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戦旗派体験総括への道- 小林さんの文章を手掛かりに

 元戦旗・共産主義者同盟三里塚現闘団、現ライターである小林義也さんの、「三里塚の大地に跪きながら」ですが、かねてより、ほぼ同時期に活動していた者として不思議に思っていたことがあります。しかしそのことを今までどうしても聞くことができませんでした。

 なぜならそれは第一に、後に書くように自分自身でも答えが出ていない問題であるからです。第二にロフト事件などを契機にSENKIへの批判が高まっていた時期であり、SENKIの批判者へのテロルを言論の高まりで防ぐということが喫緊の課題であったからです。第三に、自分がとんでもない大ボケなことを考えているような気がして、発表するのが恐かったということもあります。

 しかしあれからすでに5年が経過し、私も不惑の歳を超えました。いつまでも「わからない」で棚上げしているのもどうかと思うし、何よりまっぺんさんへのメールでうっかり筆をすべらせてこの疑問を書いてしまったので(^_^;思いきって関係各位からのご批判を浴びる決心をしたわけです(やはり少し恐いというのもありますが)。

小林さんは元からこう考えていたのか?

 それはこの文章で小林さんが批判している三里塚現地における戦旗西田派(現・統一委派)の活動家に対する暴行や「高卒現場労働者の党」という表現に関して、それを裏付け支えている戦旗派の運動論的な立場への批判があまり展開されていないことです。
 たとえば小林さんの上記文章中では「内ゲバは(無条件に)悪い」「その悪いことに自分も手を染めてしまった」「何故かと言うと自分が弱い人間だったから」という論理展開になっています。確かにこれは一般の人には大変に理解してもらいやすい文章です。しかしこれではインターや市民運動と同じ立場の論理です。
 誤解しないで欲しいのは、それが悪いと言ってるんじゃ決してありません。小林さんが活動家当時からこう考えていたのならこれでいいのです。しかし活動家時代の小林さんは本当にそんな風に考えていたのでしょうか。

 戦旗は当時から「内ゲバ全否定」の立場には立っていなかったし、そのことを隠そうともしていませんでした。少なくとも結集したてで末端の活動家であった18歳の私もそのことは了解していました。一般の人々に対しても、内ゲバに対する態度を聞かれた時は、これから述べるような戦旗派の態度を正直に説明していました(それでも次々と人は結集してきました)。
 当時の自分を否定するなら、それを正当化していた内ゲバ論も検討吟味の上で否定しなければ、後づけ的な解釈になってしまいます。もし思い違いなら小林さん対して大変に申し訳ないことなのですが、私よりはるかに重要なポジションにいた小林さんが、最初からこんなふうに考えておられたとは、やはりにわかには信じ難いことなのです。

戦旗の内ゲバ論

 戦旗派は二次ブント分裂の過程における、激烈な内ゲバを勝ち抜きながら形成されてきた党派です。ですから内ゲバは「現実問題として新左翼への失望と闘う部分への混乱をもたらすもの」として否定しながらも「あらゆる場面で『絶対に』してはいけないこと」だとはしていませんでした。私も西田派との内ゲバの可能性については18歳で結集した当時から、常に意識だけはしていました。
 結集当時の私が理解していた戦旗の内ゲバ論は「組織や運動を防衛する」ものであり、それは「党のための闘い」でした。だから受動的・限定的で、かつ、一見こちらからしかけるように見えても、その本質においては防衛的なものでなくてはならないということでした。また、「党のための闘い」なのですから、戦旗・共産同運動の綱領的内容を支持しているわけでもない一般の人々に訴えたり理解や支持を求めたり、ましてや巻き込むような筋合いのものではありません。
 それは完全に党のコントロール下で、かつ政治目的達成に必要な最低限の範囲内で厳密に行使され、一旦行使した後は早急に収拾・終結をはかるべきであり、いくら自分が有利であり、相手を壊滅させることが容易な場合でも、防衛という最低限の政治目的を超えてそれ以上拡大させてはならないというのがその内容だったと思います。

 中核派の「カクマル戦争」に対する運動論的な批判もこの観点からなされていました。つまり、革命運動そのものに敵対する革マル派から、組織と運動を防衛する「党のための闘い」にすぎないものが、あたかも革マル派との内ゲバそのものが革命闘争であるかのように路線化されていると。
 要するに中核派にとって「党のための闘い」である「カクマル戦争」をもって「党としての闘い」におきかえていく、そのことによって「カクマルを何人殲滅したか」ということがまるで革命の前進であるかのように言いなされ、無限に内ゲバを拡大していく以外になくなる。そのことが問題である。と、していたはずです。
 また、中核派は「カクマル」がファシストであり「外ゲバ」であると主張していたわけですが、もしそうだとした場合でも、ファシズム自体は資本主義社会において物質的基盤を持っており、常にファシズム思想は再生産されてくる。だからその現れにすぎない一つ一つの組織を壊滅させていくことは広い視点から見れば無意味である。よってあくまでも帝国主義本体との闘いの過程における2次的、補完的な防衛戦と位置付けるべきであるということだったと思います。

 ゆえに党が慎重に決定を下すまでは、民間の敵対勢力からどんな理不尽な攻撃を受けようとも自然発生的に内ゲバを開始してはなりませんでした。原則は現場的判断における「防衛」であり、常に「我慢」でした。相手勢力との共存が不可能なスペースからは撤退を基本としていました。実際に私も現場レベルで撤退を決定する場面に遭遇しましたが、その時はあまりの悔しさに、その場にいた全員が、男も女も学生も労働者も古参も新人も、皆声を震わせてボロボロ泣いていたくらいです。昨日のことのようにはっきりと思い出します。
 しかし一旦ゲバルトの限定行使が決定されたならば、決定された線まで、何があっても絶対にやり抜く覚悟はありました。幸いにもそのような場面には遭遇しませんでしたが、その「決定された線」はきっと納得がいくはずのものであろうし、その線でピタリと止まって整然と収拾されるものだろうと思っていましたから(収拾できないものなら撤退方針が示されるはずであると)。
 もちろんこれらは原理原則であり、現実には現場的勢いで、この方針からはみだした事例も多くあるように聞いています。特に学生諸君についてはありすぎたように思います。まあ、その場合でも相手は敵対勢力ですから、謝罪するということはなく、だいたい外部的には開き直りながら、内部的に批判するという対応だったと思います。

戦旗を批判する立場について

 ともあれ西田派の諸君に対する暴行に対しては、まだ上の理屈で説明できる範囲です。中核派に対して何ら攻撃的態度をとらなかったことも同様です。一応は(少なくとも組織内的には)矛盾なく説明できます。西田派との衝突は、機関紙などでも発表されませんでしたが、もし当時の私がそのことを知ったとしても、動揺はなかったと思います。
 ですから私や小林さんは、この戦旗の「論理」に対し、インターや市民運動の人達が、外から戦旗の「行動だけ」を見て批判するのとまた違った視点で何らかの総括や批判を下さなくてはなりません。
 なぜなら「論理」の帰結としての「行動」なのであり、私達は他ならぬその「論理」を承認して闘っていたのですから、絨毯を横切って反対側に行けばすむという問題ではありません。その場合、「口ではそう言っていたが実は嘘だった」というのでは不充分です。私は理論的な問題ではいつも言いますが、「じゃあ本当ならいいのか」ということです。
 18歳の私でさえ「限定的な場面でありうる」と考えていた西田派の諸君との内ゲバを、小林さんは本当に「もしあったら許せない」と(戦旗を離れてからの思索の末ではなく)活動家時代から考えていたのでしょうか。

 確かに盗聴については戦旗の論理でもダイレクトに説明できるものではありません。だから私や小林さんも、外からの立場でストレートに戦旗を批判することも可能です。
 末端の活動家達も、地区の会議で反対同盟会議の様子が詳細に報告されるので、私のようにうすうす勘付いていた人が多いとは思いますが、それでも当時にこのことが暴露されていたら、組織内に少なからぬ動揺をきたしたと思います。この点では小林さんの「自己の弱さゆえに手を汚してしまった自分」というスタンスも理解できます。いえ、理解できるどころか同じく党派人として生きた私には、強く苦しく胸に迫ってくるものがあります。その点について軽々しく論評しているものではありません。

 実はこのことはずっと疑問に思っていたことなのですが、書くと小林さんに対してあたかも「もっと根本的に自己批判するべきだ」と言ってるみたいで書けなかった。それは小林さんへの遠慮ということではなく、では私はいったいどう考えているのだろう?と、鋭く自分に帰ってくる問題だからです。そして今にいたるも明確に答えられないからです。
 答えられない、大して悩んでもこなかった人間が、いみじくも悩みぬいた末に答えを出した人に対して、批難がましい「難くせ」をつけるようで、どうしても私にはできなかった・・・。

「高卒現場労働者の党」という表現について

 「高卒現場労働者中心の党」という表現に対してもですが、小林さんは戦旗を離れた後からではなく、活動家の時代から中卒差別だと思っていたのでしょうか。

 もともと新左翼運動の指導者は学生運動、それも有名大学出身者ばかりで占められていました。また新しく指導者になっていくのも学生運動出身者が多いです。いかんせん運動経験とか理論的な学習進度などで学生運動出身者が有利なので、これは社共などの既製左翼を含めて一定しかたがないところがあります。
 ですから少なくとも私達学生運動出身者が「高卒現場労働者中心の党」という時、自分達のこのような傾向を戒めるものとして使用していました。つまり組織の部署として指導的な部署についているが、その実存として私達は学生運動経験のない高卒現場労働者の同志達に遅れた存在である。私達は実存として生っ粋の労働者に学び、遅れた自己のプチブル的学生根性を克服しなくてはならないと。「党は最も『遅れた』労働者からこそ学び、学生運動出身の指導部は、生っ粋の高卒現場労働者の同志から学ぶ」つまり下放の精神の具体化ということだったはずです。従来の新左翼組織のような学生運動出身者の感性ではないプロレタリア的な組織を目指すのだと。

 「高卒」としたのは現実問題として組織にいる労働者や身の回りの人間がみんな高卒だったからで、組織内にほとんど存在していない「中卒現場労働者中心」といっても中卒がいないのだから、全然リアリティがなく、あまりに理念的すぎます。自分自身に実感として迫ってきません。
 特に当初はほとんどが学生出身者だった現場指導部への戒めとして「高卒」と言っているのだから、これは「高卒」に『限定解釈』されるべきでないし、もしされていたのだとしたらそれは確かに「差別」と言えるかもしれません。しかし私達は『勿論解釈』をしていました。「高卒でさえ私達学生が尊敬するべき対象である。いわんやもちろん中卒おや」ということです。「公園に犬を連れ込んではいけない」という時、限定解釈すれば虎はいいのかということになります。趣旨を解釈すれば犬でさえだめなのだから「もちろん」虎はいけないということになります。私や私の回りの活動家はこのように理解していました。

 現実の問題としても、私の時代には新しく組織に結集してくるのは9割9分が「高卒労働者」であり、残りは現役学生でした。組織の運営実態を規律あるものに構成してこの層からの信頼を得るという課題は、とりわけ現場の指導部にとってきわめて現実的な課題でもありました。「早寝早起き」なんて小学生みたいな当たり前の生活習慣のレベルから始まり、自分達の学生・知識人的な感性やプチブル・自由人的な気質を徹底して排するのに悪戦苦闘したものです(いろいろ笑えないエピソードもありました)。
 最初どこかの掲示板でこういった取り組みを「中卒差別だ」とする書き込みをみた時も「トンチンカンな批判」としか思えませんでした。ですから小林さんが同じような論理展開をされるのはまったく意外でした。
 この「高卒現場労働者中心の党」というスローガンは、パラチェンで打ち出されたものではなく、70年代からの、ものすごく古いスローガンだったと思います。この心得がここに書いたような内容でくり返し語られていたことは小林さんなら知りつくしていたはずです。

 ただしこのスローガン(心得)に関する批判としては、私は「口ではそう言っていたが実は嘘だ」という形の批判でも成り立つと思います。「そのほうが手っ取り早く資金源になるからこのように言ってたんだ」またはパラチェンによってそのように変質したという批判でも充分です。
 なぜなら、この心得で表現されていたものが「本当ならそれでいい」と私は思うからです。確かに学生運動が衰退した80年代後半からは、「活動家のほとんどんが学生か学生出身者」という時代のこのスローガンは古くて適切ではないかもしれません。そこで「中卒者に誤解を与えるから単に『現場労働者中心の党』と改めるべきだ」という批判ならわかります。

 もう一つ、いわば差別抑圧され、高校進学さえも夢のまた夢であるような層を中心とすべきという路線、いわば「辺境最深部から撃つ」「差別糾弾」といった方針からの批判は可能かもしれません。
 これについてあくまでも参考として思い出すままに書いてみますが、戦旗は差別糾弾闘争一般への純化ではなく、本工労働者が自分達の権益ではなくして被差別大衆や第三世界人民の利害を擁護して闘うこと、つまり党が被差別大衆にまるで坊主ざんげのようにひれ伏すだけでは全く不充分であり、何の解決にもならず、本工プロレタリア(高卒現場労働者?)が自己否定的に自己の実存をとらえかえしながら普遍的人間として主体形成して闘うこと、被差別大衆や第三世界人民の闘いに学びつつ、彼らへの抑圧に対し帝国主義足下の人民はおこぼれとしての「豊かさ」を拒否し、徹底的、戦闘的に政治闘争を闘うこと、このことが差別構造を撃ち破るとしてしていた(んだったかなー?)。「これによって普遍的な階級闘争や政治闘争を組織化しつつ、被差別人民の糾弾の声や闘いとも結合しうる」みたいなことだったと思います。
 いずれにせよ小林さんが「辺境最深部から撃つ」的立場にたっているとも思えませんでした。

最後に

 つけ加えておくと、私は活動家となって大学を中退しましたが、戦旗を離れてから勉強をし直し、再度受験して大学に入学し、働いて学費を工面しながら30代で卒業しました(おかげでせっかく拭いさったはずの学生気質を若干「取り戻す」という副産物もありましたが)。入学当時はまだつきあいのあった戦旗の活動家達は、ほとんどの人が私の努力をねぎらい、合格を喜んでくれました。
 このへん、小林さんの回りにいた人と比べ、私の回りにいた人のほうがはるかに良心的だったようですね。私の回りには人間的に尊敬できこそすれ、軽蔑するような人はいませんでした。本当によくしていただきました。迷惑ばかりかけて申し訳なかったとさえ思っています。
 「人格と思想は別」とはよく言われるし、それは正しいと思います。私だって「昔よくしてもらった恩があるからSENKIを批判するのは気がひける」などとは露ほども思いません。それでもやはり自分のために心から親身になってくれた人々を嫌うのは難しい。そして「それはそれでいいのだ」と思います。私がSENKIという組織体そのものまで、今一つ心底から嫌いになりきれないのは存外こんなことが大きいのかなと思います。

以上、とりとめもないままに。。。