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今日は、昨年の611新宿の騒ぎに関して思い出した、暴力に関する論文を紹介したいと思います。
もともと新左翼潮流の間では、暴力論について種々の考察がなされており、一般に「否定の否定の論理」と呼ばれるものが基本にありました。が、大衆運動に歴史というものが存在しないこの国では、それらが正しく継承されず、いつしか否定の否定ではなく、単なる肯定、すなわち、「暴力一般の否定」の裏返しにすぎない「暴力一般の肯定」へと歪められてきたように思います。
「暴力一般の肯定」は革命思想や大衆的実力闘争、ましてや直接行動と呼ばれるもののとは似て非なる、根本的に全く異質なものです。それは右からではなく、他ならぬ左翼の立場からこそ徹底的に批判し、乗り越えていかなくてはならないものです。
「暴力一般の肯定」とは、「俺は正しい。奴は間違っている。だから排除してもいいんだ」ということであり、煎じ詰めれば「奴は敵だ。敵は殺せ」以上の内容をもちえません。するとその判断は、暴力を行使する側が一方的にくだすという論理になり、そこには彼我の弁証法的な考察も暴力論もクソも何もありません。どんなに高尚な横文字をちりばめたところで、カラッポで中身のないものです。
スローガンを与えよ。この獣は、さながら、自分でその思想を考えつめたかのごとく、そのスローガンをかついで歩く。……さて、私はこの文章の眼目である政治の意志を述べようと思う。これまでの政治の意志もまた最も単純で簡潔な悪しき箴言で示すことができるのであって、その内容は、これまで数千年の間つねに同じであった。
埴谷雄高政治論集「政治の中の死」より
やつは敵である。敵を殺せ。
豊かなヒューマニズムに立脚しているはずの左派の政治として、それはなんと貧しい政治内容でしょう。それでどうして大きな顔して「在特会」を笑えるのか。所詮は同じ穴のムジナじゃないか。そんなものに自身の未来を投機してでも参加する人民がいるでしょうか。
私が611新宿問題について苦言を呈した時、それをあたかも思想的な内容ではなく、単に「目的はいいけど手段が悪い」ということだろうと、勝手に切り縮めてしか理解されることが多かったように思います。
すなわち、戦術問題と、運動論や思想性の問題の区別すらつかず、私の主張を日本共産党や市民主義などの「暴力一般の否定」と同じものとしてしか見れない、そうして自分の脳内に勝手に作り上げた「草加耕助」を罵倒している、そんな愚か者もいました。そんなことをされても、現実の「草加耕助」は痛くも痒くもないのであり、自分の思想性の貧しさや底の浅さを露呈しているだけなのです。
こういう、左翼思想とは異質な内ゲバ主義は、左右を問わずにあらゆる大衆運動で蔓延しています。殴らなかったから、排除するにあたって丁寧な言葉を使ったから、だからいいんだということにはなりません。
内ゲバ主義は疎外された「思想」であり、別の言い方をすれば「文化」です。そういう文化風土があるからこそ、それを裾野として、党派による極端な内ゲバだって発生・存続するのです。内ゲバ主義は、まず自分自身の足元から根絶することでしか、なくすことはできません。
以下はクラウゼヴィッツの『戦争論』を研究した、『戦争論・暴力論の革命的復権』というタイトルの論文(1985年8月発行・機関誌「理論戦線」所収)の第8章以下からの抜粋です。
これは「革命派」の書いた論文ですから、そういう意味では市民主義者や右派の方には違和感や拒否反応があるでしょうが、そんな人も含めて(違和感のある部分はスルーして)、できるだけ多くの方に読んで考えてほしいと思います。結局、常に考え続けて継承していくことしか、解決法はないように思います。そのお題の一つになれば幸いです。
緒方哲生『戦争論・暴力論の革命的復権』より抜粋
「理論戦線・19号」(1985年8月25日発行)
ここまで、われわれはクラウゼヴィッツ『戦争論』の諸内容を抽出することを通じ、戦争の内的論理を主体化せんとする場合必要とされる基本命題につき見てきた。それらを概括したうえで特殊日本においては、革共同本多延嘉氏がのこした『戦争と革命の基本問題』が、検討の対象とされるべきであり、かつ最もオリジナルな、特に暴力に対して特異な概念規定を与えた先駆的な論文としてあげられる。
われわれが戦争論を学ぼうとするとき、われわれに対し「党派戦争宣言」(内ゲバ恫喝のこと:草加注)をはっした現在の革共同の在り方や政治を規定する基軸ともなっている『戦争と革命の基本問題』に対し検討を加えることは、絶対必要な課題であり、この作業をここで行っておきたい。もちろんわれわれは「東拘帰りの講釈師の夢想と錯誤」(カクマル『全学連』No.15-16)などという矮小な視点で、これへの批判を加えても無意味だと考える。それは批判のための批判であり、戦争と暴力の問題の主体化をつうじ、日帝支配者階級を打倒するのだという基本視座を全く有していない批判だからだ。
右からの批判としてでなく、われわれが暴力の問題につき考察を深めようとするとき、そこで看取せざるをえない暴力を極限化させた陥穽の問題として、つまり暴力と戦争を直接的に二重うつしにし、暴力を人間社会の本源的力であるかのように拡大解釈した独断的断言の体系として、われわれはこれを主体的に批判する必然性を有しているのである。
或る意味では本多延嘉氏における暴力への意味付与は、個別的=主体的な契機としては破防法被告となることにより、政治的に作り上げられた視点とも言えるものである。強制としての暴力を人間労働の疎外された特殊形態ととらえるのではなく、人間の本質にねざした日常的行為として位置づけ、歴史を切り拓いてきた根源的力として意味付与するのであるから。
そこでは目的と手段が等置され、手段に対する賛美が目的の達成と等置されているのだ。否定の否定としてではなく、単なる肯定として暴力は措定され、しかも一般化され、そこに階級的暴力の限定性と目的意識性が対自化されないまま、歴史の本源的契機みたいなものにまで高めあげられている。しかしそうなってしまっては政治目的を達成する手段としての暴力は、その手段としての現実性=必然性をはなれ、一人歩きし、結論的にいえば「政治とは暴力である」という短絡と絶対化の陥穽に入り込んでいかざるをえないのである。クラウゼヴィッツの命題(=「戦争とは武器をもってする政治の継続である」)からも外れてしまうというものだ。
戦争が政治目的を達成する手段であるように、何処までいっても暴力も又手段でしかありえない。しかもそれは目的を達成するための特殊な契機としての、必然性に立脚してはいるが、しかし本質とはなりえない疎外された手段なのである。だからこそその行使のためには否定の否定の論理が必要とされるのである。
以下、ここではそうした視座を基本にすえつつ、歪められた暴力への拝跪論ともいえる『戦争と革命の基本問題』の内容に入り込みつつ、批判を展開していく。
まず本多延嘉氏が『戦争と革命の基本問題』を執筆したのは、1971年~72年頃と思えるが、それは69年4・28沖縄闘争に際しての日帝権力による共産同と革共同に対する破防法適用において、69年4・27に本多氏が逮捕され、以後約二年間の獄中生活を送ったその過程と、保釈出所後の時期にわかれている点がおさえられるべきである。
序章の「革命と内乱の時代」、第一章「戦争の基本問題」、第二章「暴力の構造-戦争と社会」、第三章「暴力革命・内乱・蜂起・革命戦争」の各々は、書かれている対象と目的意識が異なっており、例えば第二章「暴力の構造」は明らかに破防法裁判に対する意見陳述を意図しているかのようであり、他の文章との文体的つながりも欠いている。
しかし内容としてはこの第二章こそが、暴力論の本質論的展開というべきものであり、われわれが検討すべき基軸をなすものである。ゆえにわれわれはこの第二章に対する批判を中心課題としてすえつけ、問題を捉え返していきたい。
そこでいわれていることは次のようなものである。
「こんにちでは、一般に暴力は人間性に反する粗暴な行為であるかのように説明する傾向が支配的なのであるが、このような見解は、じつは民衆の暴力の復権を恐怖した支配階級の思想いがいのなにものでもないのであり、その本質とするところは、暴力を支配階級の手に独占しようとする反動的な意図なのである」「暴力はかならずしも人間性に敵対する粗暴な行為を意味するものではなく、人間杜会の共同利益を擁護するための共同意志の積極的な行為なのである。すなわち、本質的に規定するならば、暴力とは共同体の対立的表現、あるいは対立的に表現されたところの共同性であり人間性にふかく根ざしたところの人間的行為である」
これが核心なす基本命題としていわれていることである。「共同体の対立的表現」「対立的に表現されたところの共同性」というのが要するにその本質規定だ。
次にその「内部構造」として、第一に「共同意志の形成過程と共同意志の強制過程の二つの契機の統一として成立しうる特殊な意識行為」「暴力は、他者あるいは内部の他者への対立を前提として形成される共同意志の表現過程であり、本質的には意志形成と意志強制の主体のあいだに共同体的な関係がある」とされる。
第二には「暴力はその発現の形式として内部規範と外部対抗という二つの要素の統一として成立する」「内部規範と外部対抗という二つの要素は、形式的に分離されているとはいえ、同時に、共同利害とそれにもとづく対象化された共同意志の実現という意味において統一されている」とされる。内部規範とは「共同意志の統制への同意」、外部対抗は「他者の共同利益=共同意志に対し、自己の共同利益=共同意志を強制する過程としてあらわれる」というのである。
第三には、「暴力は、共同利害の実体的基礎をなす社会的生産と、それにもとづく社会的意識に規定されたものである」という、いわゆるエンゲルス命題(=『反デューリング論』の「暴力論」の内容)が述べられる。
またそれらの規定の例証として「共有財産に基礎をもつ原始共同体においては、暴力は私有財産や支配、被支配関係を生みだす根拠であったどころか、まさに逆に、共同利害、すなわち共同体の成員の人間生活の社会的生産過程の意識的規範であり、したがってまた、社会的生産の物質的な前提条件をなす土地をふくむ生産手段の共同所有ならびに共同管理と、それを基礎とした社会的総労働の比例的な配分と生産物の社会的分配、さらに、かかる労働過程を基礎とした生殖=人間関係を規制する意識的規範としての役割りをはたしていたのである」とされる。要するに原始共同体にあっては暴力が社会生活の規範であったというのだ。
第四に、「暴力は、それを発動するためには物質的な前提条件、すなわち手段が必要である」「この手段を決定するものは、暴力の実体をなす成員そのものの社会的生産の歴史的水準なのである」として、「武器が共同意志を表現するための手段としての役割を担うべく登場する」とされる。
以上四点が本多暴力論の主内容であり、かつ全てだ。
あといわれるのは階級社会にあっては「支配者の特殊利害が共同利害として強制され」「暴力は住民の圧倒的多数にたいする強制の手段として自己疎外を完成させる」「そこでは特殊利害を一般利害として表現する政治的暴力と、それに疎外されながら、それに対抗して共同意志を実現しようとする民衆の暴力とに分裂する」という内容である。
これは国家論を暴力の在り方から論じているわけだが、そこではただの強制としての国家=暴力がいわれているだけだ。
「支配的な思想とは、支配的な物質的諸関係の観念的表現、すなわち思想として把握された支配的な物質的諸関係以上のなにものでもない」(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)というドイデ命題、すなわちただ外的強制として暴力的に支配し、抑圧するという経済外的強制にもとづくだけの支配としてブルジョア国家があるわけでなく、物質的諸関係としての社会的生産過程において、労働者が生命の生産、および再生産のためには労働力を商品化し、資本家的商品経済の中に繰り込まれ、労働過程をつうじてそれを賃金と交換することによって自己の生活の生産を実現する、つまり自然発生的には自己の生命の再生産の在り方として資本家的商品経済社会という物質的諸関係があり、意識はそれに規定されるというマルクス主義の基本命題との関連で、国家論が論じられているのでないことは全く明白である。支配者の特殊利害が共同利害として強制される方法=特殊利害が法を媒介にして国家意志として表現されることなど、まるで無視して全部暴力的強制に基づくものであるかのように一切を論じているのであるから。
これは文字どおりの国家=暴力装置、支配=強制の論理であるが、マキヤベリやグラムシが問題とした支配における「強制と同意」の論理の、強制という側面だけの抽出でしかそれはない。これが本多暴力論の第一の誤りであり、この把握の仕方がマルクス主義をはなれた暴力の一般論として、以下の誤りを拡大させていくのである。つまりそれは、暴力の本質規定とされるものにおいて極限化され、マルクス主義的な階級的規定性を持たないまま定式化されていく。
◇中核派本多暴力論批判(旗旗 懐古的資料室)
◇左翼過激派の20年―その文学的考察(今井公雄のホームページ)
◇「党派間ゲバルト」の論理とその虚妄について(れんだいこ人生学院)
◇4年遅れの『検証内ゲバ』(内ゲバ廃絶・社会運動研究会 掲示板)
◇本多暴力論(四トロ同窓会二次会 2002年1月26日~28日)
◇蔵田さんの回答書への読書感想文(ブログ旗旗)
◇ロフト事件を知らない方へ-私なりの論争概観と感想-(ブログ旗旗)
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日向派内で、こうした論考があったことを初めて知りました。こうした議論は、基本的には西田戦旗とも共有できる部分だったでしょうね。
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「暴力一般の肯定」とは、「俺は正しい。奴は間違っている。だから排除してもいいんだ」ということであり、「奴は敵だ。敵は殺せ」以上の内容をもちえません。高尚な横文字をちりばめたところで、カラッポで中身のないものです。 - ブログ旗旗 https://t.co/C2NN1SAPm7