革共同再建協議会(機関紙名の改題にあわせて今後は「革共同未来派」と呼称します)が発表した革共同第四インター派へのテロに関する自己批判につき、当事者である革共同中核派、および旧第四インター派系3派の最大組織である「革共同(JRCL)=通称『かけはし』派」(って、ああ!ややこしいなあ、もう!)の両者から見解が表明されました。どちらも従来の見解を踏襲した内容ですが、『四トロ掲示板』に投稿された重要投稿とあわせて、ここに転載・保存しておきます。
他に意見の表明としては、アッテンボローさん、GO@あるみさんのものがあります。
2009/02/09 週刊『前進』2378号 「革命軍の09年決戦アピール 『生きさせろ!』ゼネストへ労働者階級と共に決起する」(鮎川鉄兵署名)の中の一節。全文はこちら
塩川一派(1)は、転向スパイ集団であることを表明したのみならず、ここに来て彼らの「通信」に「84年の第4インターに対する軍事的せん滅戦に関する自己批判」なる文章を載せ、輝かしい労働者階級・農民の闘いと革共同・革命軍の歴史の偽造にさらに奔走している。彼らの行っていることは「総括」に名を借りた「革共同の闘いと歴史の清算」、革共同に対する新たな破壊攻撃である。
国家権力の破防法弾圧のもと、希代の反革命、ファシスト・カクマルとの二重対峙・対カクマル戦の過程では、全党が歯ぎしりする思いで労働運動からの一時的撤退を余儀なくされた。そして動労千葉の闘い、三里塚の闘い、法政大の闘い、狭山闘争に全力を傾注して闘い抜いた。その全過程があたかも平時であったかのように言及することは、断じて許されない歴史の偽造である。
脱落派との83年3・8分裂は絶対反対を貫ぬく三里塚芝山連合空港反対同盟の一つの原点ともなった。この分裂のために反革命的に率先して立ち働いた第4インターとの死闘を塩川一派は清算主義的に自己批判しているのである。
3・8分裂は、脱落・投降派の石井新二らによる反革命的分裂策動だったが、その本質は日帝・運輸省・空港公団(当時)の、反対同盟破壊、切り崩し、話し合い策動であったのである。3・8分裂は分裂のための分裂だった。最初から脱落派が仕組んだ陰謀だったのだ。この分裂を党派として積極的に牽引(けんいん)していたのが第4インターであった。反対同盟が3月8日、「空港絶対反対、一切の話し合い拒否」「農地死守、実力闘争」の原則を貫いて石井新二らを追放・打倒したことは、偉大な革命的決起だったのだ。それは全国のあらゆる運動をふるいにかけた。
革共同と革命軍は、動労千葉がジェット燃料輸送阻止闘争で階級的同盟軍として支援した三里塚闘争を、血盟をかけてその破壊を絶対に許さない断固とした闘いを全力で担ったのである。第4インターという党派が階級の利益を投げ捨て、三里塚闘争の分裂・破壊を進めているとき、この階級的大罪に対し、労働者階級の利益と党の責任において、当時可能だった最大の闘いを貫いたことは、絶対に必要であったのだ。それは歴史的にすでに決着をつけている問題である。
塩川一派は、この点を階級的意義から論じていない。だから彼らは「労働者階級・人民大衆自身による壮大な事業を『軍事的せん滅戦』によって代行しようとした」などと闘いの正義性をゆがめて平気なのだ。塩川一派のこのような歴史の偽造に基づく「自己批判」はまったくの御都合主義であり、過去の戦闘の清算、権力への投降・屈服のもうひとつの表現でしかない。
「一坪再共有化」として土地を売って金に換える運動(2)を進めた脱落派の結果と現実はどうなっているのか。脱落派は「空港絶対反対、一切の話し合い拒否」「農地死守、実力闘争」の大原則を投げ捨てたことで、日帝の国策と農民圧殺の先兵となり、今や三里塚闘争に敵対し清算する存在に成り果てている。
絶対反対を貫き脱落派との分岐をかちとった三里塚闘争がいよいよその真価を発揮する時代が来た。塩川一派はその闘いの歴史をおとしめ、分裂の張本人の第4インターに自己批判する(3)ことで、石井新二や相川勝重(芝山町長)のような裏切りの道を歩むべきだったとするのである。それこそ三里塚闘争への新たな変質・破壊策動そのものだ。
注1)塩川一派=革共同未来派に対して中核派が使う蔑称。
注2)公平を期するために一応言っておくと、一坪再共有化は客観的・法律的に「土地を売る」ものではない。また、中核派も今では旧熱田派の共有権者に「共有権を手放さないよう」呼びかけている。
注3)自己批判はインターに対してなされたものではない。未来派も現時点ではここに書かれているようなインターに対する批判は中核派と共有している。
2009/02/23 週刊『かけはし』 「中央委員会声明」より
●いまだに「日帝・公団の手先」論
革命的共産主義者同盟再建協議会(革共同関西地方委員会多数派を中心にして中核派中央から分裂した組織)が、その機関紙「革共同通信」25号(09年1月 20日)に「1984年の第四インターに対する軍事的せん滅戦に関する自己批判」を公表した。彼らがいう軍事的殲滅戦とは、この年の一月九日と十日、七月五日と十四日に「革命軍」なるものがわれわれの同志八名を襲撃し、頭蓋骨骨折、脳挫傷、左足切断など、死者が出なかったのが不思議なほどの殺人的襲撃を加えたものである。
その「自己批判」の中では、「われわれ(中核派)が84年に第四インターに対して行った軍事的せん滅戦は、明らかな誤りであり、そのことによって階級闘争全体に少なからぬダメージを与えたことを率直に自己批判する立場」「第四インターせん滅戦は労働者階級・人民大衆の闘争の内部で生じた路線対立を、相手を『反革命』とまで規定し組織的な暴力を行使することによって決着をつけようとするものだった」と述べている。その第六章で自己批判までに二十五年もの歳月を掛けたことを「反対同盟を始め、これまで三里塚闘争に心を寄せ、いまもたたかいを担っているすべての人びとに謝罪する」とも述べている。しかし、彼らは「自己批判」の中で、テロや暴力的脅迫の被害者に何の謝罪もしていない。
「自己批判」では、「三里塚芝山連合空港反対同盟の83年3・8分裂を転回点として、第四インターが『日帝・空港公団の二期攻撃=反対同盟破壊攻撃の先兵』へと転落したと規定した」と述べた上で、一九八四年の一連の内ゲバ・テロを、八三年の五月仙台、七月大阪の三里塚大衆集会での暴力的介入へのわれわれの集会防衛行動、三里塚現地での反対同盟や青年行動隊などに対する昼夜問わない暴力的「説得活動」に対する反撃への等価報復であるとする「革命軍アピール」をそのまま引用している。さらに、反対同盟の分裂の一つの要因にもなった「一坪再共有化運動」に対しては「1億5千万円を得ようとするものであった」と、まるで私利・私欲のための土地売り渡しの行為、運動つぶしであったかのように主張している。
こうして、彼らは、一九八三年に始まる反対同盟の不幸な分裂と、中核派による反対同盟(熱田派)の同盟員や支援にたいする、テロをも含む暴力的内ゲバ攻撃を正当なものとし、ただ、八四年一月と七月の同志たち八人への「軍事的せん滅戦」(殺人的内ゲバ・テロ)だけが間違っていたのだというのである。
われわれはこの「自己批判」なるものを、真摯なそれとして受け入れることはとうてい出来ない。
●いまだに「再共有化運動=土地売り渡し」論
そもそも、「一坪再共有化運動」は、中核派によって強引に反対同盟分裂の理由とされたものである。多くの空港反対闘争、基地拡張反対闘争や権力の土地取り上げに対してそれぞれの反対運動の主体が、それをとりまく支援や運動団体に呼びかけて、「一坪共有」の形で、敵の買収攻撃や、強制収用手続きを煩雑化するだけでなく、その闘争を主体的一翼として共有するためになされている。こうした運動は、日本だけでなく韓国などでもひろく採用されている。三里塚においては、共有地を活用し、新しい村や農地を作り、空港を包囲しようと攻勢的に考えられていた。そのうえ、この再共有化運動では、権利移転手続きに厳しい条件を付けたものだった。
中核派は、一坪共有運動に対して、一方で「土地売り渡し」「運動つぶし」といい、殺人的襲撃の根拠としながら、他方で、一九九八年三月二日の「前進」1851号では、「全国一千二百人の一坪共有者に訴える。その権利を守り抜くことは人民の正義であり、三里塚闘争の勝利のために不可欠である」とまで書いている。
ここに中核派のご都合主義、鉄面皮が余すところなく示されている。革共同(中核派)再建協議会、関西地方委員会は、この九八年を前後する時期の中核派や反対同盟北原派の一坪共有運動に対する評価の「ぶれ」にふれず、襲撃の根拠にした革命軍アピールを引き継いだままで「自己批判」をしようというのである。それは到底不可能なことである。一坪再共有化の運動は、当時の中核派・革命軍がいうように、脱落派の土地売り渡し運動、闘争破壊、反革命なのか、それとも「自己批判」がいうように「労働者階級・人民大衆の闘争の内部で生じた路線対立」なのか。どちらだというのだろうか。
中核派は、当時すでに革マル派との間で激しい内ゲバを行っていた。その結果、彼らは土地登記の形で身元を明らかにすることに大きな困難を抱えていたという。自分たちが参加できない運動はつぶしてしまうというやり方(1)が内ゲバ的やりかたそのものなのだ。大衆運動に関わる場合、自分たちの参加が困難でも、少しでも意義ある闘争は、つぶそうとするのではなく、陰で支援、または最低でも見守るくらいの心構えが必要なのだ。
昨年末から空港会社は、一坪共有者に対して「一坪共有地売却要請」の手紙を出しているが圧倒的多数は共有地を堅持している。いま三里塚では、「一坪共有地堅持、農民追い出しを許さない」新しいたたかいが取り組まれている。二十五年前、中核派の激しい攻撃にもかかわらず、共有者のほとんどが、その正当な目的を共有して共有地を堅持した。この運動のどこを見ても、土地売りわたしなどと非難されるものはない。いま市東さんの「農地死守」のたたかいにとって、空港内外に反対派の共有地があることがプラスなのかマイナスなのか。答は歴然としているではないか。われわれは一坪共有地堅持の運動を強化していく。
●三里塚闘争への破壊行為、内ゲバ・テロ
革共同(中核派)再建協議会は、われわれに対する「軍事的せん滅戦」(内ゲバ・テロ)を、八三年五月仙台、七月大阪での「第四インターの白色行動隊」による暴行、権力への売り渡し、岩山記念館破壊、現地の「脱落派」によるリンチ行為への等価報復であるとする革命軍アピールをそのまま踏襲している。
当時、中核派は、大衆集会に潜り込み、声を合わせてシュプレヒコールを行い、壇上に駆け上がって集会妨害を試みた。また、職場や学園におしかけてはビラをまくだけでなく、メンバーを呼び出して当局・管理職の前で暴行を加え、「死刑判決」を突きつけた。駅頭などでは、「おまえの職場、家は分かっているのだ」「次はおまえだ」と脅し、夜な夜な居宅に押しかけて近所迷惑をし、脅しの電話などあらゆる卑劣な行動をくり返した。
その対象は、われわれのメンバーやシンパに止まらず、三里塚闘争に連帯する会に参加する他の党派のメンバーやノンセクトの人びと、彼らが熱田派と見なす人びとのところでも同じだった。それは、三里塚での反対同盟員や青行隊員にも行われた。そうした中で、職場や学校の仲間たちを含んでの中核派メンバーに対する排除、われわれの仲間の防衛行動や、最小限度の自衛行為が行われることはあった。中核派は、それをテロ・リンチと誇張したのである。
中核派のわれわれに対する内ゲバ・テロ、彼らがいう「軍事的せん滅戦」は、われわれだけに向けられたものではない。それは当時中核派が三里塚現地や全国各地で行った反対同盟と熱田派支援に対する無数の内ゲバ的攻撃の一環でありその頂点である。
中核派はこの時期、三里塚闘争だけでなく、あらゆる大衆闘争で対立、齟齬があるとき必ずと言っていいほど内ゲバ的対立をして暴力をも行使しながら攻撃した。自分たちと路線的に対立するものは「脱落派」であり「日帝の手先」「反革命」あるいは闘争破壊者となるのだ。その被害者は枚挙にいとまがない。これが、「自己批判」も認めるとおり「階級闘争に少なからぬダメージを与えた」のである。
革共同(中核派)関西地方委員会であれ全国委員会であれ中核派を引き継ぐものは、これら被害を与えた人びとはもちろんのことさまざまな運動を担っている人びとに真摯に謝罪し、自己批判すべきである。われわれに対する「軍事的せん滅戦」だけ自己批判すればすむことではない。内ゲバ的手法を用いた「共有化運動つぶし」全体が自己批判されなければならない。
●内ゲバ・テロを排し豊かな大衆運動の構築を
われわれは、一九八三年の中核派からの内ゲバ・テロ攻撃に際して、軍事的報復の道は採用しなかった。もしそうしていれば、三里塚闘争はじめ日本の大衆運動が受けた打撃はもっと深刻だっただろう。その代わり、われわれは、さまざまな大衆運動を担い闘っている党派やグループ、人びととともに大衆運動の発展のために、運動や共同行動に内ゲバ的手法が持ち込まれること、中核派や革マル派などの内ゲバ党派が介入・攪乱することを防ぐべく闘ってきた。その闘いは、十分であったとはいえないが、われわれは全力を尽くしたし、これからもそうする。
革共同(中核派)再建協議会、関西地方委員会が「自己批判」をだした背景には、彼らが運動上の孤立から脱却するための願望が込められているのであろう。しかしこの「自己批判」では彼らが大衆運動、共同行動、統一戦線の中で二度と内ゲバ・テロを行わないという保証にはならないと考える。
新自由主義の結果、世界的大恐慌が訪れ、失業者が街にあふれ、日本が戦争する国に造り上げられようとしているいま、労働者人民の強大な大衆運動、政治闘争が求められている。内ゲバなど不毛な行動によってこれらの運動を再び後退させることは許されない。日本の政治闘争、環境運動、労働運動、女性解放運動、学生運動など諸々の大衆闘争を担うものは、これまでの内ゲバが日本の大衆運動に与えた打撃を深刻に受け止め、再発を防止するために全力を尽くさなければならない。
われわれは、さまざまな運動を担っている人びとに、これまで通り、大衆運動、共同行動への内ゲバの持ち込み、内ゲバ主義者の参入を拒否するように訴えたい。求められている豊かで強大な運動を作るために。
革共同(中核派)中央の機関紙「前進」は、その2378号に「革命軍の09年決戦アピール」という鮎川鉄兵の個人文書を掲載し、再建協議会の「自己批判」を三里塚闘争の破壊策動だとしている。その中で「脱落派(熱田派のことをを彼らはこういう)は、~日帝の国策と農民圧殺の先兵となり~」と規定している。さらにわれわれ(第四インター)を「党派として(それを)牽引していた」とし、われわれへの「軍事的せん滅戦」(内ゲバ・テロ)を全面的に正当化している。革共同(中核派)中央派に対してはよりいっそうの警戒心を持って対応する必要がある。
注1)「内ゲバのせいで土地台帳に名前を載せられない中核派が、素晴らしい運動である一坪再共有化への嫉妬にかられ、運動そのものを潰しにかかった」というのが、当時から現在にいたるまでインター系列では「定説」になっていることを25年たって初めて知った。私ら戦旗派系列では一坪再共有化が中核に限らず誰かが嫉妬するほど「素晴らしいもの」だとは全く思っていなかったので、ただただ「へぇ~」としか思えない。この「中核派ジェラシー説」はあまりにも突飛で陰謀論すぎるように思うし、北原派に行った用地内農民にも失礼だと思う。しかし陰謀論の特徴として否定も肯定もできないしろものだ。
現実には事業認定が失効した今でこそ別だが、当時の情勢で一坪再共有化は空港二期工事や強制執行がはじまれば実際にはその攻防にあまり役にたつものではなかった。むしろ一坪再共有化はそういう「現地実力攻防」ではない「運動の新しい方向=空港よりも緑の大地を」というフランスのラルザック闘争などの非暴力・直接行動に影響を受けたエコロジー運動路線、すなわちこの声明で書かれているところの「攻勢的な」運動の中心としての意味合いが強かった。つまりその新路線の成否が一坪再共有化にかかっていたのだ。一方でそれに対する不満が用地内の農民にあったわけである。
当初的にこの一坪再共有化を中心とする新路線に反対していたのは「現地実力攻防」を中心に運動を進めていた中核派と戦旗派であるが、中核派のあまりにも強引な三里塚への内ゲバ政治の持ち込み、民衆の自発性に基づかない強権的なセクト主義にも反対していた戦旗派は、次の段階ではインターと共に中核派に反対し、分裂後は熱田派に残った。が、結局は熱田派内でインターなどのエコロジー路線派と対立していく。結果として中核派は北原派を分裂させてそこに残り続け、戦旗派は熱田派の主導権を握った新路線派と対立して絶縁・放逐されてしまった。要するに「ジェラシー」などという不合理なものではなく、文字通りの路線闘争だったのである。そのあげくに三里塚闘争は急速に衰退していく。