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運動組織論

「原発ゼロ」実現の日に思うこと

まずは素直に誇ろう!祝おう!

 2012年5月5日23時3分、最後に残った北海道泊原発3号機が運転を停止し、これで日本国内に「運転中の」原発はゼロになりました。東電管内はとっくに原発ゼロでしたが、それでも、日本国中どこに行っても、自分の使っている電気に原発が含まれていないと思うと、本当にホッとした気分になります。

 安全とか言う以前に、そして「よく調べてみれば」というレベルではなく、明確に他人を犠牲にし、踏みつけにして得た電気で「快適な」生活を送る罪悪感から、少し解放されるからです。部屋の明かりを眺めながら、かなり気が楽になりました。願わくば生涯このままの状態でいてほしいものです。

 思うにこの5月5日という日は、将来の日本から見て、「あの日が日本の分岐点だった」と言われるように必ずなるでしょう。つまりこのまま再稼動を許さずに、腰をすえて脱原発に取り組むのか、それともこれを「異常事態」としてそこからの「復旧」=再稼動に向かうのかです。前者なら歴史的な一瞬として、後者なら、10年後か20年後か30年後か、それとも明日か、この次に大きな原発事故がおこった時に、「もしあの時に……」と後悔と共に振り返ることになるでしょう。

 今日のこの日を、運動の成果で原発を止めたのではなく、敵失(取り返しのつかない事故)で止まったのは残念という人もいます。確かにそうです。福島事故によるあまりにも大きな犠牲を出さなくては、この日を迎えられなかったこと、それだけの運動展望をつくれなかったことは、ろくに運動もしてこなった私も含め、反原発の側の力不足で残念です。

 ですが、事故後のこの一年、政府・推進派は「原発ゼロ」という事態を作らないために、大飯原発の再稼動をなんとか早めようとやっきになってきました。それを今日まで押し返し続けたのは、何よりも多くの人々の願いと、それを体現して献身的に頑張ってこられた運動の側の大きな成果です。一度でもデモにでたすべての皆さん。どうか誇ってください。

 なにはともあれ、私たちは「原発ゼロ」という事態を出現させ、すべての人がそれを経験した。そのことの持つ象徴的な意味はとてつもなく大きい。だって、「なんとかして原発をなくそう」という問題ではなく、とりあえず発電形態としての原発は一時的にでもなくなり、「このままいくのか、それとも昔に引きかえすのか」という問題の立て方になったのですから、これは天と地ほど違います。

 今後、政府がなりふりかまわず、どこでもいいからと、とにかく再稼動させてくるということもあると思います。ですがその場合でも、再稼動強行のほうが「異常事態」で「一時的」だという見方も充分に成り立つようになりました。それをたぐりよせた成果はとてつもなくデカイのです。

手放しでは喜べないー山積みの課題

 小が大と戦う時のセオリーである「防御→対峙→反攻→追討」という流れていけば、今はようやっと建設反対の防御段階から、既存の原発の是非までが俎上にのぼる対峙段階に小指がかかったくらいです。支配層もこの問題では一部分裂を開始しました。ですが、このまま具体的な脱原発政策に踏み込んでいく反攻段階に突入するためには、大きな壁がいくつもあるでしょう。

 まず原発は発電をやめただけで、核設備としてはそのまんま残っています。運転停止だけでは解決にならず、これを完全に無害な状態にもっていくためには、10万年からの気が遠くなるような時間がかかります。この先、一人の人間にとっては未来永劫ともいえるほどの時間、原発を解体、処理、管理していく仕組みが国際的にも必要です。

 次に、原発のみならず、火力などにもできるだけ頼らないために、いわゆる自然エネルギーへの転換も楽観視するのはもちろん危険です。原発推進派は「自然エネルギーには問題があり簡単ではない」とオウムのように昔から繰り返してきました。そんなの当たり前のことです

 だから何だと言うのでしょう?ゆえに福島の人は経済発展の犠牲になれ、多少被曝しても仕方ないとでも言うのでしょうか?今や原発にこそ、自然エネルギー以上の「問題」があることは明らかです。推進派の論理は、「禁断症状が苦しいから麻薬をやめることは体によくない」と言っているようなものです。これは原発に限ったことではありませんが、人の命と目先の短期的な経済効率のどちらが大切だと思っているのか。

 たしかに一朝一夕ではいかないかもしれませんが、もし、1986年のチェルノブイリ事故の時に原発依存からの脱却を決意し、その後の20年間、原発に湯水のごとくつぎこまれてきた莫大な金額の、その半分でも自然エネルギー開発につぎこんでいたら、私たちが見ている風景は、今とは随分と違ったものになっていたはずです。

 おそらくは自然エネルギー開発も、実際にやってみたら次から次へと問題は出てくるだろうし、停滞することもあるに違いない。ですがもはやこれ以上の問題の先送りは許されません。本当は20年前にやっているべきだった問題に取り組みましょう。次の20年も同じことの繰り返しではいけないのです。誰かの犠牲の上に成り立つ「豊かさ」なんてまっぴらです。

原発廃止時(後)の課題

 このような流れがもはや後戻りのきかないところまで進展し、定着し、すべての原発の解体が決定・開始されてはじめて、反攻から追討段階にはいったと言えるでしょう。もしこの段階にはいったとしてもまだまだ油断はできません。

 命よりも経済効率(お金・儲け・国力)を優先する思想は、それが資本制生産様式という物質的な根拠を持っている限り、それがなくなるまでは人々の意識の中からも完全に克服されるとは思えず、いつでも息を吹き返す可能性があるのです。一度は脱原発を決定しながら二転三転した例はいくらもあるのですから。ここまでくるだけでも、10年でも足りない、最低でも20年とか30年単位の息の長い闘いになるだろうことは容易に想像がつきます。

 最終的には全世界的規模で脱原発が人類の常識となり、いまさら原発推進政策に戻るには、かえって「経済効率」からも分が悪いという状態になるまで闘いは続きます。そのためにはまず「第一段階」として国内の原発を廃止しなくてはなりませんし、原発(まぎれもなく「核」設備)の輸出など、とんでもないことをやめさせなくてはなりません。次に、韓国や中国など、アジア諸国の民衆とも草の根レベルで連帯・支援し、これらの国の原発も止める闘いを、国家ではなく民衆レベルの国際共闘で実現していくことも視野にいれる必要だってあります。

 こうして見て行けば、その過程で、人や自然を道具視する、収奪的な経済効率優先主義のあり方、それが生み出す差別や社会構造の問題、それらのイデオロギー的表現である新自由主義や、それを根拠としたファシスト・差別主義者などとの対決、総じて、「人間の幸福とは何か」という、生き方の問題にまでいきついていきます。「いや、原発を止めたいだけでそこまで考えていない」という方も大丈夫。それでいいんです。原発は必要という非人間的な考え方は嫌だと思うだけでいい問題は非常にシンプルなのであって、それを少し分析的に書いただけなんですから。

「電力ナイナイ詐欺」に気をつけろ!

 今後の課題としてですが、震災直後のプロパガンダとしての計画停電みたいに、「電力ナイナイ詐欺」に気をつけないといけません。いまだに「原発はないほうがいいが、電力が不足したら困る」という人がいます。一般の人が電力会社の発表を鵜呑みにしてそう思うならまだしも、政治的な発言をしている者が言う場合は、まさしく「なんちゃって脱原発派」、「反原発の皮をかぶった推進派」でしかありません。

 くわしくは田中優さんのメルマガがよくまとまっていますので(多少陰謀論的なところは好きでないが)、そちらを文末に転載しておきますので読んでください。

 それにしてもです。とりわけ財界の反応には本当に怒りを感じます。だいたいがこういう人らは、景気が悪くなると、すぐに労働者に犠牲や我慢を要求するくせに、景気がよくなっても、それをすぐに還元するわけにはいかないとか、かわりに雇用を維持する(要するに首切りをしない)からありがたく思えみたいな人たちです。そして今は口をそろえて政府に圧力をかけ、早く再稼動しろ!節電なんてやってられっか!と合唱しているのです。あまつさえ、節電させるなら雇用の維持も難しい(=労働者の首を切るぞ)と。

 ほんとに政府や財界が「痛みをわかちあおう」とか「痛みに耐えて」とか「頑張ろう日本」とか言う同じ口で、経済に悪影響とかなんとか理屈をつけて、いざという時には自分が引き受けるべき痛みまで、全部労働者にツケを回す。あいた口がふさがらん。こんな奴らのマガママを聞いてたら何もできん。「労組のワガママ」とか言う人には、そんなの財界のワガママに比べたら、とるにたらないもんだと言いたい。

魅力ある運動の多様性(=可能性)を保障しよう

 そして最後に、これは誠に僭越ながら、運動内部のみなさん、とりわけ幅広い意味での左派の皆さんへの注文になります。ここまで見てくればわかるように、反(脱)原発運動は、反公害やエコロジカルな住民・市民運動からはじまって、社会のあり方や差別構造を問うところまで、本当に目のくらむような多様性(=可能性)をもった運動であると思います。

 そこにおいては当然に多様な人々、いろんな意見が集まってくるのが当然と思います。いろいろあると言っても、「原発を必要としない社会」という命題実現のためには、実際の本質的な選択の幅は、思うよりもかなり狭いのではないでしょうか。そしてそのような社会を実現するための大きな流れの中で、それぞれの意見、それぞれの潮流がその一角を支えている。そんな多様性を保障しあっていただきたいと思います。

 これは左翼以外の人には、ちょっとアレなたとえですが、そもそも国際的な共産主義潮流というのは、スターリン以前、とりわけロシア革命成功以前は、レーニンとローザ・ルクセンブルグの論争が有名なように、まさに様々な考え方や意見が雑多に混在しつつ、それが各々全体の一角を支えて混在しているモザイク的な運動だったのです。そしてそれがまた魅力や可能性でもあったはず。

 歴史的には残念ながら、それが逆に弱点となって、第一次大戦では愛国主義(戦争支持派)に転落していく部分を多数生み出して自滅し、直後に最後まで反戦派だったレーニンが革命に勝利してソ連が絶対的な権威を獲得。さらにレーニンに伍する存在だったドイツのローザがファシストに虐殺されるにおよんで、以降はレーニン主義一枚岩がよいとされるようになっていくのです。

 一枚岩も戦争や革命の時には必要なことでしょうが、スターリン以降今日まで、人民抑圧、少数派弾圧の口実に使われることが多くなり、結局は共産主義運動の魅力であった、自由な多様性は失われてしまいます。そしてこの時期があまりに長く続いたため、各種の運動内部(保守派でさえ!)で組織団体行動と言えば、こういう発想がぬけきれない。これを克服するために、ネットワーク型組織だとか、分派の自由の保障だとか、そういう理屈がこねくりまわされていますが、それはあんまり本質ではないでしょう。

 どういうことかと言うとね、運動とかの内部で意見の違いが表面化して対立した場合、自分の意見を通す、それが主流になって反対派に勝つみたいな発想がいまだに抜けきれない例を多く見ます。反対に、対立しないでみんなで一緒にいる場合は非和解的な論争を恐れ、反対意見を言わないように、みんなでシャンシャンと自由な論争をしないように抑えるとかね。要するに多様性の保障がなく、「許せない」の基準が低すぎる。そしていったん運動内部の自由とか言い出すと、今度はあまりにも「なんでもあり」の基準が広すぎる。

 まず実践によって大衆的(運動内部)な支持を競いあうことで決着をつけるという発想がない。とにかく「正しい自分」がなんとしても意見を通すことが正義だと凝り固まっている。だがそれは即運動の死滅につながる、自分で自分の首を絞める行為です。

 次に「内部矛盾」と「敵対矛盾」の区別がない。意見が違って対立しあう相手と闘う場合でも、認め合って共生する場合でも、この二つの場合は全く違うのです。そしてこの内部と敵対は、時と場合によっても変わります。たとえば一緒に酒を飲みにいくとか、友達つきあいをすることは問題なくても、「共闘」はしちゃいけないという関係もあるでしょう。このへんがごちゃごちゃになったらいけないです。

 90年代にも反原発の大きなうねりがありました。そのときには2万人規模の集会だって普通に何度もあったのです。それこそそのへんを歩いている市民が、自分からたくさん集会にやってくるということがありました。ところが、運動の方針というか、内部の多様性が保障されず、「脱原発か、反原発か」みたいな考え方の違いでつかみあいの争いをするなどの子供じみた争いが頻発し、運動としての魅力があっというまに失われていったそうです。

 この頃はまだ左翼運動の影響力があったので、どうせそういうのは左翼の仕業だろうと思うでしょうが、実際にはごく普通の人たち、市民運動の人々などのほうがそういうことを繰り広げ、左翼活動家はどっちかというと、そのことに頭を抱えていたそうです。

 もうすでに今の脱原発でもそういう兆しが見えているし、各種の集会なんかをすぐに「あそこは何々派系、あの集会は何々党系」とか色分けしてくれる「事情通」もいます。だいたいそういう言い方は罵倒や敵対のために使われる言い方ですが、私なんかは別にいいじゃん、そこに民衆が来るなら、そして自分が言いたいことも言えないような(常識の範囲を超えた極端な)統制を受けるのでなければと思いますけどね。団体名を書いた旗もダメとかはちょっとやりすぎじゃないかなと思いますが。

 とにかく、総じて、「運動内部で意見の違う人」を打倒することが「正義」だとか、そのこと自体を大衆的な課題にするような、そんな内ゲバ主義は勘弁してほしい。つまり敵を見誤らない、敵を利さない、大衆に理解不能な内輪もめをしない、ちゃんと論争し、その論争の自由は保障する。全体として上に書いたような意味での「原発を必要としない社会」をめざす運動の中で、誰が、あるいはどんな考えが、それを実現するために必要なのか、その「敵との闘い」を実践的に競い合う、そういうこと。結局は、一番よく敵と闘うものが一番支持されるのであって、内ゲバばかりしている人は、段々と運動そのものを道連れにして衰退していくものですよ。

参考「偽装停電の夏」をくいとめよう【田中優さんのメールマガジン】

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■「偽装停電の夏」をくいとめよう

 5月5日の今日、北海道電力の泊原発が停止し、42年ぶりに原発の稼働していない日を迎えた。

 うれしい日に申し訳ないのだが、この先の不安を伝えたい。

 ぼくとしては珍しく、拡散してほしい話だ。

 何かというと「偽装停電」の不安だ。市民が「原発なしでも電気は足りる」と言っている最中、停電させるのは「やっぱり原発が必要なんだ」というPRに使える。
 電力会社と政府は、去年も「計画停電」を偽装した。

 その前に「需給調整契約*」を使って大口契約者の電気を止めれば足りたのに、それをしなかった。
しかもピークの出ない土日や平日の夜間、街路灯まで消した。

 これは偽装だろう。そこまでする人たちが、この「原発は不可欠」と訴えたいこのタイミングを逃すだろうか?

 もともと家庭の電気消費は少ない。2010年で年間わずか22%にすぎない。
 しかも足りなくなるのはピーク消費のある、ごく一時的だけだ。
 ピーク時の「夏場・平日・日中」は、家庭の三分の二は不在で、ピークの電気消費に対する家庭消費の割合は1割にすぎないのだ。
 だからそもそも家庭の問題ではない。節電すべきなのは事業者なのだ。

 しかし大阪市の橋下市長はすでに、「産業には影響を与えず、家庭に冷房の温度設定など負担をお願いすることになる。安全はそこそこでも快適な生活を望むのか、不便な生活を受け入れるか、二つに一つだ」と話し、大飯原発3、4号機を再稼働の問題を、人々のライフスタイルの問題にすり替えている。
それは橋下が2月に経産省や民主党幹部と隠密裏に意見交換した後のことだ。
 とっくに橋下は心変わりをしている。

 偽装停電させれば、人々の「原発必要神話」は復活する。なんとステキなプランだろうか。
電気消費の半分を占める上位200社は守られて、中小零細では停電して、コンピュータの重要なデータを失う。しかし原発で豊かになるのは200社の側なのだから、これは魅力的な作戦ではないか。

 ぼく自身、その問題があるので、無制限に「原発なしでも電気は足りる」とは言って来なかった。
「こうすれば足りる」と、具体的な節電策やら料金設定やらを提案してきたのはそれが理由だ。
日本の電力業界は信用に値しない。日本でなら偽装は可能だと思う。他の先進国よりはるかに情報が公開されておらず、昨年の「計画停電偽装」の実績もあるのだ。日本で隠しおおせる可能性は高い。

 ピーク時に電気が足りてしまう危険性は大きく四つある。

1.揚水発電の緊急電力
2.他の電力会社からの融通
3.電力需給調整契約
4.自家発電などの余剰電力 だ。

ぼくが電力会社だったらこうする。

 まず、揚水発電所が使えないようにするために発電所の稼働数を減らす。揚水発電は単なるバッテリーだから、前日までの電気があれば貯めておけば足りてしまう。ここに水を貯めておく余裕はなかった、夜間の深夜電気に余裕がなかったと言っておけばいい。すでに関電は使うことのできる緊急用の老朽化した火力発電所は一基だけだと発表済みだから、この点はカバーできている。

 次に、他の電力の融通を受けない仕組みにすることが大事だ。関西電力は、実は中電・北陸電力・中国電力と送電線がつながっていて、余剰電力を受け取りやすい位置にある。
実際には、この融通電力は非常に高くつくことが問題だ。「受け取るより原発を動かしたい」のが再稼働を求める本音だ。だから他の電力会社もひっ迫していることにする。
それはすでに各社発表済だ。

 三つ目に大口の大手会社に協力してもらい、停電しない根拠とされてしまう「電力需給調整契約」を結んでおく。東京電力はこれで計画停電を避けられたはずのに、それをせずに計画停電を実行した。ばれないならそのままでもいいかもしれない。でも万が一のことを考えて契約数を増やして、「大口の大会社も努力してくれているんです」と主張できるようにしておく。

 四つ目に大企業が持っている自家発電を頼れないものにする。これは電力会社以外の電気を買い取る実績になるからもともとしたくない。東京電力もしなかった。とすれば「系統が不安定になる(電圧が不安定になる)」とでも言っておけばいいかもしれない。
もしくは邪魔になる自家発電を停止させるのがいいかもしれない。「自家発電電気のひっ迫」や「緊急時の発電機は不安定」と言っておけばいいかもしれない。

 そして偽装停電させる。中小零細企業は特にバックアップ電源を持っていないから、当然騒ぐだろう。「どうしてくれるんだ、市民がバカみたいに原発なしでも電気は足りると騒いだ結果、我々の業務には大きな被害が出た(実際に大きな被害が発生するだろう)。
やっぱり原発なしでは雇用も守れない、原発再稼働は生命線だ」と怒りだす。
しめしめ、これで原発は当分不滅のものになる。

 これが偽装停電のシナリオだ。橋下市長は上に見たようにすでに主張を変え、現実には関係のない「市民のライフスタイル論」に責任をなすりつけている。すでに大阪市を手伝っている市民活動家は梯子を外されている。彼らの面子に配慮したりはしないだろう。

 このことを多くの人たちに知らせてほしいのだ。もちろんテレビも新聞もあてにはできない。
後になってから「検証」なんて言うだけだ。
 しかし今の私たち市民には、インターネットとSNSがある。彼らが偽装停電ができなくなるくらいに多くの人に知らせよう。ここは市民の伝達力と、原子力マフィアの伝達力の勝負になる。
もちろん彼らの方が物量ともに圧倒的だ。しかし市民の小さな伝達が何度も繰り返し行われることで、彼らの偽装停電を止められることになるかもしれない。

 可能ならチュニジアのジャスミン革命のような伝達力を持って、彼らのもくろみを失敗させよう!

  • 「需給調整契約」とは、大口企業の電気代を割安にする代わりに、電力需給がひっ迫した際に、電気利用の削減義務を負う契約。具体的には数時間前に連絡を受けて、工場を止めたり、冷房を切ったりする義務を負う代わり、電気料金を安くしてもらう契約。

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  • 太平洋戦争開戦から70年以上経過しますが、お上や偉い人のメンタリティというのは全く進歩しないものなのだと気づかされます。

    例えばの話、「原発が無ければ電力が不足して、経済活動に影響する」というのは「燃料が無ければ軍艦は動けず、戦えない」と言って開戦したことに通じるものがあるし、
    原発の安全対策がなおざりなまま稼動していた点については、対被害対策を持たないまま使用された当時の日本の兵器全般に通じるものがあります。
    いかに効率よく稼動するかということに注力し、事故自体を『想定外』とする姿勢と、泥縄的に安全対策らしきものを策定したから安全だと言い張る姿は、『決戦』を至上の命題とし、輸送の護衛を軽視したために継戦能力を失った点(そもそも護衛任務自体が想定外)と、潜水艦による被害が激増してから対策を講じたが、結局焼け石に水だった船団護衛(参加艦艇の対空・対潜能力自体が不十分)を思わせるものがあります。
    つーか『決戦』自体が起こりえない(侵攻側である米海軍側が無理と判断)。つまり日本海軍自身がありえない幻想相手にシャドーボクシングを続けていたのが戦前の軍拡であり、この点は成果が出ないまま予算が垂れ流されていた『もんじゅ』や『安全な核処理技術』を連想させられます。
    果たして原爆慰霊碑の『過ちは 繰返しませぬから』というのは何だったのやら。何も『シマ』つながりでやらかさんでもよかろうに・・・

    まだまだ相似形となっているものは山ほどありますが、この辺で。

    軍隊にしろ、兵器にしろ、使い方次第で誰かを助けることができるかもしれない。
    日常で利用されている便利な機器にしても軍事技術のスピンオフであるものが少なくない。
    原子力だってエネルギー資源の乏しい(と当時は思われた)日本にとっては夢の技術であったはず。場合によっては『夢みたいな何か』が生み出される可能性もあったかも知れない。
    その『芽』を潰したのは他ならぬ『原発推進派』自身です。目先の小銭に目がくらみ、あったかもしれない『輝かしい未来の芽』を潰す。愚かというより他ありません。
    『拝金主義』ここに極まれりというやつです。『お上とか電力会社の偉い人には原子力を扱うだけの資格も能力も無い』ということでしょう。

    話は飛びますが、昨今のニュースで見る限り再稼動に躍起になっていますが、一般の支持は得られんでしょうね。
    まず、順番がおかしい。最低でも物理的に安全対策をしてからの話だろうに。対策に何年かかろうが、やってからの話だろうと。
    そして、なんかごとがあったときに根本的な解決ができんというのはどうなのかと。
    それにメルトダウンが最悪の事態の代名詞のごとく言われてきたのに、メルトスルーというのは何なのよ。
    それ以前に「人様に迷惑をかけたらいかん」と教えられてきたはずでしょうに。そのへん人としてどう思っとるのよ。
    つか、現地の人間(雇用とか補償とか地元の経済とか)を盾にする神経はいかがなものか。自分らの都合で依存せざるを得なくなったのなら、黙って最後まで面倒見るのが筋だろうに。
    何もせんでも一般の理解が得られると考えているなら、いっぺん脳の診察でも受けたほうがいいんじゃないかとさえ思います。
    (あれでとんでもない高学歴揃いなんだから笑う他なし)

    ま、何とかするために大スポンサーとしてマスコミなり、ナントカ政治塾なり『ゼニ』を撒き散らしてるんでしょうけど・・・それで何とかできると思ってるほうも、もらって言いなりになるほうも、醜いというか何というか・・・そういや、こないだ小沢氏の判決がありましたが、ゼニの醜聞だったあたり、同種の臭いを禁じえません。

    それでなくても、今の日本の惨状は『拝金主義』がもたらしたものだと言っても過言じゃないんですけどねぇ。どっぷり漬かっている偉い人にはわからんのでしょうね。

  • はじめまして。京三(きょうぞう)と申す者です。学生をしております。私は原発に対して明確な「反対」の意思はありません。
    しかし、草加さんのブログを興味深く読ませて頂いております。

    1つ質問をさせて下さい。
    >明確に他人を犠牲にし、踏みつけにして得た電気
    とありましたが、「他人をどのように犠牲にしている」ことを指しているのか、よく分からないのです。
    原発のある地域では、その地域の経済の向上に貢献しているようで、住民の多くの方々は原発の再稼働を望んでいるようです。
    この点を踏まえると、「犠牲」とは言えないような気がするのです。

    つまらない質問かもしれませんが、どうぞよろしくお願いします。