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「蝶」を追う人ー西條八十の詩によせて

ダイジェスト版朗読(9:30)

 読売新聞のコラムに西條八十の「蝶」という詩が引用されていました。高校生の頃に読んで、衝撃といったら大袈裟だけど、強い印象を残した詩です。大人になって様々な経験を経た上で久しぶりに読んで、また感慨を新たにしました。

やがて地獄へ下るとき、
そこに待つ父母や
友人に私は何を持つて行かう。

たぶん私は懐から
蒼白め、破れた
蝶の死骸をとり出すだらう。
さうして渡しながら言ふだらう。

一生を
子供のやうに、さみしく
これを追つてゐました、と。

 西條八十という名前にピンとこない人でも、「唄を忘れたカナリア」の詩を書いた人、また、「蘇州夜曲」とか、ヤクルトスワローズの応援団がよく歌っている「東京音頭」、それに”若く明るい歌声に”で始まる「青い山脈」の作詞者と言えば「ああ」と思われるのではないでしょうか。他にも”母さんお肩をたたきましょう”の「肩たたき」など、童謡も多く手がけています。

 読売のコラムでは「蝶とは詩作のことであろう」として、西條八十は生涯詩作を追い続け、すぐれた作品を多く残して人々に夢を与えた成功者みたいな書き方で、もちろんそれはそうなんでしょうが、八十の人生を「めでたしめでたし」な明るい解釈をするのに、なんでわざわざこの詩を引用するのか違和感がありました。

 どうも「読売文学賞」に筒井清忠さんの「西條八十」(中央公論新社)が選ばれたことを受けて書かれたらしいのですが、こういう解釈では、「地獄へ下る」とか、そこに「父母や友人が待っている」だの、「蒼白め破れた死骸」だの、ただ子供のように「さみしく追つて」一生を終わっただのいう表現が、まったく無視されてしまいます(人それぞれだから「そういう見方もあるのか」でもいいんですが…)。

西條八十(wikipediaより)

 この詩を初めて読んだ高校生の頃の私は、政治には全く興味がありませんでした。実は今の私も、本当は言葉の本来の意味での「政治」になんて興味を持っていないのかもしれない、いや、きっとそうなんだろうと思います。ただ小学校の時から、米軍が無抵抗で武器も持たないベトナム市民を無表情に撃ち殺していくシーンや、当たり前のように農民の家を焼き払って回り、追い出された農民の女性が赤ん坊を抱きかかえて泣き叫んでいるシーンなどをテレビで見て衝撃を受け、米軍が憎いとか許せないとか思うよりも、ただ、こんな酷い目にあっている人をなんとか助けたいと幼心に思っているような、そんな子供でした。

 もう少し長じては、三里塚の農民が胸をはり、涙を流して抵抗しながら、機動隊に胸倉をつかまれて引きづられていく映像を見ては深く同情していました。私の頭の中では「機動隊=米軍」でしたが、当時のニュース映像を見せられたら、だれでもベトナムや三里塚の農民の方に同情すると思います。そういう意味では、ごく普通で当たり前の反応だったことは確かですが、ただ、彼らの悲しみが胸に迫ってえぐられたようだというか、普通の人よりもほんの少しだけ、「助けたい」という(ある意味思い上がった)気持ちが強かったかもしれません。

 現在も続くイラク戦争では、この時の「米軍にとってのベトナムでの経験」が「生かされ」て報道が見事に抑圧され、コントロールされています。たとえば「安全」の名の元に、報道陣はおろか、外国人全般をイラクから極力締め出そうとしています。報道陣も牙を抜かれ、ただそれに唯々諾々と従って米軍の庇護下で「安全に」情報を得ているだけ。ファルージャ大虐殺の現場に残ったジャーナリストのほとんどが独立系メディアの人間というていたらくです。

 こういう中だからこそ、「米軍情報とは違う視点」を提供してくれる、アルジャジーラや、民間ボランティアの方々の証言はとても貴重です。米軍やその協力者がこういう人々をいかに憎んでいるかは、アルジャジーラが国外退去を命じられたり、会社ごとアメリカ資本に売却するように圧力をかけられたり、また、記憶にも新しい高遠さんらへの外務省主導のバッシングなどを見ればよくわかります。

 それはさておき、高校時代の私は、授業中にも先生を無視して芥川とか太宰などを読みふけっている、非常に高慢ちきで嫌な子供でした(笑)。筒井康孝は「高校生に太宰とか読ませるべきでない」みたいなこと書いてますが、ある意味で確かにと思います。まあ、今時のおりこうで「常識的感性」の子供に太宰なんか読ませても、よほど感受性の強い子でなきゃ何も感じないので大丈夫とは思いますけど(うちの子だけかな?そうだといいけど)

 なんつーかなあ、うちの子供もフレンツ・カフカの『変身』とかはともかく、サン・テグジュペリの『星の王子様』ですら受け付けないので驚きました。呆れていると、友達も皆そうだって言うんですよ。ありゃー大人になってから読んでも、また違った感動があるけど、やはり高校生時代の精神でしか二度と感じとれないものもあるのに。『変身』も高校くらいに読んでおかないと、もう駄目だと思うんですよね。総じて本を読む態度が非常に受身で、すぐに「わかりやすい結論」が提示されるものを好み、読者の側から批判なり肯定なり、自分なりに何かを掴み取ろうとする態度や根気に欠けます。

 あ、また話がそれた(苦笑)。まあ、今日はこういうとりとめもないエントリーということで。

 西條八十の「蝶」の話をしてたんだっけ。やはりね、高校時代の私には、自分が「蝶を追う人間だ」という予感があったんだと思うんですよね。決して捕まえることのできない、また、捕まえたと思った瞬間に「蒼白め、破れた」無残な死骸になってしまう「蝶」をね。

 世の中には「青い鳥」を追っている人もいるけど、それと「蝶」を追っている人は全然別物、違う世界に生きている人だと思います。「青い鳥」を追う人は、それが手に入ると思って追っているんですよ。でも、「蝶」を追う人は、本当はそれが絶対に手に入らないと知っているんです。けど、それでも追わずにいられない、「蝶」を追っていない人は、本当に生きているとは言えないのではないか?そんな思いにかられたりしながら。

 そしてやがて人は皆、「地獄に下る」存在です。「蝶」を追う自分だってそうです。例外ではない。そこには父母や友人だっている。高校の時に読んだ私は、それを「人は所詮」地獄に行くべき存在だと、ややニヒリスティックに捉えたように思います。

 でも、今は少し違う。やっぱり自分は地獄に下る存在だと思うし、ほとんどの人もまたそう。「人間はすべて地獄に下る」と思います。けれども、今はそういう地獄に下るべき自分を愛している。肯定できる。そして一番大切なのは、自分以外の、すべての地獄に下るべき存在である人間全般を愛しく感じる。愛しているということ。私がこのサイトを続けたり、様々な闘争を応援したりするのは、この気持ちが原動力になっていると思います。

 地獄に行くべき私、それまでのほんのつかの間の人生、私は私なりに闘い続け、「蝶」を追いつづけるのだと。機動隊や米軍や関市長も含めて、「行為」は許せないし、もちろん今後とも激しく非難・糾弾していくけれども、深いところでは人間すべてが好きだし愛している。私も含めた人間はすべて「悪」を心に持っている。同時に「善」も心にもっている。世の中に善人と悪人がいて、自分は善人の側だという考えほど、世界を不幸のどん底に叩き込む「危険思想」は他にない。自分もまた、自分が批判している相手と一緒に「地獄に下る」存在だという謙虚な気持ちを忘れてはいけないと思います。

 だけど本来はね、貪欲に「青い鳥」を追う人こそが政治に向いているんであって、こういう「蝶」を追う人は、政治にはむかないと思うのです。というか、本人のためには政治になんて関わってはいけないんじゃないかと。政治の世界では、こういうのは「アマチュアリズム」とか「ロマンチシズム」とか言われて排除されるし、やはり負けてしまう。「お前は夢でも見てろ!」って感じでね。ごくたまーに、本人にすごい能力があって、リアリズムの世界でも名を残す人がいて、後世の人からは慕われるけれども。たとえば、世間一般に流布されている坂本竜馬のイメージや、チェ・ゲバラ、ガンジー、ジョン・レノンなどもそうなのかもしれないと思う(って、なんかみんな殺されてますが)。

 しかし私は政治に「関わりたい」わけじゃない。ましてやあらゆる意味でその世界で「成功」したいとも思わない。むしろやっぱり争い事や利害対立なんて嫌いだし、距離を置きたい。ただそれが欺瞞でずるい場合があると思うだけ。何度も言ってるけど、政治も理論も闘争もすべて「手段」であって「目的」ではありません。人生や命を賭けてるわけでもない。ただ、できることがあるのにしないのが嫌なだけ。最終的に願うのは、「政治」そのものがなくなること。つまり国家も利害対立(階級・搾取・貨幣制度)もない社会です。そのためにできることがあればするだけ。それが私の「蝶」です。それを私はちょうど「子供のように」追いかけているだけのちっぽけな存在です。

 高校時代に読んだ「蝶」の詩は、やはり少なからず暗い、あるいは悲壮なイメージがありました。でも、今は少し違います。懐から蝶の死骸を取り出した時の心情や表情は詩に書かれていません。でも、今は、きっと「一生を子供のやうにこれを追つてゐました」と、少し「さみしい」笑顔で言えると思うのです。その時に、小さなため息をつくことはあるとしても。

「蝶」を追うような種類の人間は、決してそれを無駄な一生だったとは思わないものなんですよ。

 

コメントを見る

  • 草加さん、こんばんは

    蝶といえば、スペインの内戦をテーマにした"蝶の舌"って言う映画を思い出しました。

    子供の目を通して、大人の社会を見ると言う構造は珍しくないものですが、きれいな自然と対照的な政治社会を描いており、心に残るいい映画でした。以下"蝶の舌"のホームページからコピベします。。。

    グレゴリオ先生がモンチョに教える“蝶の舌”。「今は隠れていて見えないけど、蜜を吸う時に巻いていた舌を伸ばすんだ……」。それは、今はまだ訪れないが、やがて来る新しい時代への期待と希望が隠されたものなのかもしれない。その日が来るまで、のびのびと自然の中を生きていてほしい。そんな先生の願いは、彼の引退の日、生徒たちみんなに放たれる。「自由に飛び立ちなさい!」

  • 今回の内容が、心にしみまして・・・
    初めての書き込みです。

    私も活動家になってゆく原点を、久しぶりに思い出し考えさられました。
    現在実践から久しく離れていますが、その原点は変わっていないつもりです。
    党派を超えて、活動家はみんな純粋さからルビコン川を渡って行ったと信じています。

    少し「おとな」になった今、一人で在る事を恐れず「軽薄」でも良いから、軽いのりで「現代世界」に関われたらと思い始めています・・・・

    草加さんのブログいつも楽しみにしてます。でも、あまり無理しないでくださいね。言っても無駄かもしれませんが(笑)心からエールを送ります(拝)

  • あたしゃ西條八十は替え歌ばかりうたってます。有名な二曲です。

    「金糸雀」

    革命を忘れた共産党はオバステ山に捨てましょうか
    いえ、いえそれはなりませぬ

    革命を忘れた共産党は、駒場の小薮に埋めましょか
    いえ、いえ、それはなりませぬ

    革命を忘れた共産党は、ゲバ棒でぶちましょか
    いえ、いえ、それはかわいそう

    革命をわすれたカナリヤは
    象牙の塔に、銀杏並木
    人民の海に浮かべれば
    忘れた革命をおもいだす

    「青い山脈」

    胸もふくらみ毛も生えて 私も女になりました
    青いパンティ 膝まで下げて
    早くして 早くしないと ママがくる

    ママも来ました ママも来た 私も仲間に入れてよね
    青いズロース 膝まで下げて
    早くして 早くしないと パパがくる

    パパも来ました パパも来た 私も仲間に入れてよね
    青い猿股 膝まで下げて
    早くして 早くしないと ババがくる

    ババも来ました ババも来た 私も仲間に入れてよね
    青い腰巻き 膝まで下げて
    早くして 早くしないと ジジがくる

    ジジも来ました ジジも来た 私も仲間に入れてよね
    青いふんどし 膝まで下げて
    早くして 早くしないと ポチがくる

  •  なお、筒井はアカハラで大学を追われた人。もともとは、戦時中のラジオ体操が国民の身体を規律化するファシズム装置と分析した、優れた論文等を発表していた方なのですが、とほほでLの学生自治会に追及されました。後任には、グラムシ研究で男性学の伊藤公雄さんが就任。今回の2冊の西條八十の本は、忘れかけた大衆文化へのよいタイミングの誘導だとおもいますが、じつは西條研究は、吉川潮のほうができがよい。

  • いや、良いな「蝶」を追う人。
    まあ、日本の新左翼は、みんな「蝶」ばっかり追っていたので、負けてしまいましたが(この点では、日共とか革マルは正しい。)、日本政治には、政治的ロマンティシズムがなさ過ぎかも知れませんね。<小泉は、単なるナルシストの特攻隊精神の人。怖いのは、自爆願望があること。しかも、自分一人で死ねないんだ、このタイプ>

    それは、さておき、映画『蝶の舌』、見ましたが、なんか女性が一杯ないてんのみてものすごく違和感がありました。
    あれは、泣く映画じゃないだろうと。
    アナキストのじいさんと仲良しの子どもが、最後、連行されるアナキストじいさんに石を投げつけるんですが...

    いま、泣いたあんた。それやらない自信ある?
    って小一時間・・・

    だめですね、ノンセクあがりは、地獄へ行く人々の愛が足りないようです。

  • あとさっきの語り内の「やがて地獄へ下るとき」は西条八十の蝶という詩からです→http://t.co/i0rr1IUKOY