前のエントリはミクシィの日記に書いたものを逆輸入して掲載したものです。基本的に別の場所には別のことを書こうと思っているのですが、このブログで間があきすぎたこともあって、大幅に加筆の上で転載しました。このエントリも実はそうなのですが、ちょっと気になったのでこちらにも書きます。
「日刊サイゾー」というネットメディアの記事が、ミクシィニュースに掲載されていて、それに対する日記です。まずそのサイゾーさんの記事の一部引用ね。タイトルは「新宿駅西口でリュックを持っていたら危険人物!? 行き過ぎた”職質”に疑問の声」です。
2008年に起こった秋葉原通り魔事件や昨年の”押ピー事件”の影響もあり、「街や市民の安全を守るため」という大義名分のもと、昨今、路上での職務質問(職質)が急激に増えてきている。
職質件数の増加に伴い、一部で問題になっているのが職質にあたる警官の横暴さ。基本、職質は”任意”のため、自分に不利益になると思ったら拒否することができる。にもかかわらず、半ば強制的に職質を行おうとする警官も少なくないという。YouTubeなどにはそんな”不当”な職質に遭った人たちが職質中の様子を収めた動画をアップしており、大きな話題を呼んでいる。職質を拒否する者に対して「人間的に汚い」と罵声を浴びせる警官、大人数で取り囲み威圧する警官、職質中に近くで交通事故が起こるもそちらの対応へは回らない警官など、時には”行き過ぎ”だと感じざるを得ない光景もある。
もちろんこれは一部の警官による行動であって、すべての警官に当てはまるわけではない。しかし、実際自分が職質に遭った場合、どのような意識を持って対応すればよいのか――。
(中略)昨今、”職質拒否”の機運が高まっていることは警視庁側も認識しており、当方の取材にもナーバスな対応が見られた。治安の維持という大命題のために職質が必要であることは間違いないが、一部警官の行き過ぎた行為・態度によって市民の当局に対する信頼が揺らいでしまえば、それこそ本末転倒だろう。
私が気になったのは、上の動画にあるような違法な職質を「何が問題なの?」とか日記に書いている人が結構いたこと。「記事を書いた人、しっかりしてください」とまで書いている人もいました。まあ、上のような実際の動画は引用されていなかったので、記事だけを見て書いているんだろうけどね。きっとそういう非常識なことを平気で書ける人たちは、実際にこういう嫌な目にあったことがないだけなのだろうと思います。一度でも自分もそういう目にあえば、とたんに意見が変わるでしょう。警察であれ先生であれ上司であれ、 「権力」というものをかさにきて、理不尽な扱いを受けた時の怒りや悔しさはそれだけ大きいものです(⇒参考「元国家公安委員長・自治大臣が警察被害に遭遇」)。
だいたいが、この記事は別に職質が問題だとは一言も書いていない。それどころかはっきりと「必要である」と書いてある。「一部の」悪質な警官が問題なのであって、それによって市民の職質や警察への協力機運がそがれては本末転倒だと記事は結んでいるのです。逆に聞きたいが、この記事のいったい「何が問題なの?」
けど、私の感覚では、むしろこういう極端に悪質な職質は昔にくらべてまだ減っているんですよ。かつてはこの動画に出てくるみたいな、「おいこら、そこのお前、どこ行くんだ?ちょっとカバンの中を見せてみろ」なんて警官が普通にゴロゴロいたんです。こういうのを指して「オイコラ警官」という呼び名まであったくらい。
当然に、そんな職質のあり方に対する批判も強くなり、警察内部でだいぶ教育訓練もされたのだろうと思います。私も道を歩いていて職質にあったこともありますが、特に若い警官の言葉使いなどは、その裏にマニュアルの存在を感じさせるものでした。批判が強くなったからこそ、そして批判する人がいたからこそ、訓練が行われ、警官の質が向上したということです。
「何が問題なの?」とか言っている人こそ、警官を甘やかせ、腐らせ、警察機構の質を落とす役割を担っていると知るべきです。絶対的権力は絶対的に腐敗するのだから。与えられた権力を、その権力を与えた国民の信頼と期待を裏切って不当に行使したら、非難されて権力を取り上げられるのが当然ではないですか。仕事をまかせた人間、そして何よりもお客様の信頼と期待に応えてこそ、はじめて「ごくろうさま」と言ってもらえるのです。そんなのは警官に限らず、どんな職業でも同じことではないでしょうか。
質の悪い不良警官は、それ相応のペナルティと教育の後で、再チャレンジの機会を与えればいいのです。何でもかんでも非人間的に管理して洗脳すればいいとは思いませんし、ましてやトカゲの尻尾切りでは何も解決しません。それもまた、別に警官に限ったことではない。すべての職場や仕事に通じることです。ただし、それでもやはり同じことを繰り返す人はいるもので、その場合、その人は単に警察という仕事に向いていなかっただけのことですから、別の職をさがしてもらうしかないでしょうね。
ともかく、「多少のこと」は大目に見るなんてのは主権者として最低。警察が身内をかばうなら論外。その時は、「一部」ではなく、警察そのものが、さらにはそういう警察のあり方を放置する国家や国民のそのものが、そんな程度のレベルということになるでしょう。
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ヘイトコメントをからかうことからブログを始めたわたしにはこう思えます。ネットウヨクや、保守派というか「サヨク」や反体制派を批判したがる人というか、まあ、警官の職務質問について、「問題がない」とする人って、「警察官の職務執行につべこべいうのはサヨク」と思って、どこまで明確かどうかはわからないけど、サヨクとそれ以外の人というそういう気分の二項対立でものを見るのでしょう。
そこには、「警察も行政サービスであり、納税者はより質の高いサービスを受けるべきだ」という発想もないのではないかしらん。
実際には、「国家っ権力好きです」といくら言ったって、別に権力のほうでは贔屓にしてくれないし、不当な権力執行する特別公務員は、誰かれ構わず「おいこら」ってやるでしょうけど、自分がそういう目にあうまでは想像力が働かない。
短慮かつ政治性過剰の発想を自分がしていると気づかないのでしょう。
kuronekoさん>
まあ、私も現役左翼時代には、世の中の政治主張を左右と中間主義者(社民・護憲)に3分類して、右は攻撃、中間主義者は軽蔑、左の内部で喧嘩しているなんて、バカなことやっていましたからねえ。ネトウヨさんたちに対しても、そのあたりの感覚は嘲笑するというよりも、「先輩」として諭してあげたいくらいの気持ちです。
しかしまあ、いくら単なる気分でも「サヨクとそれ以外の人という二項対立」なんて、アホすぎる感覚はなかったなあ。要するに自分と意見が対立する人は、全員が左翼というわけだ(笑)。それでは社会問題に対する、ごく普通の善意に対してさえ、すべて「サヨク」とか「反日」とか攻撃対象になってしまいまんがな。こういう善意は見ようによって右にも左にもなってしまうわけで、いちいち目くじら立ててもしようがない。
なんにせよ、安保・資本主義・軍隊・警察、あるいは差別の問題、そういったものに、あたかも「何の問題もない」とか「問題そのものが存在しない」なんてアホな主張を展開するのは、自分が何も考えていないことを自己暴露してるだけ。むしろ基地や軍隊や資本主義が必要だと言う人こそが、その問題に対する解決策や左翼に対抗する対案を考え抜かないといけないはずなのに。右派でも、まじめな人はちゃーんとそこまで考えている。
まず問題が存在することを認め、さらにそういう対案を出してもらってはじめて議論がはじまるわけで、議論以前のレベルの人ばっかりだということでしょうか。
初めまして、草加さん。当方右寄りで左寄りに対して食わず嫌いな人間ですが、このブログで様々な出来事を「人としてどうよ?」という視点で書いているところに魅かれて、たまに読んでます。
記事の内容についておっしゃる通りだと思います。特に、秋葉原で見た目が弱そうなオタクをみつけて、悪質な職務質問をしている警察官をみると怒りというより、「警察官が弱いものいじめかよ」と情けないという感情を抱きます。在特会の連中のじゃあるまいし。
警察官のこの手の職務質問が問題ないと思っている人たち右の人たちだと思われがちなのは残念ですね。こういう悪質な職務質問によって警察が国民から信頼されなくなり、何らかの事件捜査で聞き込みする際に協力が得られなくなったら、それこそ国益に反することだと思います。
西田さん>
ご投稿ありがとうございます。私は本音をいいますと、もう左派だの右派だのどうでもいいと思っているんですよね。まあ、そうは言いましても、私は客観的には左派なのだろうし、「私は左翼ではありません。普通の人です」なんて超カッコ悪い、ダサダサなことは言いたくないもんで、まあ、左翼を名乗ることになるわけです。おそらく西田さんも、基本はそうではありませんか?右派だの右翼だの言ったって、素直な気持ちで正義を求める人は、決して差別者にはならないと思うんですよね。
さて、本文中では、こういう職質を「問題ない」なんて言っている人を、特に「右の人」とは特定しておりませんが、まあ、現在的にはそういうことになるでしょうね。ですが、ネットの黎明期においては、むしろオタク系極右(または極右系オタクか?)の人たちが、こういう問題や、言論の自由への国家の介入に対しては、敏感に反応していたのではないでしょうか。背景としては、極右系というよりも右派言論そのものが、一般社会だけでなく、ネット上でも極少数派だったこと、オタク文化が市民権を得ておらず、むしろ嫌悪や排斥、公権力による弾圧の対象になりがちだったことがあげられると思います。むしろオタクへの弾圧に対して、左派は一応は世間の風潮に疑問を提起しつつも、全体としては動きが鈍かったくらいではないかと思います。
かつて、時期を前後して、「人権擁護法案」と「共謀罪」という、個人の言論に国家が介入する二つの法案が出ました。右派は主に「人権擁護法案」、左派は主に「共謀罪」に反対しておったのですが、最初に問題になった「人権擁護法案」については、その時点でネット上の左派の多くも反対に回ったわけです。この法案の大義としては、差別言論に関する被害者との人権の調整でした。左派はその必要性一般は認めつつも、より言論の自由に価値を認め、政府案には問題が多いと判断したわけです。右派だけではなく、最終的に左派までもが反対・消極論に回ったことが決め手となり、応援する人が誰もいなくなって、同法案は孤立して潰れたのだと思います。それは決して右派だけの勝利だったのではありません。
次に「共謀罪」が問題になった時、私はてっきりネット上では「人権擁護法案」の時の逆バージョンになると思っていたのですよ。なぜなら、最初に書いたようなネット黎明期の記憶がまだ私には新しく、言論の自由への国家の介入については、右も左もないと思っていたからです。それがまあ、大半のネットウヨクが、「左翼が共謀罪に反対するのは彼らが犯罪者だから」とかなんとか、わけのわからない的外れなことを言い出して、「共謀罪」に賛成しだしたから、心底あきれました。私がネットウヨクというものを(反対ではなく)馬鹿にしだしのはそのころからです。こういうネットウヨクの多くは、「人権擁護法案」に反対した理由も、要するに差別用語を使いたい、差別言論を書きたいということです。左派はその理由を嫌悪したし、この手のネットウヨクは叩き潰したいくらいに思っていましたが、それでも言論の自由という観点から、鼻をつまんで「人権擁護法案」には反対したというのにです。
なんでもかんでも「右」や「左」でわけていたら、言論の自由なんて守れないのです。
初期における、むしろ極右系オタクが頑張っていた時代、人権擁護法案と共謀罪における頓珍漢なネジレ対応を経て、現在ではむしろ、この職務質問への対抗や、監視カメラの設置、「安全・安心」を大義名分にした警察の市民社会への介入、デモや情宣、ビラのポスティングに対する不当逮捕、こういったものへの抗議や対応は、すべて左派の専売特許になってしまいました。右派はむしろ警察権力の言論の自由への介入を応援し、あまつさえ「警察の許可はとったのか?」とか言い出す始末です。
この流れを見ていくに、それはネットでの右派言論がだんだんと勢いを増し、見かけ上の多数派になっていく過程と一致しています。事態は明らかであって、最初のピュアな右翼が駆逐され、あとから多数派きどりで我が物顔で流入してきた、付和雷同のアホども、こういった俄か右翼が、現在のネットにおける右派の主流を占めているということだと思います。逆に左派はこういった付和雷同分子が削り取られ、ネット黎明期とは逆の状態になっていったということだと思っています(現在はそういう単純な図式とは少し違いますが)。
ですからまあ、言論に自由に左右の別はない。これが原則です。けれども現在的な情勢として、それを守るためには、「自由」というものをはきちがえ、他人の言論を弾圧して荒らしまわるようなネトウヨさんとの闘いが、言論の自由を守るための特殊な分野としてある。そういうことだと思います。それはあくまでも「現在の情勢において」ということであって、将来、こういったどうしようもない付和雷同分子が、右派ではなく左派に流れてくるような時代がきたら、その時は私もネトサヨ連中と闘いたいと思います。