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三里塚闘争

三里塚と昭和天皇と金日成(前編)

機動隊に自宅を破壊される大木よねさん(1971)
空港会社がやっと非を認めて謝罪したのは2001年

 私が現役の左翼だった時代、三里塚の農家での思い出の一つに、仏間などに掲げられている、昭和天皇夫妻(時には明治天皇)の写真という風景があります。そのことからいろいろ思ったことです。

反対農家で見た天皇の写真

 三里塚の農家に援農に入りますとね、まず家で一番いい部屋に仏壇がある。その部屋には隠居したおじいさんとおばあさんが座っていて、「よく来てくれました」とニコニコしながらお辞儀されたりする。後ろの仏壇に目をやりますと、その上には必ずと言っていいほど昭和天皇と皇后の正装した写真(家によっては明治天皇)が飾ってあったんですよね。

 土間では現在の「家長」であるおっとうが黙々と身支度をし、その前では「嫁」であるおっかあが土間の台所で洗い物とかしている、そのうちに奥の部屋から「長男」が「おっ、来たか」って感じでのそっと顔をだすとかね。まあ、もちろん家によってはまちまちなんだけど、だいたいそんな感じでしたかね。

 天皇の写真については、左翼がどうとかいう話ではなくて、ごく普通に違和感ありましたよ。だって都会では全く見ない光景ですからね。子供の頃はまだ、戦死したおじいちゃんの写真とか私の家でも飾ってましたけど、天皇の写真はなかったなあ。

 私が三里塚に行き始めた頃はもうおじいさんの世代もすっかり歳をとって、家から出ることもあまりなかった印象がありますが、闘争の初期には「老人決死隊」を結成し、それこそ本当に死を覚悟で機動隊に立ち向かった。その際には天皇の写真に「いってまいります」と深々と頭を下げてから、まなじりを決して「戦場」に向かわれたそうです。

まっ、いいかと(笑)

 私は写真を見た直後のごく普通の違和感が通りすぎた後には、こんどは少しばかり左翼としての違和感も、もちろん感じましたとも。「いいのかな?」って(笑)。

 けどまあ、私らは支援として闘争に参加させていただいているわけですし、農民の「天皇信仰」も政治的な「天皇主義」とは違う、もっと土着的で素朴なものだったわけで、農民の中ではそれは闘争と矛盾しないどころか、人によっては支えにすらなっているようでした。

 背景として、もともと三里塚には明治天皇の代に開かれた天皇家の御料牧場があったこと、佐藤自民党政権がこの御料牧場を潰すことで空港用の土地を確保したということがあります。悲憤のあまり、本気で昭和天皇に「直訴」した人さえいたそうです。

 でまあ、私(たち)は天皇の写真を横目で見ながらも、「まあいいか」って感じでしたかねえ(笑)。だってさあ、仏壇の前でニコニコ座っているおじいさんをつかまえてさあ、いきなり、「ナンセンス!そもそも帝国主義天皇制ファシズムは・・・」とか演説すんの?しかも二十歳そこそこの若造がさあ、それも機動隊を前にして一歩も引かずに命がけで闘ってきた老人に向かってだよ。おまえ何様だよって感じだよね。

 たとえその演説がどんなに理論的に正しかったとしてもさあ、実践においては自分よりもはるかに国家権力の横暴と、素朴かつ非妥協に闘ってきた老人の土着的な信仰心を、理詰めで追い詰めるなんて、左翼以前にそもそも人としてどうよ?と思うわけさ。

 そういう「演説」をしなくて本当によかったと今でも思っています。ちょっと左翼的な言い方を許してもらえば、私たちは「人民にお説教して従わせようとするのではなく、ただ黙々と人民を守って、国家権力と命がけで闘う」・・・とか青臭いことを本気で思っていたわけですよ。後に書くように、結果としてもそれは正しかったと思う。

 そもそも闘争分裂前の三里塚闘争は「空港に反対する人なら誰でも受け入れる」という姿勢だった。だからいろんな人がいた。いたけれどもどんどんふるいにかけられた。農民に頭でっかちなお説教をして従わせようとした人たち(共産党・カクマル・マル青同など)は早々に追い出された。国家権力はメンツをかけて最初から無茶苦茶な弾圧ばかりしていたから、そこに残る人は常に試され続けていた。新左翼系ばかりが残っていったのも、そういう必然的な背景があるからなんです。

 一応、右翼側についても一言書いておくと、個人的には農民を支援した人もいたらしいし、赤尾敏が空港反対の演説をしたなんて記録も残っているけど、すでに民族派とは名ばかりで、ほとんどが属米派・体制派だったから実際には農民に敵対する人たちばかりだった。

 そうこうしているうちにね、運動にも変化が出てくるわけですよ。反対同盟も天皇制自体にだんたんと否定的な考えとか風潮になって、それを批判するようになっていくんですね。もちろん大衆組織だから、特定の考えがみんなに強制されるわけじゃ全然ないんだけど、だんだんとそういう考えになってくる。

 おそらく何にもわかっていないカタカタ「ウヨク」とかは、それは左翼の考えに染まったくらいにしか思わないんだろうけど、そうじゃない。もし二・二六事件などで天皇を信じてすがって決起したあげくに処刑された兵士がですよ、その後の歴史の流れや、軍内部やその他の諸勢力が口先ではなく実際にやっていることをつぶさに見てきたとしたら、それでも天皇個人への無条件の信頼を維持できますかね?つまりそういうことなんですよ。理屈ではなく事実を通じて学んでいった。

 実は私が三里塚に行きだしたのはすでにその後です。じゃあなんで、じいちゃんが天皇の写真飾ってるんだという話ですが、「まあそれはそれ」なんですね(笑)。そんなに厳密に理屈で割り切れるもんじゃないし、声高に押し付けるもんでもないし、私はそれでいいと思うんです。

事実は理屈よりも強かった

 もともと農民は土着的ではあるが極めて保守的な人が多かった。だいたいがおっとうの世代にしてからが、「皇軍兵士」として戦争に参加した人たちですからね。息子の世代でやっと戦後世代。ちなみに現在の三里塚闘争は、この頃の息子たちが、この当時のおっとうくらいの歳になって担っているわけです。反対運動だって、もともとは陳情して話し合いを求めることが主流だった。でも政府側は最初の最初、一番はじめから暴力的に土地を取り上げることしか考えていなかった。

 空港の問題だけではありません。三里塚は戦前の天皇制時代から軍人になる人が多く、戦争を身近にみてきた。そして戦後の農水省のいきあたりばったりな政策に翻弄され、あげくに現在にまでいたる空港問題です。農民は一貫して裏切られ続け、だまされ続け、信じては手のひらを返され、そしてそれに対していろんな人がどういうことを言い、どんな態度をとるのかをずっと見続けてきたのですよ。こういう人たちに口先だけで誠意のカケラもないお気楽な批判や論評なんて、見透かされ鼻で笑われるだけで通じないのです。

 こういう経過や、いろんな個人や組織が次々とふるいにかけられていったこと、数限りない人間ドラマがあったことなどの総体をさして、三里塚は「革命の学校」とか言われた。それは投獄や重傷の危険と背中あわせで場合によっては命さえ失うかもしれない学校だったけど、野蛮で自由で楽しい学校だった。いろんなことを学んだ。

 大学に戻れば殴り合いさえしかねないほど仲の悪い団体同士でも、ここでは共にスクラムを組んで闘い、そして共に闘うことで競い合った。特定のセクトが牛耳っている大学の自治会なんて、それを革命の雛形として見た場合には、到底そこに自分の未来を賭けてみようなんて思えない代物だったけど、もし三里塚が革命の未来だと言うのなら、そこに自分の未来を賭けてもいいと思えた。三里塚とはそういう場所だったのです。

ネット上の三里塚闘争に対するデマについてこの機会に

 余談になるけど、この機会にちょっと書いておきますが、なんか「三里塚でも話し合いはあった」とかブログで書いている人がいて、悪意ではなく誤解のようなのですが、それは強制収用を行うための手続きとしても必要だったもので、なおかつ反対派の傍聴などを排除した上で形式的に行われたものです。結論は最初から強制的な土地取り上げと決まっていたもので、「話し合った」のではありません。

 あるいは土地収用を前提とした「説明会」のようなものはあったようです。これも結論はあらかじめ決められているのですから、世間一般的にはそういうものは「通告」と呼ぶのであって、少なくとも「話し合い」とは呼びませんね。ただ、こういう一方的な通告を受け入れた人との条件交渉は当然あったでしょうが、それはすでに結論が出てからの文字通りの意味での条件交渉であって、大多数の農民が求めていた前提条件なしの「話し合い」とは違います。

 熱心な自民党支持者だったというある農民は、「もしあの時にちゃんと説明に来てくれていたら、俺は空港に賛成していたと思う」とさえ言っているくらいです。政府は一貫していっさいの話し合いを拒否し続けたあげく、開拓農民としての誇りを踏みにじって「いくら欲しいんだ?」と言わんばかりの態度に終始し、条件交渉以外には応じないという姿勢をとり続けていたのです。

 さらには「戦後教育が悪かったから三里塚闘争がおこった」という、もうドアホを通り越して呆れるしかないことを言った大臣もいましたね。徴兵されて戦争に行っていたような農民が、どうやって「戦後教育」を受けたか是非説明してもらいたいもんです。保守的な農民を戦後最大の大衆闘争の主人公に鍛え上げたのは、左翼でもなければましてや戦後教育でもありません。他ならぬ国家権力自身なのです。

 本音を言えば、左翼にそんなことは逆立ちしたってできないことを、国家権力自身がやってくれたわけです。民主主義のみの字もない、虫けら以下と農民から評されたその扱いが、農民自身を目覚めさせ、鍛えに鍛えあげたのです。そのことはすでに政府(旧運輸省)自身が認め、謝罪も行い、歴史的な評価は確定しています。いまさらそれを引っくり返すような論点にはなりません。ただその謝罪をどう評価するか、謝罪した以上は政府はどんな態度をとるべきかということのみが、論点としてあるだけです。

 私はもう成田空港を巨額の費用を投じてまで維持し続ける意味なんて、実際上もないだろうし、それは金をドブに捨てるような行為であり、失政を認めた以上、空港廃港を前提とした話し合いに入ることが、実は一番「現実的」な選択なんだろうと思っています。

 余談が長くなってしまいましたが、この機会に書いておきましょう。なんか2ちゃんねるで、「闘争の初期から空港賛成派が多数派だった」というデマを流している人がいました。いったいどこまで農民を愚弄するのかと思います。むしろ闘争の初期においては、芝山町議会、成田市議会ともに全会一致で空港反対決議を可決しています。なおかつ、空港反対同盟は5千人からの規模を擁し、機動隊による強制執行が発動された段階においてさえ、支援ぬきの単独で数千人(第一次代執行阻止闘争では約2千人強)の動員力がありました(このへん記憶に頼っているんで細かい人数は書けないけど)。

 いよいよ農民の数が少なくなったのは、開港以降のことであり、むしろ開港直前の集会には、すでに左翼運動は退潮していたにもかかわらず、三里塚現地での集会としてはそれまでで過去最大となる2万人を集めているのです。

 もちろん、まず空港建設とは関係ない市街地の人たちから、徐々に反対運動から脱落していったのは事実です。そういう裏切りの経過も農民はずっと見てきました。裏切った人は出て行くので、現地では反対派が多数であり続けることに変わりはありませんが、少なくとも、まるでみんなが賛成していた空港にゴリ押し的に反対したかのような、政府でさえも言ったことのない悪質なデマはやめてほしいものです。

疎遠になっていった私

 さて、私個人に話を戻しますと、組織を辞めて個人になったとたん、申し訳ないことですが、三里塚闘争とのつながりが切れました。遠隔地(関西)に住んでいたということも大きいですが、当時の(そして今も)三里塚闘争は、都市部での市民運動などとは違い、党派であるかどうかは別にして、なんらかの組織なり団体を通さないと、なかなか個人としてはつながる回路がなかったということもあります。

 また、その頃には闘争が分裂してしまい、運動内部で複雑な対立関係があったという点もその傾向に大きく拍車をかけてしまいます。学生ならまだしも、とりわけ労働者・市民が個人として、そしてこの遠隔地で、かつ支援党派同士の争いにも巻き込まれずに、どうやって闘争にかかわることができるのか、まったくわからなかった。ネットが普及した今、これを何とか変えたいというのが私の願いでもあります。

 なんか本題に入る前の前書きだけで長くなってしまったので、いったん筆を置いて、続きは別エントリとして書きます。

(「三里塚と昭和天皇と金日成-中編」に続く)

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  • 三里塚に対しては何か言うほどの権利も知識もありませんが、中上健次氏が「破壊せよとアイラーは言った」というエッセイ集で中々印象的な文章を書いていたのを思い出します。

    それと、これは書くべきかどうか迷ったのですが、実際の農民の方が言うのならともかく、「裏切り」という言葉は一応別の言葉に置き換えた方がよろしいのではと思います。去って行った農民にはまたその人にしかわからない理由もドラマもあったと思いますし・・