[スポンサーリンク]
定番記事

「基地外」と書く差別者達~ある、うつ病ガン患者の一生

 昨日付けの京都新聞の連載記事の中にあった、とある女性の話を読んで、深く考えこみました。記事は京都の岩倉病院に取材して書かれたものなんですが、この岩倉病院というのは、いわゆる精神病院です。

ある、うつ病患者の一生

 この病院を退職した元看護士(男性)の元に、患者さんの女性から相談の手紙が届きました。それがきっかけで交際がはじまり、二人は同棲するまでにいたります。
 女性はうつ病で、外出する時は二人はしっかりと手を握り合います。そうしないと、車が来た時に、女性が発作的に飛び込み自殺をするからです。この女性は「自分は生きていても仕方のない、価値の無い人間だ」と思い込んでいるのです。

 やがて女性に癌が発見されます。彼女は必死に努力して生きても仕方がない人間だと思い込んでいますから、あらゆる治療を拒否します。彼も「治療を受けてくれ」とは言えない。うつ病の人はすべてを受け入れてあげることが一番重要で、その意思を否定して何かを強要すれば、それだけ病状が悪化して彼女をさらに苦しめ、ますます治療を拒否するようになるからです。それがわからない一般の医者が「今はうつ病の症状なんかどうでもいいでしょう」と言い放ち、彼女は病院にはいっさい行かなくなってしまいました。

 「あなたは大切な人なんだ。どうか生きてほしい」そんな彼の必死の思いが彼女に伝わり、一度は治療を決意した彼女でしたが、抗癌剤の副作用に耐えてまで生きようとするにはいたらず、長続きしませんでした。やがてすべてが手遅れとなり、最後の場所として彼女が望んだのは一般の病院ではなく、「住み慣れた」岩倉病院だったそうです。

 彼女はうつ病の治療で岩倉病院に入院していた時、退院の許可が出せるくらいにまで回復しても、家族が引き取りを拒否したため、やむなく岩倉病院に入院し続けていたのです。身寄りのない「元精神病患者」を退院させても、この社会の中、たった一人きりで生きていくことは難しい。もし、この男性との出会いがなければ、彼女は退院してたとえ短期間でも社会で普通に生きることもできず、一生を病院でひっそりと終わっていたことでしょう。

 女性は最後の最後にやっと顔を見せてくれた肉親と、この恋人にみとられて静かに息を引き取ったそうです。彼は「体調がいい時の彼女の笑顔が忘れられない。幸せだった」と言っているそうです。

「早く死んでほしい」

 実はこの女性のように、退院できるくらいに回復しても、家族が引き取りを拒否して入院し続ける、いわゆる「社会的入院」と呼ばれる事例は精神科では非常に多いんだそうです。病院職員が別の女性患者の家族に退院許可を知らせる手紙を出したところ、その患者宛に返事がきました。ところがそれを読んだ患者が泣いています。見ると手紙には「早く死んでほしい」と書いてあったそうです。

 こうして何十年も(!)病院に住み続けている「患者」が岩倉病院には大勢おられるそうです。毎年何人かのお年寄りがお亡くなりになります。病状が悪化しても、ほとんどの一般病院では嫌がって転院を拒否されてしまうのだそうです。すでに精神病のほうは10年も20年も前に完治しており、差別のせいで社会から隔離され、病院にとどめ置かれているという状況です。なのに精神病院からの転院というだけで治療を拒否されるのです。通常の病気にかかっても、一般病院での治療が受けられないなんて!なぜ元精神病者だというだけで、ここまで非人道的な扱いを受けなくてはならないのでしょうか?聞いているだけで腹が立ってしかたありません。

 明日をも知れない状態になってから、病院の職員が手紙や電話で「せめて一目だけでも顔をみせてやってくれ」と何度も家族に連絡しますが、それでも肉親達はやってきません。ついに患者さんは亡くなり、職員だけで葬儀をすませ、残された写真と一緒に患者さんとの思い出をつづった手紙を家族に送りました。すると家族からこんな返事が来たそうです。「娘時代に会っただけだが、写真をみて懐かしさがこみあげてきました。一度だけでも会いにいけばよかったと後悔しています」と。これを読んで、職員の方は、家族もまた葛藤し続けているのだと、認識が変わったそうです。

「キチガイ」って何だ?!

 私が子供の頃、精神科のある病院のことを(大人も子供も学校の先生さえ)当たり前に「キチガイ病院」と呼んでいました。それは病気の治療をする場所ではなく、精神病者を収容して一般社会から隔離しておく場所という認識だったと思います。子供同士の悪態で「お前なんか、キチガイ病院やわ」とか、「いっぺんキチガイ病院に入れてもらえ」なんて、当たり前に使われていましたから。

「収容と隔離」

 さらに、「キチガイ」を迎えにくるための救急車というのがあって、それは普通の救急車とは違って「黄色の救急車」だなんて噂さえありました。それを本気で信じている子供もたくさんいました。今から考えると、それはおそらく「キ印」という言葉からきた発想で、死ぬほど酷い差別だったと思いますが、サイレンの口真似をして「お迎えがきたぞー」なんて、子供たちはやっていたのです。大人もそれを全然止めないというか、それに問題があると思っている人は誰もいませんでした。

 私も、仲のいい友達から「お前の父さん、○○病院にいるんやろ?」なんて近所の病院の名前を出して「冗談」を言われたこともあります。私がその意味がわからずに、「?」な顔をしていると、「アホかお前、知らんのか、○○病院って、ほんまはキチガイ病院やねんぞ」と、笑顔で言われました。

 私はその近所の民家から離れた山の中に不自然に建っている病院を思い出し、「ああ、そうなのか」と、特別な感情もなく思っただけでしたが、友達らのそういう「冗談」には、いつも調子をあわせていましたし、「お前こそ」なんて返したこともありますから、全く同罪でした。

 言い訳になりますが、これがつい最近までの日本における「当たり前」の光景だったんです!ついでに言いますと、昔は「てんかん」も精神病の一種だと勘違いしている人も多かったです。私の両親が私の病名を隠したがっていたのもむべなるかなです。

 さて、その「キチガイ」という言葉で表される人たちって、私たちはどんなもんだと思っていたんでしょうか?だいたいが「一日中ヘラヘラ笑っている」とか「俺は神様だあ!」と叫んでいるとか「いきなり理由もなくナイフで刺しにくる」とか、そのへんがステレオタイプなイメージだったと思います。

 それで精神病院の中は、そういう人たちが大勢、鉄格子で閉じ込められている陰湿な空間であり、また閉じ込めておくのが当然なんだと皆が思っていた。それはまるで刑務所のイメージでした。ですから「家族からキチガイが出た」「お前の父さんキチガイなんやて?」というのは致命的な噂になりかねませんでした。「あそこの家系で精神病院に入院している人がいる」なんて、まるで遺伝や伝染するかのような酷い言われ方をして、それこそ「縁談にも差し支えた」のです。

 で、こういうのは「一般の無理解や誤解」であって、専門の治療現場ではちゃんとした適切な治療が行われていたのでしょうか?

 残念ながら、そうではないようです。上記の記事にある岩倉病院の年報には、従来の精神病治療が歴史的に「収容と隔離」を軸に行われてきたこと、そういう「治療」によって、患者たちは青春を奪われ、人生さえも奪われてきたこと、そのことに精神医療は無関係ではなかったということが捉え返されているそうです。

 そこで岩倉病院では、患者の隔離ではなく、病棟を地域に開放してオープンな状態で治療するなどの試みをおこなっているそうです。いずれにしましても、上記の記事に告発されている通り、今でも患者たちの青春や人生は奪われ続け、「お前は社会に必要ない価値の無い人間だ」と思わされ続けているのです。

[Sponsor Ad]


ハンセン病差別と同じ構造

 でもこれって、つい最近、どこかで見聞きしたような話だと思いませんか?そう、ハンセン病患者への差別と全く同じ構造ですよね。ハンセン病患者も収容され、人生を奪われ、青春を奪われ、家族や肉親や友人からも(そこに葛藤はあったとしても)見捨てられ、「社会に不必要な人間」として療養所でひっそりと死んでいった

 あの時はそういう事実を認識していなかった自分の不明さを恥じましたが、今も多くの精神病者に対して、ハンセン病患者に対して行われていたのと全く同じようなことが日本中で繰り返されている。これは本当にショックなことではないでしょうか?

 もちろん奇麗事は言えません。愛し合う恋人たちでさえ、彼女が自殺しないようにいつも手を握って歩かねばならなかった。自殺願望がある人と生活することが、どれほど身を削るかは容易に推測できます。しかしそういう「看病の大変さ」は、何も精神病に限ったことではなく、他の病気でも同じことです。精神病だけを特別視する理由にはなりません。

 たとえば自分の親がアルツハイマーになったとして、こんなふうに周囲に隠したりしますか?また、アルツハイマーの両親を看護している家族をさして、近所の誰かが「縁談に差し支える」ような心無い噂をするでしょうか?病院に隔離した患者本人に「早く死ね」「二度と出てくるな」などと言うことが許容されるのでしょうか?

 芸能人が自分の母親の看病記録を出版しているくらいです。むしろ同情や尊敬さえされているのではないでしょうか?なのに通常の精神病者に対するこの差別です。それはハンセン病患者への差別や偏見と同じことです。

 こういう精神病者への差別がなくなれば、そして医療現場が改善されていけば、もっと普通に治療が受けられ、青春や人生を失うこともなく当たり前に家庭や地域で生活し、能力に応じて働き、肉親と断絶することもなく、人間として生きることもできるのに。

 確かに状況は少しづつですが、改善されているとは思います。心の病も、一口に「精神病」とくくられることも少なくなり、「うつ病」や「統合失調症」などの個別の病名で呼ばれることが多くなりました。これは大事なことです。

 それらが特別なものでなく、患者が危険なわけでもなく、そして誰でもなりうる病気なのだということも知られるようになりました。啓発のテレビCMなども流れています。また「カウンセラー」という職業も社会的に認知されてきました。一昔前なら、「カウンセラーにかかっている」ということが発覚しただけで「なんや、あいつキチガイの気(け)があるんか?」と言われてそれこそ「出世にも響く」状況があったもんです。それが今や、学校や企業にもカウンセラーが派遣されたり常駐したりする世の中ですからね。ずいぶんと変わったものです。

うつ病に関する公共広告

 しかし、そういう動きが出始めたのは、本当にここ数年のことです。精神病にかかるのは「特別な人」ではなく、誰でもなり得る病気であること。むしろ今の社会ではそういう予備軍が山のようにいるんだということが、ようやく少しだけ顕在化しはじめたということかもしれません。あるいは、顕在化せざるを得ないほど深刻化してきたために、支配層をして無視できなくなってきたとも言えるでしょう。

 そして決定的に重要なのは、ここにくるまでに、実に多くの人々によって、地道でそれこそ「血みどろ」といっていいくらいの、精神病者をはじめとする人々の自己解放の闘い、社会的な差別との闘いの歴史があったことを忘れてはなりません。そういう気が遠くなるような果てしない闘いの積み重ねの上に、あるいはそういう土壌が形成されてきたからこそ、今の動きがあるのです。それを思えばバックラッシュ(反動)は容認できない。

「差別語」といわゆる「言葉狩り」について

 ところで、未だにごく当たり前のように「キチガイ」という言葉を使う痛い人々が存在します。もちろん言葉を消したり、他の言葉に言い換えればそれでいいというものではありません。精神病者とか精神「障害」者とか言い換えたところで、それを使う人の意識が「キチガイ」と同じ意識でしぶしぶ言い換えているだけであれば、そこには何の意味もありません。

 言葉は生き物ですから、そこに込められる意味やニュアンスは刻々と変化します。たとえば中国を指す「シナ」という言葉は、もともとは差別的意味はなかったかもしれませんが、近代以降の日本では明らかに中国への侮蔑をこめた差別語として定着してきました。それは現在この言葉を使っている人々の言論をみれば一目瞭然です。逆に「バカ」や「アホ」は、元々は差別的だったかもしれませんし、現在でもそのへん微妙な部分はありますが、時代が変わっても、今後とも悪態語として残っていくでしょう。

 さて、閑話休題です。だから、「言葉」を糾弾するということは、実はその言葉にこめられている社会構造や人々の意識を糾弾することでなくてはならないはずです。そのことによって人々に「気づき」を促し、援助するということです。差別という病を治療して、もっと軽やかで自由に生きてもらうということでもあります。

 糾弾と社会的抹殺は違います。つまり差別している人自身をも差別という地獄から救ってあげたいという問題意識がなくてはなりません。そしてそれは差別によって人生を奪われてきた人々の苦しみや人間的実存と深く結びついたものでなくてはならいないはずですし、他人を「糾弾」したその刃は、すぐに自分にかえってくるものだという覚悟も必要です。「差別を糾弾する」というのは、自分だけがいい子になって他人を悪く言うということではありません。それだけ厳しくて辛いもののはずです。

 つまり「言葉狩り」で終わってはいけない。もちろん、たとえ「言葉狩り」であっても、何もないよりは千倍マシです。そういう言葉が消えるだけでも、かなり住みよい世の中になると思いますから。差別するためのボキャブラリーが減って住みにくくなるのは「差別したくてしょうがない」ような人たちだけです。こんな人たちの「差別する自由」なんぞ、微塵も考慮する必要はありません。

 しかしそれが言葉狩りの段階で終わってしまうと、差別意識は地下にもぐり、滞留・蓄積されて、あちこちでどす黒く噴出してきます。すでに現在、私たちは、ネット上の匿名社会で、そういう実例を多く見聞きしているのではありませんか?

 「言葉狩り」に問題があるとすればそこなんですね。だから「言葉狩り」というのはしてはいけないのではなく、それだけで終わってしまうことなんです。つまり特定の言葉を言い換えたり言い換えさせることで「自分は差別者ではない」と開き直る免罪符になってしまうことです。表現を変えただけで中身がちっとも変わっていないのに、そこで終わってしまう。

 別の言い方をすれば、中身が変われば当然にそういう言葉は使われなくなりますが、そうではなく、中身は同じ差別者なのに、自分だけが差別者じゃない「ふり」だけしていれば、それでよしと許されてしまうということです。

 だから「言葉狩り批判」というのは、「差別糾弾運動」の欺瞞性や不充分性を指摘するものであり、そもそもそういう言葉を使わないことが前提なのであって、単に「差別用語を使わせろ」というだけなら「差別させろ」というのと同義であり、カッコも何もつかない単純ストレートな差別そのものです。

ネットで復活してきた「キチガイ」なる言葉

 特に最近は「キチガイ」の復活が著しい。とりわけ当て字の「基地外」という言葉が「2ちゃんねる用語」の定番化してきています。そしてさらに気になるのは、2ちゃんでは、これを自分と意見の違う人間へのレッテル貼りとして使われていることが多い点です。たとえば「朝日新聞の基地外投稿」といった具合です。まさしく品性下劣としかいいようがない。

 もともとはネットウヨクが多用していましたが、最近は左派系の板でも見かけるようになりました。もともと左翼でも差別糾弾を(自分という存在を含めた)社会の変革や人間の解放というより、政敵や敵対勢力批判に使ってきたように思える場面もあります。それだけ「左翼文化」でも、差別問題に関しては薄っぺらな文化しか作りえてこなかったということだと思います。

 私は実際には差別問題は、左翼側でもようやく端緒についたばかりだと思っています。過去の運動の歴史をふまえて、まだまだ考えなくてはいけないことばかりです。激しい自戒と反省をこめつつも、頭の痛いことです。

 本来なら犯罪を構成するような事をおこなってしまった精神病者(いわゆる触法精神病者)の問題についてもそうです。こういう事例をかき集めて、医療現場を「予防拘禁」的なものに貶めようとする無理解な差別言論も後をたちません。つまり精神医療を昔の「キチガイ病院」の時代に逆戻りさせよ!というわけです

 ところが実際には、精神病者の触法率は、健常者の犯罪発生率よりも低いといいます。これがどういうことかと言いますと、たとえば無作為に選んだ任意の精神病者を連れてきて、この患者が犯罪に該当する行為を行う可能性は、あなたの家の隣の兄ちゃんが逮捕される可能性より、あるいはあなた自身が将来犯罪を犯す可能性よりも低いということです。精神病者を隔離しなくてはいけないのなら、あなた自身も隔離して刑務所に放り込まなくてはなりません。

 もちろん精神病者を監視しなくてはならない事例もあります。しかしそれは他人に危害を及ぼすからではなく、ほとんどは自殺や自傷の危険を防ぐ必要からです。こういう冷静な議論も、声の大きい暴論の前にはかき消されてしまいます。なんだかんだと理由をつけてお互いに監視したり、すぐに捕まえたりするような社会なんてまっぴらです。誰でもできるだけ好きにさせてやれ!そして困ったときにはお互いに助け合おうじゃないか!たとえあなたが右翼思想の持ち主であったとしてもね。

 もはや2ちゃんでは、「それは差別用語だから使ってはいけない」なんて言おうもんなら、かえって「左翼ハケーン!」だの言われて化石のような扱いをうけます。上で書いたように、ほんのつい最近でてきた動きなのにね。いつまで待っても右翼言論は洗練されない。差別言論なんて、右だの左だの言う以前の暴論にすぎません。少しはきざしが見えているようにも思いますが、右翼言論全体への評価は、まずもってこういう暴論がすべて淘汰されてからのことになると思います。

 私としては、2ちゃんでも、このブログでも、旧来の左翼層からは怒られて顰蹙をかうようなことを言って遊んでいたいし、そういう人を茶化していたい。そんな私に「差別はいけない」なんて、「超まとも」で思いっきり普通なことしか言わせないような状況ってどうよ?と思うわけであります。

それでも言いたい!

 ほんと、嫌になるくらい差別者に限って自分が差別者であることを認めない。それは判を押したようにそうです。むしろ差別について認識のある人のほうが、自分を差別する側の人間だと認めています。「無知の知」って状況です。

 上に書いた、まさしく差別がおおっぴらに蔓延していた私の子供時代でも、私を含む恥知らずな差別者共は、面と向かって聞かれれば、誰もが「差別はいけない」と答えたはずです。「基地外」なんて書いてる輩は、そういう程度の昔に時代状況を戻したいのでしょう。そういう意味ではまさしく「反動勢力」と言っていいと思います。こういう差別用語を使って何が悪いと言う、無自覚で無責任な差別者達に、精神病やハンセン病の患者達は人生を奪われてむちゃくちゃにされてきたのです。

 だから私は他の左翼に怒られたって、それでもあえて言いたい。「このバカどもめ!」と。

参考リンク

京都新聞 連載『折れない葦』生きてと言えず寄り添う
医療法人稲門会 いわくら病院

精神疾患 50年以上の入院1773人 最長94年(毎日新聞2018/8/20)
55年間入院女性「退院してもおるところない」
病床増え入院長期化「地域で生活」へ転換急務

映画「キチガイの一日」公式ブログ
映画「かけがえの前進~精神障害者とつきあったことがありますか?~」
毒舌セカンドオピニオン(精神医療の荒廃)

京都 前進友の会
東京下町患者会 新松橋亭同人
オープンスペース「街」

なだいなだ「くるいきちがい考」 (ちくま文庫)
「天上天下『病』者反撃!―地を這う『精神病』者運動」(社会評論社)
立岩真也 「相模原障害者殺傷事件 ―優生思想とヘイトクライム」



コメントを見る

  • 重いテーマだね。
    同様のことを自分のブログでエントリーしようとしていたのですが、winのエラーで原稿がボツ。しかもHDDに保存しようとしていた時に。
    泣いた。

    仕方がないので、もう一度書く積りです。
    その時はトラックバックさせてもらいます。
    よろしく。m(_ _)m

  • はじめまして、でもないです、実は。
    職業柄、精神を患う人に接することは多くあります。しかし、むしろ一般の病院に、普通の人としてやってくる患者や、その家族の中にこそ「え?」と思うような人が多いな、というのが正直な感想です。どうおかしいかというのを挙げるとキリがありませんし、それを表現することで自分自身も消耗するような部分があって、あまり誰も口には出さず、淡々と仕事をしています。むかし同僚が「なんかああいうのに関わってるとこっちまでタマシイが穢れてくる、って感じがするよ。あれに比べたら小さい大名行列が見えるとか言ってる人の方がまだまし」と言っていたのが印象に残っているのですが。

    そういった人々は
    自分は「普通である」と言い
    自分は「多数派である」と言い
    自分は「正当である」と言い
    またそう信じて全く疑わず
    自分が所属するその普通で多数派の正当な人々の中でも、自分だけは頭一つぐらいは出ている、他よりはちょっとだけマシな(ひょっとすると少しだけいい待遇を受けて然るべき)人間であると日々フツフツと思いながら、そのへん一帯にまんべんなく紛れこんで生活しているのです。ええ、「まとも」な社会人として。

    彼らにとって都合の悪いことや信じたくないこと、見たくないものはすべからく自分たちの所属する社会の外からやって来るもので、そして自分の所属する社会の外にあるものならば、どういう扱いをしても、それは別に構わないと信じている。だから「差別をしません」という代わりに「普通の人と変わらない」というような表現をぬけぬけと使うわけです。自分達のいる社会の成員にしてあげる、だから差別しない、攻撃しない、そして外にあるものならば差別しようが攻撃しようがそれは仲間たちから喝采をもって迎えられる「正当な」力の行使なのである、と。それがどれほど傲慢な考えか、考えたこともないのでしょうが。同時に彼らは自分がその社会から逸脱してしまうことを一番恐ろしく思っているので(普段は、自分だけはこんな凡庸な人々よりは少しばかり抜きん出ているはずだとそれぞれに思っているにもかかわらず)自分が「その社会の外にあるもの」として扱われてしまうことに対して相当なダメージを受けるようで。だから彼らは他者を攻撃するとき、きっと相手もダメージを受けるぞと思って多くの場合「在日」や「基地外」という言葉を使うのでしょう。

    わたしが実際そういう言葉を聞いて不快感をもつとしたら、彼らの社会に所属していないという宣言をされたことに対してではなく、そういう思考ルートの浅さと卑しさに対してなのですが。まぁ彼らの信じている「自分たちの所属する社会」ってどんなものなのか、全く姿は見えてこないんですけどね。何が普通なのか、何の多数派なのか、何において正当なのかも、納得のいく説明を聞いたこともないし、そういう人たちの言う「みんな」って、大体周囲の2~3人だったりするし。

    こういったところでそれが自分のことだなんてツユほども思っちゃいないんですよね。わたしはそういう無自覚な人こそ恐ろしいですよ。

  • 彼を知り己を知れば…というわけで、差別を理解しなければなりません。
    僕の理解ですが、差別はまず「無知」、「(群れ動物として)仲間と
    敵を判断し、敵と戦う本能」「恐怖、不満を憎悪にぶつける」
    「自分を定義しているもの、自己同一性を崩されて真実に直面する
    勇気がなく、目を閉ざす」などが互いに力を与え合いながら増幅し、
    堕ちていっているのだと思います。

    ならば必要なのは、何より「智」です。
    人間が本質的に差別する存在であることを知り、なぜそんなことを
    するのかを知り、今はその必要がないことを知り、ハンセン氏病や
    精神疾患について医学として知ることです。
    一番いいのは、義務教育に精神医学を含め医学の最低限を導入
    するのはもちろん、今から大人にも精神医学の基礎的なことを
    学ぶことを義務付けることだと思います。
    なぜ人が差別するか、差別を利用した支配の手法も含め、全ての
    手札を公開して。
    人間を信じすぎていますか?

  • 正直、精神病患者との付き合いは、きれい事ではないです。
    しろうとだと、ぼろぼろになりますよ。下手すれば廃人です。
    それで「差別」というのは・・・正直、よくわかりません。
    こちらも生きていますから。
    家族は一番近いですから、一番殺されかけたりしてるんです。
    やっぱり、「きれいごと」だと思いました。申し訳ないけど。

  • 別に統合失調症の人と暮らしても廃人にはならないよ。
    あと精神病になるのは家族とか職場でのいじめとか締め付けが原因となる場合が多いです。
    さんざん人を痛めつけて、自分に跳ね返ってきたら病院に放り込んだり
    置いて逃げたり勝手な人が多いと思います。

  • 皆様、コメントありがとうございます。

    土岐さん>

    >その時はトラックバックさせてもらいます。
    お待ちしております。よろしくです。

    えぼりさん>

    ひょっとして、以前によくコメントいただいた、あの方ですか?
    だとしたら、メールいただいたのに、返事できずに申し訳ありませんでした。ずっと気になっていたのですが、どうお返事していいか、ちょっと頭が働かない時期でしたので。ブログ相変わらず面白いですね。リンクコーナーからリンク張らせていただきました。
    「普通」って言うのは、次のエントリーで書こうかなと思っていたテーマでして、先に言われちゃったなあって感じです。まあ、そんな言い方をすれば、私だって「普通の人」なわけね。でも、人を差別することが「普通」とは、そちらのほうが病んでいますよね。

    >なんかああいうのに関わってるとこっちまでタマシイが穢れてくる、って感じがするよ。
    >あれに比べたら小さい大名行列が見えるとか言ってる人の方がまだまし。
    って、その感じ、すごくわかります。その「こっちの魂まで穢れる」って感じ。
    貴重な医療現場からのご意見をありがとうございました。

    Chic Stoneさん>

    「智」は必要だと思うんですよ。もちろん。でも、そういう知識を広めようとすると、差別者側は(どんなに学術的根拠がない暴論であろうとも)自分たちの差別を正当化する「言論」で潰しにかかってくると思うんですよね。それは現在もネットで行われていることです。また、教育の場で差別を否定するような知識を教えるというのは、すでに部落差別や在日差別に関して、一定行われてきたことです(とりわけ部落差別の分野で)。でも、やっぱり差別する人はするんですよね。
    確かに「教え方が悪かった」という議論も成り立つとは思いますが、もし、差別する人に知ってもらいたいことがあるとすれば、あなたが軽い気持ちで行った差別が、どれほど人を傷つけたのか、その痛みを嫌というほど味わってもらいたい。それを知れば、正常な神経をもった人間なら、普通は差別なんてできなくなるはずなんです。
    やはりその方法が問題とは思うのですが、私なりに考えたのが、以前に書いた「5段階」です。

    第1段階)被害者が加害者に、自己の苦しみ・悔しさ・怒りを直接ぶつける場を作る(糾弾)
    第2段階)人権・差別の専門家をまじえ、加害者の言動の何が問題だったのかを3者で検討(確認)
    第3段階)加害者が、専門家と被害者の指摘や援助で自分の罪を認識することに成功(反省)
    第4段階)上記の内容に基づいて加害者より心からの謝罪が行われる(謝罪)
    第5段階)被害者が謝罪を受け入れ、許し、癒される(和解)
    http://bund.jp/modules/wordpress/index.php?p=183

    とりあえずは、差別された側が、差別した人間を、思い切り糾弾させてあげる段階は避けて通れないと思っていますが。

    「『きちがい』とは」さん>

    で、「きちがい」とは何なんですか?荒らしでないなら、もう少し具体的に書いてください。あなたは今、精神病(病名は何です?それがとても重要です)の家族と同居している(またはつい先ごろまでしていた)のですね?

    で、精神病者一般とつきあうと、普通の人は「廃人」になるのですか?
    精神病者一般は、みんな人を殺そうとするのですか?

    だったら岩倉病院が、病棟を地域に開放して、患者を閉じ込めない治療をしているのは「人殺し」を野に放っていることになりますね?
    そういう治療で成果をあげているというのは、嘘っぱちだとおっしゃるわけですか?
    リンク先にありますように、精神病患者が団体を作って請願したり、共同で生活したりしていますが、あれは「人殺し集団」だとおっしゃるわけですね?なおかつそう決め付けたとしても、それは差別ではないと?
    私が中学の時、生徒会が地域の精神障害者施設と交流していましたが、あれは実は命がけの行為だったんですね?
    学生時代はボランティアをやっている人達が、精神病者や精神障害者の方たちを大勢連れて、いつも学内を歩いておられましたし、そういう光景も見慣れてなんとも思いませんでした。また、私も手伝って、一緒に体育館でゲームなどをしたり、あちこち街中を散歩したりしましたが、あれはまかり間違えば大量に死者がでる危険な行為だったのですね?

    私も一時期、社会福祉系の学校にいて、精神病のゼミにいました。学生運動にかまけて、あんまり(つーか、ほとんど)勉強しなかったので、偉そうなことは言えないし、うかつなことを書くと、専門家のえぼりさんに突っ込まれてしまいますが(笑)、あん時は統合失調症(当時は分裂病と呼んでいた)の研究がテーマだった。私は最初は「人の精神を『直す』という発想」に、軽い違和感を持っていましたが、確かにそれは甘かったと思う。直せるもんなら、直してあげるべきだと思った。あれは地獄です。

    今回、さらに甘かったと思うのは、私が接した事例では、家族の方々が、みんな一刻も早い退院を待ち望んでおられた。入院させることにさえ、家族内で葛藤や反対があり、医師が入院の必要性を家族に説得したりしていました(そうしないと自傷や自殺の危険もあるからと)。「早く死ね」だの、完治しているのに退院させないだのいう家族は一人もいなかった。だから家族って、みんなそんなもんだと思っていました。これも確かに甘かったようですね。

    最後に、非常に興味があるので、いくつか質問させてください。
    あなたは自分の親か子供が何かの精神病なのですか?具体的な病名は何ですか?それで自宅で看病しているのですか?兆候が出始めた時に医師に相談しなかったのですか?何が原因で発病したと言われていますか?精神病では、患者の言うことを否定しないで受け入れてあげることが必要ですが、そういう注意事項を守っていますか?その家族に殺されかけたことがあるのですか?その時の状況は?凶器などをもって襲いかかってきたのですか?それは幻覚によるものですか?医師はそのことについて何と言っていますか?アルツハイマーの看病も身をすり減らすものですが、それとあなたの親か子供の病名不詳の病気では、どんな所が違いますか?発作時には患者の自傷を防ぐことが最も重要なのはご存知と思いますが、どんな点に注意が必要ですか?

    それと、このハンドルネームを何とかしてください。これでは呼びかけもできません。

  • HIAさん>

    私が見聞きした事例では、家族が患者に必要以上に厳格だったり、過大な期待をよせすぎたということが原因でした。それは「愛情」の裏返しでもあるわけなんですが、それに患者本人が耐え切れず、また反抗もできなかったということのようです。
    特に親が子供に期待をかけすぎていた場合、入院後も親が患者に会いたがったり、治療に干渉しようとしたりするんですが、それは説得して基本的にシャットアウトしなくてはいけないということでした。(「そういうあなたの態度が悪いんだ!」ってことで)

    しかしまあ、今は「いじめや締め付け」ですか。それって、「愛情の裏返し」とさえ言えるんでしょうか?患者に恐れられたり憎まれても仕方ないですね。退院が可能になっても、そんな家族に引き取られたら、また悪化しそうです。
    記事では、完治した元患者達が、一般の病気にかかったり、死期が近いと悟ると、みな「岩倉病院に行きたい」と言って、戻ってくるそうです(岩倉病院には一般の治療施設もあります)。岩倉病院の職員たちは、それをとても複雑な思いで受けとめているそうです。この社会で、唯一患者が「人間扱い」してもらえた場所ってことですから。

  • >差別者側は(どんなに学術的根拠がない暴論であろうとも)自分たちの差別を正当化する「言論」で潰しにかかってくると思うんですよね。

    なぜ、「学術的価値がない暴論」に多くの人は引っかかるのでしょうか?
    それは「権威主義」と、それ以上に自分の耳に心地よいからです。
    差別をベースにした、それまでの心地よい世界にい続けたいからです。
    それどころか、その暴論を、出す側のほとんどは自分でも信じているの
    でしょう…そのほうが耳に心地いいから。
    どうすればその真実に加害者を直面させ、受け入れさせることができるか…

  • 草加様ご返答ありがとうございます。
    締め付けの話は会社勤めの友人でうつ病で薬が無いと生きていけなくなりました。
    この例は現在に限ったことでは無く、たぶん高度成長期の頃からあったんだと思いますが、
    最近は労働者の階層化で(社員・契約社員・バイト・派遣などの多用な雇用形態が一つの会社に存在する)さらに増えたように思えます。
    身内では受験戦争による統合失調症がでました。
    (特に親が子供に期待をかけすぎていた場合。という例ですね。)
    身内の方は投薬と家族ぐるみでの反省による環境改善でよくなっていますが
    会社の友人の方は仕事がさらに過酷になり
    薬も増えとはいえ辞めろともいえず大変な状況になってます。

  • はじめまして。アッテンボローさんのところからやってきました。

    実は、神戸で文字通りの「きちがいに刃物」の通り魔に襲われそうになった経験があります。

    この犯人(すぐに取り押さえられた)を、キチガイと呼ぶのが差別だと言うならば、私は文句なく差別者だという声を受け止めたいと思います。なぜならば、そのとき、「キチガイが包丁もって暴れとるわ! 警察呼んでくれや!」と叫んだからです。それのおかげでか警察官が3人くらいやってきて、大事には到りませんでした。

    さて、草加さんの文章を読んで思ったのですが、精神的な病=キチガイ=何をするか分からないという世間の図式自身に問題があると思うんですよね。私を含めて、私の身の回りには精神を病んでしまった人は何人かいます。そして、その大半の人(私以外)は、包丁を振舞わすようなこととは逆の行為しかできない(するとすれば、自殺)人たちだと思います。上の通り魔っぽくなっちゃう人は、極々少数派らしいんですけど、どうもそうは世間は取ってくれないようです。「実際のところ、どうなのよ?」を知らしめるしかないと思います。世間の恐怖心は確かにありますから。その上で凶行に及ぶ精神病患者なんか、例外的だと。

    4.のChic Stoneさんの対処法は愚直ですが、これしかないと思います。
    そして、症例ごとにもっと詳しく言葉を付けるべきだと思います。

    5.の「きちがい」とはさん、精神の変調からいきなり暴れたりする患者さんもおられるとお聞きしております。大変なことだと同情申し上げます。確かに、物理的拘束でもって対処するしかない人もいるようですね。ただ、それを敷衍するのはいかがなものかと。

    ちなみに、私の症状は、デパスやセディールで抑えられる程度のものです。