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差別と多様性

祇園暴走事件と てんかん患者への差別(上)-もういい加減にしてほしい!

purple day 世界てんかん啓発の日(公式サイト)

※以下はmixi日記に加筆した逆輸入です。 執筆が4月14日の未明なので、その時点での情報に基づいた文章です。酷い事態に対する「緊急投稿」だったので、自分の体験についてはかなり端折って書いています。

小児てんかんの体験

 私は子供のころに、てんかんの既往症があります。親は近所から親戚にいたるまで、私の病名を徹底的に隠しました。本人にさえ言わなかったので、自分の病名に気がついたのは、かなり成長してからのことです。

 物心つくかつかないかの時分から、月に一回程度、病院で脳波測定をしていましたが、小さい子供だったこともあり、何も言わずに親に従うばかりで、その意味もよくわかっていませんでした。

 今でも、本人に告知されていないことを知らずに担当医のおっしゃった、「薬はメガネみたいなものだからね。それさえしていれば、君は普通の人と何もかわらないし、何の問題もないんだからね」という言葉が心に残っています。私はきっと、よく意味もわからずきょとんとした顔をしていたでしょう。

差別も偏見も知らなかった私

 小児性のてんかんは、成長するにつれて発作が消滅するのが通常で、薬の力で10年以上発作を抑え続ければ完治したと判断されるそうです。青年期までの辛抱です。だから15年くらい薬を飲み続けた私も、成人後は別に免許をとっても問題なかったし、申告の必要もありません。ですがまあ、私は免許をとりませんでした。

 その後、完治からさらに10年以上もたって、通勤の関係で必要になり、バイクの免許のみ一週間コースでとりました。学生時代ならともかく、大人になって今さら長々と教習所に通う余裕はなかったです。その頃はもう病気のことも、子供の頃から青年期にかけての想い出にすぎませんでしたが、それでも両親はハラハラしてたくらいです。

 両親が隠し通し、私も強く口止めされていたせいで、周囲の人は誰も私の病気を知りませんでした。薬もちゃんと飲んでいましたからね。だから私は、この病気に対する差別や偏見というものを受けたことがなく、それを知らずに育ちました。

 成人後に私の既往症を知った友人たちも、誰一人として奇異の目で見たり、へんな同情をすることもなく、「胃潰瘍で手術した」というのと同じ普通の話として受け止めてくれたし、普通に私の運転するバイクに二人乗りしてた。だいたいそれが当たり前の反応だと私は思うし、世の中の人はみんなそうなのだと思っていた。両親の反応は過剰というか、ちょっと反感さえ抱いていたものです。

ネットでちゃらっと検索しただけで何がわかる

 けどまあ、この事故(?)の報道をめぐる日記や、そのコメントなどを読んでいて驚いた。

 てんかんの既往症がある人に、本人は免許もとってないにもかかわらず、近所から「あの事故と同じ病気」「まさか運転とかしてないか」「一人だけで死ぬんならねえ」などという心無い噂話がされているとか、あろうことか、親戚からは面と向かって同じような酷いことを言われ、ただでさえ病気と苦しんで闘ってきたであろう本人は、涙が出るほど悔しい思いをしているという。

 まるで明治時代にでも戻ったかのようなレベルの、こういう無知な噂話や親戚の言葉と同じ心ない酷いことを、当たり前のように日記やつぶやき、コメントなどに書き込んでいる人もごまんといるようだ。ああ、両親が恐れていたのはこんな人種だったのかと合点がいった。

 それはネットでちゃらっと検索して、ウィキとかちょろっと読んで、それでもうこの病気のことが全部わかったような気になって、知ったかぶりなことばかり書いているアフォどもだ。

 この病気の本質とか、それと向かい合う心構えとか、なんと言うかうまく言えないけど、それは「ネットで検索」したら5分でわかるような、そんな表面的なものではありません。軽々しいことを言うな!

 私は青年時代までだったから、そんな大したことを言えるようなものではないんだけど、成人後も発作の続く人の苦しみとか、どんな気持ちで生きているんだろうとか、私程度で想像できるようなレベルのものではないはずです。

ミスリードしたマスコミに猛省を求める

 もちろん、世の中の大多数の人々は、こんなアフォどもではなく、私の友人と同じような人なんだろうと思う。その点、 このアフォどものような方向に世間の反応をミスリードしたマスコミの罪は重い。

 そもそもてんかんが原因だったのかどうか、なんらの事実関係もわからないうちから、新聞やテレビでいきなり、「てんかん!てんかん!」と騒ぎたてられたら、普通の人たちにまで、誤った不安感を植え付け、こういうアフォどもを増長させてしまう。マスコミはそんなこともわからないのだろうか?

 まだ事実が不明のうちは、そんな話は「家族からのコメント」くらいで記事の最後に小さく載せるくらいがギリギリの限度。それとて差別を助長しないか、よほど慎重な判断が必要だろう。それを何の考えもなしに大見出しなんかにするな!ボケ!

 事実関係もわからないうちから「過去にもてんかん患者による事故が」なんて見出しで、ネット上のアフォどもを援護射撃するために書かれた「解説記事」を載せるボンクラ新聞まであった。記事を読んだが、偏見を煽らないようにする配慮なんてカケラもない

偏見は作り出され伝染していく

てんかん発作へのファーストケア冊子

 ふと、同じ「ネット上」でも世界的にはどうなのだろうかと思って、英語で「Epilepsy」を検索して欧米のサイトを見て回ったが、日本語で「てんかん」を検索した時とでは、この病気に対してうける印象がまるで違った。私が上でマスコミに求めていることは、特殊でも何でもないと強く確信した。

 英語圏のサイトでは、この病気がありふれたものである事実や、患者やその家族の目線にたった、病気に対する簡単で正しい知識、発作の人を見かけた時にできるファーストケアや患者へのリスペクトの方法など情報をたくさん見つけた。

 これに対して日本語では(今だからなのかもしれないが)病気の情報もやたらと小難しく書かれた、おどろおどろしい説明が多く、まるで特殊な病気のような印象をうけるし、その説明も患者目線で病気とつきあうことの大変さより、周囲への「迷惑」や「影響」を論じ、リスペクトやケアではなく、よくて患者の「自制」を求める、下手すると患者への圧力と排除の意図があからさまなものばかりが目立った。

 これでは、てんかんは珍しくて身近な存在ではなく、できれば近寄りたくないもののような印象を受けてしまう。つまり患者や既往者が身近にいて、普通に病気をカミングアウトできれば、私の青春時代の友人たちのような反応がごく普通だとしても、差別と偏見は無知を土壌にこうして人工的に作り出され、伝染し、社会に拡散・汚染していくものなのだ。

被害者を隠れ蓑にする偽善者たち

 だいたいこういうアフォどもに限って、何かしら「被害者・遺族の味方」みたいな口調で、なおかつ感情的に書きたてる。だが、こういう人種は、たとえるなら、「天皇の権威で飯を食ってる奴」が天皇個人の味方ではじぇんじぇんないのと全く同じ。被害者や遺族の味方でもなんでもない

 まだネットが登場する以前の古い事件だが、若い女性が殺され、最初は「犯人を死刑にしろ」と騒いでいた週刊誌、そして加害者の実家に嫌がらせの手紙を送りつけていたような人々が、遺族(父親)が、「死刑を望まない。犯人が立ち直ってくれることを祈る」と発言したとたんに、今度は遺族へのバッシングがはじまって、あろうことか悲しみにくれる遺族の家に、嫌がらせの手紙が殺到するという事件があったことを覚えています。他に、殺人ではないけど、過失致死などで類似の考えさせられる事例もあった。

 要するに、遺族・被害者を、自分の言いたいことのダシにして、二束三文の安い正義感を満足させたいだけの輩なんだ。遺族・被害者が、自分の安っぽい「正義感」からちょっとでもはずれたら、今度は平気でそちらに牙をむく。彼らの気持ちを大切にするなんて、本当はそうでないことくらい、自分の胸に手をあてて、よくよく省察してみたらわかるはず。

 まあ、勝手にすりゃいいけれど、少なくとも、攻撃先の名前を、事故(?)をおこした加害者個人ではなく、「てんかん患者」だの「患者団体」だの一般にすりかえるのはやめろよな。最低だよお前ら

 私の思いでは、加害者本人をいっさい擁護もしなければ、感情的に罵倒もしません。そんなの、自分の大切な人が被害者だったらと想像してみれば、当然のことでしょう。そしてもし彼が死んだのが故意だと仮定するならですが、それは卑怯だと思います。

 ですが、加害者を感情的に罵倒して呼び捨てにし、その存在さえ呪う権利があるのは、被害者と遺族だけだと思います。私にその権利はありません。ただ過ちを犯した人間として扱うだけであり、人間としての権利は当然にあります。

 そして権利を認め、自分となんら変わらない対等な人間として扱うからこそ、彼は責任をとらなくてはならないと私は思う。だからこそ死んだのは卑怯。そして(それこそ遺族のためにも!)加害者にとって有利なことも不利なことも、あらゆる角度から、いったい何がおこったのか、正しい事実関係を可能な限り明らかにしなくてはなりません。

 また、犯罪報道一般を読むときに思うことですが、私は自分が「被害者の側の人間」だと思いあがるばかりではいけないと思っています。
 凶悪犯罪の場合、さすがに明日にでもとは思えませんが、1年後、5年後、10年後の自分が、犯人の側の人間ではないと、本当は誰もいえないはずなんです。そう思って考えなければ、本当は「被害者の側の人間」でも何でもない安っぽい人が言う程度の「教訓」すら、私たちは何も得られないと思うのです。

 今回の記事では、事故と病気の因果関係はなかったようですが(文末の記事を参照)、それとてまだ確定的にはわかりません。またコロリと違う事実が出てくるかもしれない。この段階で、あまりにも無責任に軽率なことを言うべきではありません。特に無関係の誰かを意図的に傷つけるような最低のことは。

私たちがくみ取るべきもの

 その上で、もし、病気と直接の関係はなかったとしましょう。それでも、この30歳の容疑者が、てんかんという病名を告げられたのは今年に入ってからだそうです。家族は仕事も辞めろと迫った。なぜ、どんなふうに迫ったのでしょうか?本人や、その家族は、この病名や、見た目にも激しい症状について、ちゃんと向き合って理解し、ケアしようとする覚悟や心構えはあったのでしょうか。そこに無意識的にも偏見はなかったのでしょうか。

 もちろんこれはすべて仮定の「イフ」話ですが、もしも、上で書いたような心無い人々のような対応があったとして、精神的に追い詰められていたとしたら、患者への偏見の存在が、今回の事態の原因になったといえます。今から両親の対応を思うと、私は今回の容疑者にくらべて随分と幸福だったと思う。

 だったらそういう偏見をなくし、誰でも躊躇無く自分の病名をカミングアウトでき、病気と普通に向かい合って、普通に生活していけるような環境にしていくことが、そこでの「教訓」になります。それは加害者の責任を問うことと、少しも矛盾しません。

以上

祇園暴走事件と てんかん患者への差別(下)
 -患者・家族のみなさんの声につづく

記事】事故は発作と無関係だった?

祇園暴走、容疑者は事故当時意識障害なしと判断読売2012年 4月14日

 京都市東山区・祇園で軽ワゴン車が歩行者をはねて7人が死亡、11人が負傷した事故で、呉服店の社員・F容疑者(30)(死亡)が直前にタクシーに追突した後、いったん車をバックさせていたことがわかった。

 F容疑者はてんかんの持病があったが、京都府警は当時、発作による意識障害はなかったと判断。歩行者が交差点を渡っているのを知りながら突っ込んだとみて13日、殺人容疑で自宅や勤務先を捜索した。

 捜査関係者によると、F容疑者は12日午後1時過ぎ、大和大路通四条の交差点南約170メートルでタクシーに追突した後、バックしてからタクシーを追い越して行ったとの目撃情報があった。そのまま北上し、交差点に入る直前には、クラクションを鳴らしたという。

 交差点付近で10人以上をはねた後、やや左にカーブしている大和大路通を電柱に衝突するまで約190メートル進んでおり、府警はF容疑者がハンドルを操作していたとみている。

 追突現場から、車で走り抜けた約360メートルの間、ブレーキをかけた形跡はなかった。府警は追突事故でF容疑者がパニック状態に陥り、急いで走り去ろうとしたとの見方を強めている。