こちらのエントリーでお約束していた「東峰現地行動」と「市東さんと語ろう農民シンポジウム」の報告記事については、お正月休みの間に書き溜めておくつもりでおりましたが、結局はひたすら寝倒してすごしました。言い訳ですが、かなり疲れていたと思う。だいたいがまあ、私が「後日書きます」と言ったものは、ほぼ9割の確率でそのまま書かずに終わっているわけですが、この報告記事だけは(もう日にちもたっていることだし)簡単な感想だけにしても書いておきたいなと思っています。
◆昨年は本当にありがとう。そしてごめんなさいでした
さて、旧年をふりかえってみますに、私生活はともかく、ことネットだの運動だののことになりますと、毎年のことながら、まったくもってわがままに、言いたいことばかり言って、やりたいことばかりやってきたなあと思います。それにもかかわらず、周囲の方からは暖かい目で受け入れていただいて本当に有難いという思いでいっぱいです。誠にありがとうございました。
ごくたまにですが、私のことを「いい人」だとか、「八方美人」でみんなに気を使っていると勘違いしている方もおられるようなのですが、現実はまったく逆、私はいつも超わがままで、心のままに動いているだけなのです。つきあいたい人とつきあい、言いたいことを言っているだけ。
わかりやすく、たとえばAさんとBさん(あくまでも「たとえ」ですので具体的に誰かを想像しているわけではありません)がいて、この二人の仲が悪いとしますよね、でも私にはそんなの関係ないわけで、両方とつきあいたければつきあうし、どっちも嫌ならどっちともつきあわない。それだけならまだしも、Aさんと会えばAさんの悪い点とBさんの良い点を指摘してしまう。Bさんと会えばその逆。まさに傍若無人(笑)。私も決してKYではないと自分では思っているので、もちろんそんなに非常識なことは言いませんけれどもね。まあ、その全く逆のことができれば本当の「八方美人」にもなれたと思うのですが。
そんななかで、私が本当に感謝しているのは、今のところ、上のたとえで言いますと、AさんとBさんの両方が私を受け入れておつきあいしていただいていることです。これは簡単なようでいて、実は難しいことだと思います。自分のほうが相手より正しいと思っている時に、傍若無人に「あんたもここが悪い」とか「相手にも良いところがある」とか言ってくる相手に、自分の意見は意見として冷静に反論しつつ、それでもわけへだてなくつきあってくれる人というのは、そうそういないと思うのです。本当に尊敬すべきことで、有難いことだと思います。まあ、私みたいな変人とつきあえるのが(笑)、そういう尊敬すべき忍耐の持ち主ばかりだという結果でもあるのでしょうが。
◆自分が相手を選ぶのではなく、相手が自分を選ぶのだ
ただしね、自分がそれだけのわがままを通しているんだから、自分が同じことをされたり思われたりしても仕方がないと思っています。要するにAさんとBさんの両方から嫌われても仕方がないと思うのね。尊敬すべき人たちだからこそ、真摯に対応したいと思う。だいたい本当にどうしようもない人とは、批判どころか、かかわりも持ちたくありませんもんね。どちらからも嫌われたくないから両方にあわせるというのは不誠実だし、ましてや、相手を人間として知ってしまえば、もう「どちらについた方が得か」なんて発想はできない。そうやって自分の考えを隠さずに真摯に伝えた上で、自分に了見違いがあれば、それは指摘してもらって直せばいいという、これまたわがままなことを思っています。
そもそも自分の考えや批判に耳を傾けてほしいのならば、当然にも、相手の自分に対する批判にも虚心で耳を傾けなくてはならないものでしょ。それができないのなら、そもそも人を批判するだけの資質に欠けると思うのです。それと、相手を批判する時に心がけていることは、攻撃のための攻撃はしない、どんなにキツイ言葉を使おうとも、心を込めて批判するということです。最低限、人格攻撃や弱いものイジメにならないこと。まあ、そうは言っても、未熟な私のことですから、いつもいつもちゃんとそれができているかと問われれば自信がありません。そのあたりは今後、その時に適時ご指摘いただければと思います。
こう考えてきますと、どちらにつくとか誰につくなんてことは、自分が選ぶことではないという気がします。信念がある人間にとっては、自分が相手を選ぶという尊大なことではなく、相手がそのうち自然に自分を選ぶ(または選ばない)ということなのではないでしょうか。自分なりの信念がないから、他人の作ったお仕着せの中から、どれを選ぼうかという発想になるのだと思えてなりません。
ちょっとかっこいいことを書いてしまった気がしますが(笑)、もちろんこれは自分にとっても未だに目標でしかありません。お仕着せの中から損得勘定で選ぶのでなく、自前の信念をもって人生を自由に生きていく中で、自然に自分の道や仲間ができてくる、そんなカッコイイ人でありたいなあと思います。けどまだまだ肝心のその「信念」がいい加減なものでして、足元から鍛えていかなくてはならない段階です。信念と子供じみた「思い込み」は違うと思う。私はまだまだ思い込みのレベルだとよく自覚しています。だからこそ、エエカッコせずにそれを包み隠さずさらけだして、恥をかき、批判という形で教えていただき、自分を鍛えていきたいと思っています。いやはや目標までの道は遥かに遠いですけど。
◆今年は年貢の納め時かな
たとえばね、忌野清志郎さんという人がいて、この人は基本的に死ぬまで自分の好きなこと、信じたことをやって人生を終えたのね。私のような普通の人は、自分の好きなことばっかり言ったりやったりしていたら、どんどんと周囲の人から嫌われていくのが当たり前だと思うのですよ。
ところがこの人は、(実際にはいろいろあるでしょうが彼の人生を全体として見れば)自分の好きなことをやればやるほど、自由に生きれば生きるほど、どんどん周囲の人から好かれていくわけじゃないですか。この違いはなんなんだろうと。それは彼が音楽的な才能を持って生まれたという問題だけではないように思います。才能のある偉大な天才が、人間的には周囲から嫌われるなんてこともあるでしょうからね。
これはいったい何だろうと、それは「彼は生前、反戦や自然保護にも熱心に取り組み云々」とか、そういうレベルの話では全然ないと思う。きっと清志郎さんにとっては、彼の人生の「結果」としての戦争反対はあったとしても、頭でっかちにまず「反戦」だの「愛国」だのいうところから入って、そこから清志郎さんのことをほめたりけなしたり評価するというのは、ちょっと違うのではないかという気がしています。でも具体的にそれは何か?何が「違う」と私は言っているのか?それを自分でずっと考えています。
なんかちょっと話がそれてしまいましたが(苦笑)。つまり清志郎さんに比べればあまりにちっぽけで所詮は普通の人の私がですよ、自分の言いたいことを言い、やりたいことをやっていたらですね、そりゃあもう、最後にはしっちゃかめっちゃか、みんなから見放され、へたに悪意がないだけに余計に始末が悪いってことになるのが当然ですよね。
今までは、こんな私でも尊敬すべき周囲の方々のおかげで、なんとか無事にすごしてこれました。けれども、今年はいよいよ、なんとなく運命の分かれ道みたいなことになるんではないかという気が激しくしています。最悪、ごく普通にみんなから嫌われたり相手にされないこともあるかなあと。でも、とにかく腹をくくって、自分の心や言葉に嘘をつかないように、動揺して本当に悪い意味での「八方美人」や「損得勘定」に走らないように、最後まで、相手にも自分にも誠実で真摯であるように、ちっぽけな私の人生にすぎませんが、それでも自分なりの決意を持って今年も生きてゆきたいと思います。
最後に、誰も恨まないように、たとえ尊敬すべき皆さんから嫌われて愛想をつかされても、それでも自分は相手を絶対に嫌わないように。そういう腹をくくりたいと思います。
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キヨシローの音楽は永遠に聴かれ続けるだろうし、その価値はなによりも 彼がいつも自由人だったこと。これはジョン・レノンもそうで、平和運動をやったから偉大なのではなく、いつも自分自身と向き合って、惨めなときは惨めな自分をさらけ出す勇気を持っていたからだと思う。才能があったのはたまたまのことです。自由な人間で無ければ才能があっても生かせないか、組織に利用される形でしか才能を発表できない。
私は右派ではあるから、たとえば自民党や民主党右派の政治家は皆さんより私は考えは近いですよね。しかし、私が個人として、一人の人間として訴える限り、政府や政治勢力は最後には私を排除することになるというのは自分では理解しているつもりです。これは左派の方々にとってもそうだと思う。仮に、皆さんが共感できる政治勢力が権力を取ったとして、その権力は、権力である限りは個人と対立せざるを得ない構造を持っている。だからこそ左派の理想は、多分、権力無き世界だし、私の理想は、どのような形で権力をよりよきものにしていくかということだと思う。
まあ硬い話題を正月早々すいませんが
個人のブログをはじめまして、こちらは趣味ばかりで政治の話はほとんど出てきませんので、お気軽に訪問ください。
http://miura.trycomp.net/
長い文章がさっぱり書けなくなったので、時々コメントするくらいで恐縮なのですが、
弱小大学のノンセクトグループで、大したことは出来てなかったのですが、
同世代の人間としてこのブログの存在は勇気づけられます。
当面厳しい情況は続くのでしょうが、気持ちだけは維持しつつ必要な時に動ける個人的力量をつくりたな!とは思っているのですが・・・。
日々の生活をしながらこのブログを維持するのも大変なんだろうなと思います。本当にお疲れ様です。そしてありがとう。
そのうちどこかの「現場」で会えたらなと思います。
精神主義の欠点
先の大戦では、日本人は精神主義で戦って、みじめな敗北を喫した。
日本人の精神力が足りなかったために、戦場においても工場においてもアメリカ人の精神力に負けたのだと考えていたとしたら、それは日本人の誤りである。
日本人には、意思がない。だが、恣意がある。
だから、日本人には能動はないが、願望はある。
米空軍が日本の都市を爆撃し始めたころ、航空機製造業者協会の副会長は「ついに敵機は我々の頭上に飛来してまいりました。しかしながら、我々航空機生産のことに当たっておりますものは、かかる事態の到来することは常に予期してきたところでありまし…
巷で話題の「まおゆう」読了。長すぎ、面白くない上に、これはひどい「冷酷さを正当化する物語」…。
読んだ感想としては、VIP・パー速系の創作の中で特に面白いとは思えないなあと…。まおゆうはVIPPERの創作の面白さであるはっちゃけぶりが足りない上に、作中で語られることも酷すぎる…。まおゆうは、VIP・パー速系の創作の中では「中の下」くらいの出来かなと。これより面白いVIPの創作はいくらでもある
http://maouyusya2828.web.fc2.com/
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1176198.html
ねこねこさんへ>
なんか原因は不明ですが、ぐちゃぐちゃに文字化けして読めなくなっていましたので、リンクがあった先の内容をトラバ風に転載しておきました。