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 今日はちょっと、つれづれなるまま、まとまらない雑感を書いてみようと思います。

●やはり石原さんは生粋のファシストだと思う

 都知事の石原さんは、言葉の真の意味でのファシストだと思います。念のために申しますが、これは決して石原さんを罵倒して言っているのではありません。今や「ファシスト」という言葉は、政治用語としてよりも単なる「罵倒語」として定着してしまいました。左翼がちょっと安易に使いすぎたからかもしれません。ゆえに誤解や冷静な議論にならないことを恐れて、今まで私はあまり使ってきませんでした。だって「ファシスト石原」と言ったところで、一般には「石原のアホ~!」というのを左翼用語で表現したくらいにしか思われないでしょうから。

 しかし本来のファシズムというのは、体制べったりではない。「反体制の改革派」として登場します。旧体制の腐敗を攻撃し、社会を牛耳る大資本を糾弾し、庶民の強い味方として現れる。ごちゃごちゃした利害の調整(民主的プロセス)をすっとばし、「抵抗」する者を粉砕して「庶民の望む政策」を実現しようとします。だから資本主義に余裕があって安泰な時代には、ファシストは冷や飯を食わされていて主流にはなれないのです。せいぜいが最右翼の「タカ派」として温存されているだけなわけです。もっとも最近のファシストは、自分達は極右ではなく「中道」だと自称することが多いですね。それは世界的な傾向です。フランスのルペンも、オーストリアのハイダーも、「自分は中道だ」と自称しています。政治的なマヌーバ以外に、そう言いたくなる深層心理(劣等感?)も興味があるところです。

 さて、現在のように、資本主義体制が危機に陥って、にっちもさっちもいかなくなったような時、いよいよファシストの出番がやってくる。左翼的に表現するなら、ファシストの一番の特徴は「擬似革命性」ということになるのです。この「革命性(今風にいえば改革姿勢)」で、本来なら反体制でなければ解決できない大衆の不満を右翼的に吸収し、結局は体制の改革ではなく、全く逆に体制を維持・強化するための道具として使われる。体制にとって危機の時代を粗暴にのりきっていくための「資本主義最後の切り札」がファシズムということになります。

 思い出してみてください。石原都政2期8年の中で、石原さんが一番「カッコいい」のはどんな時でした?国と喧嘩している時や、銀行などの大資本と喧嘩している時だったんじゃないですか?

●もう一つの特徴「自民族中心主義」

 ファシズムのもう一つの特徴は、自民族中心主義です。やはり左翼的な表現にすると「民族排外主義」ということになります。歴史をからめていろいろ言いますが、そんなものは歴史というよりイデオロギーです。国粋主義と言ってもいいでしょうか。もちろん石原さんもそうですが、都知事という立場から、強烈な「東京中心主義」としても表現されています。だいたいが自民党の旧体制というのは、都市部で集めた金を地方でばらまくという利権・腐敗構造で成り立っていました。大切なことは何でも庶民には見えない裏で決まる。表では当たり障りのない意味不明なことしか言わない。それを石原さんは「東京で集めた金はすべて東京に使え」と言い、(自分に冷や飯を食わせてきた)国や政治家の都合など糞食らえみたいな言動をとって都民を喜ばせた。ワンマンで独裁的な手法は逆にすべてが見えてわかりやすくもあります。東京を「国」におきかえれば、そのまんま、非常にわかりやすいファシズムになります。

 この民族排外主義の変形バージョンである東京中心主義というのは、石原さんが右翼以外からも支持されていく上で、非常に重要なキーワードになっていったように思います。それまで都民以外から東京を見た時のイメージは、華やかな首都としての印象以外に、「一極集中はよくない」「地方分権が必要」「首都移転を」「東京砂漠」「ふるさとへのUターン」とかいう言葉で表されるものありました。でも、石原さんは「中央集権のどこが悪い」「首都移転断固阻止」の立場であり、同時に上記のような「東京の金は東京で」という、富の再配分の否定という保守的な志向が、偶然にも地方への利権ばら撒きに対する批判となり得ました。一言で言えば都民に「自信」を取り戻したということなんじゃないかと思います。

 因みにですけど、「真の愛国者の党」を掲げる共産党は、この民族排外主義に対する警戒心が左翼としては極端に薄い。北朝鮮とからめて共産党を批判しようとするネット右翼の方とかみますと「わかってないなあ」と思いますね。自民党が急に拉致拉致言い出すまで、日本の政治勢力で最も北朝鮮(と中国)が大嫌いで今にいたる先鋭に対立し続けてきたのが日本共産党なんですから。共産党は、その矛先が共産党にさえ向かなければ、いくらでも反北キャンペーンをしますよ。ですが本来の左翼は、「国」や「民族」ではなく、非人道的な犯罪を犯した「人」と「罪」を糾弾し、それが差別的な民族排外主義に利用されそうな時には、警鐘を乱打するのが与えられた役割のはずなんですがね。

 まあそれは余談として、他にも数え上げれば、中央集権、軍事立国、自己責任、はみ出した者(例:同性愛者、ホームレスなど)への極端な蔑視、男尊女卑(古典的「家庭」の重視)、民族浄化、教育や芸術への介入と統制、、権力による「道徳」の強制、など、まあ一言でいって「美しい国」ってことなんでしょうね。とにかくいろいろあるんですが、そんなの全部あげていけば、本が一冊書けてしまいます。でも、みんな石原さんにはどんぴしゃり当てはまることばかりでしょ?あたしゃ全部まっぴらですけどね。

●芸術の守護者?

 さて、最後にちょっと余談めくのですが、ファシズムの指導者(というか独裁者)というのは、性向として「復古的な芸術の守護者」になる傾向があるように思います。ヒトラーも「芸術の守護者」を自称していたそうで、彼自身はワーグナーの熱烈なファンだったことは広く知られています。しかし実際には自分で理解できる復古的な芸術は保護しても、現代的な前衛芸術はむしろ弾圧しました。

 石原さんも「五月の菊」だの聞きなれない古いたとえを使ったり、差別用語として使われてきた歴史を無視して「語源は差別でない」などという屁理屈で「シナ」を連発してみたりしていますが、一方で、世界の現代芸術の粋を一堂に集めた貴重な美術展に、わざわざ来賓として出席したおりには、展示物を全く理解することできず、こきおろすスピーチを行うという恥ずかしいことをしておられます。これはね、石原さんを支持している人でもかばっちゃいけないこと。むしろ支持していればなおさら苦言を呈すべき。あんまり非常識すぎます。社会人としての常識がない。

 なんか「日本の古典美術を見ろ」みたいなことまで言ったらしくて、美術展開催に協力して貴重な展示品の貸し出しに応じてくれた海外からの来賓たちは、「知事は酔っ払っているのか?」と呆れたり、あるいはカンカンに怒っていたとか。「独善」だの「個性」だのが過ぎると、普通に挨拶もできない、ごく普通のそのへんを歩いている人以下となってしまうわけで、ここまでくると素直に恥ずかしい。展示品が理解できなかったことは責めません。私だって理解できるかどうかは実物を見ないとわかりませんから。でも、たとえみんなが認めていても、自分が理解できないものは認めないんだい!という偏屈ジャイアンなことだけはやめてほしい。

 実はスターリンも似たようなもんで、彼の時代には現代美術は死に絶え、復古的な芸術だけが「社会主義リアリズム(=中国のポスターを思い出してください)」の名前で存続を許されました。独裁が長く続くと似てくるのかな?石原さんもトップに長くいすぎて、末期に向かうにつれ、どんどん言動が乱暴で粗野になっていく印象です。もう74歳なのですから、ここで引退したほうが老害で晩節を汚さずにすむんではないですかと言ってあげたい。でも誰も言える人がいないんだろうな。ついでに功なり名をとげたら、最後にオリンピックを誘致したがるのも、ヒトラーぽくって笑ってしまいました。

●「作家としての感性」って何だったんだろう?

 都知事になる前、議員を辞職して浪人時代の石原さんは、ここまで粗暴な人ではなかったような気がします。かくいう私も、もちろん思想的には相容れないとしても、人間として軽蔑していたわけではなかった。文学者としては尊敬していたし、あるいは「敵として」敬意をもっていました。石原さんは右翼としてではなく、文学者として「差別用語批判」に違和感をもっておられたようですが、部落解放同盟左派の小森龍雄さんと対談したおりには、「こうして実際に話を聞いてみると理解できることがあった。対話することが大切なんですね」と発言しておられました。差別用語批判に対する疑問も、決して政治的で感情的な決めつけではなく、なるほどそういう疑問もあるだろうなと思わせるものでした。

 石原さんが自分が出馬する前の都知事選で、青島幸夫候補に投票したのは有名な話です。だいたい右翼的な人は、青島さんが当選直後で「青島フィーバー」的な人気があった時代ですら、こき下ろすことが多かったにもかかわらずです。冷や飯食わされて排除されている時代のファシストというのは、わりと左翼と馴れ合いたがることも、ままあるんですが、石原さんは後に「作家としての感性に期待した」と言っておられます。極右と目される石原さんが、ほとんど左翼に近い青島さんにそれでも投票しました。その基準が政治的な立ち位置ではなく、「作家としての感性」だったわけです。石原さんがそう表現する「感性」の内実とは、いったいどんなものだったのでしょうか?まさか「語源」を持ち出して煙にまくことではありますまい。そして何よりも、今の石原さんにはその「感性」が残っているでしょうか?一度聞いてみたいです。

●参考 あなたの潜在的ファシスト度チェック

アドルノF尺度測定ページ

 ↑ちょっと前にブロガー達の間で流行した「ファシスト度チェック」です。質問に答えていくだけで、あなたのファシストとしての素養を判定してくれます。私の知り合いの左派系のブロガー達は、ほとんどが「自由主義者(リバタリアン)」という結果が出たにもかかわらず、私だけが「一般人」だった。恥ずかしくて公表できやしねえ(笑
 都知事選で誰に投票しようか迷っている人は、このテストで、ちょいファシスト入ってたら石原さん、一般人なら浅野さん、自由主義者なら吉田さんと決めてやってみてはいかがでしょう。いや、ひょっとして、浅野さんと吉田さんは逆かな?(笑

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  • フランスのルペン候補が大統領候補になった時に、右翼ミニコミで書いた文章です。以前にも紹介したかもしれませんが、参考になれば(なるかね?)

    5月5日に行われる予定の(本稿執筆は2日)フランスの大統領選挙決選投票に、「極右」ルペン大統領候補が中道左派のジョスパン候補を破って登場したことがマスコミで取り上げられている。しかし、近・現代欧州において、そもそも「右」とは何を意味するのかと言う根源的な問いかけは、今のところ日本のジャーナリズムにも思想界でも殆ど見られない。
     欧州統合への不満、移民の増大による社会秩序の混乱、犯罪の増加、これらの社会問題に対する政府だけでなく野党の無為無策の中で、ルペンは移民排斥、フランス労働者の保護、そして社会秩序の復活を唱えて貧しい層にも共感を得た。さらにフランスのアイデンテイテイの確立と反グローバリズムを呼びかけることにより左翼支持層や反米インテリにまで支持を広げた。また最近のイスラエルの余りに強硬な姿勢が反ユダヤ主義に火をつけ、これも右翼支持層を広げていること等々は、なるほどルペン躍進の表層の分析としては一理あるものと思われる。
     しかし、フランス右翼=反近代、反フランス革命の思想系列は、反ユダヤ主義と微妙に絡まりながら、19世紀後半から20世紀前半にかけ、一つの大きな思想的水脈としてフランス知性に影響を与えて来たのである。この「反近代」思想を理解する事なくして、フランスのみならず、ヨーロッパ右翼の思想と行動の根源は理解できない。現在のところ福田和也氏の著作「奇妙な廃墟」(国書刊行会)がこの面における最も体系的、総合的な解説書である。本稿はこの著書に多くをおっていることをお断りしておく。
     フランス革命が近代の幕開けであったと同時に、絶対王制からその中央集権主義を引き継ぎ、「国民国家」の結成のためには、ヴァンデの農民蜂起に代表される地方自治の精神を否定する傾向があったことを私はこの連載の初期に述べて来た。フランス右翼の最も良質な思想は、何よりもこの近代への反発から始まる。彼らの愛する「フランス」とは、議会制民主主義、官僚体制、中央集権のもと、国民が統制される国家ではなく、むしろルイ王朝以前の中世時代、封建領主の支配の元とは言え各地方の特色ある文化が花開き、また多様なラテン文明に根差したフランス文化に、民衆が生活習慣を含めてアイデンテイテイを持ち得るような国家のあり方である。あえて単純化すれば、「明治」よりも「江戸」を理想とするような精神なのだ。
     近代資本主義、そしてその変種としての共産主義は、いずれも宗教、民族、歴史、文明と行った人間において欠くべからざるアイデンテイテイを破壊し、「グローバル自由主義」「消費経済」もしくは「階級闘争」「絶対的平等」の名の下に、世界のあらゆる文明を滅ぼしてしまうものだと彼らは言う。その最も徹底した理論家は、戦前の最も強力な右翼運動「アクション・フランセーズ」の指導者であるシャルル・モーラスだった。モーラスは政治運動の中心に王政復古を掲げ、王政を政治の中心におくことによって、一切の利権からも、また大衆迎合の傾向のある政治家からも離れた虚構の国民統合のシンボルとし、資本主義、共産主義に代表される近代主義を乗り越えた歴史的価値を打ち立てようとしたのである。私はモーラスが、日本の天皇陛下について知ることがあったらどんな感想を述べたかを是非聞いて見たかったと思う。
     そして、彼の「反ユダヤ主義」とは、少なくとも理論面においては、「国無き民=経済のみを至上価値とし、世界を均質化する悪しき近代の象徴」としてのユダヤ人を否定しようという物であった。これは現在の反グローバリズム運動にかなり接近する思想ですらある。彼の思想の根源にある物は、近代社会批判として決して古びない視点を有しており、20世紀の「大衆の時代」の危機を認識する多くの知識人の思想と共鳴する物があるはずだ。一般には右翼とは掛け離れたキリスト教思想家と見られているシモーヌ・ヴェイユの著作にすら、その近代批判の中にはある種の反ユダヤ主義が散見され、しかも最も深いところでこの両者の思想には共通する点があるかにすら思われるときがある。
     ルペン候補のいくつかのインタビューを読む限り、彼にはこのようなフランス反近代の政治思想に対する知性が殆ど感じられない。彼の語る社会秩序の維持、治安の強化は確かに政治家の責務であろう。移民問題が安直な世界同胞的ヒューマニズムで片付く問題ではないことも確かである。しかし、伝えられるルペン候補の発言の多くは単に奇矯なデマゴーグでしかない。「フランスのアイデンテイテイ」と言ったときに、政治家ならば、そのフランスとは何なのかを、思想と歴史観に基づいて語り、どのようにすればこのグローバル社会でその価値観を守ることができるのかを政治、経済面での有効な政策として提起すべきなのだ。 この点で、ルペン候補は真の国民的信頼と支持を勝ち取れるとは考えられない。「反近代」の政治思想を打ち立てることもせず、過去の先達から遥かに劣ったアジテーションを振りかざす行為こそ「フランスアイデンテイテイ」への冒涜であり、右翼思想の退廃を示すものである。
     報道によれば、フランスメデイアの多くは、中立報道の原則を捨て「反ルペン」で統一されているという。おそらくルペン陣営は、「これこそ全体主義」と抗議することに選挙戦を切り替えるだろう。しかし、全体主義は、あらゆるアイデンテイテイを失った「近代社会」にはしばしば起こり得る体制なのだ。近代批判を含まない全体主義批判は根本的な所で無力である。この意味で、ルペンも、また左派のルペン批判もおそらく真の意味で全体主義を招き寄せる現代社会を乗り越えることはできない。排外主義を注意深く回避し、近代やグローバル経済、議会制民主主義の美点を肯定しながら、その中で前近代的価値や様々な民族、文明の多様性を復活させる中で新しいアイデンテイテイを確立させて行くこと。これこそが現代の矛盾を乗り越え、左右の全体主義を回避する道である。

  • ついでに

    「作家としての感性」と言う点でいったら、石原氏の小説、私はあんまりいい読者じゃないけど、「ファンキー・ジャンプ」と「完全な遊戯」はかなりいい小説だと思う。今手に入るのかどうか分からないけど。

    しかし、これらの作品に漂っているのは、強烈なニヒリズム、シニズムですよ。人間と言うのはとにかくどうしょうもないという。特に後者はもっと評価されていい作品で、ここで紹介したくないような惨たらしいレイプと殺人の内容だけど、すごく文章が乾いていて、本当に空虚な印象しか残らない。そこに逆に恐ろしさがあって、異常犯罪が異常犯罪としての迫力すらもてない現代社会を預言していたとすら思える。

    これ以降の石原氏の小説は、もっと成熟はしたけどこういう雰囲気はなくなっていった。草加さんの言うファシズムとしての魅力があるとしたら、やっぱりこの小説を置いて他にないと思う。(青島氏への共感も、都市博断固中止と言うある種「破壊的」なものへの評価だったんじゃないかと)まあ、「化石の森」が小説としてはいいのかもしれないけど、私はやっぱ「完全な遊戯」ですな。最も、最近書いているものは未読。

    「ファンキー・ジャンプ」は、ジャズが大好きだった石原氏の実験小説で、これは読んでいて楽しいですよ。音楽を文章で表現なんてできないけど、かなりその不可能にチャレンジした作品だと思う。チャーリー・パーカーとかすきだったらしい。最も、いまはジャズはやっぱり浅い、クラシックがいい、とか言っているようなので、まあやはりそういう風に「成熟」しちゃうものかなあと