沈黙し続けた女性たちが、語り出した。
そこにはどんな努力があったのか。
家族に支えられ、台湾・日本の支援者との交流を通して、被害女性たちが歩んできた回復への道をたどったドキュメンタリー。
「台北市婦女社会福利事業基金会(通称:婦援会)は、1996年から被害者たちを支える活動のひとつとして心理治療を兼ねたワークショップを実施してきた。
ワークショップは、絵画、小物づくり、ヨガ、料理から、生まれて初めて持つカメラでの写真撮影会や自分たちが演じる即興のドラマまで様々な内容があり、たいていは台北郊外に1泊旅行を兼ねて行われた。
阿媽(アマア台湾語でおばあさん)たちの希望で金門島や澎湖島など台北市を出る旅行もあった。阿媽たちはみんなに会えるからとワークショップを楽しみにし、歌い、踊り、笑い声をあげた。
最初は口を閉ざしがちだった自分の被害についても語り合うようになった。この『蘆葦の歌』は、そんなワークショップの最後の3年間とともに、家族が静かに阿媽を支え続けた様子、台湾・日本の支援者との交流の中で阿媽たちが歩む様子を記録している」
柴洋子さん(台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会)
―上映会案内チラシより
「『慰安婦』にされた私がここに生きている」と、1991年8月14日、韓国の金学順(キム・ハクスン)さんは被害者として初めて名乗り出ました。その勇気をたたえ、8月14日は日本軍「慰安婦」メモリアル・デーとして、世界各地で解決をめざす取り組みが進められます。
日本軍は、1930年代の初めから、戦場に慰安所を設置しました。そこに、日本からはもちろん、植民地の台湾や朝鮮半島からも女性を連れて行き、戦場にした中国・東南アジア・太平洋地域の女性も暴力的に連行しました。数え切れないほど多くの女性を性奴隷状態におきながら、日本は戦争をしていたのです。
戦後50年近く経った時、日本政府が国会でその責任を認めようとしないというニュースを聞いた金学順さんは、告発の声をあげました。韓国・台湾・中国・フィリピン・インドネシア・オランダ等にいた多くの被害者も続きました。そして、被害者自身が語って日本軍「慰安婦」制度を明らかにし、今でも「日本政府は私に謝って」と求め続けています。
韓国ソウルの日本大使館前で毎週行われてきた水曜デモは、このメモリアル・デーに1400回目を迎えてしまいます。30年に及ぶ「慰安婦」被害者たちの勇気ある闘いに、私たちは今、続こうとしています。性暴力被害の告発は増えており、性暴力や性暴力加害者無罪判決に抗議するフラワー・デモは、月を追うごとに全国に広がっています。
ほとんどの教科書から「慰安婦」の記述が消されていますが、この問題を知りたい・考えたいと言う若者もいます。日本軍「慰安婦」問題の解決のため、性暴力を許さないため、世代を超えた運動を創っていく場にしたいと願っています。ぜひ、ご参加ください。