加川良の名を一躍有名にした出世作。
ちなみに、職場の若い子らとカラオケに行ってこの曲を歌ったところ、はじめて聞いた20代前半の女子から「草加さんにぴったりの曲ですね!」と満面の笑顔で言われ複雑な気分になった。
まあ、彼女自身はこの曲を気に入ったみたいなので、悪い意味ではないと信じたい…。積極的に反抗せずに無視して逃げちまえというのは、意外と今の若者の気分にも響くらしい。なんとなしにきな臭い雰囲気を感じているのだろうか。
この曲が作られたのは1970年(発売は71年)。時代は68年頃を頂点とする70年安保闘争が挫折にむかい、運動内部では何かと相手を批判してぶつかり合う内ゲバの時代に。若者の多くは内紛に嫌気がさし、見切りをつけてあらゆる運動から離れていく(新興宗教は伸びた)。その後の世代の若者たちは、「反抗」ではなく「無視」という戦略をとるようになり、大人たちからは「シラケ世代」と呼ばれる。そんな気分を代表する曲かもしれない。
右翼も左翼も政府もジジイも何かと「命がけで○○のために闘え」みたいな暑苦しいことを俺たちに要求してくるが、過去の歴史や運動をみればロクなことはない。やりたいやつで勝手にやってくれ、みたいな…。
ちゃんとした意見を持ったり表明することもできれば避けたい、みたいな…。
その一方で数年前くらいまでの熱い時代の残り香も存在している。そんな時代にこの曲は大喝采。
この頃から右も左も関係なく、誰が笛を吹いても若者は踊らなくなった。そのまんまバブル時代へと突入していく。このシラケ世代の「無視」という戦略は、この世代に限れば見事にあたったと思うし正当性があった。ただ、運動がなくなり、 右翼と政府とジジイ共(権力と実権を持つ支配勢力)に一息つかせて好き勝手なことをやる時間を与えてしまった。
やがて支配者とジジイ共は、若者のシラケを上から慎重に解体して、あらゆる犠牲を若者に回し、悪いことは(自分が支配してきたのに!)全部「左翼」のせいにした。若者文化は個的にオタク化し、行儀よく「世間」から非難されないよう誰かに管理してもらうものとなり、大人を脅かすようなパワーを失った。まさにシラケと無視を決め込んできたことのツケが、彼らの子供や孫の世代にしわ寄せされているとも言えなくもない。そんな感じ。
ネットで検索していると、今、この曲に共感して注目したりカバーして歌ったりしている人がぼちぼちといるらしい。さて、今必要とされているのは、政府と右翼の暑苦しい要求をみんなで「無視」することだろうか、それとも熱く「反抗」することだろうか。いずれ沖縄みたいに暴力的なしわ寄せを強要されたら、そこはもう選択の余地はなくなるのだが…。