこの三~五月の攻防過程においてわれわれは幾度となく「党の飛躍」、「新たな領域への突入」といったことを語ってきたのであるが、それが政治的には如何なる対象化において貫徹されるべきものなのかが明らかにされねばならない。「軍事展開力を有した党への飛躍」がどのような政治的対象化にもとづきなされるのかは、まさに死活的問題であり、文字通り革命党としての本質性の一切がかかる基本命題であるといわねばならない。ここで問われることは理論の卓抜性ではなく、実践的な政治展開の在り方の妥当性であり、「政治が軍事を規定する」等というスローガン的言辞を、それ自体お題目的に繰り返していれば間題が片付くことなのではない。軍事武装闘争が常に「武器をもってする政治の継続」でありつづけるためには、理論を実践に適用し、応用することが間われるのであり、主体が身につけるべき観点は「適用の論理」=理論の主体化である。教科書的教条の暗記のみでは実践の役にはたたないのである。
この点でまだわれわれは全体的レベルにおいて稚拙な面を多々残しており、革共同両派などには不断に手玉にとられてしまう政治的甘さを残しつづけていることを認めないわけにはいかない。こと政治展開という面についていえば、われわれはせいぜい作風を政治技術的に論じることをもって政治を論じていると錯覚してしまうような小児病的対象化のレベルを全体的にこえでてているとはいえないのであり、別な言い方をすればわれわれの政治の継続のためには、そうした未熟さの継続を内包せざるえない位置性の下に未だあるということなのである。
しかしこれは否定的なことなのではない。つまりわれわれはカクマルの如き謀略論の構築をもって、プロットによって政治展開をなすことなど全くなしえず、又それを正義とも思わないということであり、もっと単純明快に人民の正義に立脚して闘い抜くことが勝利への道である。破防法弾圧に抗し、ゲリラ・パルチザン戦闘を内包する闘争展開の保障のためには、より一層それは求められるのであり、武装闘争への構造的踏み切りが、今までとは似ても似つかないような複雑怪奇な世界にわれわれが入り込んでいくことを意味するのであってはならないのである。
ここで問われるべきことは、われわれが猛烈な伸張を繰り広げてきた80~82年の政治の継続を如何にしてなしていくのかであり、その根拠の分析が完全に主体化されていくことが必要である。それは最も基軸的には第一には、安保-日韓体制打倒という左翼総体にとって戦略的基本間題となる政治路線を正面きってかかげ、その全人民的政治闘争としての領導をめざし闘いぬいてきた本質性にもとづく問題である。杜共が政治闘争の領導を全く放棄し、議会内政党として議席獲得にのみ奔走し、もはや日帝国家権力を打倒しうる政治勢力とはとてもいえない地平にまで落ち込んでいるという認識は、今では全労働者階級人民に共通のものとなりつつある。そこにおいて七〇年安保闘争を領導し階級闘争の高揚を主体的に担い切った革共同中核派がカクマルとの内ゲバに没入し、政治的には三里塚闘争を一切の基軸にすえきることで実際上はまったく安保-日韓闘争をネグレクトしている現実が存在しているのである。われわれはこの階級的現実下にあって、微力ではあっても全力を尽くし原則的な全人民的政治闘争として反安保闘争を組織しぬこうとしてきたのであり、そこにわれわれの政治的位置が確定されたのである。もっとも原則的な大義を振りかざしての政治的組織化と運動の領導というこの位置性がまずもっておさえられなければならない。
第二には、それをわれわれは、82年5・23反戦反核東京集会や10・24大阪行動と結合させ、全人民の大衆的決起と結合しうるあらゆる形態において追求してきた点である。革命党と革命勢力としての単独闘争も辞さない心構えを根底としつつ、実践的には不断に共闘関係の豊富化をかちとり、闘争の全人民的広がりをつくりあげる地平を求めることによって、われわれは闘い抜いてきたのである。三里塚闘争勢力-「連帯する会」-「労働情報」といった系列に依拠しただけでなく、更にそれを押し広げる枠組みで闘うことを求めることによって、全国住民闘争や総評型大衆闘争(例えば82年11・14闘争)とも結合することが可能となり、われわれの政治的広がりは一層妥当性を有したものとなったのである。スタテイックな運動的硬直化に落ち入らずフレキシビリテイを持ち続けた意義としてこれはつかまれねばならない。
第三には、その場合でも革命党と革命勢力としての登場を保持しつづけようとし、地域住民運動に形態的に流されることを拒絶し、前衛党としての政治勢力の構築をめざし闘い続けてきたことである。78年3・26管制塔占拠や5・20開港阻止決戦を主力的に担った第四インターなどは、われわれと全く逆の「各地城、学園、職場へ!」といった79年的方向に拘泥することにより、結局われわれの七九年問題と同じような陥穽にどっぷりとつかりきってしまっているのであるが、それは結局彼等が第四インターナショナルの歴史的系譜としてのパブロ派の加入戦術と労働組合主義を総括しきれず、レーニン主義的な地区党構造を骨格とした単独党建設の革命的意義をつかみえないで、大衆の陰にもぐり込むことのみを画策してきたことの否定的結果である。78年的政治展開を「二十年に一度の出来事」としてしか捉えられない彼等に対し、われわれは革命党としての闘いの継続において優位にたったのであり、前衛党建設の基本形態と経済主義・組合主義の否定における勝利をみなくてはならない。
第四には、これらの展開を基本骨格とするなかで、あくまでも日帝国家権力との対決性を基軸におき、分派闘争や党派闘争を第二義的な位置にすえきることによって人民の信頼をかちえてきたことである。如何にカクマルが反革命であり、アダチグループが倭小な敵対分子であるといっても、それはわれわれにとってのことであり、客観的な全人民の観点においてそうだということにはならない。その点でわれわれは政治的に内ゲバ主義を排してきたのであり、メンツやプライドにだけこだわって政治を左右するようなことは、党的理性をもって回避しつづけてきたのである。その展開の継続性においてわれわれは中核派との内ゲバ事態に突入することも回避したのであり、ここに示されるものはわれわれの政治的弱さではなく強さである。第二次ブント崩壊の経験に学んだ意義としてこれはふまえられるべきことである。
要するにこれらの政治展開と方向性のキープにおいてわれわれは独自の政治的位置を占めることに成功し、第二次ブントの政治的廃墟の中から不死鳥のように甦り今日の地歩を築きあげてきたのだ。日帝国家権力との攻防に打ち克つ陣形の構築、破防法弾圧に抗しぬける党の飛躍は、ゆえにここでつちかわれてきた政治性の保持を至上命題とするということであり、そもそもいきなりまるで別個の主体になれ、政治的世界に移行せよと要請しても、各主体がそれを担い切ることなどできるわけもないのである。
つまりは革命運動のスターリン主義的歪曲を克服する政治性、イデオロギー性を保持しぬき、党の官僚的変質や戦役主義の跋扈を許さず、ましてや党的ヒステリーに落ち込むことは絶対に避けることを通じてのみ、われわれがゲリラ・パルチザン戦闘の遂行能力を主体的に取り込んでいくことは可能なのであり、それが勝利をもたらす要因である。この点での思い違いというか、カラ騒ぎは排除されねぱならず、半公然や非公然闘争を内包するからといって、公然闘争の基軸性とそこでの大衆動員の勝利がないがしるにされては絶対にならず、そうした場合には革命党と革命勢力としての全的発展はありえないのである。
第五にこれを組織建設と闘争展開の方向性として対象化するならば、次のようなことが言えるわけである。
まず党の軍事力の形成ということから言えば、全党的レベルアップが問われるのであり、労共闘・社学同・阻止連が半公然闘争を防衛しきれる質で構築されることが基本間題である。少数の党の「正規軍」を作り、その闘いを大衆戦線が防衛するということではなく、各地区党の組織メンバーが戦争に自己を動員しきることができ、闘争を全体的大衆闘争のレベとして引き上げていくことが核心なのである。
われわれはかっての関地区RG部隊のようなものはつくらず、どんな闘争もあくまでも地区党構造を骨格として実現しぬく方向をとらねばならない。小数の「正規軍」の質ではなく、もっと全体的な全人民武装と民兵の質を問題とすることにより階級攻防に打ち克つこと、それがわれわれのゲリラ・パルチザン戦闘遂行の内的核心である。
その点についてはわれわれは現存する他の如何なる党派よりも多くの教訓を70年代初期の武装闘争の遂行においてつかみとっており、主体化しているといえるであって、たとえ内ゲバを闘う場合でも全党・全軍の総力的課題としてこれを貫徹することが確認されるべきことである。
軍事部門の確立などはそれ自体レーニン主義党建設の前提をなすことであり、決してこの方向と抵触する位置にたつ事柄なのではない。もちろん情況に応じては様々なプロジェクトチームを組むこともあるわけであるが、だからといってそれを「正規軍」等と言うことはできず、党の基本骨格が軍事主義的に、軍隊的に改組されることによって勝利がもたらされるわけでは決してないことがおさえられねばならない。
ということは闘争展開的にいえば、われわれは大衆的実力闘争の全体的な武装闘争的発展、全人民的蜂起への道をめざすということであり、特殊部隊のゲリラ戦の遂行をもって党的武装闘争に置き換えるという現在の中核派のような闘い方は否定されるべき方向以外ではない。
ゲリラ・パルチザン戦闘の遂行は、全人民的政治闘争の一環として、大衆的実力闘争を豊富化する鮮明な政治目的の下貫徹されるべき位置にあり、大衆的実力闘争が日帝国家権力の封じ込めによって貫徹しぬけず、行き詰まった状況にある時、これを突破し豊協化する戦術形態として発展させられていくべきものである。現在の日本における蹄級攻防の状況下にあっては、都市ゲリラ戦術はこうした枠組に規定された時、はじめて効力を発揮するのであり、発展の道を持つのである。
日帝国家権力との直接的な権力闘争、武装蜂起に突入しているのだとは決していえない現在の局面にあっては全人民的な政治闘争の領導をつうじた階級闘争全体の覚醒と、人民の革命勢力への組織化が基軸をなす闘いなのであり、そこにおいては情勢全般の戦略的領導こそがめざされねばならない主要課題である。
中核派はその先制的内戦戦略、「現代戦争テーゼ」において、対カクマル戦の貫徹を蜂起戦(=権力闘争の一環)ととらえ、その大爆発が日帝権力との攻防に打ち克つ道である等と把握しているわけであるが、それは全く主観主義以外ではなく、事実十年間の対カクマル戦争の継続をもっても主体的に日帝国家権力を追いつめることにつながった等とは全くいえないのである。
われわれがかかげる独白の戦争の論理は、より普遍的妥当性をもった「政治の論理」の継続としてあるものでなければならず、そこでは以上述べてきたような常識性の存在こそがカギとなること、これを是非とも確認しなけれぱならない。
総じてわれわれは、新たな領域への突入をめざすからといって、これまでの政治展開との断絶性においてそれをなしえると考えてはならず、逆にその継続性の追求のうちにこそ核心を求めつづげねばならないのである。組織生活の左翼性と主体の革命的方向での形成さえなされ続けているならば、どんなバリエーションをもっての闘争展開も戦術の駆使も全く可能なことであり、絶対に権力はわれわれを撃沈し、粉砕することはできないのである。問われていることは日帝との攻防に勝利する道であり、内ゲバに勝つことが一切を規定するなどということでは断じてないのだ。
「三つの原則四つの規範」に示される政治展開の方向性こそは、それ自体毛沢東の持久戦論の考え方に学んだ軍事武装闘争遂行の論理であることが今こそ想起されねばならない。
われわれがこうした闘い方を継承することが勝利的方向であると断言するのは、60年代後期の安保闘争、ベトナム反戦闘争、全国学園闘争などの経験を経、70年代初期の武装闘争に全面的に突入した貴重な経験の蓄積、その主体化においてつかみとった確信にもとづくからである。われわれは勝ち進みもしたが、幾多の敗北もきっしたのであり、73年6月アダチ分派問題の発生が70年代初期軍事武装闘争遂行上の陥穽から生じたものであったことをかんがみても、そこで蓄積された貴重な経験は絶対に生かされるべき教訓である。その総括をここでくわしく論じるわけにはいかないが、問題はやはりわれわれが如何にして政治的に勝利しぬげるのか、武装闘争を内包しつつ組織の発展強化と党勢の拡大をなしうるのかにかかっているのであり、組織飛躍・党的展望の拡大と結合しない武装闘争の自己目的化や軍隊づくりは、結局は自已満足的な結果しかもたらさないものであることを全党・全軍の共通の認識にしておかなければならない。
この点でわれわれはレーニンが1906年「モスクワ蜂起の教訓」を執筆するに及んでなお「プロレタリアートの党はパルチザン戦闘を唯一の闘争手段、あるいは主要な闘争手段とさえみなすことはけっしてできない—この闘争手段は他のいろいろな闘争手段に従属していなければならず、もろもろの主要な闘争手段とつりあっていなければならず、社会主義の啓蒙し、組織化する影響力によって純化されていなければならない」と繰り返し述べていることを学ばねばならないのである。レーニンはパルチザン戦闘の肯定においてこう書いているのであり、その骨子は「運動を解体させるのはパルチザン行動ではなくて、パルチザン行動を掌握することのできない党の弱さである」という点にあるのだ。
われわれに間われることはパルチザン戦闘を内包しつつもなお闘争を全体的に発展させる政治の継続性ということであり、その根っ子となるものは結局「政治の主体化」、党組織における闘争指導能力の完全な主体的獲得に求められるのである。
以上から結論づけられることとして、わが同盟は内ゲバ党派との一対一的攻防に入るのではなく、対日帝実力闘争のゲリラ・パルチザン戦闘をも内包させた高揚の道を切り拓き、それをもって内ゲバ党派を逆規定する関係性を創出するべく闘いぬくということだ。全人民的政治闘争の実力闘争としての発展の激化の中に内ゲバ党派との攻防をも逆規定させ、そこで勝利の道を切り拓いていかねばならない。それがわが同盟が志向し追求すべき基本路線であり、戦旗・共産同の現下の武装闘争路線の骨格をなす考え方である。これを是非とも意志統一したい。
83年8月ニュージャージー寄港、トマホーク配備阻止闘争は、こうした対象化に基づき闘いぬかれるべき全人民的政治闘争であり、8・8パイプライン供用開始粉砕戦との結合において、全党全軍の死力をつくした闘いを遂行しぬこうではないか。
ところで今一度とらえかえしておくならば、3・27三里塚闘争を組織化する過程において思いもよらぬ中核派との党派闘争に直面し、それへの対処に苦慮せねばならなかった3~5月の闘争過程でのわれわれの混乱は、そもそもわれわれが三里塚闘争方針としては、
(1)反対同盟の分裂固定化は否定的なものとみなし、再統合の実現に向け尽力する。
(2)三里塚闘争の死滅につながる内ゲバ事態の三里塚闘争への持ち込みはなさず、その回避をはかる。
(3)反対同盟農民の主体性を無視し党利党略のみで三里塚闘争にかかわる傾向を強める中核派に与しないが、同時に反中核運動に空港反対運動の内実を切り縮めるような一切の傾向にも反対し、独自の立場をとる。
(4)一坪共有化運動の推進は反対同盟の方針に従う必然性において闘わんとするものであり、党派として一坪共有化運動に拘泥する理由は歴史的にいっても存在しない(昨10・11まではそもそもわれわれがこの問題をめぐりインター方針と連帯する会内部でぶつかっていた)。
(5)党派利害の反対同盟への押しつけ、反対同盟員のそぎおとしは農民同士の離反をつよめ団結を弱めるので批判する立場にたち、あくまでも反対同盟の主体性にもとづき闘い抜く方向を堅持する。
などといった内的確認をなす位置にあったにもかかわらず、こうしたわれわれの意図とはウラハラに「分裂の主謀者」、「一坪共有化運動の権化」として中核派に批判され、「打倒の対象」とされることから生じた組織的戸惑いを内的根拠としたものである。
これは結局は2・22声明から3・5声明提起に至る過程での、三里塚現地におけるわれわれの対処が独自の政治的立場の貫徹としてはなされず、中途半端に現場の自然発生性に拝跪する傾向におち入ったため生じた問題なのであるが、このような事態の生起は、われわれの政治的観点や路線的方向を対象との関連で具体化し、物質化する構造的な力の切り拓き、つまり本質的な意味での「政治の主体化」が組織的になされない限り、今後ともおこりうることといわねばならない(例えば思いもよらなかった七九年間題という形で過去においても同様の政治的混乱が生まれている)。
が、ともあれ、この結果われわれが一時期三里塚闘争から後退せねぱならなかったことによって、その政治的空白に乗じる形で、反対同盟(熱田一代表)の内部では青年行動隊がヘゲモニーを形成し、又第四インターとプロ青が党派的にそれを尻押しする構造ができあがってしまったのである。
つまりわれわれは3・27闘争時に同盟に対し有していたヘゲモニー性からさえも後退する位置に現在たち、しかも闘争の方向が例えば5・20関東ブロック集会に見られるように、二期決戦も、8・8パイプライン供用開始粉砕も問題としないエコロジー運動丸出しの脱政治、脱党派を基軸とするに及んでは「空港廃港、農地死守、二期着工攻撃粉砕」の基本路線さえもがあいまいなものになりつつあるのではと憂慮しないわけにはいかない。
もちろん熱田氏や小川源さんなどの親同盟は、昔とかわらぬ気持ちで闘っているわけだが、実際の闘争ヘゲモニーが青行隊に移行している以上、このままでは二期工事の来年度着工の切迫性に対しても全反対同盟をあげては闘い抜けないのではという危倶さえが生じてしまうのである。
その場合問題となることは、もとより革命党派に結集しているわけではないそれ自体戦略的総路線を内包しない青行の「変質」にあるわけではない。そうではなくてインター、プロ青が無批判にその傾向にのっかり、反中核の一点だけで結束を強めようとし、三里塚闘争全体の戦略的方向性を全く無定形なものに置き換えんとしつづけていること、そのデタラメ性と非マルクス主義こそが批判されねばならないのである。
この間の経緯から言えば、とくに78年3・26管制塔占拠闘争や5・20開港阻止決戦を「連帯する会」主力党派として担った第四インターの政治的後退は著しいものであり、例えば『第四インターナショナル』No.45影山論文などでは、その傾向が「新しい三里塚闘争理論」にまで高めあげられようとしているのである。ゆえにわれわれはここにおいてこの彰山論文に代表される第四インターの三.二六総括や闘争の方向提起に対し明確な批判を加え、われわれと彼等の路線上の対立の根拠を明らかにしておく必要がある。
そこではわれわれと彼等のくい違いが、全く本質的な路線対立にねざすものであることは、ただちに判明するのである。
1982年10月発行の『第四インターナショナル』45号所収、「三里塚空港廃港への戦略のために」、影山進二論文は、×××××××の××の執筆によるといわれているが、その最も特色とするところは、第四インター的ものの考え方H戦術左翼主義が骨格的に浮かび上がっていることにある。
つまりインターの本音で書かれた三里塚闘争論として、戦術左翼の思考で書かれた労働組合主義、右翼経済主義をそれは全面露呈させているのである。
たとえばその出だしからがそうである。「戦後労働運動を支えた本隊は大局的に常に三里塚闘争の外にいた」「総評労働運動と三里塚闘争は互いに多少触れるところはあっても、ついに今まで合流することはなかった」「三里塚闘争の勝利はこの本隊をたぐりよせる闘いである」。
結局これが影山論文の言いたいことのすべてなのかもしれないが、社共の闘争放棄と権力への屈服(=条件闘争化)に対し、三里塚農民がこれを拒絶し、非妥協長期の実力闘争として農地奪還の闘いに突入した闘いの契機そのものが、この影山論文では全く無視黙殺され、労働組合主義的にゆがめられ、総評労働運動をたぐりよせる闘いに勝利の展望が置換されることから、すべてが出発するのである。
3・26の総括もこの位置からなされるのであり、それは「戦術的突出」でしかなかったとされる3・26の意義の「否定」を別の戦術の展開において置換せんとするものでしかない。
すなわち「3・26は60年代後半から展開された新左翼の戦術急進主義運動の極致であり、それを最も批判したわれわれがそれを最大限のところで体現したところにおいて新左翼の歴史的使命を終えた」「偉大な3・26の戦術的勝利は3・26以降、ただちにその戦略的弱さを内包していたことを鮮明にした」「3・26はさきにも記したように、その進撃は権力、政府に対して『突入』の域を出てなかったところにおいて、全国的には労農人民の記憶の中に霧散され、吸収されてしまった」というのである。
これが「偉大な3・26」を主力として担った党派の現在的な3・26に対するうけとめの言葉であるのかと思うと、全くあんぐりしてしまうのであるが、3・26へのこうした評価から影山論文が言わんとすることは、「3・26を越えて権力総体に立ち向かう革命への準備をとり急がねぱならない」「二期阻止・廃港闘争は戦闘部隊の準備では代替のきかない戦略上の問題である」「公団を包囲.占拠するにとどまらず権力総体を包囲・占拠する組織建設と大衆運動方針があわせて必要」ということである。
つまり、二期決戦だ、二期着工阻止だと騒がず、権力総体を包囲・占拠することをもっと大局的に考えよ、組織建設を急げ、戦術的突出でない運動方針を提起せよ、と主張しているわけである。そこでは現在の三里塚闘争に対する認識として「その後の話し合い攻撃の懐柔の中で、反対同盟の中に条件派的『長いものにはまかれろ』という空港との共存の思考がはびこりつつある」といったことが全く没主体的に語られ、それを下敷とすることによって「二期阻止」と「廃港のための闘い」はちがうのだということが強調される。
つまり、「三里塚闘争は視覚的には、困難な廃港への戦略を後方におしやって目にみえる二期阻止の闘いに全体が傾注している。だがわれわれはこの困難を3・26以降今一度『完全勝利』即ち廃港のための闘いを開始するところにきたといえる」という具合に。
ここから影山論文は二期阻止への突出ではなく廃港のための闘いだ、要するに「権力の包囲という戦略」だなる内容を開陳するのであるが、それは実際は二期決戦から逃亡するための方便でしかないものである。
そこではまず「政府・公団に奪われていった大地を北総農民の死活をかけた共有すべき社会建設の財産として逆に反対同盟が奪還していくことは二期阻止を攻勢的にかまえ、しかける闘いだ」と、廃港のための闘いとして大地共有運動がかかげられる。そして「ここに全国的に広がっている反戦・反核・反安保の巨万の大衆のエネルギーを補給しながら村の再建-平和村を実力で建設してゆかねばならない」「反対同盟は公団の土地を箏い返し、減反に苦しむ農民の先頭に立って、飢えた第三世界の人々に米を送り、争議中の労働者を真底支え、連帯していくセンターにならねぱならない」「そして周辺住民を空港の騒音と開発公審に落とし込む『県民のまきば』や『芝山文化博』『工業団地』などの『共存』の幻想を打ち破り『三里塚農民の支配と自治』で行政までを管理する闘いに踏みこまねばならない」と全くアプリオリに、あたかも権力との攻防ぬきにそれが可能であるかのような社会革命主義の夢が打ち出されているのである。
しかも影山論文の本題であったはずの労働者階級獲得のためには何をやるのかについては「職場の中に一労働者の中に、地域にそして世界に、三里塚の旗を掲げて反戦と、労戦の右翼再編反対と三里塚闘争支援の決議をあげて闘い抜くことは、今や歴史の連続性をかちとる闘いである」なるまことにお粗末な結論がセットされるだけなのである。
結局は、職場で「三里塚支援の決議をあげる」ことが、二期阻止ではない「廃港のための戦略」であり「権力の包囲」だというのである。なんとインチキな三里塚闘争論であり、逃亡の論理であることか。
われわれが見るべきことは、このような影山論文的発想が現在の第四インターの三里塚闘争論を全面的に支配しているということ、ゆえに二期決戦など結局とうの昔にインターは放棄しているのだという事実である。このような論拠を下支えにしつつ青行などがエコロジー的変質をとげている以上、第四インターの闘争路線にわれわれが与することは絶対にできないのであり一原則的な批判を繰り広げることはもはやわれわれの使命でさえあるのだ。
それではこの影山論文的発想の誤りは何か。
それは第一に総じて関西ブントの「政治過程論」と同様の、闘争戦術の駆使による階級形成、労働者の獲得、組織化論に本質的なところで第四インターが落ち入っており、組織戦術上の問題となることや党建設のための闘いがすべてそれに代行されようとすることから、矮小な3・26否定が導き出されることである。
言い換えれば影山論文は右翼戦術左翼主義の観点において急進左翼主義を批判するという自己矛盾で成立しているのである。もっとわかりやすく一言えぱ、政治過程論が「大衆運動の続行は当然その闘争を漸次的に深化させる。しかしながらそれのみによっては闘争の質的発展はありえない。この量から質への転化即ち『飛躍』をもたらしうるもの、これこそが我々のいう戦術である」といい、「改良闘争を戦術によってより政治的に、つまり対権力の直接的対決へ向かって発展させ、その過程で革命の条件を準備し、全体として大戦術へと発展せんがためである」という具合に、闘争戦術のエスカレートによって権力闘争にまで闘いを発展させようとする、戦術の左傾化をもってする権力との対決論であるのに対し、その裏返しとしての「突出」ではない右傾化、住民闘争へのレベルダウンをもっての権力との対決論であり、発想の根源は戦術左翼主義として同等なのだということである。
少しは冷静に考えてみようではないか。
3・26が空港に対する戦術的突出でしかなく、又あの時管制塔を破壊したからといってそれが政府危機-政治危機-革命情勢に至るような条件になかったということは、まずもって自明のことである。ましてや管制塔占拠をやったがそれによっては総評労働者を直接組織できなかったとか、市民社会深部でのヘゲモニーの獲得には至らず、空港を解体しきれなかったなどというのも、それ自体あたりまえのことである。
だが影山論文はこの組繊活動の日常的遂行をつうじ長期にわたって積み重ねられていく組織建設上の問題、その前進を媒介にしての組織力量の発展、伸張の問題、そして労働者階級の組織化の進展など、ひとえに組織建設上の問題として独自の位相において措定されるべきことを、管制塔占拠の一事をもって一気になし遂げられるべき大衆運動的課題であったかのように設問し、それがはたせなかったことの否定として、今度は戦術的突出の意義そのものも否定するという度しがたい誤りにおち入っているのである。そこから突撃ではないもっと住民運動的な戦術”大衆運動方針が必要だといっているにすぎないのであり、それが権力との対決の「戦略」にまでまつりあげられているだけなのだ。
われわれは74年戸村選以来のインターとのかかわりにおいて、とくに三里塚闘争方針というにとどまらず、何故インターがああも次から次へといろんな闘争戦術を考えつき、その実現を要求してくるのか全く不思議であったのだが、こうした影山論文の発想を基軸的なものとして考えるならば、それがまさに第四インター的発想の基軸でもあることがわかるともいえる。第四インターはレーニン主義党建設の意志統一を骨格として持たない連合党であり、関西ブント的な戦術左翼(しかも右派の)集団でしか本質的にいってないのである。
要するに労働組合内での民同的存在を根っ子としつつ、その発展を戦術イメージのアップ、ダウンによってはかろうとするだけの集団であり、ゆえに結集軸となっているものはただの市民主義左派の心情でしかないのだ。
だから戦術的突出ではない戦略の構築だという場合でも、その戦略は日帝権力の攻撃の激化に抗し、階級情勢そのものを革命的激動に向かって高めあげていく戦略的領導の方向性として措定されるわけではなく、労働者階級をより多くつかみとるための戦術的イメージのダウンとしてそれは語られなおすだけのことである。
つまりは労働者階級なり農民存在にとってのもっとも身近な問題をとりあげ、ゆるくつかみ込んでいくというように戦術的ダウンをなすことが、戦略の構築あるいはその実現とされるわけである。
このような影山論文なりインターの発想に最も欠落しているのは、多量の共産主義者の産出、労働者階級・農民の主体形成、階級形成の観点=革命運動の内延的発展の追求であり、レーニン主義的な目的意識性をもっての組織化、革命的前衛への発展を如何にかちとるのかの組織的観点がないのである。
組織建設の内的発展を独自に措定せずそれを戦術イメージに横スベリさせることが、質をとわない量としての獲得のみを志向させ、同時に内的コンフリクトをともなわない組織建設の空洞化を不断にまねかしめるということなのだ。
しかも情勢の推移に対しこれを受けとめ、情勢そのものの戦略的切り拓きをめざす発想も欠落させたまま、党としての闘いを即党のための闘いに等置しようとするのであるから両者は混在化され、闘ってものびないから闘わないという結論が出てこざるをえないのである。これでは革命党建設の内延的発展、共産主義的主体への形成をかちとることもできなければ、階級闘争の戦略的領導もできないこと、うけあいである。影山論文の内実とするものはこれだけですべてである。
第二にこれをもう少し内容的に整理するならば、そもそも革命運動への主体的かかわりと戦略的領導においては、二つの要素の獲得が排定されるのである。すなわち一方における党としての闘いにもとづく情勢そのものの戦略的切り拓き、権力の攻撃を打ち破り侵略反革命を阻止し、蜂起を可能とする客観的条件をつくりあげていく運動的領導の闘いと、他方におけるその過程においての多量の共産主義者の産出、労働者階級の政治的意識の覚醒、それを保障する前衛党建設の前進という組織領域での闘い=主体的条件の形成(党のための闘い)である。
これらは一つの絡みあいとして進展するわけであるが、一個の大衆運動の戦術展開の中でそれが時間的にも場所的にも同時に実現されるなどというわけでは決してない。弁証法的な連関構造をもって一前衛的指導性の内容としてそれは発展するのであり一ゆえに3・26管制塔占拠ひとつをとりあげ、そこに権力の打倒までも内包させる形で両要素の貫徹性を吟味しようとすること自体が本末顛倒というべきことである。
それは3・26への余りの過大評価というものであり、六〇年安保で国会に突入したが安保はとおってしまった、それは何故だ式の戦術への意味付与でしかない。
これはわれわれが3・26総括を「武徳の思想を獲得せよ」として、闘いぬいた精神的緒力の評価と闘争的意義の守りぬきに求めようとしたこととの対比からいってもインターの理論的対象化の遅れを示すものである。
影山論文のそれは文字通りの一点突破・全面展開の志向であり、全面展開しなかったから一点突破もいけなかったのだという総括に等しい。
そしてそこから来たるべき二期着工攻撃一の全面対決も否定する、むしろエコロジー的に平和村建設を展望し行政までを支配する自治区をめざせという裏返し的な戦術ダウンを要求するのであるから、どうしようもない右翼日和見主義の総括だといわざるをえないのである。
しかも政治的にはそれは3・26をもってこれまでの空港建設阻止闘争は終わったものとみなせ、実力対決を叫ぶ新左翼運動そのものが「歴史的使命を終えた」という認識にたて、なる結論に至るのである。事実その通り影山論文には書かれているではないか。これはまさにブントの右派潮流的敗北主義であり.闘争放棄であり、裏切りであって絶対に許せない逃亡の論理以外の何者でもないのである。
そもそも日帝権力を打倒せず、「行政まで支配する」ことがどうやって可能だというのか。或いは二期工事をやられて空港が完成して平和村をつくったところで、どうしてそれが廃港につながるというのか。この論理矛盾に対してさえインターと影山論文は無自覚である。
ここではっきりとさせておくべきことは、「歴史的使命を終えた」のは、3・26で持ちこたえることのできなかった第四インターなのであり、断じて三里塚闘争ではないということである。影山論文はインターの敗北宣言であり、逃亡の合理化以外のどんな位置も持たないものである。それを政治的に隠蔽すべく青行の尻押しをして三里塚闘争をエコロジー運動的に変質させようとし、「連帯する会」からの「決戦論者」つまりわれわれ戦旗排除を策しているのだ。中核派のゲリラ戦の展開を「地下秘密戦争」などとヤユし茶化しきるのも同様の敗北主義、右翼的逃亡の合理化以外の何ものでもない。
われわれは三里塚闘争の原則的方向をここまでおとし込めようとし、革命的左翼の戦闘的伝統をはずかしめる第四インターに対しては、われわれの戦略的方向の保持と三里塚闘争勝利のためにも、これ以上の「妥協」をつづけることは原則的にできない。
三里塚闘争の勝利の方向をめぐる路線論争を大胆に提起し、二期決戦勝利を反対同盟の全体的確認とするべく闘いぬき、はっきりとした分岐をかちとろうではないか。それがない限り、「反戦・反核の砦」を宣言した三里塚闘争の革命性は死滅し三里塚農民の不屈性・不滅性そのものが闇に消えさっていくことを、今やはっきりと認識するべきである。
第四インターからわれわれが学ばねばならないことはここにおいて潰えさったのである。すべての同志諸君に確認したい。八・八パイプライン供用開始を目前に控え、二期着工のタイムリミットも来年いっぱいといわれるように、決戦体制構築の必然性は日増しに強まっているのである。最早一刻の猶予もできないほどに切迫した情勢として現在をとらえ、二期決戦必勝の戦闘体制を構築すべく、われわれは論争の組織化に着手しようではないか。三里塚闘争のエコロジー的変質との闘い一わけても影山論文に示されるようなインターの実力闘争からの逃亡の開始は徹底的に批判されなくてはならない。三里塚闘争の勝利にかけて原則的な路線論争を組織しぬくことは、八三年春夏大攻勢の戦取の重要な課題であり、さけてとおることのできない一大水路である。これを以上の内容確認をもってはっきりと確認してもらいたい。
われわれが八三年春夏大攻勢の大高揚を通じかちとるべきものは、政治組織的課題としては、
(1)ポーランド、中南米、アフリカ、韓国などでの階級情勢の高揚、ヨーロッパ・アメリカにおける反戦反核闘争の大爆発に呼応するものとして、中曽根ファシスト政権の改憲・軍拡・核武装化攻撃と真っ向から対決しきり、これを打倒する日本における階級闘争の高揚を原則的につくりあげていくこと。
(2)わけても八・八パイブライン供用開始による三里塚二期着工攻撃の切迫性をふまえ、8月戦艦ニュージャージーの横須賀寄港、戦域核ミサイル・トマホークの第七艦隊配備を実力で阻止すべくありとあらゆる闘争形態をもって闘いぬくこと、もって日本階級闘争の反帝反侵略闘争としてのうねりを大衆的実力闘争の高揚としてつくりあげていくこと。
(3)全国住民闘争なかんづく三里塚闘争のエコロジー的変質に対してこれを批判しきる立場にたち、第二の光州蜂起をめざす安保-日韓体制打倒潮流としての旗幟を鮮明にし、三里塚二期決戦勝利の闘争陣形をつくりあげていくこと。
などに収斂されるものである。
そこではとくに一月の訪韓・訪米、四月の東南アジアASEAN諸国歴訪をつうじ、安保-日韓軍事同盟の強化を、NATOと同等のものとして作りあげようとし、「戦後史の転換をはかり」「タブーに挑戦する」ことを宣言した右翼ファシスト中曽根内閣の露骨な戦争遂行能力構築の策謀に対し、既成左翼・社共が全くの闘争放棄の立場に立ち、何らの大衆的反撃を加えることもできないことを鋭く突き出さなければならず、そのために全国住民闘争なり草の根運動などが高揚の芽をもちつつ方向性を失って分散化し、政治的展望を喪失していることを暴露しきることが必要である。
同時にそれは60年代後半から70年代初期にかけ、日本帝国主義の軍事外交路線との対決を環としてベトナム反戦闘争を主軸に前進を続けた革命的左翼の闘いが、第二次ブントの崩壊、全国学園闘争の中教審-大学管理法案を通じての解体局面後、主流派となった革共同両派のセクト主義にもとづく内ゲバ戦争への突入によって後退を重ね、70年代~80年代の今日までを通じプロレタリア日本革命の正義性、大義性さえも喪失させるような混迷をもたらしつづけている問題としても批判されねばならない。これを内的に克服する方向性をもった独自の政治潮流の登場としてわれわれ自らを日本階級戦線に刻印しきることこそが必要なのである。
だがそのためにはわれわれには闘う日本人民の信頼をあおぐにたる党的展開力、党的戦闘力の蓄積が焦眉の課題であり、これを作りあげていく闘いとしての位置を83年春夏大攻勢はもたなければならないのである。
それは現実的、実体的には
(1)全人民的政治闘争の戦略的領導を保持しうる党的動員力の形成、戦略的中核部隊の拡大を課題とするのであり、
(2)その力を背景にしつつ日帝国家権力の警備公安警察体制、破防法型治安弾圧体制の確立と正面きって闘いぬける闘争遂行能力の蓄積が必要である。
まさにゲリラ.パルチザン戦闘の遂行はそのような戦闘力の党的確立へむけてのわれわれの実践であり、重大な決意をもって臨むべき勝利にむかっての試練であることが確認されねばならない。
さらにわれわれが党的展開力を真に高めあげ、構造化されたものとするためには、
(3)共闘関係の従来の枠にとらわれない拡大とその領導が必要であり、統一戦線問題の重視とそのための専門家の養成はいまや必須の党的課題と言わねばならない。
3・27闘争をめぐる中核派との攻防の過程においても、三里塚現地におけるわれわれの政治展開が背骨性をもち、独自の政治主張と主体的かかわりにもとづいたものであったなら、現地の自然発生性に拝跪した結果としての中核派との「党派戦争」事態に至るまでの必然性は全くなかったといえるのである。それは中核派の非をなじるだけでこと足りることではなくわれわれ自身の不充分性、弱さの露呈でもあることを認めないわけにはいかない。
少くとも3・27を前後する『戦旗』紙面での主張、つまり党的意志統一と三里塚現地の現場的状況に空白がうみ出された点を切開しない限り、ということはそれを埋める組織指導と政治の不在から問題を解きあかしていかない限り、「どうしてあんなことになったのか」を構造的に対象化することはできないのである。ここでわれわれがなすべきことはあれやこれやの解釈であってはならない。もっと実体的な主客の動きの分析が必要なのであり、そこでの主体的かかわりのリアリティーの把握にこそ、今後の克服の一切のカギはひそんでいるといわねばならない。
なおかつ83年春夏大攻勢の過程を通じて把みとるべきこととしては、
(4)圧倒的な党的動員なり政治展開を支える柱となる機関紙誌発行体制の充実の問題もあげられる。つまりイデオロギー的豊富化や政治理論としての正当性が党派闘争のつよまりにつれ今後ますます必要となるわけであるが、そのためにはイデオロギー的普遍性をもった理論家、ライターの養成が集中的になされていかなければならないのである。
もはやここまで党勢が発展し、プロフェッショナルな政治組織力が党的展開の保持のためそれ自身としても必要とされる現在にあっては、手工業的なごまかしとか、個性一般の在り方で全党を領導し闘いを組織することは全くできない。そもそも革命党が言語を媒介として、意思の伝達をもって機能する組織体である以上、マルクス主義革命理論の主体化とそのつきつめの能力、その発現を通じての党的指導の貫徹は必要不可欠な条件である。
しかしわれわれはそうした理論家の養成に未だ成功しきってはいない。それは若年層であろうと経験が乏しかろうと、より少い年月でその力を蓄積した主体としてイデオロギー的対象化能力を有するものを党的に引き上げていかざるをえない客観性の下に、現在われわれがおかれていることを意味するのであり、それを通じての機関紙誌発行体制の充実、内容的豊富化が、圧倒的な動員的飛躍のためのカギをなすものである。これを具体化しなげればならないのである。
ゆえにつきつめていえぱ、5・22を皮切りとし8月闘争までも展望する春夏大攻勢こそは、文字通りわれわれ戦旗・共産同が本格的な革命党・革命勢力として独自の力を発揮し、党的に確立していくための「党のための闘い」としても措定されねぱならないのであり、この過程を通じることによっていくつかの党的ビューローを組織的に確立しきり、しかもこれを実体的に支える主体を養成しぬくことが問われているのである。
三~五月の試練を主体化し、試練をかいくぐった蓄積において、次の前進をつかみとることが今やわれわれに問われているのであり、風がやんだから又元に戻れというのでは断じてないのである。この十年間で最大の外的危機として八三年春を受けとめ、試練をのりきった地平にたつ主体としての次の一歩を印すこと、それが春夏大攻勢の戦略的位置である。そのためにはいくつかの党的ヘゲモニーの移行は必然的なものと考えざるをえず、当然組織的配置転換もなされねぱならない。
それはある意味では年功序列的に形成されてきたともいえるわれわれのこの十年間の党建設の在り方を、ここにおいて近代化する試み、現在の党勢と実情に応じた切り替えとして党の指導性を一新する闘いとして打ち抜かれねばならず、この位置から春夏大攻勢を峻烈な問題意識のもとすべての同志諸君が闘いぬくことを求めるものである。われわれが第二次ブント的空洞化におちいることなく将来も勝ち進むために、全党全軍の同志諸君がこれに協力し、尽力することを要請したい。
まさしく中曽根ファシスト政権の成立以来日帝の軍備拡張、侵略反革命政策の強化は、まさに列島の「不沈空母化」として急ピッチで進められているが、防衛庁の兵器などの正面装備調達費だけをとってみても、八二年度調達実績で1兆1270億円にもたっしているのである。81年度が7500億円であったこととの関連でも、3700億円、実に50%の増大ぶりなのだ。これは一機100億円を上回るP3C対潜哨戒機、F15迎撃戦闘機の大量調達のためだが、これがさらに83年度では1兆5000億円まで増大される予定なのだ。
四海峡封鎖やシーレーン一千カイリ防衛の実現において、日米韓軍事一体化が進められている時、そのホコ先は闘うアジア人民にむけられるわけであり、侵略反革命戦争を自国帝国主義打倒の内乱に転化する戦路の構築、その政治展望の具体化が今われわれに求められているのである。
問われていることは現代帝国主義分析の正しさとか、政治主張の正当性一般にあるのではない。それを一歩突っ込んだ地平において日本労働者階級人民を具体的な反帝反侵略闘争に組織化し、前衛党として闘いを領導しきる実践力をつくりあげることがわれわれの課題なのである。アダチ分派問題後十年の歳月を経、ようやくそれを己の主体的任務として課すべき地平にまでわれわれは辿りついたのである。ここまで前進をとげた以上、われわれの存在を無視黙殺して日本階級闘争の推移を考えることなど誰にもできないし、第四インターやアダチグループが反戦旗包囲網の形成を矮小な形で追求しても、そんなものは絶対に成功しはしない。もはやわれわれが内的な崩壊をとげぬかぎり、革命党と革命勢力としてのわれわれを圧殺することは絶対に不可能であり、レーニン主義的な前衛党は常にそのような位置にたつものとしてのみ成立する。この地平をガッチリとふまえぬき、新たな飛躍にむかっての党的長征として、全身全霊をかけて83年春夏大攻勢の大勝利をかちとろうではないか。
すべての同志・友人諸君!闘う主体としての已の根底的飛躍、革命的共産主義者としての自已形成の貫徹をかけ、乾坤一擲の決意をもって春夏大攻勢の大爆発にむけ突っ走れ!これまでの訓練、自已強化の闘いが本当に主体化されたものであったのかどうかをこの試練に已をさらしきることによって検証せよ!われとわが身に流れる革命的共産主義者としての全思想性、全精神をこの闘いの勝利に傾注しぬき、明日を闘いとろう!
「内戦の時期には、プロレタリアートの党の理想はたたかう党である。これは絶対に争う余地がない」
という「パルチザン戦争」におけるレーニンの引用をもって結語とする。
———
『闘う労働者』83年6月号より転載。モニターで読むことを考慮し、画面が文字でびっしりと埋まらないよう、適時段落ごとに空行をいれました。原文には章立て以外、いっさい空行はありません。
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草加さんお久し振りです。
夜中にこの懐かしくも愛すべき論文を読んで空気入ってる私は一体....。
草加さん。
テキスト化は大変かとは思いますが、たまにはこういう過去の論文のアップもお願いいたします。
>チョシさん
え?空気入っちゃうんですか?21世紀の今頃になって(笑)本当にいい人だなあチョシさんは。
でもまあ、そうだなあ、手元に残ってなくて、20年ぶりくらいに突然読んだら、当時の熱い思いがよみがえってしまうかもね。
当時はとにかく必死だったもんねえ。「今ぼくらが踏ん張らないと、三里塚闘争は内ゲバ主義とエコロジストの両極に分解して死滅してしまう」みたいな悲壮な使命感があって、そのためにはマジ命かけても悔いはない、俺も管制塔戦士や韓国民衆のように生き、かつ死ぬのだと思いつめていましたっけ。
今、こうして読み返して、その後どうなったのかなども考えますと、やはりぼくらは若くて未熟で、そして押し付けがましかったのかなあと思います。中核・インター・戦旗と、それぞれに反省すべき点があると思いますが、まず他派を責める前に自分達、そして組織を責める前に自分を振り返る必要があるのかなと思う最近です。
でもまあ、「苦労してこんな長い文章載せても、誰も読まないかなあ」と思っていましたところ、チョシさんが少し元気になられたということで、私も転載した甲斐があったというものです。
先ほど、Blog Pet のはたぼうに「批判憶えているとか思ってんの♪」と言われて落ち込みぎみの草加でした。
草加さんどうもです。
空気入りましたよ(笑)
と言うかこの論文によって意思統一され、空気入っていた当時を思い出してちょっと熱くなりました。
お恥ずかしい。
>今ぼくらが踏ん張らないと、三里塚闘争は内ゲバ主義とエコロジストの両極に分解して死滅してしまう
ああ。本当に心底そういう危機感が我々を突き動かしていましたよね。
「何でわかってくれないんだ!?」みたいな苛立ちもありましたし、そこが過ぎたところもあったかもしれません。
この論文を読むと、伸び盛りだった当時の勢いと瑞々しさが溢れていますが、同時に悲壮感もちょっと感じますね。
今思えばその後の戦旗派と三里塚とのジグザグから7・20決定に至るまでの「悲劇」へのカウントダウンはこの論文の辺りから始まっていたのかもしれませんね...。
草加さんが冒頭でおっしゃている通り、インターへの遠慮の無い批判は当時インターだった方はさぞかし不快だとは思いますが(笑)間違いなくこれが当時の戦旗派内部の空気だったと思います。
ですから私はむしろこの論文を「ブレチン(SENKI掲示板)」などで、80年代の戦旗派の「エコロジー批判」がまるで高山氏という個人の行った突出したモノであったかのように論じていた若手BUNDメンバーに読んで欲しいと思いますね。
80年代のメンバーはこの論文のスタンスによってガッチリと一枚岩になって意思統一されていたことを知って欲しく思います。
草加さんが述べておられるように戦旗派にも反省すべき点が多々あるかと思いますが、最近アッテンボローさんのところなどで展開されている3・8分裂前後を巡る論争など読みますと、元戦旗の拠って立つところって結局ここなんだよなぁとか再認識してしまいますね...。
三つ子の魂百まで...じゃないですけど。
そんなことないですかね?(笑)
読んだ記憶があります。
俺自身は、あまりのインターの党派政治の醜悪さにイヤになっていた時期でした(構成する個人の問題もあったでしょうが)俺の基本ベースは、この論文付近の意志統一にあったのだと思いますし、なんか、今もそのままだなぁ(^^;この身がついえようとも、必ず、人民は勝利する。「俺は勝利の捨石でかまわない」とは、大先輩の言葉ですが、俺は大切にしたい。実践するのは、困難ばかりがつきまといますが(笑)今後とも、よろしくです。