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差別と多様性

「障害者」はデモに出ちゃいけないのか?-「室岡徹郎Blog」への書き込みから

「ナショナル・フロント壱番隊隊長」の室岡徹郎さんのブログへの書き込みですが、こちらにも転載・保存しておきます。私のよう左側の人間が、右派のブログに何か書き込む時には、荒らしにならないよう、注意の上にもよっぽど細心の注意を重ねなくてはいけないのですが、ちょっと見過ごせない気持ちになって書き込んでしまいました。ですが1.室岡さんの思想や行動を否定する趣旨の書き込みではない。2.室岡さん自身は私と違って現役の活動家である、の2点から、自分としてはまあ、許容範囲内かなと思っています。以下、転載です。

草加耕助 at 2010/02/14 14:04

 この批判はいかがなものかと思う。右翼の人が左派の「スローガンに腹がたつ」のは普通のことだし、そのことにこの場でとやかく言うつもりはありません。しかしなんで「障害者」が運動やデモに参加していることが批判の対象になるのかと思う。

 「障害者」はデモに出ちゃいけないのか?なんで「障害者」だと、ヘルメットを「被らせられている」ことになるのか?それ以外の健常者なら、普通に「かぶっている」と表現したでしょ?

 勝手に邪推させていただくと、室岡さんは、「障害者」を、「かわいそう」で「同情をひく」、「哀れな存在」だと見下して観念しておられるのではないですか?別の言い方をすれば、全く自覚なく当たり前のように差別しておられる。それとも「障害者」の個性を無視して、彼らもデモ本体にまじって機動隊や右翼と対峙せよという主張なのでしょうか?

 老人や子供や「障害者」らを本体とは別にして、隊列の前に置くのは普通のことです。後ろだとかえって危ない。彼らの主体性を認めずに「同情をひく」ために駆り出されたかのように言うのはあまりに失礼な侮辱です。

 荒らす気はありませんし、室岡さんの右翼思想にとやかく言う気はありませんが、かなり失望したし、はっきり言って見損ないました。最低限の礼儀は守るべきではないでしょうか?

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草加耕助 at 2010/02/14 17:54

 室岡さん、荒しになるのは嫌なので、これで最後にします。ゆえに少々長文になりますが、ご容赦ください。

 私が現役時代にも「障害者」の人は組織にいてデモにも参加していましたが、彼らは組織の「盾」などという非人道的な理由で駆り出されていたのではありません。本人の決意と覚悟と主体的な判断において運動に参加し、自分の判断でヘルメットをかぶっていたのです。私は具体的に自分の友人だった人の顔を思い浮かべることができますから、室岡さんみたいに外から勝手に推測しているのとは違うと思います。

 思想を批判するのは全然にOKです。その批判にいちいち口出しするつもりはありません。ですがそうではなくて、「障害者」の友人の当事の純粋な思いや決意を、こんな書き方で侮辱されたと感じるのであって、そこを「最低限の礼儀は必要なのではないか」と言っているのです。

 当事の私たちも、そして今の「青ヘル諸君」も、「障害者」を盾にしているのではありません。大衆的な集会やデモには「障害者」ばかりではなく、その日に初めて(ちょっと試しに)参加してみただけの一般の市民や学生もいます。大衆運動とはそういうものなのです。

 車椅子の人を盾にして、その後ろから火炎瓶でも投げていたのなら、室岡さんの批判は妥当しますが、そうではないでしょう。大衆集会において「障害者」の隊列は前に出し、初参加などの人は隊列の内側のほうに入ってもらいます。それ以外に防衛隊の任務を担っている人がいます。万一の襲撃があった場合はこの人たちが前面に立って対処します。「障害者」を前に出すなんてことはしません。もちろんこの防衛隊のメンバーはしぼります。それで何か問題があるのでしょうか。

 室岡さんの言い方だと、左翼は大衆運動をするなというに等しいですね。「一人一殺」の決意を固めた人間だけが参加すべきだとでも?もちろん政治に限らず何しても決意は必要ですが、大衆運動展開などというものは、情勢に応じて柔軟に考えていけばいいのです。権力側が、民主も自由もあらゆる建前をかなぐり捨てて弾圧が激しくなるのなら、そこでは防衛のための半公然や非公然の展開もとれなくては潰されてしまいます。ですが権力弾圧との関係において、現在的にデモに出るたびに襲撃されて多大の犠牲を出すなどという状況でなければ、それに応じて公然活動を大胆にすすめていくべきです。

 このように私たちは常に国家権力との関係において問題をたてていたのであって、右翼の妨害や敵対などは目の端にある程度でした。その当事に右翼に4トンダンプで突っ込まれた組織の者がそう言うのですから間違いありません(笑)。大変に失礼な言い方ながら、室岡さんは当時の私たちの認識にくらべ、かなり自分たち(および右翼全体)を過大に思っていらっしゃるように感じました。

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 そもそもですよ、ごく普通の大衆集会やデモにまで(右翼から)「容赦無く攻撃される覚悟が必要」だと言うのであれば、相手が左翼であれば「容赦無く攻撃」してもいいということですよね。相手が左翼であれ右翼であれ、私はそんなことをしてもいいと思いません。この点でははっきり決別ですね。

 私が「在特会」を許せないのは、まずこの点にあるのであって、それは相手が右翼だからという理由ではないのです。まだかつての新左翼のように鳩山政権と体を張って闘うとか、同じ民間人を襲撃にするにしても、中核派の本部に押しかけるとかなら根性だけは認めるべきですが、彼らがやっていることは小学校を襲撃して子供を怒鳴りつけて泣かせるなど、最低の行為ばかりです。

 なのに自分たちはそんなことをしておきながら、それに比べればとるにたらない相手のささいな言動に対してはだけは「テロじゃテロじゃ」と騒ぎ立てる。その自分勝手な根性の無さがものすごく許せない。左翼としてではなく人間として許せない、右翼に対してではなく人間として軽蔑しています。室岡さんに対しては根性だけは認め、思想は違うが最低限の人間としての礼儀は守るべきだと思っていました。

 あの人たちの「テロじゃ踊り」や「市民ぶりっこ」と、左翼に「障害者」戦線が存在していることを一緒にしないでくれと思います。「新風-在特会」を一般市民と言うのなら、「共産党-民青」なんて、その千倍以上は一般市民でしょうね。まあ、政治意識に関係なく、誰しも市民であることにかわりはありませんが。

 蛇足ですが、室岡さんの言を読んで、かつて某左翼団体の方から、実力攻防を担えない「障害者」は組織の指導者にはなれない、「そんなの当たり前だろ」と言われて、ものすごく反発したことを思い出しました。この同じ人は別の場所で、在日朝鮮人はいくら政治意識が高い人でも「めんどくさいから」いらないと言っていたそうです。この方は今では組織の偉いさんになっているようですが、そういう機能主義的な考えに私は猛然と反発します。

 また、別の左翼組織の方が(まあこちらはいいでしょう。共産党の人ですが)、私たちの「障害者」のメンバーを指差し、レーニンの著作(『左翼小児病』)をもじって、「なんだ、おまえは『左翼小児マヒ』かあ!ゲハハ!」と声をたてて笑ったことがありましたが、それも思い出しました。あれを聞いた時は怒って暑くなるんではなく、逆に頭から血の気がスーッと引いて冷たくなりました。

 とりあえず言いたいことは言いました。特に室岡さんご本人から明示的に要請されることがない限りはもう書きません。荒らしたような形になって申し訳ありませんでした。

(転載ここまで)

補足

arsvi.com より

 以下、補足です。この書き込みをよんだある方から、なんで共産党だけ「まあいいでしょう」なのか、こういう末端活動家の個人的な失言を言い出したらきりがないではないか、私だってかつて社学同のメンバーが、ゲリラ闘争で車を燃やされた人も、いずれわれわれに感謝するようになるとかいう痛い発言をしているのを聞いたけれど、いまさらそういった昔の個人発言を持ち出して、お互いにどうこう言いあっても仕方がないでしょうという抗議のメールをいただきました。

 正直に言います。ごめんなさい、「窮屈だな」と思いました。
 確かに個人的な失言というのはままあるわけで、2ちゃんブントスレでも、そんな失言を対立党派のビラにまで書かれ、「なんてことを言うんだ」と怒られたとかいう思い出も書かれています。でもまあ、いいじゃん、事実なんだし、思い出話なんだから、別に旧戦旗派のメンバーが痛い発言してたんなら、書いてくれても全然OKですよ。それでどう思うかとか聞かれても「はぁ、よくないですね」的なことしか言えませんけど。反対に無関係な共産党の人に「どうなんだ」とか詰め寄る気もありません。

 まあ、旧戦旗派みたいな世間に名前の知られていない小さな組織なら、そのことだけで致命的に悪い印象を与えてしまうこともあるかもしれないとは思いますが、共産党くらいになったら、末端の一人の発言で「全部がそうだ」とか思う人はいないでしょ?

 それともそんな痛い人がいるのかな?・・・だったら申し訳ないことをしました。いずれにせよ、片方だけ名前を隠して、共産党だけ名前を出したのは、いやらしい書き方でした。そのことは謝罪します。申し訳ありませんでした。ただこの時の怒りは、現在にいたるまであまりに激しく、今でも「個人の失言」では流せない気持ちでいることはご理解ください。

 ですから公平のために正直に書いておきますが、この「障害者」は指導者になれないとか、在日はめんどくさいとか言ったのは旧戦旗派の人、つまり私の同志です。一応、この方のために弁明しておきますと、当事の戦旗派は、まさしく倍々ゲーム的に動員を伸ばして急成長し、経験のない新しい人が大半をしめるようになっていました。そんな中で中核派から「ギタギタに粉砕してやる」という内ゲバ宣言を受け、なおかつ権力弾圧の主要ターゲットの一つにもされ、さらには右翼からも集中的に攻撃されるという状況の中で運動展開をしていました。困難というか、当事は夢中でしたけれど、確かに大騒ぎでもあったわけです。そんな中での発言です。

 ただ、私が腹を立てたのは、この人がそれを「やむをえない」ではなく「当然だろ?」と言ったことです。この方は、組織内では、私が今でも政治的な師と仰いでいる笠置華一郎さんのいわば対極の姿勢をもっていた方でした。笠置さんの行き方を、情緒的なロマンチシズムであると批判的に見ており、もっとシステマティックな組織作りを目指すべきだという考えの方で、実際、その能力を持った人でした。あの急成長時の中では、笠置さんよりもこういう人が求められて力を発揮したという面は否定できません。

 その後、私が組織を離れる直前には、組織内部のこういう傾向は「動員機能主義」とか言われて反省されるようになりました。私が知っているのはそこまでです。あとは伝聞ですが、そのうちこれが「反省」から「批判」になって、なにやら「動員機能主義」という言葉が独り歩きしはじめたということらしいです。それはそれで何か違うような気がするのですが、直接には知らないので、発言はひかえたいと思います。

 なお、私が「容赦なく攻撃してもいいとは思いません」というのは、決して攻撃してくる相手からの自衛武装や反撃の権利までも否定し、襲撃され放題の無抵抗主義でいろということを要求しているのはないことを、最後にきっぱりと申し添えておきます。

コメントを見る

  •  こんにちは。いつも楽しく拝読しております。

     草加さんの書かれていることには全面的に賛成なので申し上げることも無いのですが、一言あるとするなら室岡さんという人も「障害者」と一緒に活動すれば分かるのではないかな?ということです。ここでこうして書いてみてやっぱり甘いなと今思い直しているのです。

     私はかつて「障害者」は「哀れな、気の毒な人ではない」「自分より上でも下でもない」「障害は個性なんであってそこに健常者にはない可能性があるかもしれない」てなことを論理の上では分かった気でいました。しかし、まだまだ少しだけですが実際に「障害者」やその家族と話したり集会に行ったりデモに出たりして自分が何にも分かっていなかったということを実感しています。

     現行の産業・社会制度下ではまだまだ健常者は健常者で「障害者」は「障害者」で別々になりがちです。いつかそんな壁がすっかり無くなる日も来ることでしょうが、今はそうではありません。だから意識的に自分の心の中の壁を取り払って共に活動したらいいだろうと思います。左翼でも「障害者」差別があるという本文に何も付け足せていませんが、そんなことを考えました。纏まらない長文失礼しました。

  • イブン・ハキーム さん>

    室岡さんの名誉のために言っておきますと、彼の主張の中心は「障害者」はデモに来るなというよりも、解放派は同情を引くために「障害者」にヘルメットをかぶせてデモの前面にたてて人間の盾にしているというものです。

    あーでもこれでは「名誉のため」というよりは、もっと酷いかな。
    本人に自覚はないだろうけど、もう「障害者」を意思のある人間扱いしてないですもんね。
    こういう文章を読んで、「障害者」がどんなに悔しくて悲しくて腹立たしく感じるか、それがわからないのかなあ。

    >論理の上では分かった気でいました。しかし、
    >自分が何にも分かっていなかったということを実感しています。

    私だってまだまだ頭でわかっている段階ですよ。「障害者」の方とのおつきあいはまだ10人未満ですからね。実際にもっとつきあえば、ひと山もふた山も超えないといけないかなと。

    まあ、仕事で大勢の方とおつきあいすることになった在日の方々の場合も、そんなふうに思って少し身構えていたところがあったのですが、実際におつきあいしてみると、特になんということもありませんでした。いろいろ事前に聞かされていた「注意事項」みたいものは、単にレイシストの偏見か、逆の立場からの左翼の神話にすぎませんでした。

    してみると、「障害者」の方も、最初のひと山を越えてしまえば、あとは在日の方と同じで、結局は「同じ人間で根本的なところは何も変わらない」ということに行き着くのかなとも思っています。

    実際には、違うと思っていたのが同じだったというところでひと山、それで普通につきあって、そのままで終わる場合もあるけれど、もうちょっと別の意味で違うところがあるんだ、「同じ」というだけではいけない、それではすまないんだということに気がついてふた山、そしてそれを乗り越えたところでまた、やっぱり同じだという所に戻ってくる。そんな感じかなと思っています。

    そのあたりは油断しない楽観主義でやっていきたいと思っとります。また機会がありましたらアドバイスをください。

  • 未読でしたら、まずはこの本を読むことをお薦めします!

    北島行徳著「無敵のハンデイキャップ」(文春文庫)
    「障害者プロレス」を描いた名著。

    私(三浦)は障害者と健常者はっきり違うと思っている。だって現実の社会では違うように扱われているんだから、同じだとか平等だとか言うのは偽善。かって『つめ隊』という障害者バンドがあったが(本書を読めばその成果も破綻も書いてあります)その「障害者年金ブルース」という歌詞は痛烈。

    中指立てれば親父に殴られた
    なにがパンクだバカヤロ
    誰のおかげの生活だ
    年金もらっているんだろう

    髪の毛染めればお袋が泣いた
    何がパンクよ親不孝
    反抗するんじゃありません
    年金もらっているんだから

    別に欲しくてただ金
    オレはもらうわけじゃない
    俺に稼ぐ場所があるなら
    耳をそろえて叩き返す

    障害者年金七万五千円
    障害者年金なくなると困る
    障害者年金お前らの税金
    怒りあふれても
    パンクになれない(障害者年金ブルース)