(写真は特高警察の拷問で殺された小説家の小林多喜二)
他人様の領域にて、その方の書いている趣旨とは関係ない「論争」を軽くしてしまいました。反省です。
もともとは相手さんがご自分の主張の宣伝を「誤りなき事実」のように書き込んできたのが発端ですので、私としては単に「いっしょにされたくない」と思っただけなのですが、もう少しやり方もあったかなと…。
とりあえず、最後の投稿がやたら長文になってしまったので、全部を投稿することを諦めて、一部の抜粋だけ投稿しておきました。しかしせっかく書いたものですので、こちらに全文を掲載しておきます。
—— (転載ここから) —————————-
通説はだいたい以下のようなものでしょう。
『明治憲法は天皇主権であり、議会や内閣も天皇の下にあった。「民主的権利」は法律の枠内で恩恵的・恣意的に与えられていたものにすぎない。なお、主権の変更は憲法改正の限界を超えているので、日本国憲法は帝国憲法の改正ではなく、新憲法の制定である。そして、天皇主権から国民主権になったのは良いことだ』
なお、「民主的な運営」をするか否かが、主権者であるたった一人の人間の脳髄に委ねられているなら、たとえ「実質的に」どんな運営がされていようとも、ありとあらゆる意味でそれを「民主国家」と呼ぶのは誤っています。それは「実質的」という言い訳をつけようとも同じです。ですから、帝国憲法下で民主的な運営がされていたかどうかを論争する必要すらありません。少数派が保護されない「多数派独裁」も民主国家ではありません。
私はこのような通説によっているのであって、誤っているだの勉強しろだの、まるで自然法則を論じるみたいに言われても困ります。通説を否定するのは悪いことではありませんが、通説を否定する方が通説を信じている人を丁寧に説得するのが筋ではないのですか?最近、極少数説をバンと提示して、それを信じない奴は「馬鹿か左翼だ」みたいな、尊大な勘違い野郎をネットでよく見るので、この機会に苦言を呈しておきます。
なお、「大日本帝國は実質的民主主義国家であった」という物言いは、天皇制や明治憲法を肯定的に評価するイデオロギーが、かかる通説に屈服・妥協する中から生まれたものだと思っています。つまり共産主義者にとっての六全協路線みたいなものですが、どちらにせよ、かかる言い訳をしないと左右ともに延命できないまでに現行憲法の趣旨が定着しているということでしょう。その是非はともかくとしてもです。
次に「共産党は暴力革命の明確な意思表示をしている」だなんて、もう右翼以外は誰も思っていないです。それはAさんの主張の本心が「『実質的』には天皇制独裁の復活を狙っている」というのとたいして変わらないレベルでしょう。右翼(とりわけ街宣右翼)は、左翼や反政府運動の言論を弾圧するのが主要な「活動」なわけで、自己正当化のためにもそう思いたがる気持ちもわからないではないですが、そういう「裏にある本心」みたいなものを解釈から導き出してそれを批判するという手法は、共産党に限らず本当によく見かけるわけで、私としてはそういう特殊な議論におつきあいするのはうんざりというのが偽らざる気持ちです。言論は自由ですからご自分の思うことを主張して「警鐘を鳴らす」活動をされればいいと思います。
最後に、どうも勘違い(すれ違い)があるようですが、戦前の共産党の路線的な誤りについて云々の議論は全くしていませんし、するつもりもありません。概念の問題として、憲法制定権は国民にのみありますから、国民主権が明記された憲法ができる以前の状態において、日本国民には天皇主権の憲法と国家を打倒する法的な権利があったとは思いますが、その方法や、打倒した後に何を作るかは全く別の問題で、多岐にわたる議論があると思います。
私が先の投稿で言っているのは、治安維持法や特高警察のようなものは悪であり、それがなくなって良かったという、一般的な理解に私も立っているということです。これは現在の主だった政治勢力の中では常識に属する立場であって、そう言うことはすなわち、ほとんど何も言っていないのと同じです。「ファシスト」だの「ヒトラーみたい」だの「特高ばりの○○」というのも、中身の希薄な単なる政治的な罵倒にすぎないくらいに一般化していると思います。つまり、「特高警察はあって良かった」だの、あるいは一部にせよ「正しいもの」だの「解散させるべきではなかった」だのいうような特殊な立場に私は立っているわけではありませんよ、私は宮本さんの嘘吐きな人間性が嫌いだと言っただけなんですよ、どうか一緒にしないで区別して下さいねと言ったにすぎません。
おしなべて、明治憲法や特高警察の擁護とか、共産党は今も暴力革命を目指している危険な奴らだとか、そういう主張をする人の邪魔をする気はないし、ご自由にどうぞと思います。ただし、お仲間でない他人の領域で、そういう特殊な思想の主張や「勉強の成果」を披露するのは、このような「論争」や場が荒れる原因になるし、通りすがりの人からは、そこにいる人みんなが「こういう主張をする人の仲間」だと思われかねないので、ルール違反だと思います。それは上の投稿で管理人さんが、あらためてこの文章をかいた趣旨を表明する必要があったことでも明らかです。
まあ、ここでは管理人さんが容認しておられるので問題ないのでしょうし、私もそれに甘えさせていただき、少しだけおつきあいしたわけですが、私は世の中で一般に信じられている通説的な理解を表明したにすぎないので、基本的に「自分の主張」はしていない、単なる一般人の疑問のレベルにすぎないと思っています。要は私は「大衆」であって、Aさんは「前衛」の立場にあるわけですね(笑)。繰り返しますが、「何やら増えてきた、自己の政治的な旗幟を鮮明にされている方々の仲間ではない」といいたかっただけです。
これくらいにしておきますし、世の中に五万とある、ありとあらゆる思想の人々と「論争」している暇も、また必要もないと思います。そういうことは、ある程度は上記に書いてきたような共通の基盤がある現在の主だった政治潮流の人々、仲間内で必要な場合、得るべきものが多い面白い論争、等の時だけしていけばいいだろうと思っています。ですので後はご自由にご自分の考えを展開してください。私は「自分の主張」を展開する気はありませんが、Aさんの主張も(乗りかかった船ですので)ちゃんと読ませていただくことだけは約束します。
―― (転載ここまで) ―――――――――-
要するにこの方の主張を整理してあげると、特高警察による民衆弾圧は「国家緊急権」だと言いたいようです。国家緊急権というのは国民の人権を守る民主国家が、極度の騒乱状態など、そのままでは国民主権や人権を守れないとき、一時的に止むを得ざる超憲法的な措置で国民を守り、憲法秩序を回復するという民主国家に認められた権利です。そこで「共産党は危険である」よって思想弾圧をしてもいいんだと。
一方、国家緊急権は、国民の側の「抵抗権」とセットになっています。抵抗権は政府が憲法秩序を破壊し、もはや合法的な手段が尽きた場合、国民は時の法律に反してでも、それに実力で抵抗する権利があるというものです。たとえば政府が憲法を無視して徴兵制を敷き、他国と開戦しようとしたような場合や、日本国憲法の停止と明治憲法の復活を宣言した場合などが考えられると思います。
このような場合、政府に実力で抵抗するのは、何も左翼思想によらなくとも完全に合法であり、むしろ国民の義務でさえあるというのが現代における主流の考え方です。ですから時の法律(悪法)に従って、たとえばナチスに抵抗しなかっただけではなく、積極的にユダヤ人虐殺に加担した(その時点の法律では合法どころかそうすることが義務でさえあった)ような民間人が、戦後の法廷で裁かれて重刑を科せられていますが、これは許されることであるとされているのです。
この抵抗権が(国家緊急権もですが)左翼思想と違う点は、どちらも「国民主権・権力分立・人権保障」などを特徴とする近代憲法が存在していることを前提とし、その「憲法秩序」が崩壊しかかっているような緊急事態において認められる「ブルジョア民主国家の正当防衛」概念だということです。よって、未だ近代憲法が存在していない明治体制のような専制国家(ブルジョア法学では「外見的立憲主義」と呼ぶのが一般的ですが)の場合、憲法を制定する権利は国民にのみありますから、専制政府を倒して近代憲法を制定する権利(革命権)の問題になります。いずれにせよ、この権利の目的は民主的な「憲法秩序」を元に戻すこと、つまり憲法保障=人権擁護のために認められる権利なのであって、「国体」だの天皇制だの国家だのを守るためにあるのではありません。
まず、明治憲法下においてはこのような近代憲法が存在せず、国家緊急権はありません。民衆の抵抗権のみが存在していました。次に共産党の活動は未だ国家が崩壊するような緊急事態にあたっていたとは到底言えず、よしんば一般刑事犯にあたるとしても、他の刑事犯と区別せずに、その人権は充分に守られるべきでした。しかも実際には「その思想が国家にとって危険である」という理由(治安維持法の条文を参照せよ!)で弾圧され、拷問され、殺されていった(治安維持法容疑だけですら、194人が拷問で殺され1,503人が獄死している)のです。さらに左翼運動のみならず、宗教団体など、とにかく政府と考えの違う人々や天皇の神格化を認めない人間を、文字通り天皇の手先として片っ端から逮捕し、拷問して殺していったのが特高警察です。その活動の全領域にわたって一片の正当性もありはしません。
総じて、この方の理屈は、天皇主権の明治憲法下において、「天皇を守るための国家緊急権」のみを認め、絶対主義的天皇制に抗する民衆の側の抵抗権は認めないという、近代憲法学の観点から見れば欠陥だらけの、極右イデオロギーに基づいた論理構造に陥っています。よしんばその「国家を守るための国家緊急権」という、現代では認められない極右思想を認める立場に立ったとしても、戦前の共産党の活動が、それを発動させるような状態(革命の勃発)にいたっていたとは逆立ちしても言えません。にもかかわらず、このような蛮行が認められたことが「大日本帝国は民主国家」ではなかったことの証明なのです。二度とこんなことは許してはいけない。ファシズムの芽はすべて摘み取っていかなくてはならない。それこそが現代日本に生きる私たちが、この痛苦な経験からくみとるべき教訓です。
なお、国家緊急権の概念については、恣意的に使われる恐れが強く、その場合にはかえって憲法秩序を破壊するという懸念から、これをいっさい認めない説も有力であることを申し添えておきます。一応は認める立場の場合も、できるだけこれを軽視して、抵抗権のほうを重視することが多いようです。よって明治憲法下での国家緊急権はないと解釈します。
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この手の方との対話は、不可能だと思っています。
人は物事を判断する基準に、その人の価値観があるからです。この社会はそうした価値観に基いて、動いていると私は考えています。
そして、人は通用的心理に妥当的真理を対置し、力によって己の信じる妥当的真理を敷衍化していくのだと。
なお、お断りしますが、その場合どこまで妥協、譲歩、迂回の精神を発揮できるか否かが、大きな要素となることを追記しておきます。
簡単に書けば、広くて大きな度量とか器量が問われるということです。
人民内部の矛盾の処理の仕方、であるとも言い換えることが出来るのですが。
抽象的な書き方で申し訳ないが、趣旨をくんでいただければと。
では、では。
土岐さん>
いや、全くおっしゃる通りで、そもそも「論争」というのは、ある程度は共通の基盤があるところまで降りていって、そこから積み上げていかないと成立しません。全く違う価値観に立つのに、いきなり特定の具体的な課題を論じてもすれ違うばかりです。
たとえばこの方とは「民主主義」という同じ言葉も違うニュアンスで使っているわけですから、まずそういう概念で共通の理解を得る段階から論争を積み上げていかない限りは、何か得るべき議論ができるとも思えません。「朝生」のような、テレビ受けする派手な「論客」をならべた「ショーとしての論争ゲーム」を、文筆による論争にまで持ち込まれて引っ掻き回されてはたまりません。
ただ、中高生のような未成年者への影響と言う問題は残ると思います。欧州では、インターネット黎明期において、「ガス室などなかった」というネオナチのヘイトサイトが出現し始めた、きわめて初期の段階で、親の世代が子供たちへの悪影響という観点から、プロバイダに、特定民族への差別や悪意を煽り、歴史修正主義を鼓吹するようなサイトは閉鎖する(協力しない)ということを要請する運動が、静かに、しかし広範に展開されて成果をあげています。
こういうヘイトサイトの影響を受けるのは、圧倒的に中高生などの子供たちなのです。ヘイトサイト側はこれを「言論弾圧」と言うでしょうが、「人を差別する自由」は人権ではありません。こういう動きは「言論弾圧」どころか、むしろ欧米における民主主義の成熟を示すものです。
一方、日本では、ネットなどにヘイトスピーチが溢れる大きなきっかけとして、小林よしのりさんが漫画で展開した運動があり、そこで初めて、今まで街宣右翼のポスターくらいしかなかったその手の言論が、大手をふって人の目にふれる場所に出てきたわけです。
その最初期の段階で、普通の歴史学者たちは、所詮は「マンガとサブカル」であって、自分たちが学問的に対応するほどのものではないし、対応して変な奴らとゴチャゴチャ応対しなくてはならないのは嫌だという態度をとって沈黙しました。その結果、これらの動きに対応するのは左派ばかりとなり、もはや手の付けられない状況になっています。
ですからまあ、完全にこういう価値観に染まっている人と、私ら左派の価値観を持っている人が、その価値観を棚上げにして真正面から論争しても、お互いに得るものは少ないと思いますが、あくまでも子供たちへの影響と言う観点からも、時々はちょっとご挨拶と言うか、「そういう主張は特殊なもので一般性はないんだよ」程度の応対はしておく、ネットに残していくことも必要だと思いますよ。
だから土岐さんも、上述したような歴史学者たちのようなしらけた対応ばかりではなく、時々はちょこっと挨拶程度のことは書き続けてくださいな。と、不遜にもお願いしておきます。
まあ、しらけた気分になるのはよく解りますよ。
特殊な意見を何も疑いもせずに単なる風潮に乗りながらさも普遍的、一般的な主張の如くまくし立てるネトウヨなんかと対話しても意味が無いのもわかってるし…
ただ、嘘も百回言えば本当になるではありませんが、先頃の『ワシントンポスト』紙への右翼連中による従軍慰安婦否定の意見広告掲載、チャンネル桜や石原慎太郎などが中心・賛同となった南京虐殺事件否定映画制作の動きなど、トンデモ擬似歴史論があからさまに堂々と横行している現在、「子供らへの影響」という観点は大切かも知れませんね。
かつてオウム真理教を中心的な立場で支えた幹部たちの世代は、俗に「オカルト世代」などともいわれていました。
要するに月刊『ムー』あたりでしか取り沙汰されないようなネタを真に受けて、それに強く影響されて育った世代でした。
あの地下鉄サリン事件を契機に教団の実態が解明されると、暫くは各局テレビ番組などもそれまでは盛んに放送していた心霊物やUFOネタを控えていたぐらいです。
人は昔から「誰も知らない真実」「本当の○○」「歴史の裏側」「本当はこうだった」といったスキャンダラスで亜流で平面図式化された主張や情報に飛びつきやすいのが常で、ましてやそれが判断の伴わない子供らであれば尚更でしょう。
俺は子供がいないのでなかなか実感が湧きにくいのですが、未来を射程に入れた場合、そのような判断もありきかと思われます。
ただし、そのような輩と不毛な「議論」はしたくないなぁ…
超常現象サイトなどの然るべき場所でならね。
ジャンケ君>
今から考えますと、大槻教授は偉かったということですかねえ。そういえば大槻教授も、わざわざ自分がこんなおせっかいをすることの理由に、子供たちへの悪影響をあげておられましたっけね。
歴史学者からも、大槻教授みたいな人が出てくれればいいのですが。まあ、今のヘイトスピーカーたちのヒステリックで粘着な動きを見ていますと、ちょっとあれと対応するのは嫌だなあと誰でも思いますよね。中にはヘイトスピーカーではない、真面目な右翼の方もおられるとは思いますが、現状では質の悪い部分が多すぎる。これでは生活むちゃくちゃにされかねん。
いや、実は大槻教授もかなりな曲者のトンデモ学説論者で、あの20世紀科学主義丸出しの無理矢理な言い分は他の研究者からも嘲笑の対象になっていますね。俺も大槻教授の立場は理解できても、あの人の学説は自説に固執し過ぎていて、ちょっと強引な感じがします。
同じ超常現象懐疑論者のなかでも科学者ではなくタレントですが、松尾貴史氏の発言のほうが社会的影響を鑑みた慎重さと説得力があったりしますよ。
実は俺のイメージしたのは小林よしのりの『戦争論』をトンデモ規定し論破した、「と学会」の山本弘会長です。
山本弘氏も当然ながら某巨大掲示板などでネトウヨどもの攻撃の餌食にさらされてますが、彼は自著で「書くことの責任」を提起して痛烈に批判しています。
いずれにしても、ネトウヨの問題というのはその言い分と立場におけるネチケットの問題に根差したものであり、決してイデオロギーの問題で処理されるまでのことではないと思われます。
あ、それからネチケットの問題と共に社会心理学の範疇ですかね?
「論争」とか「理論」といった言葉に異様に固執するネトウヨが多いですが、彼らがそうした言辞を発する度に非常に知的コンプレックスが強いような気がしてなりません。それはインテリに強烈なコンプレックスを抱く漫画家の小林よしのり、ヒステリックな三流学者の西尾幹二や、風潮に便乗して売名しようとした他の文化人や三流歴史学者が嘗て中心的に動いていた「つくる会」の精神的な姿勢と在り方に大きく関わりがあるような感じがします。
「国家緊急権」で検索して、この記事を見つけました。
「国家緊急権」は「抵抗権」と同じように「憲法を越える権利・権能」で、国民主権の民主国家における概念だと私も思っています。
ところが、国会図書館の「国家緊急権についての報告書」を見ると、国家緊急権の例としてドイツ帝国や大日本帝国の例をあげています。Wikipediaでも、大日本帝国の非常大権を国家緊急権としています。
私は君主や天皇に主権があるとする国家における非常事態体制を、そのまま「国民主権国家」に適用できないと思っています。戦前の体制に戻そうとする人々が国会図書館にもいるようで、非常に危惧を感じます。
Wikipediaの「国家緊急権」で「国家緊急権は民主国家においてのみの概念であるとする見解もある。」と何回も書き込みましたが、その度誰かにすぐに削除されてしまいました。
ステレオさん>
懐かしいですね。抵抗権と国家緊急権。
両者は私たちの日常概念にてらしてわかりやすく言えば正当防衛にあたると思います。つまり急迫不正な侵害に対する「民主主義(憲法秩序)の正当防衛」です。これを人民の側から見たのが抵抗権であり、国家の側から見たものが国家緊急権にあたります。
正当防衛を正当化する原理は人権思想であり、抵抗権と国家緊急権を正当化するのも人権思想です。民主主義と人権(個人の尊厳)は手段と目的という関係にあります。そもそも国家の正当化原理(存在理由)も人権保障にあるのですから、「国家緊急権は民主国家においてのみの概念である」というのは当為です。というか、最初からそれは近代立憲主義における概念なのですから、それと対立する明治天皇制体制のような外形的立憲主義に密輸入すること自体が論理矛盾です。
たとえば、「国家が存続するためには一時的にせよ人民を犠牲にすることが許される」などという本末転倒な発想は、現代立憲主義においては最初から成立しない考え方であり、本来の国家緊急権とは縁もゆかりもない似て非なる考え方です。むしろ国家がそのような考えをとった場合には、人民は抵抗権を発動する以外にありません。
もともとこれらは近代市民主義(資本主義ブルジョア革命)における概念であって、その外にある全共闘運動を抵抗権概念で理解したり、同じくその埒外にある明治憲法の非常大権を国家緊急権で理解するなどというのは無知蒙昧なトンデモ思想に属します。
左翼的には抵抗権の発動たる市民革命などという考えは「建前」であって、ブルジョア階級支配(資本主義ブルジョア民主制)を防衛する階級意思の発動という「本音」を隠すイデオロギー的な粉飾にすぎません。しかし、左翼はこういう「本音」を暴露することで、あたかも自分たちがそれを超えた存在であるような気になって「建前」を軽視してしまい、結果として旧ソ連スターリン主義にみられるように、そこにおける人民民主義は少しもブルジョア民主主義を超えたものになるどころか、むしろそれ以下の結果しかもたらしてこなかったと思います。
したがって、21世紀の今日、「民主主義の正当防衛」である抵抗権と国家緊急権を、その建前に戻ってもう一度現代的な意味で積極的な概念を与えて再構築していくことは意義のあることかもしれません。その場合、個人の自由人権を守るためにのみ許される国家緊急権については、今日的には大日本帝国の非常大権をこれに含めるなどという超拡大解釈にみられるように、きわめて危険であり、むしろ国家緊急権という概念そのものを否定していく(抵抗権概念に吸収統一していく)ことが必要なのではないかと思います。
民主党も自民党も「国家緊急権の法制化」を唱えており、日本国憲法が危ないと感じております。
映画「マーシャル・ロー」の感想の書き込みでも、「戒厳令が発令されて、国家緊急権により米国憲法が停止されているはずなのに、おかしなストーリーだ。」と書き込む人やそれに同調する人が多く、不安に思っております。調べたら、米国には有事でも憲法が停止されることはないことが分かりました。
国家緊急権を安易に使う人が多いように感じられ、私もなんとか国家緊急権の安易な使用に抵抗したいと思っております。
民主主義は、選挙と議会と複数の政党によって保 障される。 19世紀のこの当時にそれがあったのは、 日本と欧米のごく少数の国だけであった。
独裁とは一国一党体制で大統領や首相(総統や書 記長)に 任期がないことである。
昭和15年12月に大政翼賛会ができたが、 これは当時のナチスや共産党のような一国一党の 独裁政党ではなく、 実体はいくつかの勢力の寄り合い所帯であり内部 紛争が絶えなかった。
そのため大政翼賛会は行政の補助機関のようにな り、 昭和16年の9月に翼賛議員同盟が創設され、 衆議院議員はこの他にも同交会、興亜議員同盟、 議員クラブ、 同人グラブ、無所属などに分かれた。
昭和16年に太平洋戦争が始まり、 戦争中の昭和17年2月に東条首相は翼賛政治体 制協議会を結成し、 4月の第21回総選挙では衆議院の立候補者を推 薦する いわゆる翼賛選挙を行なった。
しかし、衆議院選挙の結果は推薦議員は381名 で、 非推薦議員は85名だった。
中野正剛、鳩山一郎、三木武吉、芦田均、笹川良 一などの 非推薦組の議員達は程度の違いはあっても、反東 条派であった。
この太平洋戦争中の衆議院選挙で推薦議員が多く 当選したのは、 有権者がこの非常時には政府に一致協力すべきだ という 考えがあったからだと推測される。
しかし、この時でも非推薦の候補者も当選できた のである。 例えば、尾崎行雄は推薦選挙に反対して東条内閣 に公開状を送り その中止をもとめたり演説をおこなったりしたの だが、当選している。
また斎藤隆夫は、昭和15年に衆議院で軍と政府 を批判する演説をして 衆議院議員を除名されていたが、但馬選挙区で最 高点で復活当選した。
■明治憲法と五箇條の御誓文
大日本帝国憲法の第五十五条に、 「国務大臣は天皇を補弼する」 「天皇の詔勅には国務大臣の副書が必要」 と定められている。
「補弼」とは、 「天皇といえども自分勝手に国を動かすことは出 来ない。 天皇が統治を行う際は、必ず国務大臣の助言や支 援を得なければならない」 ということだ。
国務大臣等は国民によって選ばれた。
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五箇條の御誓文 明治元年3月14日発布 現代 訳
一、広く人材を求めて会議を開き議論を行い、 大切なことはすべて公正な意見によって決めまし ょう。
一、身分の上とか下とかを問わず、 心を一つにし積極的に国を治め整えましょう。
一、文官や武官やいうまでもなく一般の国民も、 それぞれ自分の職責を果たし、各自の志すところ を達成できるように、 人々に希望を失わせないことが肝要です。
一、これまでの悪い習慣をすてて、 何事も普遍的な道理に基づいて行ないましょう。
一、智識を世界の先進国に求めて、天皇を中心と する麗しい国柄や、 伝統を大切にして大いに国を発展させましょう。
これより、我が国は未だかつてない大変革を行お うとするにあたり、 私は自ら天地の神々や祖先に近い、 重大な決意のもとに国政に関するこの基本方針を 定め、 国民の生活を安定させる大道を確立しようとして いるところです。 皆さんもこの旨趣に基づいて心を合わせて努力し て下さい。
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宗教や言論の自由
日本では明治憲法で保障された宗教の自由が第二 次大戦中までも保たれた。
◆「大日本帝国憲法」 ・第二十八条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ゲズ及臣民タルノ義務ニ 背カザル限ニ於テ 信教ノ自由ヲ有ス
・第二十九条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会 及結社ノ自由ヲ有ス
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ケビン・ドーク 米ジョージタウン大教授 2006 年5月26日 産経新聞
■教皇庁も認めた「慣行」(一部抜粋) 日本では明治憲法で保障された宗教の自由が第二 次大戦中までも保たれた。 戦時の日本の政界や学界では今中次麿、田中耕太 郎両氏ら キリスト教徒が活躍した。
そんな時代の一九三二年五月、上智大学のカトリ ック信徒の学生たちが 軍事訓練中に靖国への参拝を命じられたのを拒み 、 その拒否を同大学のホフマン学長も支持するとい う出来事があった。 参拝が宗教の押し付けになりかねないという懸念 からだった。
だが、東京地区のシャンボン大司教が文部省や陸 軍省に参拝が 宗教的行事かどうかを正式に問うたところ、 「参拝は教育上の理由で、愛国心と忠誠を表すだ けで、 宗教的な慣行ではない」 との回答を得た。 これを受け、ローマ教皇庁は三六年五月に日本の 信徒に向け、 「靖国参拝は宗教的行動ではないため 日本のカトリック信徒は自由に参拝してよい」 という通達を出した。
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JOG 大日本帝国憲法 ~アジア最初の立憲政治への挑 戦 http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jo g242.html
(一部抜粋)
伊藤はシュタインとの議論を続けた。 シュタインは宗教を通じて国家と国民との精神的 一致をはかるために、 国教の制定を勧めた。 確かに英国もドイツもキリスト教が国民統合の「 機軸」となっている。
しかし、ヨーロッパでの悲惨な宗教戦争を見れば 、 国教制定は文明に逆行する制度に思われた。
この点ではかえって日本の方が多様な宗教宗派が 自由かつ平和的に 共存してきた先進的な歴史がある。 信教の自由はこれを近世文明の一大美果として看 るべく、 しかして人類のもっとも至貴至重なる本心の自由 と正理の伸長は、 …ついに光輝を発揚するの今日に達したり。 けだし本心の自由は人の内部に存するものにして 、 もとより国法の干渉する区域の外にあり。
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『閉された言語空間』江藤淳著
「(1941年)12月18日、(アメリカ)連邦議会 は、 第一次戦時大権法を成立させ、ローズヴェルト大 統領に戦争遂行上必要な 大幅な権限を与えた。そのなかには、検閲に関す る条項も含まれていた。
翌19日、ローズヴェルトはこの戦時立法を根拠と して、 合衆国検閲局の設置を定めた大統領令8985号に署 名した。 これによれば、検閲局長官は、 「郵便、電信、ラジオその他の検閲に関して、全 く随意に」 職務を執行し得るものとされた。 (中略) ところで、この大統領令8985号が、 昭和16年(1941)12月19日に公布施行されてい るのは、 興味深い偶然の一致といわなければならない。
なぜなら、同じ日に日本では、第78臨時帝国議会 において成立した同趣旨の 戦時立法、言論出版集会結社等臨時取締法が 公布(施行は12月21日)されているからである。
このうち、日本の言論出版集会結社等臨時取締法 は、 戦後GHQ指令によって廃止を命じられたために、 自由を抑圧した悪法という世評が定着しているが 、 罰則は最高刑懲役1年に過ぎない。
これに対して、米国の第一次戦時大権法第303項 が 規定している検閲違反者に対する罰則は、 最高刑罰金1万ドルまたは禁固10年、あるいはそ の双方である。
罰則を比較するなら、 米国は日本よりはるかに峻厳な戦時立法を行って いたといわなければならない。」
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東京朝日新聞・橋本登美三郎上海支局長の証言
「何も不自由は感じていない。 思ったこと、見たことはしゃべれたし、書いてい たよ」
「とにかく軍のこれからの動きが分かるような記 事はだめでした」
―――――――――――――――――
1931年4月14日~1946年5月22日までの日本の歴 代の総理大臣
・1931年4月14日~12月13日 若槻(ワカツキ)礼次郎( 2)→満州事変勃発(1931.9.18) ・1931年12月13日~1932年5月16日 犬養毅 ・1932年5月26日~1934年7月8日 斎藤実 ・1934年7月8日~1936年3月9日 岡田啓介 ・1936年3月9日~1937年2月2日 広田弘毅 ・1937年2月2日~6月4日 林銑十郎 ・1937年6月4日~1939年1月5日 近衛文麿(1)→ 大東亜戦争勃発 (支那事変は支那軍のほうから発砲してきて始ま った。) ・1939年1月5日~8月30日 平沼騏一郎 ・1939年8月30日~1940年1月16日 阿部信行 ・1940年1月16日~7月22日 米内光政 ・1940年7月22日~1941年7月18日 近衞文麿(2) ・1941年7月18日~10月18日 近衞文麿(3) ・1941年10月18日~1944年7月22日 東條英機 →日米戦争勃発(1941.12.8) ・1944年7月22日~1945年4月7日 小磯國昭 ・1945年4月7日~8月17日 鈴木貫太郎 ・1945年8月17日~10月9日 東久邇宮稔彦王 ・1945年10月9日~1946年5月22日 幣原喜重郎
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以下、国際派日本人養成講座 Japan On the Globe (82) より転載 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_ 1/jog082.html
日本の民主主義は輸入品か?
■1.日本の民主主義は戦後から?■
日本に民主主義がもたらされたのは、戦後、アメ リカから、 というように考えている人が多い。しかしこれは 事実だろうか?
たとえば、選挙制度の発展を見てみよう。
非納税者にも選挙権が与えられたのは、日本では 1925(大正14)年だが、 イギリスでは1918年とわずか7年の遅れである。
アメリカでは、黒人の政治参加を合法的に排除す るために 南部諸州は選挙人資格として人頭税を導入してお り、 これが完全に撤廃されたのは、なんと1960年であ る。 欧米諸国に比べて、日本の選挙制度がそれほど遅 れていたとは言えない。
近隣のアジア諸国と比べてはどうか。
韓国では、79年にクーデターで実権を握った全斗 煥将軍が、 翌80年には非常戒厳令を発して、 金大中(現大統領)、金鍾泌ら有力政治家を拘束 している。 実質的に民主選挙が機能し始めたのは、87年の盧 泰愚政権以降であろう。
台湾で史上初の大統領選挙が行われたのは、96年 である。 漢民族5千年の歴史で初めての民主選挙と話題に なった。 このとき、これ見よがしにミサイルを発射して、 自由選挙を脅かした中国は、野党を結成しようと した民主活動家を逮捕して、 懲役10年以上の弾圧を加えており、今の共産党 政権が続く限り、 民主選挙が行われる気配はまったくない。
これらの国に比べれば、我が国は110年前、 1889(明治22)年にアジアで最初の近代的憲法を 制定し、 翌年、帝国議会を開催した。
アジアの中では群を抜いて早い。
なぜ日本だけが、自由選挙、議会政治という民主 主義制度を いち早く取り入れる事ができたのか? 欧米の民主主義と類似の土壌が、 江戸時代以前からすでにあったのではないか?
■2.神代の衆議■
西洋における民主主義の源流は、古代ギリシア、 ローマ、 ゲルマン社会で行われていた民会である。 財産や身分などで参加制限はあったが、そこで市 民の話し合いによって、 共同体としての意思決定が行われていた。
面白いことに、民会と同様の集まりが、日本神話 にも見られる。 速須佐の男の命(はやすさのおのみこと)が、高 天の原を訪ね、 乱暴狼藉を働いたので、 姉の天照らす大御神は天の岩屋戸に籠もってしま われ、 それがために高天の原は真っ暗となってしまった 。
ここで、八百万の神々は天の安の河原(あめのや すのかわら)に 「神集い集ひて(かむつどいつどい)」て、相談 をする。 その結果が、お祭り騒ぎをして、天照らす大御神 が少し岩戸を開けて、 外をのぞいた時に、その手をとって引き出すとい う妙案となり、 見事成功する。
そして、再び「八百万の神共に謀りて」、 速須佐の男の命を罰し、追放する。
ここで興味深いのは、天照らす大御神の態度であ る。 高天の原の統治者なのだから、号令一下、八百万 の神々を動員して、 いきなり速須佐の男の命を追放してもよいのに、 そうしていない。
しかし、もしそうしたのでは、 天照らすと速須佐の男の武力による権力闘争とな ってしまう。 これでは毛沢東と劉少奇の争いと同じだ。
天照らすはそれを避け、岩屋戸に閉じこもって、 八百万の神々に自ら考えさせる機会を与えたので ある。 八百万の神々は、皆で相談して、天照らすを統治 者として迎え、 速須佐の男を追放した。
衆議によって、 天照らすを正統な統治者とする事を公論として決 定したと言える。
神話だけでなく、中国の史書、魏志倭人伝にも 女王ヒミコが共立されたと記されている。 天照らすと同様、話し合いによって、推戴されて いたのである。
■3.「和」に基づいた衆議■
聖徳太子が推古天皇12(602)年に作られたと される憲法十七条は、 この衆議公論の伝統を最初に明文化したものであ る。
第一条の有名な「和をもって貴しとなす」という のは、 単に仲良くせよ、というのではない。人間はみな 党派心があるので、 エゴのぶつかりあいが、争いを起こしがちである 。 太子は「和」の必要な理由を次のように述べてい る。
然(しか)れども、上和らぎ、下睦びて事を論( あげつら)ふに 諧(かな)ひぬるときは、則(すなは)ち事理自 ずから通ふ。 何事か成らざらむ。
地位や年齢の上下はあっても、和気藹々(あいあ い)と議論を尽くせば、 物事の道理が自ずから明らかになる。 そうなれば、出来ない事などあろうか、と言われ るのである。
クラブとか、職場などで、和やかなムードの中で 自由な話し合いが行われれば、衆知を集め、 皆の意思統一もできて、何事もきわめてスムーズ に行く、 という事を体験された読者も多いだろう。
「和をもって貴しとなす」という第一条は、 「和」に基づいた衆議を国家統治の基本として定 めたものである。
■4.衆議は無私の態度で■
武家の時代となって、長く法治の拠り所とされた のは、 貞永元(1232)年に制定された御成敗式目(貞永 式目)である。
これは幕府の評定衆13人の多数決によって制定 された。 その起請文には、彼らが、いかに厳粛な衆議を行 ったかについて述べている。
およそ評定の間、理非においては親疎あるべから ず、好悪あるべからず。 ただ道理の推すところ、心中の存知、傍輩を憚ら ず、権門を恐れず、 詞(ことば)を出すべきなり法を決めれば、 当然、不利な者、有利な者が出てくる。
法を考える場合、自分の親しい者、好む者の利益 を考えてはならない。 ただただ、道理を追求して、他のメンバーの思惑 を憚ったり、 権力者を恐れたりせず、発言するべきだ、と言う のである。
現代の国会で、特定集団の利益代表となっている 議員に聞かせたい言葉だ。 このような公平無私な態度で衆議をつくしてこそ 、 真の公論、すなわち、国民全体の意思を発見でき るのであろう。
こうして制定された貞永式目は長く武士や庶民の 法として定着し、 民主政治に不可欠な法治社会の土壌となった。
■5.万機公論ニ決スベシ■
明治元(1868)年、明治新政府は基本方針として、 五箇条のご誓文を発表した。
その第一条が「広ク会議ヲ興(オコ)シ万機公論ニ 決スベシ」である。 このような民主政治の根本原理が、 いきなり成立直後の新政府の第一方針として打ち 出された、 という点が注目される。
第一に、民主政治が西洋諸国の国民全体のエネル ギーを引き出し、 経済的・軍事的発展の基盤となっていると、明治 新政府は見ていた点である。
西洋諸国の攻勢から独立を守るためには、 我が国も同じ基盤を持たねばならない。 そのような新政府の決意を、この冒頭第一条に見 る事ができる。
第二は、この方針を当時の国民全体が何の違和感 もなく、 自然に受けとめたという点である。 新興国で民主選挙をいきなり実施しても、 少数派がクーデターを起こしたりして、なかなか 安定しない場合が多い。
それに比べれば、明治維新後、 わずか20数年でアジアで最初の近代憲法を制定 し、 選挙に基づく議会開催にこぎつけたのは、 やはりそれだけの下地があったからだと考えざる をえない。
■6.民主主義的傾向ノ復活強化■
昭和20年7月、敗色濃厚の日本に対して、 連合国はポツダム宣言を発し、降伏条件を提示し た。
その第10条には、日本国政府ハ日本国国民ノ間 ニ於ケル 民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙( しょうがい)ヲ 除去スヘシという一節がある。
「民主主義的傾向ノ復活強化」という言葉に注目 されたい。 連合国側も、民主主義的傾向が 戦前から日本にあったと認識していたのである。
昭和21年年頭に「新日本建設の詔書」が発表さ れた。 その冒頭には、昭和天皇の意思により、 五箇条のご誓文がそのまま引用された。
戦後の再出発にあたり、近代日本の出発点が 「万機公論に決すべし」にあったことを思いおこ させるためである。
占領軍は「デモクラシー」という聞き慣れない用 語を持ち込んだが、 国民はそれを何の抵抗もなく、スムーズに受け入 れた。 昔からの衆議公論の伝統から見れば、特に違和感 はなかったのである。
■7.君主制民主国家と共和制独裁国家■
君主制と民主主義が対立すると考える人が多いが 、 これが大きな誤解である事は、イギリス、オラン ダ、ベルギー、 スウェーデン、デンマークなど、 安定した民主主義国は君主制国家に多い事を見れ ばすぐに分かる。
民主主義の本質は、「権力」が国民にある事であ り、 その反対は独裁制である。 君主制は、元首という国家統合の「権威」が世襲 である事を意味し、 その反対概念は共和制である。
したがってこれらの組み合わせで、以下の4通り のパターンがある。
君主制民主国家:イギリス、日本など
共和制民主国家:アメリカなど
君主制独裁国家:帝政ロシア、清帝国など
共和制独裁国家:旧ソ連、中国など
衆議公論の伝統のある所では、イギリスのような 君主制にしろ、 アメリカのような共和制にしろ、安定した民主主 義を発展させている。
逆に帝政ロシアや清帝国などの君主制独裁国家を 革命で倒しても、 衆議公論の伝統のない所では、共和制独裁国家と なるだけだ。
民主主義が安定的に機能するためには、衆議をつ くした結果、 定められた公論には、反対派も従う、という国民 的コンセンサスが必要だ。
この衆議公論の伝統が、古代から、 我が国の政治文化に脈々と受け継がれていたから こそ、 アジアでは群を抜いて早く、 また西洋にも比肩しうる民主政治の発展が可能で あったのである。
あのアメリカですら赤狩りを行っていたり、南部の黒人を警官が殺してた当時アメリカも民主主義と言われていたので、当時の見方からすれば大日本帝国も民主主義国家。また共産党は当時大抵がソ連と繋がっていて、中には尾崎やゾルゲなどによってソ連に情報が筒抜けになっていたぐらい共産主義者は自国をソ連に売り渡し、自国民を殺させる恐ろしい存在だったのだ。