一番目はですね、20万回、30万回の発着に対してですね、すなわち人権蹂躙・人権侵害、これを回復させるためにわれわれは断固闘うと。増便を阻止するために、あらゆる手段で闘っていくと。これが第一点ですね。
第二点目は、いよいよ2月24日から共有地の裁判の証人尋問が始まるわけでありますが、後で清井さんの方から説明があると思いますが、われわれは一寸の土地も譲らないで闘うと。これが原則です。
三番目はTPP、すなわち日本の農業を潰すということで、「平成の開国」ということで今大騒ぎになっているわけですが、やはり日本の農業を守るためにですね、TPP絶対反対をする。
それから三番目(注:四番目)はですね、まず沖縄普天間基地の撤去をする、(移転ではなく)撤去ですね。それから伊勢早湾の水門は開門する、永久開門。それから八ッ場ダム、これは中止。それから原発の輸出、これは大反対。われわれは一貫してですね、戦争に反対して、それから反権力の勢力と断固共闘していくという原則を堅持していくと。
もうひとつ、私は1月30日に大阪に行くわけです。一坪共有地の「講演」だそうです。まず第一に表明したいことはですね、私は「講演」しにいくつもりはありません、大阪に。新年の挨拶に行くつもりはありません。先生でもなければ講師でもないわけです。私は三里塚闘争をみんなと一緒にやってきたオルガナイザーである。その点は大阪の人々に誤解の無いようにですね、やっぱりきちっとしておきたいと思うんですね。
手紙によると「加瀬さんには講演料を払いません」とある。講演料は40年間一銭だってもらったことはない。まあ、汽車賃だけはカンパしていただいとるんですがね。で、その点は一緒に闘った仲ですから、私はオルガナイザーですから、講師でもなければですね、単なる三里塚の現状報告に行ったり、挨拶するというような性格のものではありませんから、その点は、大阪の人たちもですね、ちゃんと私の性格を理解してほしいと思います。
で、一つ付け加えておきますが、管制塔(占拠闘争)以降ですね、私は全国戦線に出ないという約束を、政治団体としてあるわけです。ずっともう三里塚にいてですね、全国戦線には出ないと、その点は政治的に了解してほしいということで、今日まできているわけです。初めてここで明らかにします。
それをですね、「大阪に来てくれ」って言うわけですから、この禁を私に破らせるわけですよね、これは。(会場より「いいじゃないか」の声と笑い)。
いや、脅迫しているわけではないですよ(会場笑)。正直に言ってですよ、挨拶に行くわけでもないし、講演に行くわけでもないわけです。三里塚闘争、一坪共有化運動をどう闘うかという、この問題の共通点をですね、具体的な対策をどうするかという点で行くわけです。
私はですね、北海道とか沖縄とか、たった一人に会うために、飛行機を乗り継いでいったということは何回もあるわけです、40年間の中には。どうしてもあの人と意見を調整しなきゃなんない、どうしてもあの人と意見を変えなきゃいけない。そういう形で、人が集まったとか集まんないとか、そんなこと一つも基準にしてないわけですよ。
ですからですね、こんど大阪に行くのは、管制塔以降全国に出ないという政治的禁を破っていくわけですから、私は。その点はですね、迎えるほうも覚悟しておいてもらいたい。これは脅迫しているつもりはありませんよ、はっきり言って。
そういうことで、今年もですね、大阪行きがおそらく、私の新しい人生のケジメになると思います。その点はですね、私も覚悟して行きますから、大阪の、迎える関西の人たちも覚悟しておいてもらいたい。こういうことです。
ひとつはね、日本にやはりハブ空港を作らせなかったということはね、一番やっぱりわれわれの成果だと思うんですよ。そりゃ関西からね、中部から羽田から成田まであるけど、成田は中止に追い込まれ、作らせなかったと。
で、羽田(周辺住民)には申し訳ないけど、羽田がいま華やかになんやかややっているでしょ、テレビや新聞で。こっち(成田)は一つも景気が上がんないわけですよ。で、それはなぜかと言うとね、闘争が強烈にやったもんだから、どんなイベント組んでもね、闘争のことが前に出ちゃう。
いくら人を集め、彼らがどんな企画を立ててもね、現実に闘争をやって機動隊がうろちょろしているわけでしょ。空港が要塞になっているわけですから。だから連中がどんなアイデアを出しても、やっぱり闘争が前面に出ると。
これはね、われわれが40年間にわたって築いてきたですね、空間というのをやはり大切にしてですよ、やはり発展させていくという、そういう誇りと自信を私は持ったらいいと思うんですね。羽田の問題、開港を見てみてね、やっぱり「阻止したんだなぁ!」っていうですね、これは実感としてですよ。
それからやはり静岡とか茨城とかって、ああいう無様な地方空港とかやっとるわけでしょ。ですから、この空港の彼らの政策の矛盾をですね、やはり徹底的に追及して、で、三里塚の空港もより大切にしてより豊富に、そういう闘いをやはり進めていきたいと思います。
われわれの作った空間というのは40年かけて、大変な犠牲を負ったんだけれでも、やはり素晴らしい空間だと、そういうふうに、やはり誇りをもっていいと思います。