去る1月16日、三里塚反対同盟(柳川代表世話人)の旗開きに行ってまいりました。いわゆる熱田派の旗開きということになります。その前の週には反対同盟(北原事務局長)の旗開きに参加しています(⇒報告記事)。
率直に申しまして、二つに分裂した反対同盟の、その両方の旗開きに参加することには多少のためらいがありました。昨年の12月に参加させていただいた東峰現地行動のような、具体的な闘争や集会ならともかく、両方の旗開きに参加となりますと、なんとなくヌエ的な気がするというか、どちらか片方だけにしておいたほうがいいのかなぁと…。
けどまあ、まず、反対運動を継続している農民の皆さんに対し、実際に自分の目で見もしないで、あれやこれや論評するのも僭越だろうと思いました。また、熱田派反対同盟は現在、団体としては事実上の活動休止状態であり、各々の農民が自分の意思と責任において個人的に活動しておられます。そんな中で、唯一の「反対同盟主催」の行事がこの旗開きです。
確かにかつての全国集会に代わるものとして年2回(春と秋)の東峰現地行動がありますが、こちらは同盟ではなく支援連の主催で、柳川代表はこれには参加しておられません。ですから同盟主催で、なおかつ柳川代表のお話が聞ける機会は、今回を逃せば来年の正月までないかもしれない。そういうこともあり、また、「敵が嫌がることは何でもやってみよう」という趣旨からも、参加させていただくことにしました。
当日はこの冬一番の冷え込みだということで、成田市内に入るとそこここに朝から降った雪が残っていました。東成田駅に到着しますと、ネットで見た案内の通り、参加者のための迎えの車が待機していまして、「旗開きですか?」と聞かれるので「はい」と答え、そのまんま会場まで乗せていっていただきました。
実はもう一駅先の芝山千代田まで行けば、若干そのほうが近いらしいのですが、この一駅だけの区間は「日本一短い」芝山鉄道です。このたった一駅の運賃が、都内から東成田駅までの運賃のなんと半額近い。つまり一駅乗るだけで運賃が1.5倍にはねあがってしまう!
さらにこの芝山鉄道は空港関連事業として収支度外視で建設され、おまけに反対同盟熱田派の拠点である木の根ペンションに意図的にぶつけて建設されたものです。ペンションは同じ空港用地内を100mほど西に移動(移築)してなんとか存続できたものの、そのために多額の費用出費を強いられました。そういう経緯もあり、道義的にも、また、実際問題(運賃)としても、「芝山鉄道なんて使いたくないよ」ということでした。
さて、当日の会場は「横堀農業研修センター」ですが、これは私と同年代の元同志の皆さんにとっては「労農合宿所」といったほうがピンとくるだろうと思います。そう、横堀共同墓地の手前の小道を曲がった所にあった、あの労農合宿所です。かつて団結小屋を持つ党派などには属していない、一般の支援の方々が三里塚に宿泊するために利用し、有志で維持されていました。
また、ここは三里塚闘争の分裂後に一度火災によって燃え落ちています。機動隊が現に燃えている火災現場に通じる道を封鎖して「検問」を実施し、消防団の消火活動を妨害したために2階建ての建物は全焼しました。かなりの大火で、周囲の森林に燃え広がる可能性もあったわけですから、あまりにも危険で卑劣な弾圧でした。
そして何よりも、この労農合宿所前の道をもう少し進んだ突き当たりに、かつて私が属していた戦旗・共産同の団結小屋がありました。ここは現役当事の私がそれこそ何度も何度も通った場所なんです。その後、団結小屋は機動隊に封鎖・破壊されて、現在は跡地が残るのみです(⇒横堀砦攻防戦の写真)。
ふりむけば、よく集会を開いた横堀共同墓地前が見えますが、今ではそこも空港会社によって塀で囲われている。その右手には、いつも公安・機動隊がその上から監視していた砂利山が、今もそのまんま残っているのが見えました。近くによってみますと、当事は小石の山だった砂利も、かなり表面が風化して文字通りの砂利になっています。
このあたりは本当に私たちのホームグランドだった。「ただいま。待たせてごめんね」そう言ってからそっと地面をなでました。見ているうちに感慨無量になって胸がつまってきます。
寒風の中、センター前には自力で、あるいは駅からのピストン輸送で次々と参加者が集まってきました。知っている顔もちらほら見えました。センターの正門前には例によって旗開きを監視する公安私服刑事の群れ。カメラを向けると背中を向けてワラワラと逃げていきますがすぐに戻ってきます。正門前以外にも車の中などにちらばっていて、その数は総勢2、30人くらいでしょうか。
とりあえず参加費の1000円を払って待っていますと、小型の焼却炉が引っ張り出されて焚き火がはじまりました。やがて大きな釜が出てきまして、薪をくべて豚汁作りがはじまります。とれたての三里塚の野菜を煮込んで、上等の豚肉が入り、味噌が溶かしいれられました。うまそうなにおいが周囲にただよいます。この豚汁作りは毎年の恒例らしく、手の空いている人がみなで協力し合いながらてきぱきと作っていきます。
豚汁だけでもなんだからと、今年は準備を担当した支援の方が、農民が共同で運営している三里塚らっきょう工場で作ったらっきょうを添えて、みんなに弁当(弁当屋さんのお寿司)を配られました。でも、豚汁の準備を担当していただいた斉藤明さんは、支援が出来合いの弁当を準備したことに少し不満(つかご立腹)なご様子でした。
また、焚き火のそばにおられたダンディなおじさんが、会話から熱田派反対同盟の顧問弁護士である清井礼司さんだとわかってびっくり。だって清井さんは私が現役左翼時代にもよくお見かけしていましたけど、すっかり人相がかわって別人28号です。ぜんぜんわかんなかった。あのころは若手バリバリだったんでしょうねえ。今はすっかり貫禄もついてはるかに落ち着いた印象。なんというか、80年代当事は大橋巨泉だったのに、今では勝新太郎になっていたという(爆)。
準備中の会場をのぞくと、毎年ネットで写真だけは見る座敷がありました。おお、なるほど、あの写真の場所はこんなところだったのかとしげしげと眺めていると受付をうながす声が。急いで受付簿に記帳していますと、トップに泉南市議会の小山広明さんのお名前を発見しました。小山さんとは80年代に関西新空港反対闘争でいつもご一緒し、ちょうどその初当選の時には何度も泉州現地に駆けつけていました。あとでお話をうかがいましたが、選挙の回数で言えば、今の議会はあれからもう6期目になるんだそうです。いや、懐かしかったです。
さて、旗開きは司会の山崎宏さん(横堀住民・労活評現闘)の挨拶ではじまりました。山崎さんは、成田空港の「年間30万回飛行計画」の無謀さと欺瞞を指摘し、次に一坪共有地に対する裁判による土地取り上げ、その焦点となっている横堀現闘本部破壊攻撃の無法を糾弾し、支援と農民が団結して今年も闘おうと訴えられました。
司会挨拶の後、全員で乾杯をし、続いて主催側を代表して柳川秀夫さん(反対同盟代表世話人)、加瀬勉さん(反対同盟大地共有委員会)、清井礼司さん(反対同盟顧問弁護士)の3人からの発言がありました。
まず柳川さんは、政府・空港会社が裁判という形式をとって、反対同盟の一坪共有地を事実上強制収用しようとしている現状にふれた上で、これは91年、反対同盟(熱田派)が政府との話し合い(成田シンポジウム・円卓会議)に参加する前提条件として、政府が農民にした約束、すなわち、「今後、政府はいかなる状況であっても強制的手段はとらない」という確約を、全面的に反故にするものだと述べられました。
この確約はシンポジウムの席上でも当時の運輸大臣が確認し、さらに閣議でも了承されたものです。私の記憶によれば、政府は熱田派の農民に対してだけでなく、北原派や小川派など、すべての農民に対して「二度と強制的なことはしない」と約束したはずです。そしてこの確約は、いわゆる「成田問題」の責任がすべて自分たちにあることを政府側が認め、農民に塗炭の苦しみをなめさせたことを、政府が公式の場で全面的に謝罪したこととセットになっているわけです。
一昨年、この確約に反して裁判が提訴されたため、この確約は撤回されたのかどうか、柳川さんらは政府に正式に回答を求めたそうです。ところが、民主党の小沢幹事長(当時)は、「党の幹事長室を通さない陳情などは政府に届けない」というルールを決めていました。反対同盟は鳩山首相(当事)宛にも文書を提出しましたが、いまだに回答は届いていないそうです。いわば小沢幹事長によって握りつぶされた形です。
これに対して柳川さんは、「政府が閣議で了承までした約束事を守らないということはおかしい」「裁判で強制収奪の結論が出た時は対決の懸念が生じる」「血を流しても闘う必要があれば私はそれを呼びかけたい。それが道理というものだ」「今年は平穏な年とはならないだろう」と呼びかけられました。
私はこれを聞きまして、「柳川さんら現在も熱田派に残っている人たちは、あの円卓会議の精神と合意事項を、言葉通りに信じて履行しようとしてきた善意の人々なのだ」と感じました。
それを裏切ったのは、やはり農民ではなくて政府・空港会社のほうです。またしても農民は騙されたのです。その裏切りに対して、柳川さんが、血を流してでも闘うことを「道理である」と断言したことは、私ごときが僭越な表現ではありますが、無心に農作業に打ち込む市東さんの姿を見た私にとっても、救われる気持ちでした。
円卓会議は、マスコミの一部では「民主主義の実験」とまで言われて称揚されていたと記憶しています。それをその言葉通りに受け取っていたのが柳川さんだったのだろうと思います。それは私が参加させていただいた反対同盟(北原事務局長)の闘争の原則とは、かなり違ったもののように感じます。ですが、それはそれで話の筋として通ってはいるし、柳川さんの善意や空港建設への怒り、反対運動の意思(方向は違えど)を疑う余地はないだろうと思います。
柳川さんは「話し合い」という言葉をよく口にされますので、なにかしら一部の人は穏健な融和派と感じるかもしれません。ですが、柳川さんを知る支援の人たちは、口をそろえて「いったん怒ったら、あれほど恐い人はいないよ」と口をそろえておっしゃるのです。要するに、ただ自分の信念や理想に忠実な人であり、不誠実な態度や人に対しては誰よりも厳しいということなんだろうなと思います。
柳川さんがそういう方であるのなら、いったんは政府の「謝罪」と「話し合いの確約」を信じて、いわば武装解除したのですから、政府がその約束を反故にするのなら、こちらも原点に戻って闘うのは、まさしく「道理」以外の何者でもありません。
私は柳川さんが熱田派反対同盟を代表して、ただ何がなんでも「話し合い」をお題目のように唱えるのではなく、そういう自分なりの筋を通そうとされていることに感動をおぼえました。今も柳川さんは政府・空港会社の傍若無人に忍耐を続けられつつ、内に秘めた静かな怒りと、それを爆発させるべき時期が近いことを感じさせる発言でした。
しかしもうこれ以上、政府・空港会社に猶予を与え、善意で「反省の機会」を待ってやる必要はもうないと思います。何より、円卓会議とは、所詮は農民の多くを「条件交渉派」に引きずり込み、熱田派反対同盟を武装解除させてしまっただけで終わった。まさしくそれが彼らの意図であったことを、痛苦な思いとともに私たちは認めるしかないのではないでしょうか?
この、学者グループを仲介としておこなわれた、政府と農民(熱田派)との円卓会議について、ここで多くを述べる余裕はありません。北原派の農民と支援は、このシンポへの参加を、政府への屈服と裏切りであるとして非難しましたし、熱田派系の人からも異論がありました。
実は私自身も、裏切られたような釈然としない、非常に忸怩たる思いでそのニュースを見ていました。たとえ政府に責任を認めさせ、事態の責任はすべて政府側にあるとして、全面的に謝罪させたことには「こんな当たり前のことがやっと…」という感慨を感じたとしてもです。
一方でマスコミなどは、このシンポジウムを「画期的」ともてはやしました。それは「空港廃港から全面完成まであらゆる条件を排除せず、政府と農民が対等の立場で一から話し合う」とされたからであり、その冒頭でおこなわれた政府の農民への全面謝罪を、マスコミはあたかも「英断」であるかのように書きたてました。そしてこれは単なる「条件交渉」ではなく、公共事業のあり方、地元住民と政府との関係、戦後民主主義を根本から問い直すものであると。実際、柳川さんらはそう思って臨んだのでしょう。
円卓会議を報じるマスコミの主要な論調は、「成田問題がこじれて流血の惨事になったのは、今から考えればあきらかに農民ではなく政府の責任だった」そういう書き方だったと思います。そして「やっと話し合いの席につけてよかったね」と。一方で「未だに話し合いを拒否している北原派がいるなど問題は山積」とね。
しかし、鎌田慧さんの『抵抗する自由』などに収録された、農民との対談などを読んでみますと、いざシンポが終わってから、今後について農民が話し合いを求めても、やってくる政府・空港会社の人間は、移転条件の話しかしないというのです。それではただの「条件交渉」であって、話し合いではありません。
ただその冒頭に「今までは本当にすみませんでした」と深々と頭を下げるだけであり、いざ、今後の空港をどうするかを話し合おうとする前に、「つきましては移転の条件でございますが」とくる。これでは言葉使いが丁寧になっただけで、今までと何も変わっていないじゃないですか。
円卓会議の最終結論は、成田空港の今後について、どうするかはすべて話し合いで合意の上で決めるとしています。その中身についてはっきりとは明言していませんが、だいたいにおいて、農民はA滑走路一本の現空港についてはその存続を認め、かわりに政府は2本目のB滑走路については供用しない(どうしても作りたい時は農民の合意を前提とする)、横風用のC滑走路については、建設を認めることも選択肢として話し合う。だいたいそんなところでした。
問題はそういう具体的なこともさることながら、ここで一番の核心点は「すべて合意の上で決め、強制的なことは二度としない」という点にあったわけです。
円卓会議についてはこのへんにして、結論を急ぎますが、私は空港会社が「日韓ワールドカップ」を口実として、B滑走路を「暫定滑走路」という名前で供用を開始した時点で、政府が閣議で了承までした約束は、すでに完全に反故にされたと思っています。
暫定滑走路の供用開始は、東峰地区農民の家屋すれすれにジェット機を飛ばし、瓦屋根が吹き飛ぶほどの被害をもたらし、その生活を非常に過酷なものに追い込める残酷なものです。このシンポに参加した熱田派農民の石井恒司さんは、供用開始の報を聞いて、「いったいどういうことだ!約束と違うじゃないか!」と、シンポに参加した政府などの関係者に電話をかけまくっていたそうです。
最初は申し訳なさげにワールドカップのための「暫定」と言っていた空港会社は、今や開き直って「暫定」の文字もはずしているようです。さらに言うなら、この暫定滑走路に関連する第3誘導路によって、北原派農民の市東さんを空港内に囲い込んで孤立させ、その農地を強奪しようとしています。今でも生活道路である団結街道が封鎖されて、市東さんは非常に困難な生活を余儀なくされているのです。
ですから、柳川さんの「裁判で強制収奪の結論が出た時は対決の懸念が生じる」という認識は、あまりにも悠長ではないかと私には感じられたわけです。同じ農民である市東さんへの攻撃やその逮捕というような事態を、どんなふうに感じているのかなと思いました。
長くなってしまったので、次回に続きます。⇒後編を読む
最後まで読んでくれてありがとう!
◇2011年三里塚芝山連合空港反対同盟旗開き報告(反対同盟大地共有委員会)
◇【報告】三里塚芝山連合空港反対同盟 2011年旗開き(虹とモンスーン)
◇三里塚空港反対同盟2011年旗開き(週刊かけはし)
◇三里塚へ・空港のどまん中で、遊び学ぼう・財政健全化はどこから(小山広明の散歩)